Ca(か)
2025-04-16 19:19:48
10265文字
Public haikaveh SS
 

春の煙はかく消えて

教令院時代、とある女子学生に言い寄られて参ってしまうカーヴェと、一切を吹き飛ばすアルハイゼンの話 (※きみさえ サンプル)


1



「はあ……

 知恵の殿堂で資料を読み込む俺の隣で、くったりと机に張り付いたカーヴェが深く嘆息した。胸に滞留するよくないものを一息に押し出すような溜息は本日六回目だ。あくまで読書の姿勢を崩さないままちらりと目だけ横に向ければ、カーヴェの手元の本はさっきからちっともページが動いておらず、本人も心ここにあらずといった表情のまま眉根にしわを寄せていた。この様子ではまもなく七回目を聞くことになりそうだと思いながら、俺も小さく嘆息して辺りを軽く見回した。
 春になり、日差しが日ごとやわらかさを増すこの頃。入学や進級で慌ただしかった教令院はようやく落ち着きを取り戻しつつあったが、知恵の殿堂ではまだ騒がしい日々が続いていた。ここ数日観察してみるに、春の陽気に当てられて「なにか新しいことを始めよう」と一念発起した学生がすることはおおむね二通りだ——いつもは手に取らない分野の本を読んでみるか、そうでなければ課題に必要になりそうな資料にツバをつけておこうと勘を頼りに書架に潜るか。そんなふうに足元をふわふわさせた学生たちが本棚のあいだを行ったり来たりしているので、近頃は空いている席を探すのも一苦労だ。ようやくちょうど良さそうなところを見つけてカーヴェと座ったものの、当のカーヴェは読書にも調べ物にも身が入らないでひたすら溜息を繰り返すばかりだった。

「はあ……
「七」
……なな? なんの数字だ」
「この昼休みに君がついた溜息の数だ。幸せが逃げるんじゃなかったのか」

 俺の言葉にカーヴェはむっつりとふくれて、うるさいなと唇を尖らせた。

「学年が上がって、僕は最近気づいたよ。溜息をついて幸せが逃げるんじゃない。幸せが逃げたとき、人は溜息をつくほかないんだ。君にはまだわからないかもしれないけど」
「そうか。なら君は今日の昼休みだけで七回も幸せが逃げているというわけだな。ご愁傷さま」
「うう……他人事だと思って」
「正しく他人事だからな」

 わざと白々しくそう言えば、「薄情者め」と恨みがましげな視線が横から頬をちくちく刺してくる。
 薄情者で結構。なぜならカーヴェが溜息を連発するしかないような現状は、まぎれもなくカーヴェ自身の煮えきらない態度が招いたことだからだ。

「俺から言わせれば、ただ一言——君に想いを寄せているあの女子学生に”君の気持ちには応えられないから、ついてまわるのをやめてくれ”と言えばいいだけの話だ」

 それができたらこんなに悩んでないんだよ、とカーヴェはとうとう溶けるようにして机に突っ伏してしまった。


 春は心機一転の季節だ。それと同時に、恋の季節でもあるという。
 ここ最近のカーヴェは同じ妙論派の女子学生から好意を寄せられ、熱心なアプローチを受けていた。
 ことの始まりは「授業でわからないところがあるから教えてほしい」と頼まれたカーヴェが、いつもの調子で快く引き受けたことだった。そうして何度か相談に乗るうち、いつの間にかみるみる距離を詰められ——気づけば昼休みのたびに「一緒にランチを」と声をかけられ、放課後や休日にも「カフェに行かないか」と誘われるまでになっていた。同じ学院のよしみとして助け合うのはいいとしても、個人的な付き合いとなると話は別だ。このままではよくないと気づいたカーヴェがやんわりと距離を取ろうとするも時すでに遅し、三歩逃げれば四歩追うといった調子で思うように行かず、なかなか振り切れないまま落ち着かない日々を送っているのだった。

「君が強く断らないのがいけない」
「わかってるよ。でも下手に断ろうとすると、彼女、泣きそうな顔をするんだ。だからできるだけ相手を傷つけずに、穏便に済ませる方法はないか——って、こうして悩んでるんだろ」

