目の前には三つのモニターがある。長辺が上の横置きモニターが二つ、短辺が上の縦置きモニターが一つだ。真ん中の横置きモニターにはデフォルメイラストが映し出されている。
鈴木律歌はそちらではなく右に置いた縦のモニターを流れていく文字を読んで口を開いた。
「『二周年なんかするの?』 お、そうなんだよ今日その話しようと思って」
表示中のデフォルメイラストはファンが描いてくれた想像上の「リッカ」である。イラストというよりアニメーションというほうが正しいかもしれない。淡い緑と白のストライプ柄のゆったりした寝間着を着た姿のリッカは目をこすって欠伸をしたり、テーブルの上に置いた飲み物を飲んだり、一定の動きを繰り返している。
「何するか全然決めてないな。今決めるか」
リッカ、というのは律歌のハンドルネームだ。ゲームのアカウントを作るときに適当に入力して以来それをハンドルネームとして使っている。本名は「りつか」と読むけれどその通り読まれることの方が少ない。
モニターを様々な案が流れていく。表示されているのはコメント欄で、律歌が発信したことに対して思い思いの反応を返してくれる。文字だけではなくオリジナルの絵文字も追加してあった。
「凸待ちとか逆凸ははあんまかなあ。俺そんな友達いないぞ」
凸待ちとは知り合いの配信者が電話を掛けてきてくれるのを待つ配信で、逆凸は自ら友人にアポなし、もしくは事前連絡ありで電話を掛ける配信である。大手事務所に所属しているバーチャルストリーマーはよく記念日にやっているイメージがあるが、律歌のような個人で配信をしているただのストリーマーにはハードルが高い。
「あ、飲酒配信はいいかも。みんなで飲もうよ」
一、二杯飲酒した状態で何も言わずに配信したことはあるが、飲酒配信と銘打ってそれをしたことはない。酒を飲むというのも記念日らしくていいだろう。
「『飲酒テトリス耐久』 なんだそれ。でもいいな。前半喋って、後半テトリスやろう」
落ちてくるブロックを組み合わせ、一列にして消すゲームだ。オンライン対戦ができる。同時に百人で戦えて、視聴者と勝負がしやすい。
「『普段何飲む?』 えー、無難にハイボールとかかも。みんなは?」
問いかけるとコメント欄が酒の名前で埋まる。中には烏龍茶なんていうのもあった。
「うわ、見てたら飲みたくなってきたー」
言いながら文字の中に白ワイン、というのを見つけてお、と声をあげる。
「白ワインいいね。俺ワインあんま飲まないんだけど、二十歳になって初めて飲んだ酒白ワインだったんだよ」
飲みやすいよね、ワインめっちゃ酔う、などと流れていく中、初めてで白ワインえぐい、というコメントで笑った。
「えぐいって、はは、まあ、あんまないかもな」
大学の友人は二十歳より前に親から飲ませてもらったという人が多い。二十歳になったからと同じ学部のヴァイオリン専攻の学生たちで飲みに行った際にそんな話をした。律歌は親に飲まされる機会も、親に強請る機会もなく、自分で買う危険を冒してまで飲みたいという気持ちもなかったために誕生日祝いの白ワインが初めてだったのだ。
「『白ワインが飲みたかったの?』 いや、先輩が高いの買ってきてお祝いしてくれてさ、それで飲んだんだよね」
画面の中のリッカがふわあ、と欠伸をする。描かれているリッカはつり目ぎみのきつめの顔立ちで、ブラウンの短髪だ。これは律歌が配信をしているチャンネルのアイコンに設定させてもらったイラストのデフォルメである。実際の律歌も特徴だけ取り上げれば同じような風貌ではあるが、イラストほど整ってはないだろう。
「『いい先輩だ』うん。高校の時の先輩なんだけど、ケーキも買ってきてくれた」
コメントと会話しながら話はどんどん脱線していく。今日の配信内容が雑談であるため、だらだらと話すのは間違いではないだろう。普段はゲームをやっていることの方が多いけれど、一か月に一度くらい、こうした交流の場を設けている。
「『なんだ女か』いや違う違う、男の先輩だってば」
先輩は女性ではないので素直に否定した。律歌は身元が暴かれない程度に過去の話や今の話をするタイプだが、他人の情報はあまり話すべきではないと控えている。それが「誕生日を祝ってくれた先輩」のことなら尚更だ。
「『なんだ男か』そうですよー。男ですー」
先輩、という単語で律歌の知り合いを連想した視聴者が、『それって棗さん?』とコメントをした。
「ううん。高校の時の先輩。そういや棗さんで思い出したんだけどさあ、」
自分から話に出したくせに、これ以上先輩の話をしたくなくて無理矢理話題を変える。
棗は律歌が高校生の頃にゲームを通して知り合った大人だ。舞台俳優をしながら趣味としてゲーム実況動画を作っている。律歌が初めて人にゲームをプレイしているところを見せたのも棗の動画に誘われて出演したことだった。チャンネルのアイコンにしているイラストも棗がその時用意してくれたものである。
棗のチャンネルでアップロードされた動画の収録時の話をして、配信時間が一時間半ほどになったことを確認した。そろそろ切り上げるかと話の切れ目を探す。
「よし、ということで最後にスタンプ読み上げて終わるか」
スタンプ、というのはいわゆる課金アイテムで、金額に合わせたイラストスタンプをコメント欄に送れるというシステムだ。さらに三千円以上のアイテムであればメッセージを添付できるため、感謝の気持ちとしてそれに対しての返答を行っている。律歌はメッセージのない少額のスタンプも名前の読み上げをして感謝の気持ちを伝えるようにしていた。
大学生で親と住んでいないと公言していることもあり、毎月定期的に高額のスタンプを送ってくれる人もいる。律歌自身はアルバイトをしなくても生活できるくらいには親からお金を渡されているけれど、そういうところまでをつまびらかにするつもりはない。言いすぎると、鈴木律歌がリッカであるということがばれてしまいそうだ。
「リッカくんのママさん、一万円スタンプありがとうございます。えっと、『一周年前祝いです。もうすぐ四年生だけど就活は大丈夫かな? 無理のない範囲で配信待ってます』。ありがとう。ママさん就活の心配までしてくれてる」
ふふ、と笑いながらもう一度さらりとメッセージに目を通す。
「就活ねえ。一応ちゃんとしようかなとは思ってるけど……。てか多分ちゃんとしてる人はもう始めてるよね? やばくなったらお休みするかも。心配してくれてありがとうございます」
じゃあ次、と次のスタンプの読み上げをしていく。そうして三十分ほど経ち、最後のスタンプに辿り着いた。読み上げ中にもいくつか送られてきていたが、きりがないので読まないと配信の説明欄に書いている。
「読み上げ中にくれた人もありがとうございます。あとで一人一人読ませてもらいます。じゃあ、またね」
マウスを操作して配信終了ボタンを押した。
ゲーム配信をやるにあたって買い替えた、長時間座っても疲れない椅子から立ち上がって伸びをする。今日の配信は約二時間。肩を回しながら防音室を出た。
白い扉を開けるとさらに扉が現れる。これはこのマンションにはじめからあった部屋を区画する扉だ。木製のシンプルな扉の先に廊下があり、目の前は洗面所とバスルームがある。
配信をしていた防音室は、部屋の中に大きなものを丸ごと設置したものだった。律歌と母親が気兼ねなく楽器を練習できるようにと父親が用意してくれた部屋である。母親はグランドピアノではなくアップライトピアノを一台置いただけだった。余ったスペースに律歌が勝手に機材などをレイアウトして、今は配信用に使っている。もちろん、ヴァイオリンの練習にも使用しているけれど。
廊下を歩いてリビングに入る手前、トイレの隣の扉をそっと叩いた。
「寝てますか?」
声を掛けるが返答はない。扉を開くと部屋の電気は消えていて、ぼんやりとしたスマートフォンの明かりがベッドの上に横たわる人物の顔を照らしている。返答がないということは眠っているのだろう。律歌はそのまま静かに近づいてスマートフォンを取り上げた。表示されていたのは案の定、リッカの配信終了画面だ。繋がっている有線のイヤフォンのプラグを抜く。次に枕元から伸びた充電コードを差して枕の横に置く。
ずれた厚手の掛け布団を肩までかけてやってから、ごくちいさな声で就寝の挨拶をして部屋を出た。
「せんぱい、おやすみなさい」
元々母親が使っていた寝室のベッドの上で眠っているのは、佐枝悠生という同居人である。
律歌が高校一年生の頃に出会った二学年年上の先輩だ。配信上で言った誕生日祝いに白ワインを持ってきてくれたのが悠生である。まさか自分があの頃慕っていた先輩が毎日家にいる生活を送ることになるとはな、とリビングから繋がる自室の扉を開けた。噛みしめるのももう何度目か分からない。
律歌は雑談配信のアニメーションのリッカが着ていたようなかわいい寝間着ではない、グレーの地味なスウェットと下着を持ちだす。これは暖かさを重視して選んだもので、悠生には色違いの黒を買った。
