車から降りてまだいくらも経っちゃいないのに、そこかしこから汗が滲み始める。生え際や襟足にかいた汗が今にも流れ落ちそうだ。そもそも炎天下の屋外に長居をする気はなかったが、手短に済ませようという気持ちがより強くなる。太陽は真上の位置から少しだけ傾いているものの、暑いことには変わりなく強い日差しがジリジリと肌を焼く。
目の前にある墓石は施設の管理者によって手入れがされ、磨かれたような表面が太陽の光を反射してピカピカと輝いている。オレがここですることといえば、すぐに廃棄されるだろう花を手向け、去り際に片付ける飲食物の類を少しのあいだ並べるくらいだ。こんな自分を滑稽に思うのは、こういった行為自体をバカにしているからじゃない。理由はもっと単純で、この下にはなにも入っちゃいないことが原因だった。しゃがんで手を合わせ、俯き目を閉じてみる。空っぽの墓相手にとんだ一人遊びのおままごとだ。少し丸めた背にシャツがぴたりと張り付いてきて離れない。ああ、堪らなく不快だ。
アイツのことを未だに思い出す瞬間がある。それも自ら偲ぶような丁寧な思い出し方ではなく、もっと唐突で、虚を衝くようなものだ。人混みの中で一瞬鼻先を掠めた香りだとか、どこかで聞こえたよく似たくしゃみだとか、信号待ちの街頭ビジョンから流れてきたBGMだとか。あれもこれも並べたらキリがないくらいにありふれていて、だからこそタチが悪い。通り魔みたいに不意打ちで刺してくるそれは、ナイフほどの殺傷能力はないものの、縫い針くらいの鋭さはある。大事には至らないが、痛みは確かに伴うような、そんな思い出し方だ。そうして、痛みに顔を顰めながらも、まだ痛みを感じることにどこかほっとしてる自分に気付いてしまう。
「未だに」なんて言い回しは薄情者と罵られるかもしれない。それでも、あれからもう四年だ。アイツの年齢はとっくに超えちまって、それどころか今じゃ年の差が逆転してしまった。二歳年下になったアイツはそれでも、オレが完全に理解し共感できる範疇に納まることはなかった。叶黎明はどこまでいっても叶黎明ということなのだろうか。十年後や二十年後に自分がどう思うのかは想像もつかない。
アイツが死んだのは賭場でのゲームの末にだった。物味遊山で行くような場所とは思えないワンヘッドの舞台に赴いたのは見たいものがあったからなのかなんだったのか。本人の意志とは関係なく単に昇格すぐで試合が組まれた可能性もあるが、その辺の経緯は知らされないまま、アイツは出かけていって、そして帰ってこなかった。それがオレの誕生日前日の話なんだから、間が悪いどころの話じゃない。自分の誕生日を祝うような感覚を持ってなかったオレに、特別な日なんだと教え込むようにそれまで率先して祝ってきたのは他でもないアイツなのに。本当、クソ野郎にも程があるだろう。
今でこそアイツが死んでしまった世界をいつもどおりの日常として送っているが、アイツが死んだと知らされてすぐは目も当てられないくらいに酷かったらしい。らしいというのは、オレ自身その時の記憶が曖昧で、外野から聞かされたものだからだ。加えて、かろうじて記憶がある部分でさえも、当時は全てが分厚いガラス一枚を隔てた他人事のように映っていた。自ら食わない動かない喋らない。睡眠は限界を迎えた時に気絶するように。周りには叱られたり、諭されたり、泣かれたりもしたが、それら全てになんにも心が動かないような状態だった。
ただただ惰性で毎日を過ごすような状況を打ち破ったのは、アイツの担当行員だった。もちろん当の本人にそのつもりはなかっただろうから結果的にという話になるが。
アイツの担当行員は最後の瞬間を見届けた内の一人でもある。今まで特に交流の無かった叶の担当が、なぜオレの家にやってきたのか。そのことを疑問にも思わないまま、ぼんやりと玄関先で応対するオレの顔を一瞥すると、手に提げていた紙袋を差し出してきた。銀行のロゴが入った飾り気のない袋を覗くと、中にはラッピングされた小さな箱と透明なケースに入れられたディスクが入っていた。
「なんだよ、これ」
小さな箱のほうを取り出し尋ねれば、めんどくさそうな顔で舌打ちをされた。
「中身までは知らねーよ。渡しとけって頼まれたから持ってきてんだ」
「頼まれたって……」
「叶に決まってんだろ?」
「試合前にか?」
「いーや。決着後だ」
その言葉を聞いた瞬間、スイッチでも入ったみたいに頭に血が上った。きっちりと覆われた包装紙を破り捨て、外箱から出した中身はどう見てもアクセサリーが入ったケースで、パカッと音を立て開いた中にはピアスが入っていた。
それを目にして真っ先に湧き上がったのは、悲しさでも愛しさでもなく怒りだった。これを手にしたオレがどんな思いに呑まれるのかなんて無視したような、今際の際の自分勝手な贈り物にカッとなってしまう。感情のまま床に叩きつけてやろうとケースを握り締め、そうして振り上げる前にハッとした。本当にそうだろうかと。受け取ったオレがなにを思うか想像しないはずがアイツに限ってあるのかと。