 そういう甘っちょろいところにつけ込まれているのだとどうして気がつかないのだろう。俺はこめかみをほぐすように揉みながら呆れた。
 すでに一部学生のあいだでは、カーヴェと女子学生が交際しているという噂がまことしやかに囁かれている。彼女の地道な努力——二日と開けず勉強会を開き、ふたりきりで話し込む様子をほかの学生に見せて関係を匂わせていたことが実を結んだと言える。もしこれがカーヴェの耳に入れば当然否定するだろうが、その様子すら、見ようによっては照れ隠しだと思われるかもしれない。
 なにせ想像は思考に由来する——人は多少の矛盾を飲み込んでも、自分の見たいものを見ようとするものだ。たとえ当事者がなんと言おうとも。

 とはいえもう三週間もこの調子では、さすがに俺も思うところがないわけではない。
 教令院に通うからにはみな学者の卵だ。その本分は勉学であり、研究であり、学術的議論なのである。昼休みや放課後に知恵の殿堂に潜っては資料を探し、空き教室を借り切って時間の許す限り議論を交わす——そんな知的好奇心をくすぐってやまない楽しみが、例の女子学生の登場により今や頻度を大きく下げつつあった。
 学院や学年が違えば出される課題の量にも差があり、それによって集まれない日があるのは仕方がない。しかし実りの少ないもののために俺がカーヴェとの議論の時間を奪われるのであれば、それはまったく看過できない問題だ。一度、カーヴェと彼女が一緒に勉強している場にたまたま居合わせ、こっそり耳を傾けてみたことがある。だがそのあまりの内容の薄さに耳を疑い、黙って聞いているだけで気力を根こそぎ持っていかれてしまった。彼女の疑問に対しカーヴェが噛み砕いて説明しても「そうなんだ」「すごい」「さすが」と言うばかりで、さて議論が始まるかと思いきや「私の話はいいからカーヴェくんの話が聞きたい」とよくわからないことを言ったりもする。片方が喋りっぱなしな議論などあるものか。それは講義か説教である。

 そんな調子で、カーヴェとのあいだで暗黙の了解になっていた毎週金曜の放課後さえも、とうとう先週彼女に掠め取られてしまった。本来ならば連休前に思う存分議論を交わし、休みのあいだに詳細を詰めておき、そして迎えた週明けにはさらに深い領域へと踏み込んでいけたはずだった。それがさしすせそで終わるような薄っぺらい話に塗りつぶされたともなれば、まったく面白くないというのが正直なところである。

「ちなみに今日の放課後は?」
「ええと、なんにも言われてないからたぶん集まれると思う。午後からの授業はあの子と被ってないし、とりあえずこの昼休みをどうにかやり過ごせば——

 と、カーヴェが言いかけたそのとき。
 本棚を挟んで向こう側から、ふいに鈴を転がすような声が聞こえてきた。


「ねえ。妙論派のカーヴェくん、見なかった?」

 ひぇ、とカーヴェの顔が途端に青くなる。例の女子学生の声だ。本棚で遮られているため姿は見えないが、ほんの十歩にも満たない距離にいるのがわかる。
 本棚の向こうではご親切な学生が近くにいたよ、と返しており、それを聞いたカーヴェは「こうしちゃいられない」と慌てて椅子から立ち上がった。

「た、頼むアルハイゼン! うまく誤魔化してくれ! 僕は一旦避難する」
「どこに?」
「ええと……だ、男子トイレ!」

 言うが早いかカーヴェは荷物を置いたまま走り出した。途中、司書に「館内は走らない!」と注意されていたが、切羽詰まった声で緊急事態です! と言って振り切っていた。駆け込む先がトイレだということを鑑みるとおそらく司書には誤解されただろうが、そんなことに構っている場合ではないのだろう。
 カーヴェの後ろ姿が完全に見えなくなったのと同時に、俺は手元の本に視線を戻した。ページの中の文字列を追いながらも、視界の端では彼女の姿を捉えている。やがてコツ、コツ、と靴底が大理石の床を叩く音が近づき——

 ぴたり。
 足音が俺の斜め右前で止まる。
 べったりと甘ったるい、あの勉強会ごっこで鼻についた香りがいっそう濃くなる。
 ああ——来た、と俺はわずかに身構えた。


「ねえ、そこの君」

 二歩ほど離れたところから呼びかけられる。俺はわざと間を置いて、もしや自分のことだろうか? とでも言いたげな表情を作ってからようやく顔を上げた。
 ばちりと視線がかち合う。そこで俺は初めて、例の女子学生の顔を正面から見た。
 栗色のロングヘアをまっすぐに垂らし、一冊の本を胸の前で抱きしめている。ぱっちりとした瞳は愛想よくも見えたが、どこか一筋縄ではいかなそうな気の強さが見て取れた。

