煉瓦造りの家々の隙間から見下ろしてくるぼやけた三日月。その淡い光は、まるでこの危険な夜を見守る冷たい目のように雲の切れ間で揺れている。
街灯もない路地に響く鋭い銃声。乾いた音が石壁に反響すると、驚いたカラスが一斉に羽ばたき、ざわめく黒い影となって空に散った。野良猫たちは毛を逆立て、爪を鳴らしながら物陰へ飛び込んだ。
足元を掠める無数の銃弾は、あの程度の構成員たちが扱うには不相応な代物だ。
粗雑な装備と下手な狙いにもかかわらず、弾の威力は本物で、闇ルートで仕入れた非認可のものだと一目でわかる。結局警察の厄介になる運命なのに、こんな危険な玩具に手を出すなんてひどく愚かだ。
そんな取引現場に運悪く遭遇してしまった子どもを小脇に抱え、轟は裏路地を右へ左へとひたすら逃げ回っていた。
濡れた石畳に靴底を滑らせそうになり、壁に擦れた腕がじんじんと熱を持つ。汗と埃が混じる空気が肺を刺し心臓が早鐘を打つ。
パァン!
通り過ぎたばかりのゴミ箱に弾が当たった。金属の蓋が跳ね上がり、生ゴミが悪臭と共に撒き散らばる。少年がヒッと小さな悲鳴を上げ、涙目で轟を見上げた。
咄嗟にその小さな頭をそっと撫で、恐怖で縮こまる体を庇うように抱き寄せる。
大丈夫、ただ闇雲に走り回っているわけではないのだから。
腰の無線機がチカチカと継続的に信号を飛ばし続け、青白い光が闇に瞬く。
彼らならきっと気付いてくれるはず。そう信じなければこの夜は抜け出せない。
顔を上げた瞬間、目の前の裏口がキィと軋みながら開いた。ひょこっと覗く癖っ毛。まるで示し合わせたようなタイミングに轟の口角がわずかに上がる。
「緑谷、この子を依頼主に!」
「任せて!」
子どもを素早く引き渡すと、友人の腕の中で少年が安心したように笑い泣く。緑谷が家の中へと急いで戻っていく背中を見送って、轟はようやく胸を撫で下ろした。
協力してもらえたのは助かったが、彼だってもちろん暇ではない。新発見の機械部品の情報を追いかけている最中だったろうに、こんな便利屋の仕事に付き合わせてしまった。申し訳なさがチクチクと胸を刺す。次に会ったら異国の設計図の解読でも手伝ってやろう。あいつなら大袈裟なほどに喜んで、目を輝かせるに違いない。
まあ、そんな呑気な想像は今夜無事に暖かいベッドに潜り込んだ後にゆっくり楽しむべきなのだが。
すぐに背後からドタドタと複数人の足音が迫り、乱暴な怒声が路地に響く。轟は再び全速力で駆け出した。足音が心臓の鼓動と重なり、まるで夜そのものが追いかけてくるようだった。
それにしても追っ手の数が多すぎる。捕まるつもりは毛頭ないが、こちらは丸腰だ。このままではジリ貧になるだけ。体力も精神も徐々に削られていく。さて、どうすべきか。
路地の抜け道を何通りも頭に思い浮かべる。あのマンホールから下水路へ……いや、迂闊にそこへ飛び込めば挟み討ちの危険がある。足に自信があるとはいえさすがに限界は来るだろう。
それなら、誰も追いつけないくらいの圧倒的な速さが欲しい。乗り物でもあれば一気に撒けるというのに。
そう、例えばアイツのような──ある人物を思い浮かべたその時、轟の鼓膜を微かに震わせる重低音が響いた。ピクリと反応しt轟は色の違う双眼をつやりと光らせる。心の叫びに応えるようなその音に轟の胸が小さく高鳴った。
細い路地を抜け大通りへ向かうにつれ、街明かりが徐々に近付いてくる。人々のざわめき、車の騒音、生活音。その中に紛れ込む、聞き間違えようのない駆動音。
通りに出ると、ヘッドライトの海の中に発進を待つバイクとそれに跨る男の姿が浮かび上がった。赤い瞳が轟を捉え、エンジンが一層大きく咆哮を上げる。それを合図に轟は駆け出した。
「轟!」
男の声が夜を切り裂く。轟がバイクの後ろに飛び乗った直後、ぐんっと景色が加速する。
体が置いていかれそうになり、慌てて前の肩に片手を置くと「バカ、掴むならこっちっつったろ」と、爆豪が轟の手首を掴み、力強く腹に回させた。目の前のツンツンとした黄金色が風に靡く。
轟はようやく肩の力を抜いた。爆豪といい緑谷といい、なんて頼りになる友人たちだ。ひとまずこれで追っ手を撒けただろうか。
チラリと後ろを振り返ると、さっきの連中が車やバイクに乗り込み、距離を詰めてくるのが見えた。これはマズい。冷や汗が背筋を伝う。
奴らにも移動手段があったのか。爆豪に声を掛けようとした瞬間、すぐ後ろの地面に銃弾がキンッと弾け飛び、思わず「お」と声が出た。
「おい爆豪! アイツらもバイクで追って来てる!」
「アァ? おまえ銃あんだろが! パンクでもさせて時間稼げ!」
