ゲルダと共に決意を重ねてすぐに、オデットは入り口の扉を強く押した。扉に鍵らしい鍵はなく、扉の前に重たい何かを置いて鍵の代わりにしていることは、先だって食事を運んでもらった時に確認済みだ。
「ん……よいしょっと」
扉を力一杯押すと、ほんの少しだけ手前に置かれたものがズレて、扉が開く。
もし見張り番がいたら、すぐに察知されただろうが、その気配はない。やはり、オデットたちを放り出してでも対応をしなければならない何かが外で起きているようだ。
とはいえ、頭で安全だと分かっていても、あの見張り番の男が飛んできて怒鳴られるかもと、心が一瞬怯える。
しかし、その恐怖は一分経ち、二分経つ頃には、少しずつ収まっていく。
「大丈夫そう……ですね」
自分を鼓舞するためにも、男が近づいてくる様子はないと声に出して確認してから、再びオデットは扉を押す。
だが、数イルムも動かさないうちに、何かに引っ掛かるような音と共に、扉がびくともしなくなってしまった。
「どうしたの?」
「扉の前に置いてあったものが、外の壁に引っかかってしまったようです」
重しとして置かれた荷物が、扉が開いたことによってずれていったものの、ずれた結果、壁と扉の間に挟まってつっかえ棒のような役割を果たすことになったようだ。扉の隙間はまだ十分に開いたとは言えない。オデットやゲルダがいくら細身といえども、腕も通るかどうか怪しい隙間は通り抜けられない。
力任せに押し続ければ、いつかは荷物が更にずれてつっかえ棒の機能を失ってくれるかもしれないが、あるかも分からない未来に賭けるには、今は時間が足りない。
「ゲルダ、少し離れていてください。魔法でつっかえているものを壊します」
「うん。オデット、怪我しないでね」
ゲルダが少しばかり距離を置いたのを確かめてから、オデットは扉の隙間から手を差し込み、置かれている荷物と思しき方向へと魔力を集中させる。
(見張り番の人や、さっききてくれた女性が退かせるぐらいだから、時間をかければずらせる大きさや重さのはず。それなら、魔法で潰すこともできる!)
詠唱にさほど時間をかけず、オデットの掌から魔法が爆ぜる。
重力を捻じ曲げ、対象に対して重さという不可視の負荷を付与する魔法――グラビデ。目に見えない鉄槌が振り下ろされたような一撃が、ばきばきと不吉な破砕音と共に、置かれていた何かを砕いていく。
もしこの物音を聞きつけられたら、すぐに見張り番が飛んでくるはずだ。だが、オデットの期待通り、彼らが姿を見せる気配はなかった。何かが壊れる派手な音がひとしきり響いた後に残ったのは、しんと静まり返った空気だけだ。
オデットは、今度こそ扉に手をかけて、ゆっくり前へと押し開いていく。
果たして、扉は軽い抵抗こそあったものの、オデット一人分が通れる隙間を作ってから再び止まった。
「これなら出られそうだね」
「はい、ゲルダ。先にわたしが行きますね」
戦う術を持たないゲルダを守るのは自分だと、オデットは己を奮い立たせて外へと踏み出る。そのついでに扉の方を振り返った彼女は、漸く自分たちを閉じ込めていたものの正体に気がついた。
(これは、食料……? 倉庫に元々入っていたものでしょうか)
木箱にぎっしりと詰め込まれたと思われる芋や名前も知らない根菜類は、緑の少ない寒冷な気候において貴重な生命線だ。だが、脱出のために圧縮され、潰されたそれらは、今は歪な姿で地面に広がっている。
「…………」
自責の念が胸を掠めるものの、かぶりを振り、オデットは入り口から続く階段を上っていった。
半地下の倉庫に続く階段には、扉の向こうよりもはっきりと混沌の気配が伝わってきていた。
誰かの怒鳴り声。何かが潰れるような音。瓦礫が崩れるような倒壊の音すら響いている。
階下にいたときも耳にした、相手を威圧する大音声の何か。時に、魔物の咆哮のようなものまで混じっているのは気のせいではあるまい。
「異端者の人たちのところに、誰かが来たのでしょうか」
「そうだと思う。この音、私が異端者の人たちと一緒にいたとき、皆が誰かと戦っているときに聞こえていたから」