同居することになったのは、悠生がストーカーをされた挙げ句第二の人生を歩もうとしていた新居まで特定されたことが原因だ。新居には住めないと言う悠生に、うちで暮らせばいいと提案したことが、問題解決として正しかったのか今は分からない。
外に怯えた悠生はすっかり家から出なくなってしまった。宅配は全て宅配ボックスに配達してもらうように設定したし、必要なものの買い出しと洗濯物を干して取り込むのは律歌の仕事だ。居候させてもらっているからと掃除や炊事は悠生がやってくれている。
悠生を家に置いておくのが不正解だったとしても、律歌にとっては幸福だった。
***
律歌が入学した高校は、音楽系の授業が他より多く、防音設備と楽器貸出制度が整ったところだった。音楽大学を目指すための環境が整っているというのが売り言葉の高校だ。律歌は自身の進路を真面目に考えもせず、両親の希望の通りにこの高校に合格した。
音楽は好きだ。
だから音楽を学べる学校に通うこと自体に抵抗はない。四歳からヴァイオリンを持たされてレッスンに通わされ、厳しく指導されても、ヴァイオリンは嫌いになれなかった。
「鈴木ってやっぱりプロになるんだろ」
入学してしばらく経つと、同じクラスの友人から決めつけるように言われ、ああ、またか、とため息を吐く。母親が世界で活躍するプロのピアニスト、父親が同じく指揮者となれば律歌もヴァイオリニストとして活動することを期待されている。友人に悪気はない。
「さあな」
「なんだよ、面白くねえなあ。でもオケには入るんだろ」
「うん。お前は?」
「俺はパスだな。レッスンあるし」
「そう」
友人の言い分は最もだった。うまくなりたいなら、部活には入らない方がいい。プロの音楽家がやっているレッスンを受けたほうが実になるからだ。
音楽に力を入れている高校だけあって、本気でプロになりたい人間ほどそういう選択をする。
「高校でオケ部があるなんていいじゃない」
と母親である江恋は絶賛していた。律歌をヴァイオリニストにしたいと思っているだろうに、レッスンに行かせようとする素振りはなかった。江恋の伝手ならいくらでも優秀な講師を見つけてくるだろうとこっそり身構えていた。
江恋自身は大学に入るまで本気でピアノを学ばなかったらしい。だから音楽系の高校にさえ入れてしまえばいいと思っているのだろうか。もしくは自分の息子の実力を見誤っているのかもしれなかった。
どちらにせよ律歌にとっては好都合である。
オーケストラ部に入って、悠生と出会った。といっても悠生は部活に所属する先輩ではなく、演奏会の曲に応じてエキストラで来てくれる先輩だった。オーケストラ部は三ヶ月に一度演奏会を行っている。夏には校外コンクールもあり、他には少人数での介護福祉施設訪問演奏や地域の祭への参加など、年間を通して様々な舞台が用意されていた。
悠生を初めて見かけたのは、五月の大型連休が明けて演奏会のための練習が本格的になった頃。一年生の担当楽器とパート内での座席順が確定し、律歌は早速ファーストヴァイオリンの一プルト裏に座らされることになった。
「おはようございます」
帰りのホームルームを終えて楽器を手に音楽室に入る。先に来ていた三年生の鷹山緑に挨拶をした。緑は一プルト表に座るコンサートマスターだ。オーケストラの全員を音で纏めて引っ張る役割を担っている。
「今日、どれからやるんですか」
「ピアノのトラが来るから、メドレーからだ」
「わかりました」
楽譜ファイルを開いて、譜面台に置く。アニメ映画のサウンドトラックメドレーは、クラシックに馴染みのない客向けの選曲だ。メドレー内にはピアノソロが数カ所あり、連休中の合奏ではそこを飛ばしていた。
この高校のオーケストラ部にはピアノ担当がいない。そのためピアノが必要な曲がある演奏会だけ、部外の生徒を呼んでいた。それがエキストラだ。
ファーストヴァイオリンが座る席からは音楽室の出入り口がよく見える。続々と入ってくる部員達は各々楽器を出して合奏に備え始めた。律歌もチューニングを済ませて音出しをする。
合奏が始まる十分前になって、一人、慣れた顔で音楽室に入ってくる生徒が見えた。上履きを脱いで下足箱に入れる。その上履きのゴムの色が青で、三年生だということが分かった。もしかしてこの人がエキストラだろうか。
そう思いながら目だけで彼の行き先を追う。同じ三年生の、パーカッション担当に礼をした。さらりとした茶色の髪が顔の横で揺れる。エキストラの彼は案の定、律歌の背後に配置されたグランドピアノの方へ向かっていった。振り向くほどの興味はない。
しばらくすると、ピアノの音が音楽室中に響いた。彼の音を聞いたことがない一年生の意識が奪われる。今度は、振り向いてしまった。彼は注目されていることに気づいていないのか指慣らしの曲を弾き続けている。
律歌には、そんな悠生が天の使いに見えた。
仰々しい言い方だけれど本当に美しいと思ったのだ。悠生の背後にある採光窓から射し込んだ陽のせいかもしれない。その瞬間に見えたのは、顔だけの、しかも鼻より上の部分だけだった。
演奏に合わせて彼が身体を揺らすと前髪が分けられた部分から白い額が覗く。鍵盤を見ている目のかたちはまるく、やわらかい印象があった。
加えて、天上ともいえるなめらかな音楽。音が空間いっぱいに広がって身体が包まれる。目を閉じてしまいたくなった。
「おい、準備、終わったのか」
聴き惚れていることに気づかれたのか、緑が肩を小突いてくる。はっとして姿勢を正した。楽譜は開いてあるし、今すぐに始めると言われても過不足無く音を出せる自信はある。しかし、律歌は自分がまさか同年代の音に感動すると思っておらず、それを見透かされたのが恥ずかしい。
両親はともにプロの音楽家だ。母親の江恋はまさにピアノのプロである。派手な演奏会には何度も招待されたし、律歌自身、上手いと思う演奏家を両手の指では足りないほどに知っていた。群で奏でるオーケストラや吹奏楽、個で歌うリサイタルなど、底辺も極上も味わったことがある。
悠生のピアノはその中のどれにも当てはまらない。十五歳の律歌にとってはそれがとても衝撃的だったのだ。
「ったく。……どいつもこいつも」
隣で緑が小さく悪態を吐く。一年生が浮ついた気分になったことが許せないらしい。
「緑先輩」
律歌は臆することなく訊ねた。
「なんだ」
「あの人、名前、なんていうんですか」
「佐枝悠生だ」
さえぐさゆき。どういう漢字を書くんだろうと思いながら音を記憶する。
「どうせ後でまた紹介するが」
背後ではまだ天上の音楽が鳴り響いている。この音と一緒に演奏が出来るんだ。律歌は部活に入って初めて、合奏が楽しみだと思った。
全体でチューニングをしている最中に指揮者を兼ねた顧問が音楽準備室から出てくる。チューニングが終わると、緑は立ったままエキストラを紹介すると言ってグランドピアノの方を見た。
「三年の、佐枝だ」
「一年生の皆さんは初めまして。三年の佐枝悠生です。一曲だけですがよろしくお願いします」
アニメ映画メドレーのピアノソロは、圧巻だった。澄んだ音から映画のシーンが連想できる。この場にいる誰よりも美しい音色を奏でていた。
メドレーが終わり、次の曲を合わせるまでに十五分休憩が設けられる。指摘されたところを復習ったり、次に向けて座席の移動をしたりする時間だ。
律歌は楽譜を持った悠生が音楽室を出て行くのを見て、慌てて立ち上がる。弓を緩めて楽器を座席の上に置き後を追った。
音楽室を出てすぐ、上履きの踵に指を入れている悠生を見つけた。ゆき先輩、と声に出す。さえぐさ先輩、の方が良かったかもしれない。言ってから後悔した。
「なに?」
振り向いた悠生が首を傾げる。上履きは両方きちんと足が収まっていた。
「あっ、の、その……、」
勢いで追いかけて呼び止めたものの、特に用事は無い。言いたいことも、端的だ。わざわざ褒められずとも悠生ほどの腕前なら自身が頭一つ抜けていることくらい分かっているだろう。
「先輩のピアノ、めっちゃよかったです」
緊張しながらなんとか絞り出したその言葉に、悠生は目をぱちぱちと瞬かせた。
「……どうも?」
「あ、ごめんなさい。上から目線っぽいですよね、そうじゃなくて俺、こう、」
えっと、と言葉に詰まっている律歌がおかしかったらしい。悠生は気にしないで、ありがとうと言いながら笑い出した。
「一年生の子だよね? 緑の隣で弾いてた」
「え、」
たった一回の合奏で悠生に認識されていたらしい。ファーストヴァイオリンだけで弾く、という時間はあったけれど、一人ずつ弾いたり、自己紹介はしていなかった。
「あれ? 違ったかな」
「そうですっ。ファーストヴァイオリンの一年です」
「やっぱり。一年生なのに緑と同じくらい弾けるでしょ。すごいね」
すこしこちらに身を乗り出すように褒められて、何も返せなくなる。もともと初対面でべらべらと喋れるタイプではないうえ、天の使いとまで思った人に褒められるだなんて。
「名前はなんていうの」
改めてそう訊ねられ、緊張が解けないまま挨拶をする。
「鈴木律歌です」
「りっかくん?」
「あ、えと、り、つ、か、です」