オレがケースを睨みつけている最中、お役御免とばかりにさっさと帰っていった行員は頼まれたと言った。わざわざゲームの決着後に。だとしたら、オレがどう思うのかなんて分かった上で、これを渡してきた? 真意は分からない。なにせ死んでしまったのだから。死人に口なしとはよく言ったもので、こんなのどうとでも考えられる。いくつもの可能性があり、そして答えなんて見つけられるはずがなかった。
アイツの真意はこうだったかもしれない。
そう馴染む答えは年月を重ねるごとに変わっていった。現時点での暫定的な解答は、こうして答えのない問題をずっと考え続けることで、アイツを忘れられないようにしてんじゃないのか、なんて可能性だ。案外、そういう類のかわいげはある男だったから。やり方はかわいさのカケラもないが。
ちなみに、あの時の紙袋に入っていたもう一つの品はアイツの最後の試合映像が収められていたそうだ。銀行のVIP向け映像のディスクは行員が気を利かせたものらしい。見るも見ないも好きにしろといった具合に渡されたそれをオレ以外の奴らは観て、オレは結局観ないままでいる。
理由は最期のアイツの姿を画面越しのものにしたくなかったから。もっと言えば他の奴と全力で向き合っている姿を想像するとどうしても見る気が失せてしまった。賭場にいるアイツは最後の最後まで目の前の相手と向き合う。そんな姿を見てどうしろというのか。一観客としてそんなものを観せつけられるのはごめんだった。オレじゃない誰かを見つめてるアイツの姿で記憶を上書きされてたまるかって。オレを見ているアイツが良いだなんてアイツに少し毒されてるのかもしれない。
「出発が予定より二分押しているという説が有力です」
背後からかけられた声に立ち上がると折り畳まれていた膝裏がじんわりと湿り気を帯びている。振り返った先では気崩さないスーツ姿の梅野が立っていた。さっき置いたばかりのドリンク缶を回収すると、ダラダラと水滴を垂らした表面はすっかりぬるくなっていた。歩き始めた梅野の後を歩く。辿り着いた駐車場にはここまで乗ってきた黒塗りの車が来た時と変わらずに停まっていた。大きく開かれたドアをくぐり中へと乗り込む。やけに座り心地の良い座面に沈むなり、同じく乗り込んできた梅野がごそごそと布を取り出す。
「それでは、目隠しを」
巻きつけられた目隠しは、きつくも緩くもなく特に煩わしさはなかった。行きましょう、という言葉はオレに対してのものか、それとも運転手に向けたものだったのか。視覚を奪われた今、息遣いやシートに座り直す気配から向かいに座っている男がいつもより緊張しているのが分かった。
オレは今から物見遊山で行くような場所じゃないところに、観たい景色を拝みに行こうとしている。それもこれも、盆はもとより一年中待ったところで幽霊となって出てくるどころか夢枕にすら立つことのない薄情なアイツが原因だ。怨霊でもなんでも化けて出てくるくらいの気概を見せやがれ。
ただ、もしも。万が一、オマエが幽霊とやらになれていて。それにオレが気付かないだけで、すぐそばにいるんだとしたら……。
「せいぜい指くわえて見ておけよ、クソ野郎」
オレはあの日からずっと何一つ納得なんかしちゃいねぇんだからな。
到着した先で目隠しを外すと、薄暗い空間の中で大きなドアが一つある。手をかけ思い切り押し開けてやると、扉一枚隔てた向こう側はうってかわり眩しいくらいに明るくて、スポットライトがバカみたいに降り注ぐ。
「もう一人の主役も登場です! 初めて目にする方も多いのでは? ルーキー獅子神敬一! それでは両プレイヤー中央へ」
一歩一歩進んでいく途中、ちらりと観客席を見ればいつもの派手派手しい装いとは違いどいつもこいつも真っ黒な服を着ている。ドレスコードはさながら喪服といったところだろうか。そんな格好でもマスクの下の口元にはニヤニヤと下卑た笑みが浮かんでいる。足を止め、数歩先で同じく立ち止まった対戦相手を上から下まで睨みつける。男の容姿は伝え聞いたものと一致していた。
「それではゲームのご紹介といきましょう。生きる喜びと死への畏怖。これらは常に表裏一体です。今宵プレイヤーの二人は皆様に生きることの素晴らしさを戯曲さながら、その身を以て体現してくれることでしょう。カルペディエム・メメントモリ、只今より開幕です!」
熱狂が歓声と共にぶわりと観客席を包み込み、ステージ上まで押し寄せてくる。傍から見たら敵討ちのようにも見えるこんなことをアイツが望んでいたとは思ってない。アイツが望む望まないなんて、そんなもの関係なくオレはオレがやりたいようにした。
お前が観て魅せられたかもしれない景色を観てやろうじゃねぇか。オレが勝ったら、お前よりも強いってことになっちまうな? そうしたら、悔しがって、それこそ幽霊にでもなって来いよ。ぶつくさ言う文句も聞いてやるし、しょうがねーから大遅刻も許してやるさ。
目の前のバケモノを睨みつけながら、右耳に伸ばしかけた手を握りしめる。一世一代の舞台。勝っても負けてもこれが最後だ。アイツが嫉妬するほどの試合を見せつけてやろう。
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