「異端者と戦う誰か……まさか、兄さん……?」
ノエがオデットたちの居場所を探り当て、やってきてくれたのだろうか。
だが、いくらノエたちが強かったとしても、異端者たちとて少数ではあるまい。そこのような大規模な戦闘音が聞こえるほど、彼らが派手に立ち回っているとは思えない。
「もし兄さんじゃないとしたら、一体誰が……」
緊張とはまた異なる形の震えが、一瞬オデットに走る。震えかけるつま先に力を込めて、オデットは片手でゲルダを制しながらゆっくりと階段を上っていく。
半地下の倉庫に続く階段はすぐに終わりを迎え、上階につながる扉が見えた。意を決して、勢いよく開いた刹那、
「おい! 勝手に入ってくるんじゃねえ!!」
自分に向けて言われたのかと、オデットが身をすくめた直後。
ドン、と荒々しく木戸を開く音が響き、どたどたと激しい鉄の足音が耳に飛び込んだ。
「……!」
本来ならば、狭くとも小さな憩いの場として用意されたのだろう居間に、団欒の場には不釣り合いな甲冑姿の男が二人、なだれ込んできていた。
それを食い止めようとしたのか、オデットに背を向ける形で甲冑の男たちと距離をとり、得物と思しき剣を構えているのは見張り番の青年だ。相手を恫喝するあの声は、しっかりと耳に残っている。
男の更に後ろには、オデットたちに食事を運んできた母親が、壁に背をつけて縮こまっていた。
「はっ、異端者どもめ。まさか、こんな近くにこそこそと隠れ潜んでいたとはな! まさに、鼠同然の屑どもというわけだ」
「おい、そこの二人。抵抗せずにいれば、命までは奪わないでおいてやる。武器を捨てて、大人しく跪け!」
朗々と響く声の主は、玄関口に立つ甲冑の男――恐らくは、ルグロ家の騎兵からのものだった。盾に一瞬見えた模様と、揃いの甲冑姿は、館で目にしたアガテルの護衛と酷似している。
つまり、外の騒音は異端者と騎兵たちが衝突した末に生まれたものだということだ。
(アガテルさんの護衛の方が、わたしたちを助けにきてくれたのでしょうか。でも、どうして……? わたしには、あの家の人に守られる理由なんてないはずなのに)
まさか、この誘拐そのものが、ルグロ家にとって目障りな異端者たちを釣り出す餌として利用されていたと、オデットが知るわけもない。彼女の頭は、混乱でパンク寸前になるばかりだった。
しかし、オデットの混乱が収まるのを待たずに、状況は進んでいく。
「どうせ俺たちが何をしたって、お前らは俺たちを引っ立てて、異端審問官の前に突き出して処刑するんだろ!!」
「当然だ。異端者とその家族は、異端審問にかけられる。国を裏切った大罪人を生かしてやる理由がどこにある?」
居丈高な物言いには、騎兵としての義務以外の感情が混じっているようにオデットには思えた。
法や教皇といった大義名分を掲げて、異端者という目障りな障害を握りつぶすことができる――それは、強者だけが持つ愉悦だ。奇しくも、それは見張り番の男やオデットを誘拐した者たちが、オデットにぶつけてきた感情と全く同じものだった。
「どうせ異端審問官に嬲り殺されるなら、尚更お前らなんかに捕まってたまるか!!」
男は片手に持っていた剣を、騎士へと投げつける。やけになったのかと思いきや、空いた男の手には、赤黒い何かが詰まった瓶が一瞬見えた。
「やつを止めろ! 竜の血を飲む気だ!」
「あんた、おやめ!!」
警戒の声とは別に、今まで震え上がっていた母親が、自分の息子を止めようとする声が響く。だが、制止の声もむなしく、男の喉は液体――竜の血を飲み干した。
変化はすぐに訪れた。迸る赤黒いエーテルの渦は、離れているオデットにも感じられるほどに禍々しい。高濃度のエーテルが男の輪郭を歪め、小柄だった体はみるみるうちに竜のそれへと変貌していく。
『竜に逆らった者がどうなるか、お前らに教えてやる!!』
母親が息を呑み、腰を抜かしてへたりこむ姿が見えた。咄嗟に何かに祈るように組まれた手は、果たして誰に向けられたものだったのだろうか。