「君、カーヴェくんとよく一緒にいる知論派の子よね。彼に用があるんだけど、どこにいるか知らない?」

 そう言いながら、女子学生はそっと机に視線を落とす。置きっぱなしのカーヴェの筆箱に気づいたのだろう、俺の表情をうかがいながら、周囲にもさりげなく目を走らせていた。
 下手な場所を伝えては知恵の殿堂じゅうを彷徨いかねない。そう考えて、ひとまずできるだけ遠いところをてきとうに指差すことにした。

「モンドの建築様式の本を探しにあのあたりへ」

 うんと離れたところを指し示せばむくれた声でも飛んでくるかと思いきや、意外なことに女子学生は「あら、そうなの」とけろりとしていた。
 そして少し考えるような素振りのあと、

「今から探したんじゃ午後の授業に間に合わないわね……。あ、そうだ」

 なにか思いついたように女子学生はぱっと目を見開き、抱きしめていた本を俺のほうへと差し出した。

「知論派くん。悪いんだけど、これをカーヴェくんに渡しておいてくれない? 彼から借りたの」

 やたらと含みのある口ぶりに、思わず眉を上げてしまった。前髪を長くしておいてよかったと思いながら、俺ははあ、となるべく平坦な声で返した。

「ほんとうは自分で渡したかったところだけど……私と彼、午後の授業は別々だから会えるタイミングがなくって。だからお願いね」

 はあ、とまたもや気のない返事をしたが、女子学生はそれほど気にしない様子で俺ににこりと笑った。それから「じゃあね」と小さく手を振って踵を返し、もと来た道を帰っていく。途中で引き返してきたり、あるいはどこかに身を潜めてカーヴェを待ち伏せたりしないかとその後ろ姿をしばらく見張っていたが、予想に反して彼女はまっすぐ出口へと向かい、やがて大扉を押し開けて出ていった。


 嵐が去った。
 胸焼けがしそうな残り香を押し返すように鼻から長く息を吐き、文字通り一息ついたところで、俺は渡された本に視線を落とした。
 『建築の社会的責任と人文的意義』——いかにも妙論派らしい、カーヴェが進んで読みそうな本だ。しかし前書きに目を通してみるに、内容はなかなか高度に思えた——少なくとも、彼女にとっては。

 (あの「勉強会」の様子ではおおかた、真面目に読んではいないだろうな)

 とはいえ借りた手前、さすがに一章くらいは読んだかもしれないが——と、いくらか斜め読みしてみようと思った矢先、なにかのメモが挟まったページが現れた。いかにも抜き取って読んでほしそうなそのメモを広げてみると、そこにはまだインクの乾ききっていない、見慣れない癖字が綴られていた。

 "放課後、知恵の殿堂の歴史学コーナー前の席で。待ってるね"

 硬質な細字はあの華奢な女子学生を彷彿とさせる。一方的な約束をするところもそっくりだった。

……ふん」

 そういうことか、と俺は鼻を鳴らした。
 おかしいと思ったのだ。カーヴェを探しに来たにしては、俺のところへ来た彼女はカーヴェの不在をそれほど残念がってもいなかった。もちろんその場にいればいたで僥倖だったのだろうが、もしも本気で会いたかったのなら、近くの席を陣取ってあいつの戻ってくるのを待ったはずだ。
 それに彼女は、「このあたりにいるらしい」という曖昧な情報を頼りにしたにしては、あまりにも迷いなく、まっすぐ俺のもとへと歩いてきた——すでにこの場に、カーヴェはいなかったにもかかわらず。
 つまり、彼女は今日に限っては、俺を目指してここに来たということだ。