早口だったか声が小さかったかできちんと届かなかったらしい。間違いを訂正するのもおこがましい気持ちになりながら一文字ずつ正確に発音した。
悠生はまるい目をさらに大きくして瞳を輝かせる。
「りつか、ってどんな字を書くの?」
「旋律の律に、歌うって書きます」
「音楽やるにはぴったりだ」
「ありがとうございます」
まっすぐにそう感謝を伝えられたのは、物心ついてから初めてだったかもしれない。
音楽は嫌いではないし、ヴァイオリンは楽しいけれど、なにも旋律を歌う、なんて名前にしなくてもよかったじゃないかと思うのだ。
父や母の仕事仲間や友人に紹介される度に「いい名前だ」「きっと素敵な音楽家になる」とプロへの期待をほのめかされ、素直にありがとうございますと言えることなどなかった。
律歌はどう頑張ってもプロにはなれない。なにか身体的に不可能であるとか、壊滅的にセンスがないだとか、そういう話ではない。ただ単にいい音楽を聴きすぎたせいで夢を描けなくなった。
例えば悠生のような天上の音を奏でられないのなら、音楽を仕事にしようなんて思わない方がいい。世界には律歌より上手にヴァイオリンを弾く高校生なんてごまんといる。
「今回だけじゃなくて文化祭まではたぶん呼ばれたらくるから、これからもよろしくね」
律歌は手を振って去る悠生をじっと見送った。
***
五月はあっという間に過ぎていく。律歌は合奏予定にアニメ映画メドレーがあると、いつもより早足で音楽室へ向かうようになった。早く着いたところで何もしない。楽器を準備して、音楽室の入口をちらちらと窺って、悠生が入ってきたら目で追う。初日に話し掛けて以来挨拶を交わす程度のことは何度かあった。けれど楽器も学年も違う、ほとんど何も知らない相手と世間話をするほど部活動中は暇ではない。気軽に声を掛けられる同じパート扱いのパーカッションパートと、同じ学年の三年生が羨ましいくらいだった。
さらに悠生は同じ高校の生徒とはいえ部員ではなくエキストラである。実は演奏会には悠生以外にもエキストラがいた。大抵は卒業していった部員で、大学に通いながら演奏会の手伝いをしてくれる。管楽器は充足しているが、弦楽器は不足がちなのだ。卒業した先輩と同じ括りのため、「手伝っていただく」という意識が、悠生に対してもあった。
だから合奏の時に聴く音と、音楽室を出入りする姿ばかりが記憶に刻まれていく。悠生の音は本当に美しかった。ピアノソロの演奏会があったら一番よく聞こえる席に座って、本来許されない録音をして手元に置いておきたいくらい、好きな音だ。
演奏会前日、ゲネプロとミーティングを終えた律歌が音楽室を出ると、とっくに帰ったはずの悠生が立っていた。ゲネプロ後のミーティングは部員だけのものだった。
「お疲れ、律歌くん」
丸っこい瞳を細めてちいさく手を振られる。もういないと思っていたものだから驚いて、お疲れ様です、と返す声がすこし裏返った。
「緑、まだかかりそう?」
どうやら同じ三年生の、コンサートマスターである緑を待っていたらしい。緑はまだ、部長と顧問と一緒になにか打ち合わせをしていたはずだ。
「たぶん。打ち合わせ中です」
「こっち来て」
手招きをされて廊下を進む。出入り口から離れた壁に悠生が凭れかかった。
「急いでなかったら一緒に待ってようよ」
「いいですけど……」
緑に用事はない。それでも悠生と話せるのなら、とその場に留まった。どうして律歌を選んで呼び止めたのだろう。律歌の横をトランペットパートの三年生が通り過ぎていく。
半人分の隙間を空けて、悠生の右隣で同じように凭れた。
「一年生で全乗り、律歌くんだけなんだってね」
「あー、まあ、はい」
入部して三ヶ月も経っていない演奏会で、全曲演奏できる生徒は律歌だけだ。同じファーストヴァイオリンパートの一年生は二曲だったり、三曲だったり、五曲のうちで弾かない曲がある。管楽器はもっと少なく、先輩の人数も多いことから一人一曲だと嘆いていた。
「大丈夫? いじめられちゃわない?」
「なんですかそれ。ないですよ、そんなこと」
「ならいいけど」
コンクールに抜擢されなかった、という嫉妬なら分かるが、年に四回もある演奏会の一回目だ。これからいくらでも機会がある。
「上手いんだね」
「みんなより長くやってるってだけですよ」
「いつからやってるの」
「四歳くらいです」
「わあ。英才教育だ」
そう言われても、嫌ではなかった。多分他の誰に言われても眉を寄せただろう。名前と同じだ。悠生からは悪意も嫉妬も羨望も期待も、何も感じない。
「悠生先輩はいつからピアノやってるんですか」
「小三かな」
「俺とそんなに変わらないじゃないですか」
「そう? 幼稚園生と小学校低学年はかなり違うと思うけどなあ」
悠生が話す言葉は、どれも優しい。音色と同じだ。やわらかい綿のようで、もっと触っていたくなる。
「ピアノが好きなんですか」
我ながら幼稚な質問だと思った。この人がピアノを嫌いだと言ったら、それこそ色々な人に妬まれ羨ましがられいじめられるかもしれない。
「うん。大好き」
隣を見た。ピアノを想っているのか、慈愛に満ちた笑顔を浮かべている。音楽を、楽器を本当に愛している人の顔だ。
律歌にこんな顔が出来た時期はあっただろうか。擦れた気分で目を逸らす。
「そういえば、今年の一年生って結局何人入ったの」
「えっと、全部で二十四人だったと思います」
「すごいね。僕らが一年生のときより多い」
現在の三年生は十九人だ。部員ではないのに、悠生はよく人数まで覚えている。
「でも結局二人くらいしか辞めてないんだよね。一人は、緑と大喧嘩してヴァイオリン叩きつけて辞めていったらしいよ」
「え、ええ……」
楽器は決して安いものではない。同期が持っているヴァイオリンだって、十万以上する。それを叩きつけるなどおそろしい、と想像して震えた。律歌が背負っているものはそれの数倍の値段だ。
「幸い楽器は無事だったらしいけど、楽器の扱いが雑な奴が残らなくて良かったって言ってたな。ね、緑?」
「いないところでぺらぺらと人の話をするな」
「遅いのが悪いよ」
いつの間にか緑が音楽室から出てきている。緑も律歌と同じように背中にヴァイオリンのハードケースを背負っていた。
「今の話本当なんですか」
「ああ」
「大喧嘩も?」
「別に喧嘩じゃない」
喧嘩、というと殴り合いや怒鳴り合いのイメージがある。緑がしているところはどちらも想像が出来ない。
「松脂を隠されたり弓の毛を半分切られたりしたから怒っただけだ」
「一年のときからこうだから」
悠生が母親のように付け足した。それで合点がいく。性格と才能で妬まれていじめられるというのは、緑の話だったのか。純粋に心配もしてくれていたのだろうけれど。
悠生と緑はどういう関係なのだろう。
「ガキが暴れて辞めてっただけの話だ。行くぞ」
先を行く緑についていくように、悠生と歩き出した。駅のホームまで着いてから別れるべきだったかと気がつく。
「律歌くん、明日、緊張する?」
「鈴木はステージ慣れしてるだろ」
次に来る電車を待つ。悠生も緑も、律歌が同じ電車で帰ることを気にしていなさそうだった。大事な用事があるわけでもなかったのだろうか。
「緊張しますよ」
「本当か?」
「本当です。別に、発表会とかコンクールとか出まくってたわけでもないので」
教室に通っている子どもは発表会があるが、律歌は個人講師だったし、両親はコンクールのような音楽を競う場に子どもの頃から出るべきではないという方針だった。音楽は音を楽しむと書くのよ、というのが母親、江恋の口癖である。
「確かに。部活に来るまで聞いたことなかったな、鈴木の名前」
「緑先輩はコンクールとか出てた人なんですね」
「まあな」
悠生は小学三年生からピアノを弾いていたと聞いた。緑はいつからなのだろう。訊ねようとすると、丁度電車がやってきた。部活動終わりの電車は帰宅ラッシュの一歩手前だが空席はない。
「緑先輩はいつからヴァイオリンやってたんですか」
空いた空間を探して三人で落ちついたところで先ほどの疑問を口にする。
「小四」
悠生と一年違いだった。
「緑はね、ピアノも」
「鈴木はどこで降りるんだ」
横から割り込んで話をしようとした悠生を遮って緑が最寄り駅を聞いてきた。
「あ、えっと」
八駅先の駅名を口にする。
「俺たちの方が先だな」
「どこなんですか」
緑が言ったのは五駅先だった。
どちらかというと常に笑顔で優美なイメージがある悠生と、細いフレームの眼鏡をかけた神経質そうで口が悪い緑。同じ駅で降りるという事は幼なじみか何かなのだろうか。
「僕と緑、幼馴染みなの」
疑問が顔に出ていたのか、悠生が微笑んだ。
「そうなんですか」
悠生の言葉を受けて緑を見る。
「言ってなかったの」
「言う必要があるか?」
緑は眉を寄せた。そう言われれば、別に知らなくとも問題はない話である。けれど緑の棘のある言い返しに居心地が悪くなった。
「ないけどさ。直属の後輩だから話してるのかと思って」
「直属ってなあ」
コントのような掛け合いに付き合いの長さを感じる。悠生と話したいと思っていたはずなのに、疎外感で拗ねそうだ。
