Ymi:no
2025-04-20 09:09:54
2880文字
Public ビマヨダ加筆修正前
 

蕩ける赤色

先祖返りの吸血鬼ビと幼馴染わし様のビマヨダ

「ビーマ、止めなさい……お手々に傷が残っちゃうわ」
 それは小さい頃の記憶。母が優しく俺の手を掬い、慈愛をもって言い含める姿が、脳裏に焼きついている。
 母は確かに俺を愛してくれていた。だからこそ、そう諭されるのが苦しかったのを覚えている。
 生まれてすぐの頃から、俺には自分の手指を噛む癖があった。ふんわりとした記憶だが、歯がむずむずするのが気になって始めた習慣だったと思う。
 次第に成長していき、乳歯が生え変わり始めた頃に、噛む・・ことの意味が変わった。
 ぐっと歯を食い込ませると、小さく皮膚が裂け、隙間から赤い雫が垂れてくる。この赤い雫がなにより、とびきり甘くて美味かった。食べることが好きな俺にとって、赤い雫――血液は、とんでもないご馳走だったのだ。
「ビーマ。ダメよ、人の血を舐めちゃ、ダメ。それは……人のすることじゃ、ないのよ……
 母も必死だったのだろう。血を啜る子ども、というのは悪い意味でインパクトがある。俺が人の輪から外れ、いじめられることのないように、悪癖を矯正しておきたい。親としては当然の考えだったと思う。
 ――それでも、どうしても。
 この行為を悪いことと叱られる度に、小さな箱に押し込められるような、言いようのない閉塞感に苛まれていた。

 そんな俺を受け止めてくれたのが、驚くことに、今の妻(といっても男なのだが)だった。
 俺には幼馴染という、因縁の相手がいた。そいつが後の妻であるが、当時は幼稚園や小学校、なんなら近所の公園でも、何かと張り合い競い合う間柄だった。俺は体を動かすのが得意で、あいつは悪知恵を働かせるのが得意。お互いに反目しているくせに、なぜかいつも一緒にいる。そんな不可思議な仲だった。

❀❀❀

 その日は特に暑さが酷かった。
「あっちぃ……
 ぱたぱたと手のひらを振ってみるが、生ぬるい空気が流れてくるばかりで、涼しさの欠けらも感じられない。
「おれ様溶けそう」
 続けて隣の幼馴染がぼやいた。だらりと腕を提げ、面倒そうに歩く姿は、まさに〝暑くて怠い〟を体現している。
「あー、……モップでいいか?」
 幼馴染が脳内でアイスのように溶けていく。やがて床に液だまりができたところまで想像し、この幼馴染だった液体を、どう回収されたいか問うてみる。
「酷い! せめてコップで掬うとか、こう、おれ様への思い遣りはないのか!」
「ねぇな」
 ノリのいい幼馴染が意図を組んで、瞬時に切り返してくる。たわいないやり取りにおいて、こいつより面白い男を俺は知らない。
「むぅ。おれ様ならお前のことを見捨てたりせんのに」
……本心は?」
「掃除機で吸う」
「酷ぇのはどっちだ!」
「わはははは」
 ゲラゲラと馬鹿みたいに笑って、お互いにど突きあう。右へ左へ押しに押されながら、人の少ない住宅街を歩いていく。
 もしも本当に、幼馴染が溶けてしまったとしたら。コップを使うかは怪しいが、こいつを掬うために四苦八苦するのだろうなと思った。

 そうして暑い暑いと避難した幼馴染の部屋で、暇になってしまった俺たちは、渋々夏休みの宿題をこなし始めた。
 勉強が苦手な俺にとって、宿題は天敵の一つと言っていい。教科書に問題集、ノートを机半分に広げ、あっちこっちと手を伸ばして頭を捻る。さっぱり分からないながらも、それっぽいものを書き込んで、空白を埋めていった。
 隣で同じ宿題をしている幼馴染は、さらさらと筆を走らせ、ぺらりぺらりと難なくページを捲っている。余裕綽々の表情がなんとも小憎らしい。
「ほほぉう、ようやく文章題で式を立てられるようになったか。しかし、計算が間違っているのではなぁ」
「あん? ……あ」
 更に時折、俺の方を見て、暴言という名の助言を吐いてくるのである。得意げに鼻を鳴らす姿も相俟って、腹立たしいことこの上ない。
 けれど、それがやつなりの照れ隠しで、俺を甘やかしているつもりなのも分かっていた。
「まだまだお子ちゃまだな〜?」
……お前が長距離走で俺の記録を抜いたら、認めてやってもいいぜ」
「はぁぁ〜?! そんなの無理に決まっておろう! 鬼! 薄情者! 人でなし!」
「なんとでも言え」
 くだらない言葉の応酬も、こいつとなら悪くないと思える。果てしなく面倒くさく、どうしようもないロクデナシだが、俺はこの幼馴染のことが嫌いじゃなかった。

「アイタァ!」
 不意に幼馴染が小さく叫んだ。
「やってしまった……
 顔を上げると、あいつがげんなりした顔で指先を眺めていた。
「うぅむ……そこまで深くない、か……?」
 どうやら紙で指を切ってしまったらしい。
「絆創膏、」
 そう呟いてから、はっと息を飲んだ。傷口からぷっくりと赤い雫が浮きだして、指の上を流れ落ちていったのだ。
――――
 衝動的に、幼馴染の指先をぱくりと咥え、傷口を舐った。
 ――甘い。
 自分のとは比べものにならない美味さに、もっと欲しいと啜り上げ、そこでようやく我に返った。
 やってしまった。
 血の気が引き、母の言葉がぐるぐると頭の中で回転する。こいつも、止めなさいというのだろうか。きょとんとしている幼馴染を、処刑を待つ囚人のようにじっと見つめた。
「なんだお前、血が好きなのか?」
 それはなんとも呑気な問いかけだった。
「お、ぉう?! まあ、そう、……そうだな、美味いと思うぜ……
 想像の斜め上の反応に、素っ頓狂な声が出た。
「ほぉん。初めて知ったな」
……初めて、言ったからな」
 どくんどくんと、血管が脈を打つ。この反応は、忌避なのかそれとも。
「そうか。……うん? ということは、だ」
……おう」
「お前、足りてないのでは?」
…………何がだ」
「血液に決まっておろう。吸血鬼というのは、人の生き血が主食という。だがお前は、それを明かしたことがないのだろう?」
…………ない」
「だとすれば、お前はいま絶食状態なのでは、とおれ様は思うわけだ」
「絶食」
 考えたこともなかった。これはいけないことで、だからこそ、飢えている俺がおかしいのだと思っていた。
「ふむ。映画や漫画ではこう、首からがぶぅっといくようだが……お前の歯並びでは難しそうだな」
――――は」
 幼馴染が、自身の首をとんとんと指先で叩く。
「カッター……いや、包丁くらい鋭利でないと厳しいか?」
「それは、」
「別におれ様は、お前が化け物であろうと気にせんぞ。というより、化け物であった方が余程ほっとするわ」
――――
 酷い言い草だったと思う。それでも俺は、その言葉が何よりも嬉しかった。
 白いワイシャツの襟を引いて、綺麗な色をした首筋に顔を寄せる。皮膚越しにも香る甘い香りに、脳がぐらぐらと沸き立った。
「いただきます」
……召し上がれ?」
 ついいつもの癖で、そんな間抜けな挨拶をしてから――柔らかな肌に歯を突き立てた。

 この日、俺はこいつのために生きて、こいつのために死ぬのだと決めた。