 ——知論派くん、悪いんだけど……

 耳にこびりついた、あのなんとも言えない呼称がやけに気に障る。
 名前を覚えられていないことに対しての苛立ちではない。その呼び方に含まれた、「その他大勢」というニュアンスに対してこめかみがぴりっとひりつくのだ。おそらく彼女の中では、自分とカーヴェ以外の人間は全員等しく「その他大勢」であり、自分たちをドラマチックに引き立てる舞台装置なのだろう。俺のことも埋めるべき外堀のひとつとしか捉えておらず、せいぜいカーヴェにたどり着くための道しるべでしかない。

 つまり、彼女はまさに今、俺という外堀を埋めに来たのだ。
 自分はカーヴェと個人的に本の貸し借りをするほどに親しいのだ、と匂わせる——そのためなら、本に挟んだカーヴェ宛のメモを読まれても別に構わない。むしろ、自分たちが秘密のやり取りをするような仲であることを察してもらい、「カーヴェともっとも親密な仲」という立場から速やかにご退場いただくためには、俺に読まれたほうが都合がいいとさえ考えたはずだ。そうしてカーヴェの逃げ場をひとつずつなくしていき、自分の誘いを断る気力を削ぎ続け——この先カーヴェが根負けしてしまえば彼女の粘り勝ちで、先行していた交際の噂もめでたく事実となる。そうまでして付き合うことになんの意味があるのかは疑問だが、とりあえず型に嵌めさえすれば気持ちはあとからでも付いてくると思っているのかもしれない。とんだパワープレイだ。俺ならごめんだと思いながら、深く嘆息した。

 (……おっと)

 ふとそこで、自分も溜息が増えていたことに気がついた。幸せが逃げるとき、人は溜息をつかざるを得ない——カーヴェの言葉にも一理あるのかもしれないが、それでも溜息をついてばかりではいられない。
 幸せを逃がすばかりではどうしようもない。人間には誰しも幸せになる権利があるのだ。だから自分の安寧を崩されるかもしれないときには、あらゆる策をもって抵抗しなければならない。
 そのための材料は、すでに揃っている。
 

 俺はアーカーシャの具合を確かめるような素振りで、端末を二、三回軽く振った。グランドキュレーターの隙をついて書庫に潜り込んだり、知恵の殿堂にこっそり泊まり込んだりするときのために決めていたいたずら用の合図だ。その合図を頼りに、しおれた顔をしたカーヴェがふらふらと男子トイレから出てきた。そんな顔ではますます司書の誤解が深まったろうが、気遣わしげな司書の視線に気づかないままカーヴェは重い足取りでこちらへ歩いてくる。枯燥したキノコンみたいだと思いながら、俺は午後の授業に向けて荷物をまとめ始めた。


 筆箱、ノート、借りていく本。それらを鞄に詰め込みながら、最後に預かったあの本を手に取る。
 立ちのぼる甘い香りに眉をひそめながら、もうここにはいない女子学生の背中を思い浮かべた。

 ——残念だが、俺は君の思うままには踊ってやらないよ。

 甘ったるいメモ用紙を静かに抜き取り、俺は預かった本を鞄にそっとしまい込んだ。




2




 放課後。
 知恵の殿堂から少し離れた空き教室を借りて待っていると、ほどなくしてカーヴェがすっきりとした笑顔でやってきた。

「アルハイゼン、聞いてくれ! あれからあの子と何度か顔を合わせたんだけど、放課後に集まろうとか、土日に会おうとか、とくになんにも言われなかったんだ。まあ、やたらにっこり笑いかけられたけど……とにかく、これで今日は心置きなく議論ができるってわけだ。良かったよ」

 その笑顔は多分「またあとでね」といった意味のものだったのだろうが、残念ながらその「あとで」が訪れることはない。
 少しだけ胸のすく思いがしながら、俺はそうかとだけ返した。

「さあ、というわけで今日はなにについて話そうか? 先週の続き? それとも火曜日にちょっと話した、発表されたばかりのあの論文について——
「今日話すべきことはもう決まってるよ」

 被せるような俺の言葉に、カーヴェは目をきょとんと瞬かせた。しかしそのすぐあと、俺があの女子学生から預かっていた本を取り出してみせると合点がいったようで、ああ……と苦い顔で呻いた。

「それ、あの子が?」
「ああ。昼休みに、君に返しておいてくれと渡された」
……せっかくこうして集まれたんだぞ。気が滅入ることじゃなくて、面白い議論をしたほうが建設的じゃないか」
「これから先の議論の時間を確保するために、今抱えている問題をきっちり解決すべきだ。違うか?」
「ち、違わ……ない、けど……

