sisimi 
2025-04-19 21:10:29
6611文字
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花見る隣

桜を見る父水



 人の立ち入らない山の中、薄桜が淡く色づく場所がある。大層立派な桜の木が一つあり、空を覆うほどに伸びた枝には零れ落ちんばかりに花が咲いていた。纏う花の重さで枝をしならせた老木は時折強く吹き去る風に花弁を散らしている。
 その薄桜色の下、ふたりの男が酒を供に花見をしていた。
 毎年、桜の季節になると親友の男ふたりは連れ立って花見に出かける。場所は誰も訪れない山の中であったり桜の名所であったりと区々であるが、この日ばかりは男たちの大事な息子である鬼太郎を連れず、友であるお互いのみ、ふたりきりであるのがいつの頃からかのお決まりとなっていた。特に示し合わせたわけでもなく、桜の花の咲く頃になればどちらかが酒を用意し、もう片方がつまみを用意する。事前に相談もしない。今年も咲いたな、そろそろ見頃だというような会話があるだけである。

 男たちのうち片方、黒髪で片目へ縦に真っ直ぐと入る傷を持った壮年の見目をした者の名を水木という。もう片方の男とは水木が思うに随分と長い付き合いになる。
 水木の友は銀の髪をして細身の長身でありながら、しなやかな筋肉を持った張りのある体躯で常に泰然とした様であるので、外から見ると年寄りのような或いは体格の良い大男のようなといった具合で人によって見え方が違った。一目見ただけでは年の頃は分かりづらく、近寄り難い空気を纏っている。
 まるで人間ではないような雰囲気を持っている、という印象を与えるその男は真実、人ではなかった。幽霊族という妖怪のようなものであるらしい。その種族は人より古来より存在し、人と同じ見目をしているが長生きで力が強く人には持ち得ぬ能力を持っていた。
 そんな幽霊族の友とその実子である鬼太郎と共に水木は暮らしている。鬼太郎は友の子であるが水木にとっても息子同然の大事な養い子である。父ふたり子ひとりの家族だ。
 水木は幽霊族の親子と暮らすこれまでの生活の中で、謎の多いその実態に触れては度々驚かされ、時には助けられた。常より相互理解に努めてはきたのだが彼ら種族のことは未だによく分からないままであった。全てを理解し合うことはできずとも共に在ることはできる、それがこの数十年で得た水木なりの答えである。

