Ai
2025-04-20 18:43:23
9381文字
Public かななゆ
 

パープルシオン

星を見るcozmezのお話

   1

 きらびやかな街とくらべて、スラムの夜は闇が深い。好奇心で出歩くなんて不用心もいいところで、仮に弁当を持って出かける人間なんていたら相当な浮かれ野郎なんじゃないかと思う。
 部屋に置かれた時計がコチコチ、音をたてる午後六時。那由汰は熱したフライパンに溶き卵をそそぎながら、そう自分で自分を罵倒した。

……それでは明日の天気を見ていきましょう」

 つけっぱなしのテレビから流れてくるニュースキャスターの声をさりげなく聞きつつ、那由汰はフライパンを少しかたむけた。

 じゅー……コチコチ……

「明日は曇り空にはなりますが全国的に過ごしやすい一日となるでしょう。そしてこのあと、十八時以降も継続してお天気は続き、今夜は絶好の星見日和となるでしょう」

 じゅーじゅー……コチコチコチ……

「それでは次のニュースです。本日、午後――

 プツン――……
 テレビが消えた。オカルト現象が起きたわけではない。那由汰が卵焼きを作る手をわざわざ止めて、消したのだ。
 真っ暗になったテレビ画面に、那由汰の輪郭がくっきりと映りこんだとき、ふいに那由汰の口からあからさまなため息がもれた。
 盛大にため息をつかれたテレビに背をむけて、那由汰はまたキッチンへもどった。
 フライパンのなかには形のいい卵焼きがこうばしい香りをはなっていたが、那由汰の気を引いたのはコンロの隣に並べてあるふたつの弁当箱だった。
 形は同じだが、色合いがまったく違う。それでも隣あわせに並べると、なんとなく似たようなデザインに見える。見た目のバランスがよく取れた弁当箱だ。
 那由汰がひとりで出かけた際にひとめぼれした品物で、いつか珂波汰にお披露目してやろうと二週間まえからずっとシンク下の収納に忍ばせていた。
 珂波汰がシンク下の収納なんて開けるわけないと踏んでこの棚に隠していたので、珂波汰はこの弁当箱の存在を知らないだろう。作業部屋の権力が珂波汰にあるとすれば、家事圏内は那由汰の領域になっている。仮に開けていたら、こんなところになんの用事があんだよ。いい歳して、かくれんぼでもすんのか、と疑問を持ってしまうほど珂波汰には用事がない場所だ。
 だから本日が初のお披露目になる。
 我ながら良いセンスだなと当然のように自画自賛したし、こうして並べている今も良いセンスだと思う。
『初めて』使う弁当箱。
『センスのいい』ふたりだけのおそろい。
 いつもならテンションがあがるフレーズなのに、今の那由汰にはまったくトキメキをあたえなかった。
 それもそのはず、企てていたお披露目会の出席者は那由汰ただひとりなのだから……

…………

 完成したホカホカの卵焼きをまな板に移して、那由汰はボールにまた卵をひとつ、ふたつ、みっつ……と、割った。それを雑にかきまぜてやると、ボールから卵がこぼれるよりも先に、那由汰の口からため息がこぼれた。
 重たい吐息につられて目をふせると、長く伸びたまつ毛が目の下にうすい影をつくった。
 思いだすのは今朝のことである。

 バイトに行くという兄貴の背中を、那由汰は「珂波汰」と玄関先で引きとめた。
 ドアノブに手をかけていた珂波汰が「見送りとかめずらしいじゃん」とご機嫌そうに振りかえるのを待って、

「なあ、今日も帰りおせーの?」

 と、那由汰はたずねた。さすがに聞き方が露骨すぎるとは自分でも思ったが、珂波汰のスケジュールを考えて手短に済ませたかった。

「帰り?」
…………
「昨日と変わんねーと思うけど。なんかあった?」

 特別思いあたる節がないと珂波汰が首をかしげた。
 その反応に、やっぱり……と納得する気持ちとわずかに残念な気持ちが重なって、那由汰は唇をぎゅっと横に閉じた。
 数日前――いつもの屋上のソファーで四季とだべっていたときのことだ。四季がこつぜんと話し始めたのがきっかけだった。

