視覚という五感の一部を失ってから、日付に対する感覚が曖昧になった。というのも、毎日目にしていた日付を目にしなくなったからだろう。更に言えば視覚状況として時計や光が見られないことで、時間に対する感覚も以前より曖昧になった。
しかし、これは傍でサポートしてくれるひとがいる為にそこまで深刻な問題ではない。
僕にとって一番深刻な問題は、他にあった。
「機体、換装?」
リーとの日常会話…というよりも近況報告に近い会話の最中、出てきたのはそんな話題だった。
僕は視覚を失ってすぐ、精鋭部隊から離れていたのだが、毎日のように訪れるレイヴン隊の三人のおかげである程度の戦況は把握出来ていた。確かここ数ヶ月は…あまり戦況は良くなかったはずだ。
「まだ計画段階ですが…ここ数ヶ月の戦況を鑑みて、新しい機体が開発されることになったんです」
確かに、彼の機体もそろそろ転換期だろう。新機体は、人類にとって未来を切り開く為の切り札と成り得る。
しかしパニシングへ完全な免疫を持ち、次元さえも超越する『超刻』ほどの機体、もしくはそれ以上の機体など開発は容易ではない。それにリーならば新しく換装する機体というのも特化機体だろう。彼の意識海への影響もどうなるのか…。そんな心配を感じ取ったのか、リーはすぐに付け加えた。
「開発され次第、機体適応が始まると思います。意識海への影響も最大限軽減するようにする、とアシモフも言っていましたし、おそらく『白夜』機体のようになることはないでしょう」
「そう、なら良かった」
意識海への影響なく機体換装ができるのなら心配することはないだろうし問題はない、のだけれど。
「………指揮官?」
一瞬だけよぎった寂しさに似たものを振り払い、彼へと笑いかける。
「ごめん、大丈夫だよ。ただ…もう、君は知らない姿になってしまうんだなって、思って」
ほんの一瞬、リーが息を止めたような気配がした。彼は構造体だから呼吸の必要もないのだけれど。それでも呼吸という行動が見られるのは、きっと逃れられない人間の本能の所為なのだろう。
「…リー、君に触れても、良いかな。少し…誰かの体温に触れたい気分なんだ」
だめかな、と静かに言う指揮官を見てほんの僅か、リーの表情に悲しそうな色が滲んだことを指揮官は知らない。
「…どうぞ」
数秒の沈黙の後、彼から告げられたのは許し。目の前にいるはずのひとへ、ゆっくりと手を伸ばした。
…指先に伝わる硬質な感触。触れたのは腕、だろうか。指先でなぞりながら下へと辿っていけば、想像通り彼の指先に触れた。
「…手?」
「えぇ、左手の中指です」
なるほど中指か。朧気な彼の姿を元にイメージを構築しながら一つ一つのパーツに触れていく。
指、球体関節、左手、左腕、ジャケットの袖、肩、胸元、胸、腹。所々に配置された機械的なパーツ。冷たさと温かさ。
「…右腕はここです」
彼の膝あたりまで下った頃、突然腕を制され反対の手を取られた。確か超刻機体の右腕は左と色が違うんだったな。二の腕は人間の筋肉と似た構造になっていて…その流れるようなラインを辿りながら、過去の記憶を思い起こす。
「乱数機体の時も、右腕は機械だったよね」
「えぇ」
「右腕はジャケットの袖…通していないんだっけ?」
「…力を入れただけで、袖が破けてしまうので」
「そういえばそんなこともあったね」
上へと辿り、首と思しき部分に触れた。人間ならば生命を維持する為に不可欠なものが密集する、所謂急所。そこを包むように掌が触れた瞬間、僅かにリーの体が震えた。
「……大丈夫だよ」
人間程度の力では構造体のそこを締め付けて、命を奪うなど出来ない。だからそんなに怖がらないで。傷付けたりなんかしないから。そう思いながら、また上へと辿っていけば、全く違う触り心地の部分に触れる。
「ここが顔かな?」
ようやく触れた人工皮膚の柔らかさと温かさ。
本当にこの人工皮膚の下に機械が存在するのかと触れる度にそんなことを思う。
相変わらず、端正な輪郭をしていた。記憶の中にある彼の顔は綺麗に整っていて。その顔に氷が融けるように春の陽射しにも似た穏やかで…酷く儚く見える笑みが浮かぶ瞬間が好きだ。
「ふふ、リーの髪だ」
指先に触れた細い髪の感触。さらりとした指通りの良さも柔らかさもない、硬質な繊維のような髪。触り心地が良いかと言われれば、そういうわけでは無いが…その触り心地の良くない髪が好きで。
あの髪の色をなんて表現しよう。金糸雀色では黄色みが強すぎる。ペールオレンジもまた違う。金髪というには茶色み掛かっていて…エクリュ、そう呼ばれる色が近いのかもしれない。
そんな色をした髪は頭頂部から下に向かうにつれその色を淡く薄くし…薄い色の少し長い前髪から覗く青は透明度が高くて。その青色がとても好きだった。
記憶の中にあるそれは今も尚、僕を惹きつけて止まない。星、蒼炎、海、空、宝石。リーの瞳を形容する言葉はたくさんあるだろう。しかしどんな言葉を使ったとしても…彼の瞳が放つ煌めきを語るには足りない。
…もしかしたら、記憶の中にある彼の姿が美化されているのかもしれないけれど。それでも彼の姿は美しい。これは外見に留まることではないが。
「指揮官…?」
