褪せたカーテンの隙間から薄明が頬を撫でていた。まだ少しぼんやりとした心地のままベッドから身を起こすと、埃のにおいがつんと漂う。夜明けの訪れを思いながら窓の外を見遣ると、空はまだほのかに暗く、しかし太陽が顔を出すまであと僅かだと思われた。
ふと、隣からむにゃむにゃと喉を鳴らすような声が漏れた。同じベッドに寝そべる猫のような狸のような生き物は、まだぐっすりと夢の中。
今日から自分は、このグリムと共にここ――ナイトレイブンカレッジの生徒になる。そう思うと目が冴えて、引きずる眠気もどこかへ失せ、再び瞼を閉じようという気も静かに霧散する。壁に掛かる傾いた時計は未だ針を進めず静止したままで、また眠ったところでちょうどいい時を教えてはくれないだろう。
暫しの後、エミリはブランケットを剥いでグリムにかけ直してやると、ベッドの側に置いていた靴を履き、まだ埃の積もる部屋をそうっと抜け出した。
しんと静まり返る廊下には、降り積もった埃と時間がそのまま佇んでいるようだった。階段を一つ一つ上るたびに床板が軋む。昨夜転がり込んできたエースは、多分この音の中でもまだ談話室で眠っているだろう。まだ一日の付き合いながらそう思った。
襤褸ながらなかなかに広い屋敷だが、最上階へはすんなりとたどり着けた。他の部屋に違わず埃まみれの白い床を歩き、窓辺に近づくと微かに光が漏れているのが分かる。板の打ち付けられた窓を試しに押すと、ネジが緩んでいたのか僅かに動く。そのままぐっと力を込めると古びた板の軋みが次第に大きくなり、あと一押しというところでエミリは両の手で思い切り窓を押し――開け放った瞬間、光が目の前いっぱいに広がった。
眩しさに弱いハシバミの目は、それでも朝焼けに包まれゆくナイトレイブンカレッジを見た。空は白み夜は去り、大地が木々が、まだ名も知らぬ建物の屋根が、光の中で朝を迎える。この星にとっては何の変哲もないであろう、ただ粛々と過ぎる時を感じさせるようなその夜明け。
――ああ、わたし……本当に違う世界に来たんだ――。
朝の光は、その途方もない実感をひとりこの世に迷い込んだ少女に与えた。その中に不思議と惑いはなく、ただ様々な騒動の後の静けさが、ようやっと心身に染み渡ったような気がした。
「いやまったくそのとおりですよ」
途端、降ってきた声にエミリはびくりと身を竦ませた。恐る恐る窓から身を乗り出して顔を向けると、すぐ傍の屋根にあのカラスのような学園長――クロウリーが止まって、いや座っている。いつの間に現れたのだろう。神出鬼没加減に慄いていると、彼はひらりと窓辺へ舞い降りた。
「おはようございます、エミリくん。よく眠れました?」
「え、あ……は、はい」
いつからいたのか、自分の独り言も聞こえていたのか。疑問を寄せる間もなく室内に脚を滑り込ませ、クロウリーはにこりと慇懃に笑う。
「それは何より。学生生活はスタートが肝心ですから! それにつきまして、はいこれ」
明るい声音と共に紙袋を渡される。見た目の割に中身は結構ずっしりとしたものだった。
「あなたの制服です。ちょーっと在庫の関係で古いものも混ざってるんですが、まあ着れることは着れますから。あと運動着と実験着ですね。いやあ、XSサイズ探すの苦労しちゃいましたよ。でも私頑張りましたよ、優しいので! あっそうそう、グリムくんの分は特注サイズなのでまた追々。ゴネたらうまく宥めてください。猛獣使いとして」
「あ、ありがとうございます……」
一息にまくし立てられ、エミリはとりあえず礼を言う。
エミリが今纏っているのは急ごしらえで貰ったシャツとズボン、それにブーツだった。最初に着ていた黒いローブのような服しか持っていないと言ったら「式典服を作業着にするなんてとんでもない!」とクロウリーが買いに走ってくれたのだった。
てっきりこの雑用係スタイルで通うのかと思っていたが、きちんと用意してもらえるのはありがたかった。日本と違ってこの髪の金色が目立つことはないだろうが、私服はさすがに人目につきやすいだろうから。
そう思いながら紙袋に視線を落としていると、ふと仮面の奥の黄金がじっとこちらを見つめていることに気付く。
「念のため聞くんですけど、あなた……やっぱり女性ですよね?」
「え? はい……」
「あ~やっぱりそうでしたか。ほらね、一口に男子校といっても世界中から多種多様な生徒を集めると中には一目でそうと分からない人もいるわけですよ。家の慣習や呪い避けで女性名を付けられた人もたまにいますし。なので万が一億が一ひょっとしたらあなたもその線かななんて思ったんですが」
またしても一口で言い切るとクロウリーははたとエミリを見つめ、
「いやあ、どっからどう見ても女の子ですね!」
あっけらかん。面倒ごと増えたって言いたいのだろうか、この人は。
「あっいやいや、そんな目で見ないでくださいよ! そりゃあね大変でしょう、異性の中に一人っていうのは。でも私がちゃーんと認めた生徒であることに変わりはないですし!」
向けられる眼差しにじとりとしたものを感じたのか、クロウリーは身振り手振りで取り繕う。
「まあ、そこんとこはほら、うまいことやってください」
全部投げたな。
薄々思っていたが、この人はどうもそういう質らしい。
「そうそう、君たちのクラスは一年A組です。グリムくんにも伝えておいてください。では!」
そう言い残し、クロウリーは飛び立つカラスの如くさっと姿を眩ませた。再び訪れた静寂にエミリは少し立ち尽くし、舞い込む涼しい空気の中で深く息を吸った。
とにかくまず顔を洗おう。そして、この制服に袖を通してみよう。これから雑用係ではなく、学園の生徒になるのだから。
もう一度窓の外を見る。これから果たして何が起こるか、見つめても空の青は何も語らぬが、連れ立つ二羽の鳥が薄雲を裂いて真っすぐ飛んでいくのが見えた。
着替えたら、わたしも相棒を起こそう。それから、ひょっとしたらクラスメートになるかもしれない彼も。
見知らぬ世界の見知らぬ場所で、とにかく、ひとまず、生きていく。今日が不思議な魔法の世界での、わたしの改めての第一歩。
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