「先輩達仲いいですね」
「腐れ縁なだけだ。こいつが勝手に絡んでくる」
「ひどいよね? 緑、友達少ないくせに僕のこと邪険にするの」
悠生も緑相手には多少言葉が砕けるようだった。やはり面白くない。
「信頼できる友人がいれば充分だ」
口ではそう言いながら、悠生のことも友人だと認めているのだろう。でなければエキストラに呼ばないし、一緒に帰ったりもしない。
律歌が持たない関係性を見せつけられている。
律歌は悠生に心配されたようないじめを受けているわけではない。ただ、実力があること、両親が有名な音楽家であることでクラスからは浮いていた。音楽系の学校に入学した生徒の両親が音楽関係の仕事をしていることなんて珍しくないだろうと思ったが、知名度が悪い。今のところ友人と言えるのは同じ部活動の一年生だけだ。管楽器の生徒とはほとんど話さない。小中の放課後を楽器と共に過ごしたせいで深い友人と呼べる人間もいなかった。
今も目の前では、悠生と緑が三年生の学年主任の話をしている。名前は分かるが顔が分からない数学担当教師の話だ。
「律歌くんのクラスって誰が担任なの」
じっと二人の話を聞いていると、悠生がこちらに振ってくれた。国語担当の教師である。
「えっそうなんだ。僕も一年生の時そうだったよ。優しいよね」
「たぶん。一部には舐められてますけど」
ようやく話に入れた気がしてほっとした。それもつかの間、電車はいつの間にか悠生と緑が降りる駅に着いてしまう。
「降りるか」
「律歌くん、また明日」
がんばろうね、と言って悠生は降りていく。緑はじゃあな、と手を振ってきた。
「お疲れ様でした」
二人に聞こえるくらいの大きさで挨拶を返す。人の乗降が多い駅だった。あっという間に二人を見失う。そのまま窓の外を見ながら残りの三駅を揺られた。
スーパーに寄って夕食の材料と朝食用の食パンを買い、家へ帰る。律歌の家はマンションの十三階にある。セキュリティもきちんとしていて、玄関はオートロックだ。
ただいま、と挨拶をすることもなく楽器と荷物を自室に置く。律歌が高校に入学すると同時、江恋は拠点を海外へ戻した。せめて義務教育のうちは、と江恋がここで一緒に住んでいて、父親は数年単位で顔を見ていない。結局江恋も日本にいる日数が年の半分ほどだった。
そのおかげで律歌は家事を一通りできる。夕食に炒飯をつくって食べてから、明日のためにと楽器ケースを持って防音室へ入った。
防音室の中には黒いアップライトピアノが一台置いてある。部屋の中に防音室を入れ込んだ場所だ。母親が弾くためのピアノ以外に置いてあるものはない。律歌はここでヴァイオリンの練習をしている。
組み立てたまま置きっぱなしの譜面台に楽譜を置いた。明日演奏する曲を一通り復習う。
一息つくと、頭の中になぜかぼんやりと悠生の姿が浮かんでくる。合奏中、ピアノを弾いているところだ。しかし律歌はグランドピアノに背を向けて座っている。だから、きちんと弾いているところを見たのは初めて見た時が最初で最後だったはずだ。それでも思い描けるくらい、彼の音色は全身で感じて、刻み込んでいる。
音楽が楽しいと全身で奏でる音は、眩しい。
翌日の演奏会は、大きなトラブルもなく終えることができた。初めてのオーケストラでの演奏会が無事に幕を下ろすことができて良かったと思う。律歌は複数人で音楽をつくっていくというのを、楽器を手にしてから今まで経験してこなかった。自分とそれ以外のたくさんの音を合わせて一つの音楽をつくる作業が、殊の外難しく、楽しかった。言ってしまえば完成度はそれなりである。父や母がいる場所には到底たどり着かないような拙さだ。それでも楽しかった。
演奏会が成功に終わったことで気持ちが高揚していたのだろう。演奏会翌日、部活がないことを知っていながら律歌は音楽室の前までやってきた。ほとんど無意識だ。なにをやっているんだと踵を返そうとしたとき、音楽室の中から、微かにピアノの音が聞こえた。首を傾げて背負っていたヴァイオリンの肩紐を握る。この音は、悠生のものだ。
そっと廊下に面した扉を開ける。肌触りのいい音が漏れてきた。静かに中に入って扉を閉める。音楽室の扉は防音のために二枚あり、一枚目を開けた先には楽器庫と音楽室二枚目の扉の二つがあった。この空間なら、まだ入ってきたことはばれない。そのまま悠生が一曲弾き終わるのを待った。
一曲終わるタイミングで、二枚目の扉を押す。律歌は上履きを脱いで下足箱へ入れた。
「律歌くん」
扉の開閉と気配で気づいた悠生はどうしてここにとでも言いたげな表情で名前を呼んでくる。
「たまたま通ったら、悠生先輩の音が聞こえたので、つい」
「外まで聞こえちゃうんだ」
音楽室は授業用に机と椅子が並んでいた。間を縫ってグランドピアノの傍に行く。
「聞こえるって言ってもすこしだけですよ」
ならいいか、と呟いた悠生が身体ごと律歌を向いた。
「誰が弾いてるか見に来たんだ?」
「いや、悠生先輩だと思って見に来ました」
他の誰が弾いていてもわざわざここまでしない。音が聞こえたことすら、悠生だからかもしれないと思うくらいに、運命を感じていた。
今ここで、存分に悠生の音を独り占めしてみたい。幼稚な欲望が湧いてくる。
「なにそれ。律歌くんはピアノの音で誰か分かっちゃうんだ」
「悠生先輩だけです」
言い切ると悠生が視線を鍵盤に向けた。誰の音でも聞き分けられる天才ではない。悠生の音が美しく、きれいで、好きだからだ。
「そう言われるとちょっと、恥ずかしいな」
悠生の人さし指が白い鍵盤を押す。ポーン、とDの音が響いた。律歌は悠生に一番近い机の上に楽器と鞄を置いてパイプ椅子に座る。自分は聴くためだけに来たという態度を示した。
「何が聴きたい?」
無言でピアノに向き直ってから、悠生が訊ねる。
「なんでも……、や、先輩が一番好きな曲がいいです」
「一番かあ」
天井を仰いた悠生をじっと見つめた。長袖シャツの中を泳ぐ薄い身体。腕も細く、けれどピアノを弾くための指は長い。
「わかった」
曲を思いついたらしい悠生が背筋を伸ばす。鍵盤を見るために顎を弾くと髪の毛が悠生の顔を隠した。顎のあたりまで伸びたその髪は傷むことなくさらりとしている。すう、と空気を取り込んで肩が上がった。一音目が鳴る。
窓の外に抜けるような青空を見た。音楽室の天井があったはずの頭上には太陽の光を浴びた立体的で真っ白い雲が浮かんでいる。悠生の音は一瞬で空間をすぐ隣の季節に連れていく。雨の時期が終わったら、からりと暑い夏が来る。
知らない曲だったけれど、これは確かに夏の曲だと思った。
グランドピアノが置いてあるのは草原。ゆるやかに風が吹いて、悠生の髪を揺らす。ゆったりとしたリズムに身体を預けている悠生はその風すらも味方につけたように踊る。
最後の音がすっと消えていった。無意識に止めていた息をそっと吐く。目の前にあるのは、この三ヶ月で見慣れた音楽室だった。
「どう?」
背もたれのないピアノ椅子の上で、悠生が顔だけをこちらに向ける。
「……夏になったかと、思いました」
「ふふ。すごいな、そんなことまで分かるんだ」
悠生は嬉しそうだ。夏をイメージした曲だったのだろう。何の曲か訊くために口を開くと喉を震わす前にスフォルテでAsの音が鳴らされた。オクターヴ離れた二つの音だ。
今度の曲は知っている。ショパンの幻想即興曲だ。
巧い。重たいはずの鍵盤がオモチャに見える軽やかさで指が動いている。六連符と十六分音符の激情的なクロスリズムが一つも崩れていない。中間のゆったりとした部分に突入すると、悠生が持つ音の伸びやかさが際だった。中間部を抜けるとまた激しい部分がやってくる。やはり左手の六連符がひとつのズレもなくはまっているのが美しい。最後は、減速して曲が終わった。
滅多に解放されることのない採光用の窓から悠生の背に光が降り注ぐ。頭に反射で出来た輪があって、本当に天使のように見えた。律歌のために下界で天上の音楽を演奏してくれる天使。
浮かれた、気色の悪い妄想を振り切るように声を出した。
「こういう曲も弾くんですね」
「あんまり得意じゃないんだけど、これは好きなんだ」
悠生のイメージは、スローテンポの曲である。それはアニメ映画メドレーでのソロ部分が全てそういうメロディだったということもあるし、先ほどの夏の曲だってそうだったからだ。けれど幻想即興曲も、得意じゃないというくせに隙が見えないくらいには完成されていた。
律歌がどんな曲を渡されてもある程度は弾けるように悠生もそうなのだろう。
「いいですよね。俺も好きです」
「ねえ、今度は律歌くんが弾いてよ」
悠生は膝を合わせて律歌を向きにこにこと微笑んだ。
「俺ピアノ弾けないっすよ」
「ちがうちがう、ヴァイオリン」
持っているでしょうと目で机の上の楽器ケースを指される。
「いやです」
「ひとには弾かせておいて?」
「えー……」
悠生は知らないだろうけれど、律歌は悠生に敗北しているのだ。自分の持たない、自分では演奏できない音楽に出会って、惚れ込んでしまった時点で負けている。そんな人の前で一人で弾きたくはない。
「仕方ないなあ」
