あの口論の発端は果たして何だったのかさえ、今となってはもう分からない。とにかく、いつもの軽い言い合いでは済まない何かが起こって、お互いに取り乱していた。
とは言っても、ワタシと彼女の態度はまるで違っていた。目前で大の男が声を荒げて取り乱しているのに、カエデの目はゾッとするほど冷たかった。子供の癇癪に呆れる大人の目だ。次に相手が何を言ってどう行動するのかを冷静に観察している目だ。普段ならば頼もしいはずの落ち着きと余裕が、あの時ばかりは耐え難い程に憎らしく思えた。
だからワタシは線を踏み越えた。
「あぁ分かった!所詮くだらない癇癪だと思っているんだろう。そうやって気のおかしい奴だと、喚くばかりの臆病者だと見下していればいい、ワタシが破滅するのを黙って見ていればいい、それくらい自分でできる」
腰に下げていたナイフを抜いた途端、カエデが息を呑んだ。
それでいい。そのまま真っ直ぐ自分の胸へ、突き立てるように向けてみせる。
「よく見るといい、これは、」
続く言葉よりもカエデが手を伸ばす方が速かった。
カエデは一切の怯みもためらいもなく、まっすぐに手を伸ばして、ナイフの刃を掴んだ。まさか、と思う間もなくそのまま強い力で捻り上げられて、動揺に緩んだ指の隙間から呆気なくナイフは取り上げられた。
「そんなことしちゃだめ」
カエデの声は震えていた。いつもの穏やかな微笑みも、先程感じた冷たさもどこかへ消えていた。緊張に見開かれながら、ただ真っ直ぐにこちらを見つめる眼差しがあった。
ナイフを握り締めたままの指の隙間から、鮮やかな血がゆっくりと溢れる。赤いしずくが、白くやわらかな腕へと流れ落ちていった。
止まらない血に酷く取り乱しながら、スマホロトムの機転と空飛ぶタクシーのお陰で、ほとんど待たずにカエデを病院に送ることができた。待合に座っている時間はまさに永遠のように思えた。
医者の言うことには、大げさに血が出てはいるが、幸い神経は傷ついていないとのことだった。受傷から時間が経たないうちに適切に縫合できたため、あとは傷口が順当に塞がれば、ひと月も立たずに抜糸できる見込みらしい。
「心配かけてごめんね〜。とっさに体が動いちゃって、なんにも考えてなかったの」
困ったように微笑んでみせるカエデの、右手に丁重に巻かれた包帯の白さが痛々しい。感情に任せて彼女を危険に晒したのはまさしくワタシであるというのに、情けなさと恥ずかしさとが喉を塞いで何の言葉も返せない。
あのナイフは作品用ロープを切るための専用品だから、刃は側面だけに付いていて、先端部は厚く丸くなっている。足場の不安定な高所で使ってもなるべく安全なように特注したのだ。側面ならばまだしも、刃先が布越しに当たったところで痛くも痒くもないと知っているくせに、わざと刃物を見せびらかして、相手を自分の思い通りにしようと仰々しく脅してみせたのだ。
結局のところ、ワタシはまさに喚くばかりの臆病者であり、卑怯で醜い嘘吐きに過ぎないのだった。
******
この家のチャイムの音にもずいぶん慣れてきた。玄関を開けると、夕日を背にして制服を着たままのカエデが立っている。
「ただいま〜」
「おかえり」
上着や荷物を置いたカエデは、さっさと自室へ着替えに行ってしまった。エプロンやらスカーフやら身につけるものが多くて窮屈らしく、早く部屋着になりたいのだそうだ。
カエデは手の怪我をものともせず、何事もなかったかのように仕事を続けている。正確には、手の安静は守っているが、以前と変わらないスケジュールでムクロジに顔を出し、製造の様子を見ているようだ。ジムチャレンジはオフシーズンで試合数はかなり少ないものの、ポケモン達がカエデの怪我を庇うように一層張り切っていて、むしろ普段よりも難易度が上がっているらしい。
反対に、ワタシは休暇をとっている。あの日以来カエデの家にずっと滞在して、彼女の身の回りの世話を必死に焼いている。本当は職場まで送り迎えもしたいのだが、店もリーグも家からすぐ近くだからと断られた。せめて家の中くらいは不自由がないように、家事を代わりにやらせてもらっている。ハウスキーパーのように掃除や洗濯をしたり、身支度を手伝ったりしている。
スープの鍋が温まった頃に、ワンピースへ着替えたカエデが部屋から戻ってきた。まとめ髪を無造作に解いて、結び癖のついた髪がふわふわと広がっている。
ワタシの背中越しに鍋を眺めながら、カエデは楽しそうに笑った。
「お家に帰ってきたらコルサさんがいて、ご飯の用意もしてくれてるなんて、やっぱりうれしいな〜」