先ほどよりも何倍も大きな竜の咆哮が、オデットの耳の奥底を揺さぶる。次いで、竜の巨体によって内側から崩壊した建物が、視界を一度全て暗闇に閉ざしてしまった。
轟音の津波に一瞬くらりとしてしまったのは、幸運だったかもしれない。
「竜に変化したぞ! 増援を呼んでこい!」
「奴に魔法を詠唱させるな! 総出でかかれば――」
一瞬の酩酊のおかげで、竜の爪が騎兵に振り下ろされるその場面を、オデットは直視せずに済んだ。
悲鳴か怒号かも定かではない音の奔流。その合間に、竜に変化した見張り番の男の翼が近寄っていた騎兵を打ち付ける音が響く。平手打ちの何倍もの破壊力を持つそれが、鎧をひしゃげさせ、あらぬ方向に人の体を曲げていった。
漸く意識を定めさせたオデットは、視界の端に映った惨劇に目を見開くことしかできなかった。
「――――!」
「くそっ、目障りな異端者どもめ」
「後ろに回れ! 死角を突くんだ!!」
「こうなった以上、生け捕りにする必要ない! さっさと殺せ!!」
だが、騎兵たちもやられっぱなしではない。増援としてやってきた何名かの騎兵は、槍を構え、果敢に異端者へと迫る。
屋根が半ば落ちてしまい、随分と風通しが良くなってしまった居間にて、竜が騎兵に食らいつき、騎兵が竜に立ち向かう。それは、つい先ほどまでの穏やかな団欒の場を知っているオデットには、随分と歪で悍ましいものに思えた。
「オデット、早くここから逃げないと」
思考することすら一瞬吹き飛んでいたオデットは、ゲルダの手を引かれてハッとする。
目と鼻の先で繰り広げられる血生臭い一幕に、足が震えて、なかなか言うことを聞いてくれない。それでも、どうにか立ち上がった時だった。
「ちっ、こいつはホンモノだったのか。もっと楽な仕事だと思ったが」
やってきた騎兵の愚痴が、オデットの耳に聞こえてきたのは。
(こいつ『は』…….?)
それでは、まるで。
異端者ではない人が、この中に混ざっていると思っていたようではないか。
実際、異端者の中には例の母親のように誘拐作戦に反感を持つ者も、黙して様子を見守っている者もいた。ヒューイが話していたように、やむを得ず隠れていた子供や病人、お年寄りもいるのだろう。
ノエたちならば、そのような戦う力も反抗の意思もない者を傷つけるような真似はしない。だったら、目の前の兵士はどうなのだろうか。
兵士はぐるりと周囲を見渡し、ある一点でぴたりと視線を止める。
「おい、そこの女。異端者の家族も異端審問にかけると言われたはずだ。いったいどこに行くつもりだ!」
息子であったはずの竜からも、この場所そのものからも逃げようとしていた母親は、騎兵の声にまるで縫い止められたように足を止める。
その手には、建物が倒壊する直前に握ったのだろうか、調理用のナイフが握りしめられていた。けれども、そのようなものは武器としてあまりに心許ないことは明らかだ。
「い、異端審問なんて、結局は嘘っぱちばかりだろう! ろくなもんじゃないと分かっているのに、捕まるような馬鹿がどこにいるって言うんだい!」
「貴様、教皇猊下が下された裁決を愚弄するか!」
騎兵が剣を抜き放ちながら、母親に迫る。その瞬間、母親は踵を返してこちらに――二人の様子を見つめていたオデットへと迫ってきた。
あまりに非現実なことが続くあまり、オデットは一瞬なぜ彼女がこちらに向かってやってきたのか、まるで理解できていなかった。
母親と騎兵の問答も、竜が暴れている人々を蹴散らしている様子も。
周囲から聞こえる怒号やら破壊の音も。
その他全ての一切合切を、まるで額縁の向こうのことのように切り分けることで、オデットは己の心をどうにか守っていた。
「やめてっ」
「どきな! こいつさえいれば、あたしは助かるかもしれないんだ!!」
母親がオデットの前に立っていたゲルダを突き飛ばし、オデットの腕を掴んだ瞬間。
半ば放心状態だったオデットの意識は、強引に現実へと引き戻される。
スープを渡してくれたぶっきらぼうな女性の細腕は、今やオデットの両手を乱暴に掴み、押さえつけていた。