 水木の友である男の名をゲゲ郎、といった。元より正式な名があるのかもしれないが縁あって水木が名付けたその名を男は気に入ったのか今では自らそう名乗っている。水木とゲゲ郎のふたりはとある事件で出会い、容易には語れぬあれこれを乗り越えて現在まで肩を並べて歩いてきた。出会った頃からの無二の友である。
 この仲の良い男たちは常日頃からよく酒盛りをしており、季節の催しや何かの記念日に祝い事などは勿論のこと、果ては口実など何も無くともいつもふたり楽しく呑んでいた。
 季節ごとに咲く花などは絶好の肴となる。しかしながらその中でも桜だけは、実のところ水木にとっては少しだけ特別なものであった。
 桜に関して、水木はずっと昔から気になっていることがある。ゲゲ郎に聞こうか聞くまいか、迷ううちに一年また一年と長い年月が過ぎてしまった。そうして未だ尋ねることができていない。
 ゲゲ郎は桜が嫌いなのではないか、ということを。
 何を今更と思うかもしれない。毎年必ず桜の花を肴に楽しく酒を呑んでおきながら、お前は桜が嫌いかと尋ねるのは確かにおかしな話だ。嫌いであれば毎年桜見などするはずがない。
 今でこそ恒例となっている桜見だが最初は水木の方から誘っていた。
 随分と昔、水木がまだゲゲ郎と暮らすようになって間もない頃の話だ。水木には訳あって過去の記憶を失っていた時期があった。ゲゲ郎との出会いを忘れ、友であることも忘れ、ただの同居人として共に暮らしていた。ただ、それでも暮らしているうちに情が湧き、記憶のないままに再び友となった。
 穏やかで聡明、亡くした奥方と残された息子を深く愛しており、同居人である水木にも礼儀正しく親切で、細やかなことに良く気が付く男だった。このような良い男を水木が好ましく思わないはずもなく、いつの間にやらまるでそうなるのが当たり前であるかのように友となり、鬼太郎を挟んで家族のような関係へ収まっていた。
 それから数十年は経つ。共に暮らして数年後には失っていた記憶を取り戻したのだが、桜見をするようになったのは、まだ水木がゲゲ郎との過去を忘れていた頃だった。
 「何処其処の桜が見頃らしい、見に行かないか」
 職場の雑談から花見も良いなとゲゲ郎と赤子であった鬼太郎を連れて出掛けたのである。
 当初のゲゲ郎は何も言わずに付いてきてくれていたが黙って桜を見上げるその姿が美しく、また悲しげに見えたのを水木は今でもはっきりと覚えている。
 強く吹いた風が桜を散らす景色の中で、男の白い髪が刹那その表情を隠した。揺れる髪が陽の反射で銀に煌めき、花弁が男の横顔を過って落ちていく。
 それが涙のように見えた水木は男が泣いているのかと思い驚きに息をのんだ。理由も分からず来なければよかったかもしれないと後悔しかけた。
 水木はかける言葉も見つけられずに突っ立ったまま男を見ていた。ゲゲ郎もまた桜を見上げたまま何も言わない。
 無言の男ふたりの空気を変えたのは赤子であった鬼太郎だ。ゲゲ郎の腕の中できゃらきゃらと笑い、舞う花弁に手を伸ばす赤子へとふたりの視線は自然と集まり、見ているうちに笑顔になっていた。
 鬼太郎をあやしながらふたりは桜の下を歩き、とりとめのない話をした。鮮やかで透き通った水色に薄桃色が広がり揺れる下でゲゲ郎が穏やかな笑みを浮かべているのを見て、水木は安堵した。
 並んで歩く男の陽に透かされて白く眩しい髪を目を細めて眺め、笑う赤子の声を聞いて、水木の胸に幸福と呼ばれるようなものがひたひたと満ちていく。その心地好さに酔ってしまったのかうっかり来年の話をしてしまったのだ。
 来年は弁当でも作ってくるか、だなんて。
 言ってしまってからつい先刻、桜なんか見に来るんじゃなかったと考えたことを思い出す。要らぬことを言ってしまったという後悔が水木の胸中を埋めていった。
 あの様子からするとゲゲ郎は桜を好まないのではないか、来年も共にいられるのかなんて分からないだろう、そのようなことが頭の中をぐるりと過っていく。水木はただ本当に、また来年もこうして同じ時間を過ごせたら良いと思っての発言だった。
 一年後の約束など重たかったかもしれない。そもそも桜見の誘いは止めた方がよかったと先の発言を無かったことにするべく、すぐ何か言わなければと口を開いた水木よりも早くゲゲ郎が答えた。
「そうじゃな」
 ふわりと笑いながら穏やかに見つめ返されて、水木は開けた口を閉じた。男の視線がくすぐったくてすぐに目を逸らしてしまい、頭上の桜ではなく地面に落ちた花弁をただ見下ろす。返ってきた言葉から一呼吸して漸く頭が追い付き、先の約束が水木の胸をあたためた。隣に立つ男が同じ気持ちでいるのを嬉しく思い、口元が緩む。
「何が食べたい?」

 それからふたりは弁当に何を入れるか話しながらゆっくりと帰った。その時のことは水木にとっては忘れられない思い出になっている。
 初めての桜見から数年後、記憶が戻った水木はゲゲ郎が桜を見て浮かべた表情の意味を知ることになり、後悔した。
 その頃には桜見は毎年のこととなっていたが水木は誘うのを止めた。今までゲゲ郎が笑ってくれていたとしても誘えなくなってしまった。しかしここで今度はゲゲ郎が水木を桜見に誘うようになったのである。
 のう水木、来週には満開になりそうじゃよ。今年の酒は良いものを用意しておる。次の休みはいつになる?
 ゲゲ郎からの誘いを水木は断れない。にこにこと楽しそうに話すかわいい友の誘いならば水木はいつだって乗るのであった。