そう言って、悠生は立ち上がる。楽器庫へ歩いて行った。なんだろう、と悠生が消えた先の扉を見つめていると、程なくして本とスチール製の譜面台を手に戻ってくる。
「はい」
一冊の本が手渡された。座ったままそれを受け取って表紙を見ると、そこには「ピアノとヴァイオリンのための二重奏-初級-」と書かれている。楽譜集だった。目次には曲名が並んでいる。
「なんですか、これ」
そう訊ねながら、律歌はこの後一緒に弾こうと言われることを期待した。わざわざ二重奏の楽譜と律歌のための譜面台を持ってきたのはそういうことだろう。
「一緒にやらない?」
「……いいんですか」
悠生の音と一緒にやらせてもらえるなら、これ以上の事はない。自分の音が彼の音に釣り合わないことは弾く前から分かっているけれど、やりたいと思った。
「うん。僕だけ弾いてるのもつまんないでしょ」
「っそ、そんなことないです!」
自分の音がどれだけ美しく、律歌の心を動かしたかを分かっていないらしい。即座に否定すると悠生は目を丸くした。自覚がないのか、と身を乗り出して言葉を続ける。
「俺、悠生先輩の音がめちゃくちゃ好きなんです。初めて聞いたとき、なんだこの人、天使かよ、って思って、だから今日は独り占めできて嬉しかったっていう……か……」
勢いがしぼんだのは、悠生の顔がじわじわと赤くなっていったからだ。律歌も自分の言ったことを反芻して黙り込む。
やってしまった。変なやつだと思われたかもしれない。
耳が熱くて、いたたまれなくて俯いた。すると、頭上からちいさく「ありがとう」という声が降ってくる。
「こんな風に面と向かって褒められることって、あんまりないよ」
照れた顔のまま、悠生は自分の分の楽譜をピアノの譜面台に置く。それからスチール製の譜面台を組み立てだした。脚を開いて、座ったままの律歌にそれをはい、と差し出す。
「やろう、律歌くん」
まだ赤い頬。丸い瞳はきらきらと輝いていた。薄く色づいた唇に名前を呼ばれるともう、逆らえない。
律歌は譜面台を受け取って立ち上がる。部活があってもなくても持ち歩いているヴァイオリンを取り出した。ピアノと合わせた経験は何度もある。ヴァイオリニストの発表会やコンクールでもピアノ伴奏を入れることは珍しいことではない。
「これね、一年生のとき緑と途中までやったんだ」
律歌が楽器の準備をしている間、悠生はピアノ椅子に座って足をぶらぶらと揺らしていた。チューニングをする段になると鍵盤を押してAの音を出してくれる。
「全部やらなかったんですか」
「緑が付き合ってくれなくなっちゃったからね」
そうなんですね、と返事をしてチューニングをする。緑は果たしてこの本をどこまでやったのだろう。途中でやらなくなったというのなら、律歌は最後まで付き合いたい。幼馴染み、腐れ縁と言われても悠生と気安く対等に話せる緑が羨ましいのだ。だから超えてみたかった。
「悠生先輩って、緑先輩の話好きですよね」
「え、そうかな? 共通の知り合いだから話しやすいのかも」
ちょっとだけ意地悪な気持ちでつついてみたが、悠生は無自覚なようだ。
「小学生の頃から一緒なんですよね」
譜面台に楽譜集を開く。一曲目を目で追いながら訊ねた。
「そ。僕が小三でピアノ教室通い始めて、そこに緑がいたんだよ。僕も緑もピアノをやってたんだけど、ある日急にピアノ辞めてヴァイオリンやるって言い出してさあ」
ポロン、と教本の一曲目のフレーズを抜き出して適当に弾きながら喋る。譜読みは終わってると言わんばかりのそれに内心で笑った。先日電車で「緑はね、ピアノも」と言っていたのはこの話なのだろう。ヴァイオリンに転向した理由は分からないが、緑にとってピアノが弾けることは他人に話したいことではないようだった。
「なんでって聞いても教えてくれなかったけど、すぐ上手くなってびっくりしたなあ」
事実、緑はコンサートマスターを任されているだけの実力がある。ファーストヴァイオリンをまとめ上げ、全体を引っ張ってもなお安定した演奏ができるのだ。オーケストラにいるヴァイオリニストとしては二重丸だろう。
「一曲目、いいですよ」
「はっや。もう読み終わったの」
「とりあえず一回通してから考えます」
一曲はそこまで長くはない。律歌は楽器を構えた。こういうのは一人で延々譜読みをするより、ピアノとどう「ハマる」のか、演奏してみた方がわかりやすい。
「じゃあいくよ」
律歌と悠生はそのまま下校を促す校内放送が入るまで演奏をし続けた。一日で教本の四分の一をやって、また今度やろうと約束を取りつける。悠生はどうやら、オーケストラ部が休みの日に音楽室を借りて遊んでいるらしい。音楽担当の教師も悠生を気に入っていて好きにやらせてもらえるのだという。人柄と才能の賜物だ。
その日から、部活が休みでも音楽室に通うようになった。悠生と二人だけの演奏は心地いい。ヴァイオリンがメロディの時はそっと添えるように、ピアノがメロディの時は花が開くように主張をする。律歌が求める音が返ってくることが何より楽しかった。
反面、内心で歯噛みする時間も多い。悠生の音は素晴らしいのに、自分がそれに見合わないということが苦しいのだ。四歳でヴァイオリンを始めてから、自分が同世代の誰かと弾いていて下手だと思うことがなかった。プロに敵わないこと、自信がプロになれるほどの器ではないことは自覚していたが、これはそれとは訳が違う。
練習量を増やしたり二十四時間を音楽に捧げる生活をしようとは思わないけれど、部活中や家での自主練習の時間に今までより真剣に取り組むようになった。
あの音色に釣り合う音楽が出来るようになりたい。
それが当面の、律歌の音楽についての目標だった。
***
夏休みも盆休み以外は部活動がある。楽器は一日触らないだけで感覚を取り戻すのに三日かかると言われているくらいだから、毎日学校へ行くことになると思っていたけれど、そこまで厳しくはなかった。毎日部活動へ行くという縛りがなくとも練習をする人間のほうが多いからだろうか。
合奏は週に三回。パート練習が週に一回で、個人練習はその他の時に各自やることになっている。学校にある個人練習用の防音室を使うこともできるし、家で個人練をしてもいい。合奏とパート練習にさえ出席すれば個人練習は部活動でなくてもよいというのは律歌にとってありがたい環境だった。
個人練習の日は家の中で自室と防音室を行ったり来たりする生活を送っている。昼頃に起きて適当に食事を摂り、飽きるまで楽器を弾いてから夕食、夜はオンラインゲームをするのが部活のない日のルーティンだ。それをゲーム仲間である棗に話したら、高校生のうちから荒んだ大学生みたいな生活をしていると苦笑された。棗はオンラインゲームを通じて最近出会った男性で、本職は舞台俳優らしい。公演や稽古がないときは無限にゲームをしている。
律歌がオンラインゲームをやるようになったのは高校入学直前だ。新生活のためにデスクトップパソコンを買い与えられ、ヴァイオリンの息抜きにゲームを始めた。マルチプレイヤーオンラインバトルアリーナ―通称MOBAと呼ばれる種類のゲームをやっている。律歌がよくプレイしているのはBattle of Legendsという。五人チーム同士で相手の陣地にある聖像を破壊した方が勝ちのシンプルなルールである。
海外とのビデオ通話のために買ったパソコンは、本来の目的をほとんど果たせずにいた。
『やばい破壊される、リッカ』
「いやっ遠、間に合わない」
『ごめんこっちも間に合わないわ』
画面の中で爆発が起きて、自陣の領域を守っていた聖像が壊れる。赤文字でDEFEATと表示された。
「育成間に合わなかったーごめん」
律歌は素直に謝ってテーブルの上に置いたコップから水を飲む。仲間を守れる力を蓄えている間に攻撃されてしまった。
『ちょっと俺ら行動遅かったな』
ゲーム内ボイスチャットでやりとりをしながら再戦ボタンをクリックする。棗は数日休みらしく、夕方から三時間は一緒にやっていた。棗の他に一緒に組んでいる三人もゲーム仲間だ。
マッチング待ちの間はトイレへ行く者や雑談を始める者がいる。
『そいえば十二時からやんの?』
仲間の一人がそう切り出した。
日付が変わったら、新作のゲームが解禁されるのだ。MOBAとは違う、オンラインのロールプレイングゲームがリリースされる。一人で遊ぶRPGではなく、インターネットを通じて複数人で一緒に物語を進めていくものだ。以前話題に上がったとき、オンラインのRPGはやったことがないと律歌が言ったら、みんなでやるのもいいねと言ってくれていた。
『昼までコースだよな。リッカいける?』
「お、おれは平気です」
高校生で、一番時間に融通が利く。棗が紹介してくれた彼の仲間達は皆年上で、社会人か無職だ。
『ログインできるようになってからが勝負だな』
大人数同時参加型のオンラインゲームは、解禁と同時に始めて数日やりこむ。以前に出たときは棗ら四人で遊べるだけ遊んだという話も聞いていて、それがすこし楽しそうで羨ましかった。
