晴れ渡った空から続くように、蒼い水平線が混じり合って溶けている。空なのか海なのかその境目が曖昧な光景は、ブラッドリーにとってとても思い出深いものである。
ブラッドリーがこの街に来たのはもう三年前になるか。ぼんやりとしているのは軍を辞めてからの自分自身のあり方を未だに模索しているからだろう。
ブラッドリーはかつて海軍のアビエイターだった。けれど一度の墜落を経て、自身のアビエイターとしての生き方を少しだけ見直してみたくなったところから、軍を辞した。己を本当の息子のようにかわいがってくれていたカザンスキー大将にも止められたのだが、ブラッドリーはとある思い出を追いかけたくなったのだった。
ブラッドリー・ブラッドショー。小さい頃に一度、〝人魚〟という存在に出会ったことがある。
それはブラッドリーが海で沖に流され、溺れかけた時だった。まるで童話の「人魚姫」のような展開。気を失って気がついたら、美しい男体の人魚に救われていた。彼はブラッドリーに「ピート」と名乗ったが、ついぞそれから再会することはなかった。
ざざん、ざざん、さざ波が押し寄せる海辺で、ブラッドリーはひたすらに水平線をぼんやりと眺める。ここだ、ここなのだ――ブラッドリーが人魚の「ピート」と出会ったのは、確かにこの港町だった。
まっすぐ伸びる小規模な桟橋の先端まで進み、そこでブラッドリーは腰かける。ぶらぶらと足を海に投げうち、遠くの水平線をひたすら見つめる。もうすぐ日が暮れるだろうオレンジ色の水平線を見て、そろそろ泊まっているホテルに帰ろうか……と考えていたところで、突然見つめていた彼方で水飛沫があがった。
「……あれ、」
目はいい方だと自負している。じい、とその水飛沫を注視していると、だんだんとブラッドリーのところへ近づいてきているようだ。驚いて桟橋の上で跳び上がり、ブラッドリーはそれから逃げようとしたが、ふと思いとどまった。もしかして――もしかするのか?
ぱしゃん、ぱしゃん、と海中から覗く尾ひれはエメラルドに輝き、オレンジ色の光にキラキラと反射している。ぐんぐん凄まじい速度でこちらへ泳いでくる〝ソレ〟は、あきらかに魚などではなかった。
「――ピート?」
ぐぐっと、桟橋の近くで止まったその影は、ぬっと水上にその上半身を晒した。ブラッドリーは幼い頃に見た彼よりも歳を経た顔立ちに、息を飲んで見惚れた。
「ピート……」
「――やっぱり、君なのかい? ブラッドリー?」
「……うん」
人魚も人間のように歳を取るんだな。そんな的外れな感想を抱きながら、ブラッドリーは桟橋にごろんとうつ伏せになって、目の前の人魚――ピートの顔を覗き込んだ。
「会いたかったよ、ピート」
感動して声が震えているブラッドリーに、ピートは嬉しそうに何度も頷き「僕もだよ」と穏やかに言った。本当は今すぐにでも触れたかったけれど、海の住人である人魚と地上の住人である人間とでは、体温差がある。不用意に触れればピートを火傷させてしまうかもしれない。ブラッドリーはぐっとこらえ、うるうると潤んでいる不思議な色合いの瞳を熱っぽく見つめた。
「ずっとずっと探してた。やっぱりこの街の海がピートの住処だったんだ?」
「そうだね。ここの海は僕の故郷だよ。でも、久しぶりに帰ってきたんだ」
「え?」
「――君を助けたことで、僕は人魚の長にとても怒られて」
「えっ!?」
真っ青になったブラッドリーに慌てた様子でピートが「でも!」と続けた。
「最近ようやくこの街の近くに行く許可が下りたんだ。今までずっと陸も見えないようなところで暮らしていたから……」
「ごめん、ピート。俺のせいだな……。あの時、人間が大好きだって言ってたあんたが、街に近寄れないなんて辛かっただろ?」
「いいんだよ。ブラッドリーを助けない方が、僕はすごくすごく後悔したと思う。君が無事なら、それでよかったんだ」
「ピート……ああもう、あんたに触れられないのがもどかしい!」
そんなキラキラした目で見上げられたら、キスのひとつでもしたくなる――!