 入ってきたときの笑顔はどこへやら、カーヴェはすっかりげんなりした顔になって教壇の縁に腰を落とした。席につく元気もなくなったらしい。仕方がないので、俺もとなりに腰掛けた。

「そうは言っても、解決策なんてあるのか? 僕だってこの三週間ずーっと考えてたけど、なんにもいい案は浮かばなかったぞ」
「ふん。最善なのは——君にその気がないのなら、なにを言われても君がきっぱりと断ることだ。彼女が泣き出しても構わずに、見込みのないことだけを話して聞かせ、望みを持たれないように去る。それだけで済む話だろう」

 むぐ、と喉に小骨が刺さったような顔をしてカーヴェは黙りこくった。
 そして少しのあいだ、頭を巡らせるように目を伏せ——それはできない、と小さく呟いた。

……カーヴェ」
「僕が決定的なことを言えば、あの子はきっと傷つく。君も知ってるだろ。僕には人を傷つけるだけの勇気がない——向けられた気持ちをそう簡単に無下にもできない」
「君のその曖昧な態度がいちばん酷だぞ」
「わかってる。けどやっぱり……僕の言葉で誰かが傷ついたり、泣いたりしてしまうのはいやだ。だからどうにかこっちの気持ちを察して、向こうから諦めてほしいけど……ううん、うまくいかないな」

 それはそうだ。
 人間誰しもこうなればいいと願うことがあり、ときにその願いが真反対の人間と出会うこともある。そうなればどちらかが折れるまで平行線で、天秤は一向に傾くことはない。
 正面衝突を避けるばかりのカーヴェと、外堀を着々と埋めながらじりじりと迫るあの女子学生。現状どちらがより優位かは語るべくもない。

「残念だが、君のその消極的な態度はせいぜい駆け引きのエッセンス程度にしか思われていないよ。それに学生の中にも、君だってまんざらではなさそうだと噂する者もいる」
……なあ。もしかして君もそう思ってる?」
「彼女の気持ちに応えるかどうかは別として——」俺はそう前置きした。「きっぱり振らないぶんには、想われて悪い気分はしていないのかもしれない、とは」
「なっ……アルハイゼン!」

 カーヴェは絶句し、俺の肩をがばりと引っ掴んできた。

「ちょっと待ってくれ。ほかはともかく、君にそんなことを言われるのは心外だ! まさか本気じゃないよな?」
「本気だったら俺はここにはいないよ」

 俺がそうやって肩をすくめてみせると、カーヴェはほっとした表情をして、それからすぐ「悪い冗談はよせ」と掴んだ肩をばしんと叩いてきた。もちろん冗談だ。しかしここ最近は俺だって面白くない気分にさせられているのだから、この程度の意趣返しくらい許されるべきだ。

……アルハイゼン、君ならどうする?」
「俺なら?」
「仮に君が、誰かに好意を向けられたとする。でも君には応えるつもりがない」
「断る以外にないだろう」
「なら、どうやって断る? 恋愛に興味がないとか? それとも研究を優先したいとか?」

 カーヴェは俺の顔を覗き込みながら、遠回しな回答をいくつも挙げてみせた。こいつにとっては、それこそが優しさというものなのだ。たとえどれだけ困らされようと「君が悪いわけじゃない」と真綿でくるむような言葉を添えて、なるべく角が立たないように場を収めようとする。

 しかし俺は違う。
 胡乱な嘘や、その場しのぎのごまかしは、誰に対しても誠実ではない。誠実ではない答えは結局全員のことを傷つけたうえで、最後には自分の首を絞めることになる。

 だから言うべきことは——最初からひとつしかないのだ。


「正直に言うよ」

 そう言って、俺はおもむろにカーヴェに向き合った。するとなにかを感じ取ったのか、びくりとカーヴェがわずかに身構えた。

「しょう、じき……に」
「うん」

 カーヴェの瞳をまっすぐ見据え、それから鼻筋を辿りながらゆっくりと視線を落とす。それに気づいたカーヴェはごくりとつばを飲んで、同じように俺の口元へゆっくりと視線を下ろした。