律歌は、趣味も習い事も、生活の全てが音楽だった。けれど音楽では誰かと対等に楽しむなんてことはできなかったのだ。今は趣味の部分にゲームが加わって、そのゲームで憧れていたような遊びができる。高校生の律歌を対等な友人として扱ってくれる大人達に感謝だ。
まだ対戦相手を探している画面から目を逸らしてスマートフォンを手に取る。BoLはマッチングするまでの時間に波があるのだ。今回は長めである。
通知欄を見ると、メッセージが来ていた。
『明日のお昼、暇だったら楽譜見に行かない?』
受信したのは二十分ほど前で、送り主は悠生。丁度明日から、オーケストラ部は一週間の盆休みに入る。悠生もそれを知っていて連絡をしてきているのだろうか。
耳を素通りする新作ゲームへの期待の話と、目の前に表示されている悠生からの誘い。RPGは深夜十二時から始められたとして何時まで続くか分からない。スタートダッシュは逃したくなかった。
けれど、悠生からの誘いは今すぐ行けますと返信したくなるほど嬉しい。反面、律歌の上を行く才能の持ち主と音楽をすることは、心地良いだけの時間ではないことを嫌というほど知っている。結局好奇心が勝って、何時ごろですか、と返信をする。
『お、来たよ』
悠生の返事が来る前に試合が始まった。
楽譜を見に行く、というのは、次にやる二重奏の楽譜を探しに行くと言うことだ。音楽室にあった「ピアノとヴァイオリンのための二重奏-初級-」は夏休み前に全ての曲を通し終えてしまっている。
試合が終わってからスマートフォンを確認すると、悠生からはすぐに返事が来ていたようだった。
『二時くらい?』
『なら、いけます』
スタートダッシュが長丁場になったら寝ずに家を出ればいい。そう考えて、行くことにした。
『あれ、なっちゃんマッチングは?』
『ちょい待ち。仕事の連絡来てて』
全員が準備完了を押さなければ次の対戦相手を探すことが出来ない。棗が取り込み中になり、再び雑談タイムとなった。律歌は適度に相槌を打ちながら悠生とやりとりをする。
『大きい楽器屋がいいかなと思うんだけど、池袋駅でも平気?』
『大丈夫です』
『よかった。じゃあ池袋に二時ね』
『わかりました』
『ついでに遅めのお昼ごはんどうかな』
『食べましょう』
『ありがと。じゃあまた明日』
『はい』
連絡先を交換したのは、一度悠生が遅刻してきたことがあったからだ。委員会の仕事で、音楽室やってくるのがずいぶん遅かった。毎週の部活休みの日に必ずと約束したわけでもない。最終的に来なくてもいいか、と思いながら一人でヴァイオリンを弾いて待っていたら、悠生が息を切らして音楽室に飛び込んできた。
謝り倒されて、気にしなくていいですよ、と言ったら今後こういうことがあったら申し訳ないからとメッセージアプリのアカウントを教えあったのだ。
結局、その日試しに送ったメッセージ以降、とくにやりとりはなく、今日が初めてだった。
休みの日にわざわざ待ち合わせてどこかに行く、という行為がむず痒い気がする。なんだか心臓が落ち着かなくなった。
***
普段全く世話にならないエナジードリンクをコンビニで買って電車に乗る。目的地は高校と反対方向。日光を避けるために改札前で待ち合わせをすることにした。
結局昼前までRPGにのめりこんだ。十二時間とすこしプレイして、身なりを整えて家を出てきた。他の四人は夜まで眠ると言っていて、夜からまた再開するらしい。
関東圏外への旅を呼びかけるポスターの前に立ってエナジードリンクのプルタブを起こす。プシュ、と案外いい音がした。舌の上で独特の味を転がしながらスマートフォンを見る。待ち合わせの十四時まであと十分ほどだ。
「律歌くん?」
声をかけられて顔を上げる。そこにいたのは、悠生だった。
髪は後ろで結われており、前髪は右目の上で分けてピンで留められている。一瞬、それが誰なのかわからなかった。
「……早いですね」
どう反応するのが正解かわからずにそう口に出す。
「律歌くんの方が早いじゃん。いると思わなくてびっくりしちゃった」
ふふ、と笑う悠生に安心した。普段と違う格好、髪型だけれど、律歌の知っている佐枝悠生だ。
「いこっか」
「はい」
目指すのは歩いて五分ほどの楽器店。やりたい曲目が決まっていればインターネットでも購入できるけれど、どんなものがあるのかを見るには楽器店が向いている。
「制服じゃない律歌くん、ちょっと不思議な感じする」
「……それ言ったら悠生先輩もですよ」
「え、そうかな。自分じゃわかんないね」
悠生はオーバーサイズの黒いシャツにハイウエストのガウチョパンツを身に着けていた。どちらかといえば身体にフィットするように作られている制服とは、もたらす印象が違う。
悠生からすればTシャツにジーンズの律歌なんて中学生の装いに見えてしまいそうだ。
「夏休み何してたの」
「寝て起きてゲームして楽器弾いてました。あと部活」
並んで歩きながら訊ねられて素直に答える。
「だらけてるねえ」
「悠生先輩は?」
「さすがに毎日ピアノ弾いてる。推薦もらえそうだし」
「あ、そうか。……どこ行くか、聞いてもいいですか」
大学名を口にした悠生の瞳は夏の太陽を浴びてきらきらと輝いていた。律歌でも知っている音楽大学だ。
音楽を愛していて、音楽に人生を捧げようとしている人なのだと思い知らされる。律歌とは違う、音楽にひたすら貪欲な人。
「すごい。頑張ってください」
「ふふ。ありがと」
やわらかく目を細められてどきりとする。オーケストラ部に入って、またクラスメイトを見ていて気づいたことだったが、悠生はかなり顔が整っている方だ。
はじめて会ったときからしばらくはそうは思っていなかったけれど、休みを挟んでよりそれを実感している。
徹夜している人間には刺激的すぎる日射しを浴びながら楽器店に着いて、二人で話し合って二つの楽譜を買った。「ヴァイオリンのためのクラシック」という数曲入りのものと「ヴァイオリン協奏曲第二十二番」だ。どちらもヴァイオリンソロ用でピアノが伴奏になっているものだが、どちらも悠生が選んだものだった。
楽器屋を出てそのまま近くの商業施設でパスタを食べる。悠生は夏休み中、ほとんど毎日学校に行っていると言った。受験に向けて練習をしているのだろう。
「でもオケ部も部活やってるでしょ?」
「俺は、個人練は家ですから」
「いいなあ。僕もアップライトはたまーに家で弾くけど、夜は音出せないし、専らキーボードのお世話になってるよ」
大抵の家は、律歌の家のように防音室などを兼ね備えていない。律歌だって両親のこだわりでなければ防音室付きの、しかも部屋全体でも防音されているマンションになど住んでいなかっただろう。
「キーボードもあるんですね」
「だって夜も練習したいでしょ」
あはは、と笑った。昼も夜も防音室に籠ってヴァイオリンを弾きたいと、律歌は思わない。
雑談をしながら食事を終えてレジへ向かった。財布を開く手を止められる。
「ここは僕に出させて」
「え、でも」
「いいから」
レジ前で押し問答するのが悠生にも店員にも申し訳なく、引き下がって店の外に出た。支払い終わって出てきた悠生に財布を持ったまま話しかける。
「先輩、」
「急に声掛けちゃったしいつも火曜日付き合ってくれてるから、気にしないで。お礼だと思って」
そこまで言われると、それ以上は言えなかった。
お礼をされる覚えはない。むしろ、悠生のような人と毎週セッションできるというだけで充分だ。
「……ごちそうさまです」
財布をしまって礼をして、駅の方向に身体を向ける。
「はやく学校始まんないかなあ」
「あと二週間ですよ」
「これもはやくやりたい」
悠生は楽譜の入ったビニール袋を提げて上機嫌に歩く。
律歌と、というよりはヴァイオリンと、が正しい表現かもしれないが、それでも律歌と演奏できることを心待ちにしてくれている姿に気持ちが高揚した。
「あの、うち来ますか」
思わず口からこぼれ出た言葉に自分でも目を丸くする。なんでもないです、と誤魔化す前に二歩ほど先を歩いていた悠生がこちらを振り向いた。
「ん?」
「あ、いや、……うち、防音室あってアップライトが置いてあるんですけ、」
「えっ、そうなの」
防音室で息を吸って、アップライトでこちらに踏み出して、言い終わる前に顔が近づいてくる。
くるりと上を向いているまつ毛も髪色と同じく茶色なのだと、そのとき初めて知った。きらきらと輝くその水晶玉に気圧されるように返事をした。
「……はい」
「行ってもいいの」
「親、い、ないんで、全然……」
「行く!」
そうと決まるや否や悠生はスマートフォンで律歌の最寄り駅までのルートを調べて提示してくる。
「これでいいのかな」
「あ、はい」
律歌は「親がいないから家に来たらいい」という台詞の誘い下手加減に気まずさを味わいながら悠生と一緒に改札を抜けた。
***
律歌の住む部屋の玄関に立つと、悠生は控えめに「おじゃまします」と挨拶をする。それから脱いだ靴をきれいに揃えた。初めて招かれたからかもしれないが、丁寧な所作に育ちの良さを感じる。
廊下の先はリビングになっていて、防音室は一番手前だ。防音室へ案内すると、悠生はピアノを見てぱっと目を輝かせる。