 よく晴れた空と薄桜色の天蓋の下、互いの持つ器に酒を注ぎ合いながら男ふたりはぽつりぽつりと話していた。話の合間、沈黙も多かったがふたりの間に流れる穏やかな空気は心地好く、お互いが静かにふたりの時間を楽しんでいた。
 隣で機嫌良く呑む友にちらりと視線を走らせて水木は思う。
 今年こそは、はっきりとさせたい。
 何も難しい言葉ではないのだ。桜が嫌いかそうでないのか、ただそれだけを聞けばよいのだ。どうしても確認しなければならない、というわけではないのだが水木は気になり続けている。
 これを言うに適したタイミングなど一生来ない、言ってしまえと水木は酒を一口入れて勢いを付けた。
「今さら、だが……
 お前に聞きたいことがある、と気まずさを含んだ声色で口を開いた水木をゲゲ郎が見やる。
「前から聞けなかったことがあるんだが、その……おまえは、」
 こちらを見る男の顔を見返すことができず手元の酒の水面を見つめながら水木は言葉を続ける。
「おまえ、桜は嫌いじゃないのか」
 じっと水木の言葉を待っていたゲゲ郎が答える。
「んん~?そうじゃの、嫌い……というより苦手だったが」
 その言葉にやはり、という思いと罪悪感のようなものがぐるりと水木の胸に渦巻いた。
「良くない記憶とも結び付いておるからの、好かんかったよ」
 分かってはいたことだが男の口からはっきり聞くと胸の重苦しさに加えて苦味が広がっていく。水木は少し苦しげに顔をしかめて、もうここまできたら全部聞いてしまえとばかりに一息に思っていたことを言い切ってしまうことにした。
「じゃあなんで、毎年花見をしてたんだ。誘われて仕方なく、というのもわかるが……
「俺が誘わなくなったらお前、自分から誘うようになったじゃないか」
 ゲゲ郎はゆっくりと手元の酒を呑み干し口元を湿らせ、水木の問いに答えた。
「おぬしがおるから」
 猪口を傍らへ置き、水木に向き直るとゆっくり言い聞かせるように話す。
「水木と毎年見る桜じゃ、嫌いになれるはずもない」
 じわりと滲む愛おしさが水木にも伝わってくるような声色で、視線で、ゲゲ郎は水木へ思いを伝える。
「たとえ過去の悲しき記憶と結び付いておっても、今ではおぬしと過ごした記憶との結び付きの方が強い」
「桜を見ればおぬしを思い出す。楽しく愛おしい思い出ばかりが増えてゆく」
 ゲゲ郎から伝わる思いがあたたかくて水木は酒で緩んだ涙腺から涙が出そうになった。下を向いていると目元から水分が落ちて来そうで、滲んだそれが落ちないよう何度か瞬きをする。そうして伏せていた目をゲゲ郎へ向けると、柔らかく眩しそうに目を細めて水木を見ている男と目が合った。
「なあ水木や、これからも儂と桜の思い出を重ねてくれるか?」
「ああもちろんだとも」
 水木の言葉に男は嬉しそうに笑った。