「出来合いのものですまないが」
「それでも十分よ〜、買う時だって気をつかって選んでくれてるでしょ? 自分のお家の冷蔵庫、あんなに空っぽにしてる人とは思えないな〜」
無邪気に喜ぶ彼女は愛らしいが、自分自身には何一つ褒められる所がない。パンはオルノで、惣菜はオーラオーラで買っている。今日のようにトマトや豆の缶詰を買ってスープや煮込みにする時もあるが、包丁で切るような調理はできないので品数も限られる。
あれ以来、刃物を触るどころか見るだけで、息が詰まって手が震えるようになってしまったからだ。
カエデを医者に送った時、傷の状況を確認するためと言われ、ナイフを看護師に渡した。手当が済んだカエデと一緒に戻ってきたナイフを、ワタシは上手く受け取ることができなかった。
なんとかホルダーに収めたものの、腰に下げておくことも恐ろしくてロープもろとも外してある。本業は言わずもがな工具やナイフを使わなくては話にならない。ジムの仕事もすなわちアートであるのだから、パフォーマンスを抜きにして行うことはできない。
カエデの家に置いてもらっているのは、彼女の手助けをするためでありながら、同時に仕事をしない、できない言い訳でもあった。それを分かっていたからか、カエデはワタシが身の回りの世話を申し出たのを断らなかった。元々たびたび家を行き来していたこともあって、簡単に家の中を案内されればもう大抵の家事はできた。彼女は洗濯や身支度の手伝いまでも大らかに任せてくれた。カエデの髪を整えるたびに、彼女は微笑んでお礼を言ってくれる。そうしてワタシは、これが果たして償いになっているのか、ただ自分の我儘に彼女を付き合わせ続けているだけなのか、訳が分からなくなる。
******
1週間が過ぎ、2週間が過ぎた。初めは分かりやすく手をかばっていたカエデも、痛みが引いてきたのか動作が自然になり、ワタシの手伝いを断ることも増えてきた。反対にワタシはまだ復帰の目処が立たない。任される家事も少なくなり、日中はずっとポケモン達の世話をしている。
手持ちのポケモン達はカエデの家へ連れてこさせてもらい、カエデの手持ちと一緒に過ごさせている。あの時の様子を見ていたものはいない筈だが、皆それとなくよそよそしいように感じる。
カエデのポケモンはワタシを主人の敵だと思っているだろう。ワタシのポケモンはワタシを情けない主人だと思っているだろう。ポケモン同士の仲が良かったことだけが救いで、彼ら彼女らはお互い同士でうまくやっているようだ。
ワタシだけが誰にもどこにも顔向けできない。
カエデの仕事は順調らしい。ムクロジは新しい人員の教育が進んで、生産体制もシフトも安定してきたとのことだ。夕食の後、ソファーで並んでお茶を飲みながら、カエデはいつもその日の出来事や考えごとをあれこれと話す。ワタシはそれに相槌を打ちながら、自分が惨めにならないよう、なるべく何も考えないようにしている。
今日はそれがどうしても上手くいかなかった。黙ってカップを見つめるだけになったワタシの手から、カエデがカップをそっと取り上げた。
「コルサさん、なんだか悲しそう。ずっとお家の中にいてお手伝いしてもらってるから、さみしくさせちゃったかしら?」
「そんなことは、ない……。ずっとここに置いてもらっているのも、ワタシの我儘みたいなものだ」
「そうかな〜。でも、やっぱりちょっと心配よ」
カエデはなにやらリビングの奥にある棚を探ると、大きな毛布を持ってきた。確か、彼女が冬場に使っているのを見たことがある。そのままカエデは毛布を広げて、ソファーに座ったままのワタシと彼女をすっぽり包んでしまった。
布越しの薄明かりの中で、カエデの顔がぼんやりと見える。彼女はイタズラっぽく笑って、毛布にくるまったまま隣に腰を下ろした。
「あったかくしてくっつくと落ち着くでしょ〜」
「ああ…気を遣わせてすまない」
「そんなこと言わないで〜。ね、こうしてると、なんだかカミッチュちゃんみたいじゃない?」
「ワタシ達が?」
「そう!わたしがそとっチュちゃんで〜、コルサさんがなかっチュちゃんなの。かわいい〜」
毛布の中で、彼女は頭をワタシの肩にもたれる。細い髪の毛と、彼女が笑う時のあたたかい吐息が首筋をくすぐる。
「あのね。明後日、抜糸の予定が決まったの」
「…そうか」
「膿んだり腫れたりもしていないから、もういいだろうって。お薬とかはもう少し続くみたいだけどね〜」
そのままカエデは黙ってしまった。