「ほんとにある!」
「嘘ついてどうするんですか。飲み物取ってきます」
ぬるく重たい空気が閉じ込められた部屋をどうにかしようとエアコンの冷房運転を起動させた。それから冷蔵庫に入れてあった二リットルペットボトルを手に取る。律歌が普段使っているマグカップと、母親用のグラスも一緒に部屋へ戻った。
背もたれのないピアノ椅子に悠生が座っている。そういえば家族以外の人間がここに立ち入るのは、調律師を除けば初めてのことかもしれない。
律歌は床に座ってグラスに緑茶を注いだ。それを悠生に手渡す。
「ありがと」
ごくごくと白い喉を晒して中身を飲み干す悠生を下からぼうっと眺めた。下顎の、普段の角度からでは見えない場所に黒子が見える。何か見てはいけないものを覗いてしまった気分になって目を逸らした。
渇きを訴える喉を潤して、床に置いていたヴァイオリンのケースを開ける。
悠生は鍵盤の蓋を開くとチューニングのAの音を鳴らした。首を傾げてCから一つずつオクターヴ分の音を確認する。律歌はその動作を見て、しまった、と思い出した。
「そういえば一年くらい調律してないかもしれない、です」
「……だよね、ちょっとずれてる。けどまあ……大丈夫かな」
律歌が扱うのは専らヴァイオリン。アップライトピアノは母親用で、趣味でピアノを弾く、なんてこともしない。使われていないそれはあっという間にピッチが狂ってしまっていた。
「すみません」
「僕は大丈夫。弾かせてもらえるだけで嬉しいし。律歌くんの方がやりづらくない?」
「や、大丈夫です。でも弦全部そっちに合わせちゃうんで音もらってもいいですか」
律歌は手にしたヴァイオリンのピンを調整して四本張られている弦の全てのピッチをアップライトピアノのそれに合わせた。
それからロングトーンを少しやって音を慣らすと、悠生が楽譜の入った袋を開く。製本された楽譜と、バラバラのヴァイオリン譜をこちらに手渡してきた。
組み立てたままの譜面台にそれを置く。製本されたものは新しく買った教科書と同じで折り目をつけないとすぐに閉じてしまう。二人でくすくす笑いながら、一曲目をやろうと決めた。
夏休み前までやっていた譜面より黒の面積が増えて、律歌は知らず口端を上げる。
やったことのない曲というのはわくわくするものだ。
「メトロノームかけてゆっくりやろっか」
「そうですね」
ふたりでの譜読みからはじめて、なんとなく一曲通せるようになる頃にはとっくに夕方を過ぎていた。ふあ、と集中力の切れた律歌が大きく口を開ける。
寝ていないことを思い出せば一気に眠気が襲ってきた。
「そろそろ帰ろうかな」
悠生はそんな律歌を見て立ち上がる。
もう一度くらい合わせたかったけれど、自分がぴたりと正しい音程を取れなくなっていることには気が付いていた。
「ありがとうございました」
「お礼を言うのはこっちじゃない? 今日は楽しかった」
集中力が切れたのは悠生も同じようだ。微笑む顔にすこしだけ、疲労が見える。そういう心地のいい疲れは律歌にも覚えがあった。
この人もきっと、いや、絶対に、音楽を愛している。それが嬉しかった。
「駅まで送ります」
「ありがとう。道覚えてないや」
帰り支度をした悠生を駅まで見送りに行く。帰宅途中、ゲーム仲間にやはり今夜は無理だと連絡をして起きた時用の食事を買った。一人になった途端襲ってきた眠気に耐えられず、寝支度もそこそこにベッドへダイブして、律歌はそのまま深い眠りにつく。
それから律歌は夏休み中、悠生に連絡をすることはなかった。悠生からも特に音沙汰はない。新しい楽譜は夏休み明けからやるために買ったものだったから特に疑問も持たなかった。悠生だって受験のための練習が忙しいだろう。律歌もゲームと部活を両立することに夢中だった。
***
他人が作る朝ご飯の匂いで目が覚める。律歌にとっては慣れない出来事の部類だ。今日の朝ご飯はどうやら焼き魚らしい。昨日買ってきた鮭だろうか。
上半身を起こして伸びをする。それからスリッパを履いて部屋を出た。
「あ、おはよう」
淡い黄色のトレーナーにエプロン姿の悠生が、律歌を認めて挨拶をする。
「おはよう」
律歌もそれを返して洗面所へ向かった。顔を洗ってからリビングへ戻り、ダイニングチェアへ座る。律歌用の茶碗に湯気の立つ白米が盛られていた。焼き物皿に載った鮭には食欲をそそる焦げ目がついており、律歌は頬を緩ませながら手を合わせる。
「いただきます」
食事の前の挨拶も、ここ一年半で習慣づいた。家に一人でいるときはわざわざ声に出さない。テーブルを挟んで向かいに座った悠生が薄く微笑んだ。
律歌はまず味噌汁を一口飲んで、ほっと息をつく。それから箸で鮭をほぐして白米の上に乗せた。箸の先で白米と鮭をつまんで口に入れる。塩味とふっくらした白米の味がマッチして、つい頬が緩んだ。
「おいしいです」
素直に感想を伝えると、悠生はほっとした様子でよかった、と呟く。これもだいたい、いつものやりとりだ。
「鮭、半分お弁当にも入れちゃった」
「半分?」
秘密を共有するような言い方に、自分が箸を入れた鮭を見下ろす。きちんと一切れのかたちをしていた。
「……先輩、食べてないんですか」
「だから半分だって」
食べればいいだろうというような主張にため息を吐きそうになってやめる。食べているという嘘を、言われないだけマシになった。
「じゃあ、お昼楽しみにしてます。先輩が残した半分、俺がおいしくいただきます」
「うん」
悠生は早く起きて朝食や律歌の弁当を作る間に、作ってるものをつまんでいるらしい。だから毎朝、律歌が食べるのをただ眺めている。
「ごちそうさまでした」
食事を終えて、律歌は席を立つ。大学へ行く支度だ。今は春休みだけれど、四月から大学四年生になる律歌には就活講座なんてものがある。何になりたいか、何をしようか決まっていないなりに、幅広く顔を出している最中だった。
「いってらっしゃい」
玄関先で悠生に見送られる。玄関の鍵を閉めて、マンションの外へ出た。駅までは徒歩十五分。最近ようやく着慣れてきた就職活動用のスーツとトレンチコート。日中は日差しで暖かいこともあるがそれでもまだ上着を手放せない時期だ。
五分ほど歩いたところで、コートのポケットに入れていたスマートフォンが震えた。アプリの通知かと思ったけれど、止まらないところをみるに電話らしい。なんだろう、とそれを取り出す。
「もしもし?」
歩きながら耳を当てると、焦った声が飛び込んできた。
『律歌くん、お弁当!』
「やば」
急いで電話を切って来た道を引き返す。朝食の時に弁当の話をしていたというのに出がけにリュックサックへ入れるのを忘れてしまった。
この分だと大学へ着くのはぎりぎりになるかもしれない。そう思いながらエントランスを通り抜け、エレベーターで十三階へ昇る。玄関のシリンダーに鍵を差し込んで解錠し、急いで扉を開けた。
保冷バッグに入った弁当を抱えて立っていた悠生が、びく、と身体を震わせる。
「ありがとうございます」
「ううん」
「行ってきます!」
予定より遅い電車に揺られて大学の最寄り駅に着く。そこからは目的の講義室までひたすら走った。
講義室の後ろの扉から入ると、今か今かと待ち構えていた同級生が手を挙げて席を示してくれる。
「っは、間に合った……!」
同級生の隣に荷物をおろして座った。
「おつかれ」
「遅刻するかと思った」
「寝坊?」
「や、弁当忘れた」
息を整えながら筆記用具を取り出す。会話の流れで素直に理由を言うと、同級生の彼は目を丸くする。
「遅刻と弁当で弁当取るのは流石だわ」
「なんだよそれ」
「忘れたら諦めがつくやつだろって」
「あー……まあ、」
そう言われてしまえば、確かにそうだ。遅刻のリスクを冒してでも弁当を取りに行くのは変かもしれない。普通の講義ならまだしも、就活講座だ。
「相変わらず愛妻家ですねえ」
「違うって」
「照れんなよ」
彼は、律歌が一緒に住んでいる悠生を彼女だと思っている。悠生の正体を明かさないようにはぐらかし続けていたらそうなった。律歌と悠生は、べつに、妻と夫でも彼氏と彼女でもない。まだ反論しようとしていたところで講師が入室してきて、仕方なく口を噤んだ。
佐枝悠生は、律歌の高校の先輩であり、それから今はよき友人。律歌が悠生をどう思っているかに関わらず、周囲に説明する関係としてはそれが一番正しいだろう。しかしそれを大学の友人にも話せないのは、ひとえに悠生の居場所を漏らしたくないからだ。
リミテッド・エンジェルのサエ。それが、悠生の昔の肩書である。
~中略~
就職活動のためのガイダンスを二つ聞き終えて、同級生たちと別れる。彼らはみなヴァイオリン専攻の生徒だ。生徒は律歌を含めて四人。四人が四人とも就職活動のガイダンスを受けている現実を考えれば、この大学からプロになることがどれだけ厳しいかわかるだろう。
律歌は大学の食堂で悠生の弁当を広げながらスマートフォンを操作する。今日はこれを食べ終えたら自宅の最寄り付近にあるファミリーレストランでアルバイトの予定だ。