「動くな! あんたたち、自分のところの姫さんを探しに来たんだろう! これ以上暴れたら、こいつの喉を掻っ切るよ!」
ナイフの先端が、オデットの喉に突きつけられる。あまりに突然のことで、オデットは自分が何をされているのかすら、一瞬理解できなかった。
異端者の集落に差し向けられた貴族の兵士を退けるため、彼らの目的であるはずの、拉致された姫を人質にとり、交渉しようとしている。その考えに漸く思い至った頃、オデットの安全を突きつけられた兵士は――笑った。
げらげらと、滑稽な道化の一人芝居を見た子供のように。
「はっはっは、おめでたい連中だな! 自分たちが偽物を掴まされて、泳がされたとも知らないでいるのか。大人しく巣穴に篭ってじっとしていれば、こうやってまとめて狩り出されることもなかっただろうに」
「偽物……? いったい、どういうことだい……!?」
オデットに突きつけられていたはずのナイフに、震えが走る。
母親としては、決死の思いで起死回生の一手を打ったつもりだったのだろう。だが、それすらも、鼻で笑われ、無価値なものとして蔑まされた。この状況自体が、母親にとっては悪夢そのもののはずだ。
「あ、あんた、貴族の姫様なんだろう!? うちの子は、貴族の姫さんを攫ってきたって、あたしにそう言っていた!!」
「わ、わたしは……」
自分を誘拐してきた人たちに謝るのも妙な話だが、オデットは言葉にできない罪悪感を覚えていた。
自分が本当に貴族の姫君だったなら、少なくともこの母親の命だけは守れたのに。そんな考えがちらりと頭を掠める。
「ああ、もういい。大人しくしないというのなら、お前はここで死んでいけ。どうせ、あの洞穴で見つけた連中だけで、十分異端者がいた証拠にはなるのだからな」
兵士は無造作に剣を抜き、まだオデットを掴んだままの母親へと大股で歩み寄る。
彼の視線は、母親もオデットも等しく同じものとして見ていた。
すなわち、自分が切り捨てる無価値なものとして。
(どうして、こんなことになったのでしょう)
男が剣を振りかぶる様子を、オデットは呆然と見ていた。魔法の障壁を生み出す余裕すら、今のオデットの心にはなかった。
自分に向けて振り下ろされる剣。背後の女性の命諸共刈り取るための光に、反射的に目を瞑る。それが、今のオデットができる精一杯の抵抗だった。
何か柔らかいものを斬りつけた嫌な音。後ろの女性の、締め殺されたかのような引き攣った悲鳴。
――だが、痛みはなかった。
「ひっ……!」
「何だこいつ、横から急に飛び込んできやがって……!?」
どうやら、何か予想とは異なる状況になっているらしい。恐る恐るオデットは目を開き――そして、瞠目する。
「ゲルダ!?」
オデットの眼前、一人の少女がゆっくりと崩れ落ちていく。赤い液体が、そのあとを追うように飛び散り、雪で積もった地面い沈んでいく。
両手の拘束が一瞬緩んだ隙をついて、オデットは自分と騎兵の間に割って入った少女に飛びついた。その体には、先ほどの剣の一撃を受けたと思しき傷が深々と刻まれている。
「ゲルダ、ゲルダ! しっかりして……!」
彼女の上体を横断するように刻まれた傷からは、妙に鮮やかな赤い液体が流れ落ちていた。今まで何度か外傷を目にしてきたオデットでさえ、その鮮やかすぎる赤に一瞬眩暈を覚えたほどだ。
騎兵が再び母親に迫っている足音も、必死に逃げ惑う母親の声も、今のオデットには届いていない。彼女の視界には、体に傷を負って横たわった友人の姿しかなかった。
「ゲルダ、意識はありますか! 大丈夫です、今すぐ治しますから……!」
傷は深そうだが、ゲルダはすぐに目を開いてオデットを見つめてくれていた。
意識はしっかりと残っている。それなら、まだ治癒の道筋はあるはずだ。オデットがそう思い傷に手をかざし、今度こそ己の全神経を集中させて、癒しの魔法を発動させる。
(呆けている場合じゃない。あの時、わたしがもっとしっかりしていたら、ゲルダに割って入らせる必要もなかったのに)