 水木の長年の心の凝りが取れて、改めてふたりは桜を見上げていた。水木は晴れやかな気持ちで視界に広がる薄桜を肴に酒を楽しんでいたが暫しの沈黙の後、今度はゲゲ郎がふと溢すように呟いた。 
「もしこの先、こうしてともに桜を見られぬようになっても、おぬしを思い出して毎年桜を見るのであろうな」
 先程の話に加えて自分がいなくなっても忘れずに思い出してもらえるなどと、これほど嬉しいことはないだろう。水木はゲゲ郎の言葉を噛みしめながら酒を呷る。いつの間にやら人間から片足を踏み外し、妖怪のように長生きとなった水木だが幽霊族程ではない。いつかは別れがくるだろう。だがそうなっても友の心に楽しい思い出として残れるのだと嬉しく思った。
「じゃが、その時は今のように心穏やかではないじゃろうな」
「水木が隣におらんのだから」
 つい先刻まで柔らかく穏やかだった男の声が嘘のようにがらりと変わった。突然の冷えた声色がふたりの間に落ちる。日差しの温度さえも下げるような冷たさを肌で感じた水木は驚くままに傍らの友を見た。
 じっとりと暗い目で水木を見据えて男が言う。
「おぬしのせいじゃぞ……儂はもう水木がおらねば……
 すっと伸びた男の手が水木の腕を掴むとくっついてしまいそうなほどに体を寄せた。その勢いに水木は避けるように後ろへ背を仰け反らせてしまうが、新たに空いた僅かな距離さえもすぐに詰めた男は決して逃がさぬよう、水木を囲うようにもう片手をついた。
「おらねば、どうなってしまうのか……儂自身にもわからぬ……きっと堪えられん」
 食いしばった歯の隙間から漏らす声は震えていて、怒りか恐れなのか負の感情に溢れてはち切れそうな思いを抑えていた。
 表情を隠すように垂れ下がった髪の合間から大きな目が水木を見据えている。笑い飛ばすこともできないような尋常ならざる様子の友は、水木に覆い被さる体勢でありながらその実、まるで何処にも行かないでくれと縋りついているようだと水木には感じられた。だから真っ直ぐと突き刺さる視線を受けて、思ったことがそのまま口から出ていた。
「どこにも、いかない」
 お前を置いてはいかない、そう言う。口から出してみると水木の胸にもその言葉はすとんと収まった。正真正銘、水木の正直な気持ちであったからだ。
「ほんとうか」
「儂を置いて死なぬか」
 たっぷりと湿度を含んだ声色でゲゲ郎が言葉を返す。
 いや、死なないのは無理だな。それは約束できない。ここで水木がそうだと言えば違えることは許されない約束となることは明らかだ。
「死なないのは無理だろう。俺だっていつかは死ぬ」
「駄目じゃ、認めぬ」
「認める認めないの話じゃないだろ」
「嫌じゃ、儂より先に死なんでくれ」
「無理を言うなって」
「では、死んだら全部儂にくれ」
「骨とかの話か?」
「そうじゃ、骨も肉も魂も」
「たましい……
「嫌か」
「いや、では……ないが」
「魂をもらってどうするんだ、食べるのか?」
「それも良いが、食ったら終わりじゃからな」
「腹に収めて、ずっとともにおる」
「腹に……
 食うのと変わらないのでは、という言葉は飲み込んだ。
「いつか儂も死ぬだろうが儂が死ぬまで……いや、死んでからも共におってほしい」
 とうとうゲゲ郎はぼたぼたと大粒の涙をこぼし始めてしまった。
 なんにせよ、水木はまだまだ死ぬつもりはないし、ゲゲ郎を置いて何処かへ行くつもりもない。
べそべそと泣いている姿からは先程の鬼気迫るような圧や沈み込むような暗い感情は消えていたが、水木がいなくなった後に残されたゲゲ郎がどうなってしまうのかを垣間見たような気がした。
 こいつを置いては行けねえなぁ……
 その思いとともにふうと吐いた溜め息はやれやれ仕方がないと手のかかる子どもへ向けるような慈しみを孕んでいたことを水木自身は気付いていなかった。
「死んでから先も一緒にいてくれたぁ……お前、俺のこと大好きだな」
 そう言いながら水木は嬉しくて少し笑ってしまった。
「当たり前じゃ!大好きじゃよ」
 当然のことだと鼻息荒く強い肯定が男から返ってきたので、水木は笑いながら「俺もだ」と告げた。
……というか、それ俺でいいのか?」
 死んでからも一緒にいるなら奥さんの方が良いだろうが。純粋な疑問からそう言うと、ずぴっと鼻をすすった男が半眼で水木を見た。
「妻を、死んでからも儂に縛り付けとうない……
 なんだそれ、俺はいいのか。先程より男から執着染みた言葉を向けられていてもさほど動じなかった水木だったが、この時少しの呆れとともに喜びが心の奥底に生まれた。
「俺ならいいってのかよ」
「おぬしがいいんじゃ、水木となら何処へでもともにゆける」
「何処へでも、儂と来てくれるじゃろう」
 水木を連れて行きたいと、水木ならば己とともに来てくれるのだと信じきっている。全くもってその通りだった。水木もまたゲゲ郎とならば何処へだってゆけると思っているのだから。
 同じ想いを同じようにお互いへ向けられるのは本当に幸福なことだと水木は思う。
 男が涙に濡れた大きな真ん丸の目をぱちぱちと瞬きさせて水木を見ている。それがとても可愛く見えて水木は仕方がないなぁとまた笑ってしまった。
「いいぜ、ずっと一緒にいてやるよ」
 これならきっと違えることはない。約束してもいい、そう思った。