ブラッドリーは内心悶えながら、髪の毛くらいはいいかとピートの髪に手を伸ばし、湿ったそれに触れる。すると、ピートは心地よさそうに目を閉じるから、更に大胆に髪を梳いた。さらさらっと指通りのいいブルネットを撫でていると、ぽつりとピートが「僕も、ブラッドリーに触れたい」と切ない声音で囁く。ブラッドリーの心臓が大きく脈打った。
「ねぇ、ピート。実は俺の初恋はあんたなんだ」
「ええ?」
ブラッドリーが唐突に告げたことにびっくりしている人魚は、海中で尾ひれをばしゃっと跳ねさせた。相当、驚いたらしい。閉じていた瞳を思いっきり見開き、ブラッドリーを凝視している。緑と青と金が混じった美しい地球のような瞳が、ブラッドリーだけをうつしている。それはとてもブラッドリーの独占欲を満足させるものだった。
「ピートだけをずっと好きだった。こうやって大きくなっても、それは変わらない」
「で、でも……僕はブラッドリーとすごくすごく歳が離れているから――」
「そんなの、知ってる」
「ええと……それに僕はオスだよ? 君の子どもは産めないし……」
「イマドキそんなこと気にするの? 俺はピートしか要らない。欲しいのはあんただけだ」
「う……ブラッドリー」
「ピートを探す為に、仕事も辞めてきたんだ」
「ええ!?」
真っ青になったピートが何かを言う前に、ブラッドリーは闇に染まりつつある空を見上げて溜息を吐いた。
「ピート――ごめん、もう時間切れみたいだな」
「あっ、もう日が暮れたのか……」
名残惜しそうなピートに、ブラッドリーは朗らかに笑ってみせる。人魚は夜の海で人に会ってはならない、なんてルールがあるせいで、ピートはもう帰らなければならない。ブラッドリーはもう一度彼の髪に触れ、優しく梳く。
「明日また会える? ピート」
「もちろん! もちろんだよ! 明日にはちゃんと、仕事を辞めた本当の理由を教えて欲しい」
「……本当の理由も何も、さっき言ったけど」
「ブラッドリー!」
「――わかった。ちゃんと言うから、またここで待ち合わせ。いい?」
何故か少し怒っているらしいピートとその場で別れ、ブラッドリーはホテルへと戻った。
部屋に辿りつくなり、ベッドを寝転がったブラッドリーは頬が緩むのを止められなかった。だって、本当に――本当に、あのピートに、大好きな人魚に会えたのだ。ブラッドリーの初恋。ずっとずっと一途に想ってきた相手と、絶望的だった再会が叶ったのだ。
彼が人里から離れていた理由がまさかブラッドリーにあったとは申し訳ないことをしたけれど、しかしそれでも再会できたことは嬉しくて仕方ない。
「――絶対、逃がさない」
明日には絶対、ピートにきちんと気持ちを伝える――。
心を躍らせ、ブラッドリーは幸福感に浸りつつあたたかな眠りに落ちていった。
◆
「――ピート?」
朝食を食べ、逸る気持ちを抑えきれずに昨日の桟橋へやってきたブラッドリーは、そこで一人の男性が佇んでいるのに気づく。白いシャツにジーンズ、手にはフライトジャケットを持っている姿は、知らない筈なのにとても懐かしい気持ちになった。そしてその彼が降り返った途端、ブラッドリーはそれが己が待ち望んでいる人だと悟った。
「ブラッドリー!」
爽やかに笑った彼――ピートは、二本の足で身軽そうに走り、ブラッドリーに思いっきり抱きついた。人間と同じ温度、そして彼自身から立ち上るかぐわしい香り、柔らかな肉の感触。何もかもがブラッドリーと同じ〝人間〟のカタチをしているピートは、嬉しそうに頬を首筋にすり寄せる。
「な、なん……え? どういう――?」