もし、兵士を制圧できる魔法を編み出す心の余裕があったら。兵士の前に壁を作るほどの冷静さがあったら。
だが、今は後悔を積み重ねている場合ではない。
どんな傷もあっという間に塞いでくれる、オデットが最も頼りにしている力。その魔法を、必死に編み上げてゲルダの体へと治癒を施そうとした。
――だが、ゲルダの傷は塞がらなかった。
何かを間違えてしまったのかと、もう一度意識を集中させても、発動した魔法は途端に霧散する。
「どうして……!? どうして、魔法が効かないの……!?」
「オデット。そんなに心配そうな顔をしないで。私、大丈夫だから」
「ゲルダ、動いちゃだめです! そんな傷で動いたら……」
だが、ゲルダは上体を起こして、自身から流れる赤い液体に頬を汚しながらも笑顔まで作ってみせていた。まるで、朝起きて寝台から身を起こし、「おはよう」と挨拶を交わしているかのような気軽さだった。
彼女の平然とした様子に、流石にオデットも違和感を覚える。
「ゲルダ……その傷、痛くないんですか」
体の前面を切り裂くような大きな傷だ。戦いを知らない少女ならば、まず間違いなく、その場でのたうち回るような激痛が走るはずである。
だというのに、ゲルダはあまりに平然とした面持ちで、オデットに笑いかけていた。
「痛くはないかな。壊れちゃったから、違和感はあるけれど。痛いとか寒いとかを感じるところまでは、上手く作ってあげられなかったって、ヒューイは言ってたから」
「ヒューイさんが……作る? ゲルダ、いったい何を言っているの……?」
「詳しいことはヒューイに教えてもらって。私もね、『これ』がヒューイの用意してくれたものだってことしか、実はよく分かってないの」
自分の体を物のように指差しつつ、ゲルダはなんて事のないことのように笑う。混乱するオデットを置き去りにして。
唖然としているオデットをよそに、ゲルダは懐をまさぐると、一本の瓶を取り出した。赤黒い何かが混じっているそれを目にした瞬間、オデットは直感で悟る。
あれは、何か途轍もない力を持っている。それが良いものか、良くないものか、それすらも判別ができなくなるような凄まじい力が、あれにはある。ゲルダがいつも飲んでいた薬に見た目は似ているが、纏う違和感は薬よりも一回り大きい。
「ゲルダ、待って。何をしようとしてるんですか」
「ほら、私の体はこんな風になっちゃったし、周りの人はもうオデットがお姫様じゃないって分かっちゃったから、オデットのことを守ってくれそうにもないでしょう」
見て、とゲルダに促されてオデットは漸く顔を上げた。
山間に隠れた日のせいか、厚く立ち込める雪雲のせいか、周囲は先ほどよりずっと暗くなっている。ちらちらと降りしきる雪の中、竜とも魔物ともわからない影が人を襲う様が、あちこちに浮かび上がっては消えていく。
だが、襲われているのは兵士たちだけではない。兵士の中には、逃げ惑うだけの女性や老人を捕まえ、剣を振り下ろす者もいる。彼らの振る舞いは、大人しく投降しようとした者すら斬り殺されたのではないかと思う冷酷さがあった。
「だけど、オデットが逃げられるぐらいの時間なら、私は作れると思うから」
「待って、ゲルダ……待ってください!」
「だから、お願い。オデット。私が何になったとしても、次に会うときは、私に近づかないで」
体の半分からだらだらと赤い液体を流したまま、ゲルダはとんとオデットを後ろに押した。
茫然とするオデットに、ゲルダは何やら懐かしそうに目を細めている。
「……ああ。あの時の『私』も、同じ気持ちだったのかな」
何もわからないけれど、何か取り返しのつかない変化が訪れることだけは分かった。だから、オデットは手を伸ばそうとした。
だが、彼女の手が届く前に、ゲルダは瓶の栓を開けて中身を飲み干していた。投げ落とされた瓶が割れ、その破片が雪の中に消えて見えなくなる。
「ゲルダ……?」
目で見てわかるほどに、ゲルダの周囲に近寄りがたい気配が爆発的に膨れ上がったのがわかる。