「今年は天気がいいから楽しみだね。那由汰くんはやっぱり屋上から見るの?」

 最初はいったい、なんの話だろうと那由汰は思ったが、こういう四季の唐突さは嫌いじゃなかった。他のヤツなら「いきなり、なに? 主語、話せよ」と眉間にシワをよせてしまうが、無意識のうちにお人好しを極めている四季がおだやかに言うと、たちまち文句もなくなるから不思議だ。

「見るって、なにを?」

 穏やかには穏やかで返して、那由汰は四季を見た。

「流星群。今年は天気がいいからよく見えるってニュースになってたよ」
「流星群……
「えっと、こと座――

 四季が何の流星群なのか、くわしく語りはじめたが、那由汰の頭は、
 流星群――
 その言葉でいっぱいになっていた。ふと、よみがえってくるのは珂波汰のことで――……

「那由汰くんはそういうの好き?」

 四季に顔をのぞきこまれて、那由汰は肩をびくつかせた。ドンッと跳びはねた心臓を落ちつかせて、那由汰は答えた。

「流星群、見えんの?」
「え、あ、うん。どれくらい見えるかは分からないけど、ニュースではけっこう見えるって」
「ふーん……、そっか。四季も見んの?」
「うん、リュウくんが見たいって張りきってて。マスターも「せっかくだから見てこい」ってお許しが出たから。だから、もしよかったら那由汰くんたちも ・・・・・・・・

 つまりは、珂波汰も一緒にどうかなという四季らしいお誘いだった。
 四季のお誘いはいつも優しい。那由汰の大切な者を大切にしてくれる。四季にとっては普通のことかもしれないが、この気遣いが那由汰にとっては心地がよかった。
 だからだろう。できるかぎりは応えてやりたい。不思議とそんな気持ちにさせるのだ。だが、今回は那由汰の口の動きが悪かった。
 しばらく空を旋回する鳥を遠くながめて、やがて那由汰はソファーの背もたれに深く体重をかけた。

「あー……あのさ。それは、珂波汰と見たいかも……? ごめん、四季。せっかく誘ってくれたのに」
「謝ることじゃないよ。家族で楽しむってすごく素敵だと思う。那由汰くんが誘ってくれたら珂波汰くんも喜ぶだろうし。別々の場所にはなっちゃうけど、お互い楽しもうね」
……ん。ありがとな、四季」

 そうして四季のお誘いを断って、かわりに那由汰が珂波汰をお誘いする予定だった。が、そんな日にかぎって珂波汰は間が悪いのだ。
 珂波汰のバイトは単発が多く、突然、仕事を入れてくるのはいつものことだ。そしてそれが那由汰の生活を支える基盤になっていることを、那由汰はよく理解している。
 100億という大金を稼いだあとも、生活スタイルに驕りを見せないそのスラムの血の強さもちゃんと分かっている。むしろ、そんな兄貴だから那由汰は最強の兄貴だと誇っている。
 間が悪いだけで責めたてることなんてしたくなかった。
 四季との会話を思いだしながら、那由汰は数秒ほど珂波汰をながめていたが、その兄貴が「那由汰」とさらに深く首をかしげて、那由汰はようやく正気づいた。そっと首を横に振って答える。