「今回はただの迷子探しだったんだ! こんなことになるなんて思ってなかったから銃も置いてきちまった」
「は!? あれほど携帯しとけって……あークソ、しょうがねえな……ンなら、しっかり掴まっとけ!」
ブォンと駆動音が響き、体がひっくり返りそうな急加速。まるで重力から解き放たれたような浮遊感に、轟は思わず爆豪の腹に両腕を回した。
ぎゅうと抱きつけば、高揚する心音が背中越しにとくとくと伝わってくる。こんな状況でも、いや、こんな状況だからこそ、爆豪は楽しんでいるのだ。轟の口元にふっと笑みが浮かんだ。風を切り、車も人も一瞬で過去のものにしていく。
後方をどんどん引き離すバイクは、スピードを緩めずカーブに差し掛かる。車体が傾くと同時に重心を移し、足が地面のスレスレを滑る。そのスリリングな光景に轟は爆豪の服をぎゅっと握りしめた。
「ッハ! テメェも楽しそうだなァ!」
運転席を見上げると、爆豪の頬がふっくらと上がっていた。愛車と会話を交わすいつもの笑顔。無邪気でどこか少年のような表情に、轟の胸がじんわりと温かくなる。
こうして爆豪がバイクと語らう姿を見るのが、昔から大好きだった。
轟が彼の工房に顔を出すと真剣な横顔がすぐにこちらに気付き、心底面倒臭そうな表情をする。
なのに、轟が「あのな」と話し始めれば、煤けた手を上げてぶっきらぼうに「乗れ」と愛車を指すのだ。結局いつも轟を後ろに乗せて知らない世界を見せてくれる。
初めてその景色に触れた日から、爆豪の背中は特別だった。触れるたびに実感するその温もりに、つい気持ちが溢れそうになる。今日は戦闘の昂ぶりのせいか、そんな気分がいつもより強い。
轟は爆豪の首に頬を寄せ、唇を小さく動かした。吐息だけが首筋に触れ、轟の想いは夜の闇に溶ける。誤魔化すように額で肩をぐりぐりと押すと、爆豪は「やめろ」と口角の上がった声で嫌がった。その声色を聞いてしまったら、止めるなんて出来るわけがない。
排気音に紛れる鼓動を背中に押し付けながら、轟は流れていく景色を目に焼き付けていた。
「ここまで来りゃ充分だろ」
いつの間にか追っ手の姿は消えていた。
辺りを見渡すと、街外れの工場地帯だろうか、蒸気管がシューシューと音を立て、地面には機械部品が無造作に転がっている。街灯はジジ、と点いたり消えたりを繰り返し、錆びた鉄骨の隙間から漏れる月光が地面に細い影を刻む。
バイクから降りると、爆豪が通信機を取り出した。しばらく機械越しの声とやり取りし通話を切ると、良かったな、と声を落とす。
「おまえが助けたガキはちゃんと親ンとこに戻ったってよ。あと警察から構成員達も確保済みだと」
「緑谷か。良かった、ありがとな」
それがわかればもう安心だ。
轟は改めて大きく息を吐き、胸の奥で張り詰めていた糸が緩むのを感じた。
お前もありがとう、と爆豪の愛車をそっと撫でる。爆豪ほどバイクに詳しいわけではないが、エンジンの熱がまだ残る車体はまるで生き物が脈打つように見える。その姿がどこか嬉しそうにしている気がして、轟は目を細めた。
一緒に走り抜けた仲間には感謝の気持ちでいっぱいだ。しかし、こんな危険なことにまで巻き込むのは本望じゃない。最近、こういった事件が増えた。本来表に出てこないような、組織とも呼べない三下があんな子どもにまで銃を向け追いかけ回す。そんな状況でいつまでも自分の足ばかり頼るのは賢明ではないのかもしれない。いい加減、自分の相棒を持つべきだろうか。そうすれば爆豪や緑谷に助けを求めることも減る。自分一人でも身を守り、スマートに動けるかもしれない。
そんな考えが頭の中でぐるぐると回り、轟はある結論を導き出した。
「なあ、今度俺のバイクも見繕ってくれ。整備はおまえのとこに行くから。良いだろ?」
「あ? 俺の後ろじゃ不満だっての」
「んなわけねェよ。でも自分のがあった方が何かと都合が良いだろ。爆豪に迎えに来てもらうことも多くて悪ィし、こんなに遠いところも初めて来た。俺も世界を見てみてえ」
「俺ので良いだろうが。なんかあったらケツ乗せてくし」
「だからそのなんかあったときに自分でも対処できるようになりてえんだ」
「そんときも絶対ェ俺はおまえの近くにいっから。だから頼れっつってんの」
負けず嫌い同士の言い合いはいつも終わりが見えない。まるで駄々をこねる子どもを言いくるめるような口調に、轟は眉を顰めた。
爆豪はバイクが好きだ。好き、というかもはや自分の一部のように心を通わせている。だからこそ轟は、友人である自分がバイクの購入を切り出せば喜んで話に乗ってくると思っていたのに。この反応はなんだ。そりゃあ、こうやって乗せてくれるのはありがたい。だけれど明確な理由もなく押し切られて、はいそうですかなんて納得できるはずがない。