例えるなら、膨大なエーテルの渦を目の当たりにしているかのような。知ってはいるが、触れてはならないと全身が警告している。
「ゲルダ、わたしは……!」
「オデット。私、オデットに会えてよかったよ」
ふらりとオデットの方へと振り返り、少女は最後まで笑い続けていた。
「幸せになってね。わたしの一番の友だち」
その言葉を最後に、ゲルダという少女の影は魔力の渦の中に消える。
迸る膨大な魔力は、あまりの濃さに目視できるほどで。あたかも血に染まったかのような赤が渦巻き、膨れ上がり、そして――一頭の竜の形を成す。
かつて、辺境にて討たれた、赤き竜の形へと。
◇◇◇
自分は、とある竜の影のようなものに過ぎないと言われても、そこまで衝撃はなかった。
普通の人間とは少し違うところが自分にはあると、オデットと過ごしていくうちに気がついていたからだ。
たとえば、外に出ると寒いと皆は言うけれど、外気に触れても彼らのように震え上がるような『寒さ』を覚えたことはなかった。夜になれば眠るけれども、それは疲労をとるためではなく、ただ定められた機能を辿っているかのような感覚に近かった。
「当然です。あなたの体は、私が作ったものなのだから。錬金術師としての知恵と技術を全て注ぎ込んで、限りなく人間に似せた人形として、私はあなたの体を作成しました」
だから、自分が作り物だと彼から教えられても、そこまで驚きはしなかった。
「あなたは『器』です。ゲルトルーデという竜があなたの中で蘇るかを試すための入れ物にすぎません」
彼は懇切丁寧に言葉を尽くして教えてくれたものの、やはり自分には理解が難しかった。
「本来ならば、器とするならば竜を作るべきだったのでしょう。その中に収めるものが、あなたの一部である以上は、器も竜であるのが自然な形というものです。ですが、竜を錬金術で再現するのは、私の力では到底不可能でした。故に、私は人が竜に変じることに着目して、人の形を作りました。ですが、それも失敗に終わった……これまではそう思っていました」
「じゃあ、今の私はゲルトルーデなの?」
「そうとも言えますし、そうではないとも言えます。ただ、あなたの性格や感情の動きには、確かに『ゲルトルーデ』と類似するものがあると私は分析しています」
彼の説明を全て聞いても理解はできなかったが、腑に落ちた部分はあった。
だが、ゲルダにとって大事なことは自分が何者かではない。自分がこの先どうなってしまうかだ。
いつのまにか、心の奥深くまで染み込んでいた一人の友達の未来だけが、ゲルダにとって気がかりなことだった。
彼女が泣きそうな顔をするたびに、ゲルダは嫌だと感じる。
大好きなノエから引き離されて、不安と緊張に包まれた顔を笑顔にするためにはどうしたらいいか。彼女が傷つけられないようにするには、ゲルダには何ができるか。
ただそれだけだった。
(ありがとう、ヒューイ。私のことを教えてくれて)
瓶の中身を飲み干し、体の中で一つの形を得た『それ』を感じながら、薄れゆく意識の中でゲルダは思う。
(ありがとう、オデット。私の友達になってくれて)
胸の内から湧き上がり、自分を塗りつぶしていくもの。それは、黒々とした憎悪だ。
かつて、小さな同胞を虐げた人間。辺境で静かに暮らしていた自分の元に訪れ、その鱗に鉄の楔を打ち込み、その喉を槍で突き刺した。
痛かった。苦しかった。憎たらしかった。許さないと咆哮した時の瞬間が、今も焼きついて離れない。
(この気持ちも、本当なら『私』が持っているべきものだったんだね)
黒々とした感情の波が、今まで残っていた『ゲルダ』と呼ばれた者の記憶を塗りつぶしていく。
最後の一欠片の思い出が消える頃、ゲルダの身のうちに宿っていたものが再びあるべき姿を取り戻し、その『眼』に宿っていた魔力と感情の残影を、束の間の奇跡として形にする。
魔力の渦が解けた時、その場にいたのは。
ゲルダと呼ばれた娘ではなく、赤い鱗の竜――ゲルトルーデだった。
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