「いや、べつに。聞いただけ」
「べつにって。なんかあんなら――
「バイト、遅れるぜ」

 なにか言おうとした珂波汰の言葉をさえぎって、那由汰は兄貴の背中をかるく押した。

「珂波汰、いってらっしゃい」
……おう、いってくる」

 こうして今朝、ふたりは互いに何も言わないまま玄関先でわかれたのであった。
 ジュージュー……、という音がひびいて、那由汰は焼きあがった卵焼きをまな板に並べた。卵のパックに手をのばして、ふたたびボールに卵を割って、またジュー……という音をあげて新な溶き卵が固まっていく。その様子を那由汰はうつろに見つめた。
 正直、珂波汰のことなので、那由汰が「流星群、見てーな」と言ったらなにがなんでも時間を空けてくれるだろう。何をさしおいても那由汰を優先するという珂波汰の強い意志は、この生きてきた十九年の月日すべてが証明している。
 だからこそ、あえて遠慮を選んだ。
 察してほしいとか、すねてるとかではなくて『珂波汰の意思を尊重したい』
 それはずっと昔からもっている那由汰のささやかな願いなのである。
 珂波汰が自分の意思でバイトの予定を入れたなら、その行動をわざわざ邪魔することはしたくない。そんな手前があって、『一緒に星を見たいから早く帰ってきて』と言えなかった。あまり子どもじみたことを言いたくなかった。
 それでも胸の奥では一緒に星を見たかったな、という欲がわいていて、どうしようもない複雑な気持ちがわだかまっている。
 那由汰は自分の心のなかを見つめながら、しばらく無意識に卵を焼きつづけた。あれから何個めになるだろう。卵が焼きあがる音が、ふと那由汰を正気づかせた。
 まな板のほうへ視線をむけて、那由汰は「あ……」と顔をゆがませる。
 まな板の上には黄色の卵焼き軍団がきまりよく整列していた。二個、三個というレベルの問題ではなく、かるく十個はありそうだ。
 空になった卵のパックを数えると三つも空いていて、おそらく三十個の卵を使いきっていた。
 いくら考えごとしてたと言ってもありえない。これでは弁当箱の中身がすべて卵焼きでうまってしまうだろう。

「あー、もう。卵焼きに命かけてるヤツみてーじゃん」

 那由汰はダラリとうなだれて、今日一番の大きなため息をついた。




   2

 幼い記憶はいつも、ふたりぼっちだった。目を開ければ珂波汰がいて、目を閉じても珂波汰のぬくもりがそばにあった。家がなかった幼い記憶のなかではいつも冷えた体を寄せあい、暖を取っている。
 雨が降る冬の夜はとくに最悪で、足先から頭まで容赦なく濡らす雨が体温を奪いとり、数分もしないうちに指先の感覚が分からなくなった。
 ひざを抱えて顔を伏せて、そんなふうに縮こまる那由汰を、心配そうな顔をした珂波汰がいつも抱きしめていた。
 珂波汰だって寒いくせに、いつだって抱きしめる役を買ってでて、文句ひとつ愚痴らなかった。それどころか、

「大丈夫か、那由汰」

 と、愛おしげに那由汰を気にしていた。
 だから大嫌いだった。珂波汰の本音を、ワガママをさえぎってしまう雨が、雨音が大嫌いだった。冬が大嫌いだった。
 そんなふうに大嫌いなんて思いを声にして、本当に空とアスファルトをつなぐ無限の雨粒を消してしまえればいいのに。神様は那由汰に天候を操る力を備えてはくれなかった。
 そうして震えることすらできないくらい体が冷えると、眠ることさえままならず、寒い夜が続けばつづくほど不眠をこじらせた。
 結局、那由汰は雨が降るたびに空から顔をそむけて、頭のなかで愚痴を数えながら雨が通りすぎるのを待つ。できることはそれだけだった。

 そんな冬の雨が数日ほど続いていた、ある日の夜だった。
 連日降りつづけた雨が冷気をよりいっそう引きたてて、その日はこれまでになく寒かった。冷たさはするどいナイフのように那由汰の体を刺しては肌の奥深くまでつらぬいた。
 夕方ごろになり、雨がやみ、夜にむかって晴れ間が見えてきた。だがアスファルトはもちろん、建物と建物のすき間を吹きぬけていく風は完全に冷えきっていて、すっかり冷めた体温を持ちなおすことは難しかった。
 今夜の睡眠も過酷をきわめるだろう。心のなかでそう愚痴を唱えた。そんなときだった。珂波汰が声をかけてきたのは。
 すでに感覚がないだろう紫色の唇で、珂波汰が「那由汰」と呼んだ。
 しゃべる気力はなかった。というよりは、冷たさが唇の節々にひろがって、うまく動かせなかった。それでもせめてと那由汰はわずかに顔を起こした。そのさきで、那由汰は珂波汰の笑顔と目があった。サイダーがいきおいよく吹きだすときのような爽やかな見た目によく似ている。そんな笑顔だった。