不意に響いた困惑の色を持つ声。
どうしたの、と声を出そうとしたが喉が引きつるような感覚に阻まれる。あれ、おかしいな。
「どうして、泣いているんですか」
涙というものが頬の上を滑り落ちていく感覚がする。どういう訳か拭っても、止まる気配がない。
「……っ、ごめん」
君のせいじゃないんだよと伝えたくても、上手く言葉が出てこない。
「…ただ…もう一度、君の姿を見たかったなって、思って」
開閉を繰り返す口から零れ落ちたのは、二度と叶うことのない願い。
…彼にこんなことを零しても、不治のこれをどうにかしてくれるわけでもないのに。
「ごめんね、もう…大丈夫だから」
ようやく止まった涙を急いで拭い、目の前で困惑を浮かべているであろう彼へ気丈に笑って見せる。実際には笑えているのかどうか、分からないが。
刹那、よく知った匂いに包まれた。レイヴン隊の休憩室の匂いと彼からよくする、僅かな硝煙の匂い。
頬に感じる硬質な繊維のようなものと体を包む人間のそれよりも低い温度。それでやっと、抱きしめられていることに気が付いた。
「……リー?」
どうして、という意も含めて彼の名を呼ぶ。普段なら、こんな風に触れてくることなんてないのに。
「リー」
…今、彼はどんな表情をしているのだろう。苦しそうに眉を寄せているのだろうか、辛そうに顔に影を落としているのだろうか。それを知る術など、僕にはないのだけれど。
「…指揮官」
「うん」
「…僕には、視界を失う苦しさも、光を見ることの出来ない辛さも分かりません。それらを想像したところで、きっと貴方が経験したそれの足元にも及ばないでしょう」
「…そうかもしれないね」
…こればかりは、仕方ないことなのかもしれない。
喪失を伴う出来事は、当事者以外がどれほど想像したとしても…その苦しみには遠く及ばないもの。どうしたって当事者が感じている痛みは当事者だけのものなのだから。
きっと僕の感じている全てを彼が理解することなど叶わない。そしてそれを、リーはよく知っている。
「ですから」
せめて、と彼の声が震えた。きっと失明する前…以前ほどの聴覚なら気が付けなかっただろう。それほどまでに微細な揺らぎだった。
「…せめて少しでも、貴方が抱えるそれを教えてくれませんか」
かつては共に戦場に立つものとして想いや責任、命の重み、そして先に逝った者達の想いを共に背負ってくれた彼は今、失明の苦しみや辛さ、果てには心に抱いた痛みさえも共に背負いたいとその手を僕に差し伸べている。
…そこまで思ってくれる彼と、全てを分かち合うことが出来たら良いのに。どうしたってこれらは僕だけのものだと、分かっていてもそう思ってしまう。
…だから言葉という形で、片鱗だけを君に見せることにする。
僕は目を覆う布を外した。失明してから瞳の色が変わってしまったらしく、心配させないようにと着けていたが今は不要だ。
「リー」
どうか、その目で『見て』。君が共に背負いたいと願うそれを。
「…怖いんだ。いつか、君の姿を忘れてしまいそうで」
—強がりという仮面に隠され続けた本来の姿は、あまりにも脆かった。
今までも、彼の姿が好きだという自覚はあった。しかし失明して…初めて目に映していた彼の姿を、自分が思っている以上に愛していたのだと、気が付いてしまったのだ。
あの綺麗な髪を、鮮やかな瞳を、優しい手を、目に映る彼の全てを。僕はどうしようもないほどに愛していた。
だからこそ、忘れるのが怖い。
「失ったことはもう、そこまで苦しくはないの」
勿論、何故手や足でなく目を失ってしまったのだろうと思ったこともあった。失ったのが手や足であれば義肢という物で代用が出来たのに、どうしてよりによって代用のない目を失ってしまったのだろう、と。
しかし喪失の痛みはやがて薄れ、最終的には受容へ向かう。
…実際、僕は『喪失した』という事実は既に受け入れている。泣いても喚いても、嘆いたとしても失ったそれが二度と元に戻ることなどないと、身を持って知ったから。
「それよりも光が…見られないことが苦しい」
人間は思っているより光に頼って生きている。それが視覚的な光であれ、精神的な光であれ。そんな『光』を目に映すことが出来ないことは致命的ではないにしろ、じわじわと逃れられない『忘却』という苦しみを与えてくるのは確かだ。
「だから、お願い。リー」
縋るように伸ばした手が人工皮膚に触れる。人間の皮膚と比べても遜色ないそれはやはり、滑らかで温かい。
「新しい機体に換装されたら、またこうやって…君に触れさせてほしい」
『忘却』から、完全に逃れられないとしても。指先に伝わる僅かな感触だけだとしても。
「…もう、忘れたくないの。だから少しでも…僕に教えて。刻み込んで、君の姿を」
指で、手で触れて確かめさせて。髪の硬さも、端正な顔の輪郭も、人工皮膚の柔らかさと温かさも、機械の硬さと冷たさも全部全部、知る為に、忘れない為に僕の中に刻み込んでやっと、『光』を『見る』ことができる。
それが暗闇で生きる僕に残された、君を見る唯一の方法。
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