「ペニーに頼んで人間になれる薬を貰ったんだ。三日で効果は切れてしまうけど、その間は君と一緒にいられる」
輝かんばかりの笑顔を間近で浴びせかけられ、ブラッドリーはパニックだった。
人間になれる薬? 三日間はピートを独り占めできる? 彼は今は人間だから、触っても平気――そこまで考えが至ったブラッドリーは、ピートをきつく抱き締めていた。
「ピート……その、平気なの? その薬、なにかと代償にしたとかじゃないよね?」
あの有名な人魚姫のお話がブラッドリーの頭に浮かび、思わず青くなる。そんな青年にからからと笑ってみせて、ピートは「平気だよ」と言った。
「声を奪われてもいなければ、足の先が痛むこともない。君を振り向かせないと泡と消えるなんてこともないし――ちゃんと合法な薬だよ?」
「それならいいけど」
「僕たち人魚はよくこうやって人間になりすまして地上に遊びに行くんだ。だから昔から、人間になれる薬は人魚にとって馴染み深いものでもある」
「ふぅん?」
「だからそんなに変な顔するな、ブラッドリー。ほら、笑って」
ピートの少しひんやりした手がブラッドリーの頬を抓る。じわっと広がる痛みにこれが現実なんだと認識して、青年は思わず表情を緩ませた。ピートもそれにつられて笑う。あたたかな日差しのなか、二人はしばらく抱き締めあったまま動かなかった。
「……どうして、仕事を辞めたんだい?」
「――俺の乗ってた戦闘機が撃墜されて、それから乗れなくなったんだ」
「うん……」
ピートを探そう、と決めた出来事が走馬灯のように蘇ってくる。
撃墜された戦闘機――燃え盛るそれから緊急脱出した時の恐怖――死というものを間近に感じた瞬間、ブラッドリーはアビエイターとして一度、死んでしまった。
「とにかく怖くて……俺は軍を辞めてきた。その時、あんたの顔が浮かんだんだ」
「僕の……」
「きらきらした海で自由に泳ぎ回るピートが俺にはすごく神聖なものに見えて、もしかしたら、俺はあんたを逃げる理由にしたのかもしれない……」
「いいんじゃないか?」
「え?」
ブラッドリーは少し体を離し、ピートの顔を除きこんだ。慈愛に満ちた笑みを浮かべている人魚は、ブラッドリーの頬の傷に触れ、「逃げてもいい」と甘く囁く。
「恐怖を抱えたままだと、ブラッドリーは今度こそ死んでしまうよ。それなら、逃げたっていいじゃないか。アイスも許してくれたんだろう?」
「うん。大将もしばらく自由にすればいい――って、ん? ちょっと待って、ピート、なんでカザンスキー大将のこと知ってるんだよ」
いまピートは確かに〝アイス〟と言った。それはブラッドリーを本当の息子のように面倒見てくれたトム・〝アイスマン〟・カザンスキー大将の愛称である。ピートはものすごく怪訝そうな顔をしているブラッドリーに悪戯がバレたような顔をして、「アイスとは長い付き合いなんだ」と素直に告げた。
「……まあ、それはまたおいおい話すよ。だから、ブラッドリー」
「うん?」
「僕とこの街で三日間、過ごしてくれないか?」
「それは……願ってもないことだけど」
「はは! じゃあ決まりだ!」
心底嬉しそうなピートに、ブラッドリーもなにもかもがどうでも良くなってしまった。いま目の前に彼がいる。それだけでいいじゃないか。
「改めてよろしく、ブラッドリー……僕の天使」
またあの破壊力抜群な笑顔を至近距離で浴びせられ、ブラッドリーは大きく仰け反ったまま「おう」となんとか返事をしたのだった。
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