「那由汰、すげーな」

 なんのことか分からなかった。ただ、珂波汰がやけに興奮していることだけは、冷気ですっかり鈍っていた頭でも理解できた。
 那由汰がぽかんとしていると、珂波汰がさらに嬉しそうに笑った。那由汰の体を抱きしめなおして、

「空、すげー」

 珂波汰が顔をあげた。つられて那由汰も顔をあげると、夜をつらぬく一瞬の閃光が黒い空のなかを駆けぬけていた。
 ひとつだけではない。しめしあわせたように、少し時間をあけては連続して流れている。
 裏路地に座りこんで見る空はどこまでも遠くて暗くて深いのに、それでも光が流れていくのだけはハッキリと見えた。

……流れ星?」
「なんとか流星群ってヤツ? 昼間、通りすがったヤツが言ってた」
「なんとかって、なんだよ……

 そう指摘してやれば、珂波汰はうなり声をあげながら真面目に思いだそうと必死だった。
 最終的に「あー……忘れた」と思いだせなかった珂波汰がなぜだか無性におかしかった。
 こらえきれなくなって、那由汰がクスクスと笑い声をあげると、紫色をした珂波汰の口がムッとむくれた。だがそれも一瞬だった。すぐに珂波汰は機嫌を取りもどした。

「さすがに星は食えねーよな」
「急になに?」
「いや、腹減ったなって」
「あー、確かに」
「だよな。今度は飯食いながら見てーな」

 そう言ってもう一度、抱きしめなおしてくれた珂波汰の瞳を見つめると、空を駆けぬけていく星のまばたきがキラキラと輝いて流れていた。
 それはまだ金の稼ぎ方も知らなかった、ずっと昔の古い記憶。毎日苦しくて死にそうで、ツラくて、楽しいことが思いだせなくなる日がきても、この日の珂波汰の瞳だけはきっと一生忘れることはないだろう。ふたりで見たこの日の星空を、珂波汰が忘れてしまっても。
 俺はずっと忘れない。
 あの日、そう思ったことを那由汰は今でも覚えている。




   3

 静けさをやぶって、ドアの音がひびき、屋上の空気が那由汰の体を包みこんだ。
 通いなれた屋上はすでに勝手が分かりきっていて、夜目がきこうがきかまいが自由に動きまわれる。
 那由汰は手にさげていた弁当箱をソファーに置いた。弁当の中身は言うまでもない。作りすぎた卵焼きがぎっしりとつまっている。
 結局、あのあと他のおかずを作る気力がわかず、卵焼きだけを弁当箱につめて持ってきた。珂波汰の弁当箱をどうしようかと思ったが、どのみち那由汰の弁当だけではおさまりきらないこともあって両方につめた。それでも入りきらなかった分は冷蔵庫のなかで静かに眠っている。しばらくは卵焼きには困らないだろう。
 それにしても天気がいい。晴れると聞いてはいたが、ここまでキレイな晴れ模様とは思ってもなかった。頬にふれる風も湿り気がなく、清々しいほどに澄んでいる。
 少し、風にあたりたくなって、那由汰は落下防止用の手すりの方へと近づいた。
 長年、太陽と雨と風とにさらされた手すりはさびついて劣化し、すでに手すりとしての役目を終えている。それでも『ここから先は道がない』『落ちる危険性がある』ということだけはしっかりと伝えていた。
 うっかり足をすべらせてしまわないように両足に力を入れて、那由汰はスラムの街を見下ろした。
 地上は暗闇の巣がひろがっている。人の気配はない。それなのに不気味でおぞましく、見ているだけで形容しがたい気持ちがどんよりと胸の中心からひろがって、指の先までひどく冷えた気にさせる。