毛布の中は暖かくて暗い。甘い香りがするリンゴの皮の中で、かたく身を寄せ合って暮らすポケモン達のことを考える。カエデの言うように、このままずっと二人、毛布の中で暮らすことを夢想しようとしたが、うまくできなかった。
これは贖罪なのに、カエデの傷が治ってもワタシの罪が消えて無くなることはない。ワタシだけがずっと取り残される。
そしていつか追い出される。近いうちに。
******
病院から帰ってきたカエデは、包帯の代わりに白い大判の絆創膏のようなものを手につけていた。持って行ったカバンの他に、塗り薬や絆創膏の詰まった袋や何かの紙袋と、ずいぶん大荷物だ。
絆創膏を丁寧にゆっくり剥がすと、カエデの指の腹には、小さく白い傷跡があった。いまだ痛々しく見える傷は、しかし確実に塞がっていて、皮膚のひきつれや縫い跡も目立たない。掌を握ったり開いたりしてみせても、痛みや違和感は無いようだった。医者からは注意事項に加えて、リハビリも兼ねて家事をした方がいいと言われたのだそうだ。
「ずっとお手伝いしてくれて、本当に助かったわ〜。でももう大丈夫。ちゃんと自分のことは自分でしなくっちゃ」
覚悟はしていたつもりだったが、実際に目の前で告げられた言葉は、やはり想像していたよりもずっと重かった。
「こちらこそ…今までありがとう。今日まで側に置いてもらえただけでも、ワタシにとっては僥倖だった。だからこれが、今日が…最後の……」
声が震えて喉につかえる。言い淀む言葉を遮るように、カエデはムッとした顔で腕を組む。
「ほら、やっぱり〜。コルサさんって、いつもそうやって一人で考え過ぎちゃうんだわ。わたしはそんな怖いこと、一言も言ってないのに」
「それでも、罪は罪であって…」
「……じゃあ、こうしましょ。わたしのお願いを一つ聞いてくれたら、コルサさんのこと許してあげる。そしたらわたし達、仲直りして、ぜ〜んぶ元通り。これでどうかしら?」
彼女はワタシの目をまっすぐ見て、首を傾げ、いつものように微笑んで見せた。元通りにはならないことを彼女だって分かっているはずだ。それでも、彼女がしたいと思うことを断る権利は今のワタシにはない。頷くことだけが許されているので、頷く。彼女は目を細めてキッチンへ向かった。
「快気祝いにって、ムクロジの皆からもらったの。一緒に食べましょ〜」
紙袋に入っていたのはリンゴだった。果皮には艶があって見事に赤い。
この家で果物やきのみを目にするのは久しぶりだった。たいていは、皮を剥いて切り分けないと食べられないからだ。
カエデはキッチンから持ってきた木のカッティングボードを机に置いた。次にリンゴを一つ手に取って、ボードの上に乗せた。
そして、その隣にナイフを置いた。
ずっと引き出しにしまってあった、果物用の小ぶりなナイフだ。黒い樹脂の柄は少し曲がった形で、彼女の小さい手にもよく馴染むだろう。あの傷跡が残る柔らかい手に。
嫌な汗が滲む。にわかに動悸が高鳴る。心臓が血を送り出す拍動に、自分の身体が揺らされるような心地さえする。
「お願い、ちゃんと聞いてね。わたしが皮を剥くところ。そこで、じっとして、よく見てて」
カエデがナイフを手に取った。
咄嗟に手が動きそうになるのを必死に抑える。ナイフを持たせてはいけない。そんなもの持ってほしくない。彼女の手から無理矢理にでも取り上げてしまいたい。すべてあの時に自分がしたのと同じことだ。自分の行いが自分に返ってきているのだ。そしておそらく彼女にも。
だからワタシは動いてはならない。
自分は彼女に許されたいのか、永遠に罰されていたいのか、今となってはもう分からない。どちらにせよ、今のワタシには甘んじてこれを受け入れることしかできないのだ。
リンゴの実にナイフの刃が滑るサラサラという音だけが聞こえる。自分の心臓の鼓動が胸郭の中で、頭蓋骨の中でがんがんと響く。ナイフがカエデの手にピッタリと寄り添って動くたび、部屋の明かりを反射して刃が鈍く光る。リンゴの皮が剥けるにつれて、淡い黄色の中身が露わになる。瑞々しい果実が部屋の明かりを受けて仄かにキラキラと光る。
カエデはゆっくりと確かめるような手つきで、リンゴの皮を淀みなくするすると剥いていく。鮮やかな赤い果皮はカエデの白い手指に絡まるようにして、途中で千切れることなく、細く長く弧を描いて流れ落ちていく。
まるで血のしずくのように。
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