轟がむっと口を結び、腕を組んで不満を態度で示した。
「なんでだ、俺だって自分のバイクで走ってみたい」
少し声を強めて言い返す。月光みたいに光るその瞳をじっと見つめた。横目で睨み返していた爆豪の赤が、一瞬だけ揺れる。
それからはあ、と息を吐き、視線を空に投げた。その横顔はいつもの強気なそれとは違う、どこか躊躇うような影があった。
なんだ、と表情だけで問うと、赤い瞳が轟と向き合った。
「……おまえが自分の持ったら、もう俺の乗んなくなるだろ」
「え? あー……まあ頻度は減るかもな」
「おまえは俺の後ろじゃねえと、自分の気持ちも伝えらんねーんだから、だめ」
その発言に、轟がピタリと固まった。
脳内で爆豪の声が反芻し、まるで時間が一瞬止まったかのようだった。工場の片隅で、錆びたドラム缶が風に揺れてカタリと音を立てる。その小さな音にさえ心臓が跳ねた。
どうして。声すら出していないあの言葉は聞こえてなんかいないはず。
なのに、爆豪の確信めいた声の響きが。にやにやと浮かぶ悪い笑みが。まるで全てを見透かしているかのように轟を追い詰める。
爆豪がタンデムシートを軽く叩く仕草にまで、何かあるのではないかと勘繰ってしまう。
「お、まえ……、なんで、それ、知って……っ」
ようやく絞り出した声は、情けないほど震えていた。
轟の視線が泳ぎ、爆豪の顔とバイクを行ったり来たりする。夜の冷気が頬を刺すのに、首筋は燃えるように熱い。
「ん? コイツが全部教えてくれた」
爆豪が愛車に寄り掛かりボディを手の甲で撫でる。まるで目の前の男の動揺を落ち着かせるように、ゆったり、ゆったりと。
轟の口からはパクパクと声にならない音ばかり落ちていく。爆豪は嘘をついていない。だってこの男は本当にいつもバイクと意思疎通をしているのだ。それを知っているからこそ、余計に何も言い返せなかった。
爆豪の愛車が、まるで二人の空気を察しているかのように静かにそこに佇む。鼓動はまだドクドクと鳴っている。恥ずかしさと、驚きと、そしてどこかホッとしたような不思議な感覚。それが胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
そんな感情の渦中に踏み込むように、爆豪が一歩、轟に近付いた。
「俺とおまえを、コイツが繋いでくれてんだろ」
「それは……そうだけど……」
「じゃあその礼として、もうちょいコイツに跨ってやって」
お願い、と爆豪が轟の肩に額を乗せる。体がびくりと小さく震えた。
爆豪の髪が頬に触れ、ほのかに汗とオイルの匂いが漂う。そんなの普段気にした事もなかったのに、今はまるで世界がその一点に集中しているかのように、爆豪の存在がやけに鮮明だった。
ぅ、と小さく声を漏らした轟が胸を押し返すも、その指先にはまるで力がこもっていない。視線が爆豪のつむじに落ちる。月明かりに照らされた髪が淡い金色に煌めいた。汗でしっとりと落ち着いているそれが妙に愛おしく映る。
轟は言葉に詰まりながら胸の鼓動をまた少し速くする。
爆豪はいつもこうだ。強引で、ちょっと意地悪で、でもやっぱり優しい。その男の存在に、轟はいつも心を掴まれている。肩に感じる重みが、ひどく心地良かった。
「……もうちょっとだけ、だからな」
「ん。もうちょいだけな」
爆豪の額が轟の肩にぐっと押し付けられる。
二人だけの秘密を共有するような甘い囁きは、轟の心をさらにかき乱す。
爆豪の服をそっと掴む。さっきまで押し返すつもりだったのに、なぜか離したくなくてぎゅっと握りしめてしまう。
「俺がバイク買ったら、今度はおまえを後ろに乗せてやるから」
「そしたら次は俺が言ってやろうか?」
今度は轟の首に爆豪が吐息を当てる。
その声を聞いた途端、轟の耳元までが一気に熱を帯びた。
こっそり夜の闇に溶かしたあの告白を、拾い上げてそのままなぞるように返されるなんて。
動けなくなってしまった姿を見て爆豪が笑う。紅白頭をくしゃりと混ぜられると轟の胸がまたきゅうっと締め付けられた。
こんな風に触れ合うことなんて、バイクの後ろで抱きつく瞬間くらいしかなかった。それなのに、今、こうやって夜の中で、轟の全部を爆豪が埋めていく。
この時間もあともうちょっとだけ続いてほしいよ、と轟は爆豪の背中に腕を回した。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.