…………

 那由汰はギュッ……と拳を握りしめて、埃っぽさがはびこるスラムの地上から顔をそむけた。
 逃避する目線の行き場を求めて顔をあげれば、今度は空の黒さが那由汰の視界いっぱいにひろがった。
 やはり今日は天気がいい。雲はほとんどなく、どこまでも澄んだ黒だった。
 やっぱりここから見る空はいい。そう那由汰は自賛した。
 スラムの夜は上も下も右も左も、四方すべてが闇でおおわれる。ここの住民は無遠慮に明かりをむさぼれるほど金の余裕がなく、きらびやかな街と比べて、いつも闇が深い。
 子どものころ、那由汰はこの闇が恐ろしかった。どんなに近くに珂波汰が居ても、その顔色までははっきりと見えなくて、黒い闇のベールをかぶる珂波汰がなぜか怖かった。
 珂波汰が怖かったんじゃない。その黒い闇のベールがいつか珂波汰の指にどす黒い指輪をはめて、さきの見えない闇につれこんでしまうんじゃないか。そんな気がして怖かった。
 アスファルトの冷たさが足先から頭の芯までつたい、寒さにおびえて睫毛が濡れる夜はとくに、闇のベールに包まれた珂波汰がひどく気になった。
 そっと手をのばしてみれば、珂波汰の頬は濡れていて、そのしっとりとした感触に那由汰の心はいつもしめつけられた。
 それでもきまって珂波汰は、

「寝れねーのか?」

 と、声を震わせることもせず、口もとをほころばせて笑っていた。
 そんなふうに言われると「大丈夫?」と心配する声がのどの奥でつまって、那由汰は「今日、寒くね?」と大げさに珂波汰にくっつくことしかできなかった……

…………

 心地よい真っ暗な風が那由汰の頬をかすめた。
 路地裏のすき間にあった意識を夜空へと移して、那由汰はちいさく息をした。
 空がキレイだ。
 今夜はきっと多くの星がこの空を駆けめぐり、地上の人々は顔をあげるのだろう。珂波汰が今どこにいるのかは知らない。だがきっとどこかで、流れる星を見かけるかもしれない。あのときと同じ、光が流れていく光景を。そして星のまばたきがキラキラとまた輝くのだ。あの瞳のなかで。
 青白い月明かりを乗せた那由汰のまつ毛がゆっくりとまばたいた。そのときだった。

「那由汰!」

 背後からの声に振りむくと、雷麺亭の袋を引っさげた珂波汰がいた。ここまで走ってきたのだろう。胸元を上下にゆっくりと動かしながら乱れた呼吸を正している。
 一瞬、那由汰はフリーズしたが、パチパチと二回ほどまばたきをして、静かに口をひらいた。

……ビビった、なに?」
「なにって、あー……那由汰、さがしてた」

 どこか釈然としない口調の珂波汰に、「そっか……」とひかえめに返して、那由汰はほんの少し目をおよがせた。
 もはや、居場所が割れている。ふたたび一緒に暮らすようになってから、珂波汰に居場所を特定されることが増えた気がする……
 空気中にさまよわせていた目をようやく珂波汰にあわせて、那由汰は聞いた。

「てか、バイト終わんの早くね? 遅くなるって」
「早くあがれるように頼んだ」
……なんで?」
「家、出てから知った。今日……

 ふいに珂波汰の言葉が止まった。不思議に思って珂波汰をよく見ると、その瞳が自分の背後に向いていることを知って、那由汰は振りかえった。そのときだった。
 流れ星がひとつ、暗い夜を引き裂いて流れていった。
 透明度の高い夜空は一秒ごとに深みを増し、そのなかを白銀で縁取られた流星が気ままに横切っていく。数分に一度、光っては消えて、消えてはまた光る。
 星の光は気まぐれで、誰かがのせた願いなんて気にもしてなさそうで、どこまでも自由で、キレイだった。