「"俺には、心に決めたやつがいる。隣に立つことも、心を傾けることも——"」

 顔を近づけ、鼻の頭をくっつけて、吐息がお互いのくちびるを掠めるほどの距離で呟く。
 触れそうで触れない、そのぎりぎりのところで焦れったそうにするカーヴェはもう、俺がこれからしようとしていることがわかっている。
 わかっていて、逃げないでいるのだ。

「"——ほかの誰かでは意味がない"」

 ああ、とカーヴェが感じ入るように頷く。
 おたがいに同じだけ顎を差し出して、わずかに顔を傾ける。
 そしてとうとうカーヴェがまぶたを閉じた、その一瞬の静けさのなかで、俺はそっとくちびるを重ねた。


……俺のことも、無下にはできない?」

 くちびるのほんの先を擦り合わせたまま、俺はカーヴェの瞳の中をうかがうように訊いた。

「ばか。ずるいぞ、その訊き方」
「ものごとをはっきり言わない君のほうがずるいと俺は思うよ」

 しれっとうそぶいてみせると、むっと顔をしかめたカーヴェに「かわいくない後輩め」と額をごちんとぶつけられた。じゃれつきにしては少々痛い。おい、とうつむくカーヴェの顔を覗き込めば、カーヴェは真っ赤な顔で俺を睨んでいた。

 なんて迫力のない顔だ。
 そんなことを思っていると、カーヴェが俺の頬に手を伸ばしてきて、そのまま両手で包みこんだ。
 そして神妙な面持ちで、いいか、と意を決したように話し始めた。

「僕にとって君は、無下にするとかしないとか——そういう次元じゃない。わかるだろ」
「もう一声」
「も、もう一声!? わかるくせに!」

 信じられない、とカーヴェは優しく包んでいたはずの俺の頬をぐにりとつねった。突然の暴力に打って出た理不尽な指先に対し、俺は顔の筋肉を総動員して抵抗しながら、それでも頭を縦には振らなかった。
 わからないはずはない。
 けれど、言葉でわかりたいことだってある。それだけのことだ。

「どうしたって心は目に見えないのだから、大切なことほど言葉にするべきだ。誤解されたくないことなら尚更な」

 俺の頬を無遠慮に引き伸ばしていた指が止まる。そんなことわかってる、とでも言いたげな顔でカーヴェは俺を見た。
 しかしこればかりは視線だけでは足りない。俺は黙ってカーヴェの言葉を待った。
 
 もっともふさわしい言葉を探している。そんな目をしながら、カーヴェが親指で俺のくちびるに触れた。俺はされるがまま、カーヴェの腹が決まるまで好きにさせることにした。じっとしているあいだ、カーヴェは俺のくちびるを左右に撫で、それから下くちびるをそっと押し下げた。内側の潤った粘膜の部分がわずかに空気に触れる。乾きそうだ——と、どこか遠くで思ったところで、カーヴェがふたたび顔を近づけ、そこにやわく食みついた。
 先ほどの合わせるだけのキスとは違う、乾きながら潤っていくキスだ。くちびるの内側の敏感なところを吸って吸われて、そのたびにやけにかわいらしい音がして胸の奥がきゅっとする。三度ほど繰り返したところで、カーヴェは名残惜しそうにくちびるを離した。

……こういうことをしたいと思うのは、君だけだ」
「俺だけ」
「そう、君だけ」

 俺の目をまっすぐに見てカーヴェは言い切った。
 その目の奥に、小さく火が灯るのを俺は見逃さなかった。
 頬はすっかり紅潮して、目元もどこかしどけなく色づいている。

——君は?」

 わかっているのに訊きたがる、カーヴェの吐息も同じ色をしていた。

 答えはもうずっと前から決まっている。
 言うべきことは、最初からひとつしかないのだ。

「俺もだ」

 その言葉を最後に、どちらともなく顔を近づけ合い、ふたりそろってキスに没頭した。
 合間に小さく漏れ聞こえたカーヴェの甘い声が頭に響いてくらくらする。腰の奥で熱が静かに燻るのがわかった。


 もっと聞きたい。
 もっと知りたい。
 この先のことは未知でしかない。
 けれどもう、これっぽっちでは、とうてい足りない。

 
 性急になるキスに合わせて、正解のわからない手がカーヴェの制服に触れた。
 カーヴェはそんな俺を見て、どこか愉しそうに笑い——俺の制服に、その手を伸ばした。