「すげー……
「だな」

 隣から珂波汰の声がして、ようやく那由汰は夜空から視線をおろした。どうやら星に気を取られているあいだに、珂波汰が隣に来ていたらしい。

「なあ、珂波汰。なんでここ来たの?」
「なんでって……。話、聞いてねーのかよ。那由汰をさがしてた」
「なんで?」
「それは……

 珂波汰が言いよどんだ。なにか歯切れが悪い様子だが、後ろめたいとかバツが悪いとか、そういったものではなさそうだった。そのかわり、照れくさそうな雰囲気があって、思わず那由汰は背筋をピンとただした。
 珂波汰は変わらず黙りこんでいて、だがほどなく、まっすぐとした目で那由汰を見た。

「今日、星が見えるって聞いた。だから……見たかった」
……ふーん、そっか」

 変に兄貴が照れるから、那由汰のほうまでそれがうつった。
 上手い切り返しが思いうかばなくて静かにしていると、さすがにいたたまれなくなったのか、珂波汰のほうから会話をきりかえしてきた。

「那由汰は? 朝、なんか言ってただろ。それも気になってた」
「あー……それな。なんか、もう忘れた」
「はあ? お前なぁ……
……なに?」
「あー……まあ、いっか。ほら」

 珂波汰が手にしていた雷麺亭の袋を那由汰の胸にトンと押しつけた。

「飯、食いながら見よーぜ」

 珂波汰の目線がすこしバラついた。いつも通りの食事の誘いなのに、やっぱりどこか照れくさそうだった。
 ああ、これは――確信して、那由汰は思わず頬をゆるめた。
 どうやら弁当を作ったのは間違いじゃなかったらしい。

「俺も弁当作った」
「へー、すげーじゃん」

 珂波汰が意外そうな顔をしながら、だが嬉しそうに笑った。もともと喜怒哀楽が分かりやすい珂波汰だが、こうもあからさまな反応を見ると、なんだかおかしい。今日一日の憂鬱をみごとに忘れてしまいそうなほど、那由汰は珂波汰の笑顔に引きこまれていた。

「那由汰の弁当も食おうぜ」
「うん。あ、でも。中身ぜんぶ卵焼きだけどな」
「ぜんぶ? すげーな……。そんな食いたかったのか、卵焼き?」
「いや、べつに」
「え、じゃあなんで?」
「ん? 作りすぎただけ。冷蔵庫にもまだあっから」
「どんだけ作ってんだよ」
「あー……3パック、くらい?」
「すっげーな、3パックって」

 あきれるにしては優しすぎるし、感心するにしては笑いがこらえきれていない珂波汰を、那由汰は「笑いすぎ」とかるく小突いた。
「いてっ」と言うわりにまったく痛くなさそうな兄貴の肩にわざと肩をぶつけて、那由汰はほんの少し自分の体重をあずけた。
 肩と肩がふれると、笑いまくっていた珂波汰の声がとまった。チラリと珂波汰を見れば、同じ色の瞳に那由汰の姿がくっきりと映っていた。
 次第に珂波汰の表情がやわらいで、那由汰の肩にぽすりと珂波汰の頭が乗っかった。夜風をたっぷりとふくんだ珂波汰の髪がサラサラとゆれて、じゃれるときのように那由汰の頬をくすぐった。

「那由汰。空、すげーな」
「だな。すげーキレイ」

 数分おきに流れる星も、まったく動こうとしない星も、星のなかにぼんやりと浮かんでいる月も。どれもが今日はいつもよりキレイに見える。

「なんとか流星群って四季が言ってた」
「なんとかって何だよ」
「んー……忘れた」
「ふーん…………、あー……
「なんだよ、急に変な声だして」
「いや、腹減ったなって」
「あー、確かに」
「飯食いながら見ようぜ」

 腹減ったともう一度くり返す珂波汰の瞳に、空を駆けぬけていく星のまばたきがキラキラと輝いて流れた。
 この珂波汰の瞳だけはきっと一生忘れることはないだろう。いつか珂波汰が忘れてしまっても。
 俺はずっと忘れない。