先ほどまで一緒にいた友人たちはライブスタッフやコンサートホールのスタッフ、楽器屋の店員など、音楽系のアルバイトをしている。律歌はただでさえ音楽漬けの生活をしているのにこれ以上は、とわざわざ飲食店を選んだ。
昼の一時からホールスタッフとして働いて、高校生たちと入れ替わるように夕方六時過ぎ、アルバイト先を出た。何か買って帰るものはあるだろうかとスマートフォンを取り出す。案の定悠生からのメッセージが来ていた。
『今日、鯵が安いらしいので買ってきてほしいです』
『あとお弁当用の冷凍食品と、味噌もお願いします』
時間をおいて送られたメッセージにふふ、と口元を緩ませる。買い物を頼むときはいつも敬語になる悠生にもどかしさを感じながらもスーパーマーケットへ赴いた。
緑色の買い物かごを取ってまずは鮮魚コーナーへ向かう。鯵を見つけ、二匹パックと三匹パックで値段がほとんど変わらないのを見て三匹のほうを選んだ。鮮度の問題らしいが、律歌は細かいことは気にしないし、悠生も買っていったものに文句をつけることはない。
冷凍食品と味噌もかごに入れて、それからしばらくフロアをぐるぐる回り、缶チューハイをふたつ、チーズのおつまみパックをひとつ手に取ってレジへ並ぶ。
律歌は明日、大学へ行く予定もアルバイトの予定もない。配信は毎日やっているわけではないし、今夜は休むことにしよう。
レジの列に並ぶ間にSNSアプリを開いて、リッカのアカウントで「今日は配信ないです」と発信した。会計をして黒地のエコバッグに買ったものを詰めて帰路につく。
今日の夕飯は何だろう。家に今どんな食材があるのか、律歌は知らない。悠生に言われたものを買って帰る日々だ。一人で生活していた頃、スーパーで買うのが総菜と飲み物くらいだったことに比べたら健康的な食生活だと思う。
自宅マンションの前に着いて、エントランスを通りエレベーターに乗る。十三階のボタンを押した。中学生の頃から変わらず住み続けている自宅だ。
玄関扉の前に立ち、スマートフォンを取り出す。メッセージアプリで悠生に通話をかけた。
『もしもし?』
「家着いたんで、開けます」
『ん』
短い返事のあと電話は切れる。エントランスを開けた自宅の鍵で解錠して部屋に入った。扉を閉めると勝手に鍵が掛かる。
「おかえり」
顔を上げると、玄関タイルから一段あがったフローリングに、スリッパを履いた悠生が立っていた。上からふたつボタンを外したゆるい黒シャツに黒のスキニーを履いて、律歌が去年誕生日にプレゼントした淡い水色のエプロンを身につけている。シンプルなデザインのそれはポケットがおおきく、使いやすさを重視して選んだ。
「ただいま」
自分を出迎えてくれる悠生に微笑んで、挨拶を返す。これも、ここ一年半で言うようになった言葉のうちのひとつだ。
ちいさい頃から、誰もいない家に帰ることの方が多かった律歌は、こうして出迎えてくれる人がいる、ということを未だに不思議だと感じている。
「買い物、ありがと」
手を差し出されたのでエコバッグを渡した。靴を脱いで洗面所へ入る。
紺色のトレンチコートに、黒のスーツ。髪の毛はアルバイトの時に少し崩してしまった。鏡に映った自分の姿を見て、就活生なのだな、と改めて思う。
果たして自分は何がしたいのだろう。
両親の期待に応えない道しかなかったくせに音楽を辞めないで、そのくせ音楽関係の仕事がしたいわけでもない。加えて、どの業界の話を聞いていてもピンとは来なかった。
律歌が今自主的にやっていることといえばヴァイオリンと、ゲーム配信だけだ。
そこまで考えて頭を振った。今、こんなところで長考する問題ではない。悠生が夕飯の支度をして待っているはずだ。
「今日のごはんは?」
キッチンを覗いた。肉が焼けるいい匂いなのはわかる。
「煮込みハンバーグ」
悠生の回答に、やった、と小さく歓喜の声を上げた。
それから自室でトレンチコートをハンガーにかけて黒の背広を脱ぐ。律歌が昔やっていたオンラインゲームがアパレルとコラボした時に買ったグレーのトレーナーとスウェットに着替えて、リビングへ戻った。テレビを点けると四十五インチの画面は夕方のニュース番組を映す。
ダイニングテーブルを見ると湯気の立っている炊きたての白米が盛られた茶碗とカトラリーが置いてあった。もうすぐハンバーグが運ばれてくるだろう。キッチンカウンター越しに悠生がこちらへ大きい皿を持ってきているのが分かった。
律歌は席について、それを待つ。亭主関白ではない。以前手伝おうとしたら申し訳ないから座ってて、と言われてしまったのだ。
目の前に置かれたおいしそうな煮込みハンバーグは、律歌がいつも握っているマウスよりすこし大きいかもしれない。一方の悠生のものはその半分ほどだ。
律歌になにか遠慮をしているわけではない、ということは分かっている。
「ちょっと大きくしすぎたかも」
無言でハンバーグを眺める律歌に何かを察したのか、悠生はえへへ、と苦笑いをした。それから顔におちた前髪を右によける。
「たべよっか」
「ん。いただきます」
促されて手を合わせた。千切りのキャベツと茹でたブロッコリーがつけあわせてあるハンバーグの皿に、箸を伸ばす。
「今日のガイダンス、どうだったの」
「んー……まあまあ、ですかね?」
視線をテレビに逃がしながら答えた。ニュース番組はちょうど終わって、バラエティクイズ番組が始まったようだ。
「あ、どこだっけこれ」
わざとらしく話題をテレビのほうへ向けると、悠生は振り返って律歌と同じ画面を見る。日本の世界遺産の写真からそれがある都道府県名を答えるというクイズが出されていた。
「どれ」
「上から二番目のやつです」
白壁で統一された美しい外観の城。どこかで見たことがあるけれど、県名はおろかそれがなに城かさえ思い出せない。
悠生は首を捻った。
「あー、……兵庫、だったかな。姫路城」
兵庫、という県名にはピンとこなかったが、姫路城、というのには聞き覚えがある。日本史の授業かなにかで写真を見た時、たしか、アイドルだった悠生のことを想ったのだ。
そのときちょうど彼は髪の色を抜いて白い衣装を着、リミテッド・エンジェルの一員として活動していた。
「うわ、それですね」
すっきりした、と白米を頬張る。
テレビを見ながら夕食を終え、しばらく休憩してから悠生は片付けを始めた。律歌は立ち上がって防音室へ入り、床に置いていた楽器ケースを開ける。
夕飯のあと、すこしだけ弾くのが習慣だ。
どんな仕事をしたいですか。仕事のやりがいは何だと思いますか。
ガイダンスを受ける度に同じような言葉を投げかけられる。自分はいったいどうしたいのだろうと考えることが多くなった。
昔から、「将来の夢はなんですか」という質問に先回りしてくる人間ばかりだった。律歌はこうなるはずだという予想を言ってくるのだ。
『りつかくんは、おおきくなったらばいおりんのひとになるんでしょ?』
『律歌くんってヴァイオリニストになるの? すっごいね!』
『鈴木はどうせプロになるんだろ』
キュイ、とヴァイオリンが耳障りな音を立てた。手を止めて、自分の回想に唇を噛む。将来はそうじゃないと口にすることは憚られた。
じゃあ何になりたいの? と言われても答えられなかったからだ。
「……やめるか」
頭の中がくちゃぐちゃなのは、自分でもよく分かっている。こんな状態で楽器を弾いたところで糧にすらならない。ただの惰性だ。
律歌は三十分も弾かないうちに楽器をケースに仕舞い、大きくため息を吐いてから防音室を出る。
「あれ、もう終わり?」
リビングへ行くと、ちょうどテーブルを拭いていた悠生が目をぱちぱちと瞬かせた。いつもより短い時間で防音室を出てきたことを疑問に思っているかもしれない。
「うん。風呂入ります」
理由を訊かれる前にひらひらと手を振って支度をする。まだシャワーだけで済ませるような季節ではなく、悠生が湯を張ってくれていた。これも、先に入れば、と言ったことがある。が、律歌が先で良いよと断られた。以来帰りが遅くないときは律歌が先に入っている。
思考を整理するように熱い湯を浴びて、泡で汚れを洗い流した。
悠生と交代して彼を待つ間、リビングのソファに座ってぼうっと点けっぱなしのテレビを眺める。バラエティ番組は終わり、ドラマの放映が始まったようだ。
「えっ」
どのくらい見ていただろうか。急に悠生の驚いたような声がして、ふっと意識が引き戻される。
「律歌くん、これ、ドラマ?」
「あー、うん、多分」
近ごろにしては珍しくテンションが上がっている様子に、律歌は首を傾げた。誰か知っている人が出てきたのだろうか。
「シズが出てる……」
シズ、という名前には、律歌も心当たりがあった。リミテッド・エンジェルに所属していた四人のアイドルのうちの一人だ。当時の悠生の話に何度も登場していた。顔までは覚えていない。
「すごい」
小声でそう呟いて、悠生は画面を食い入るように見つめる。
「悠生先輩。こっち」
律歌は足元にクッションを置いて声を掛けた。目の前で、他の男に気を惹かれる悠生をじっと見ていられるほど器が大きくない。
「ドライヤー。風邪引きますよ」
「うん」
返事はあったものの上の空だ。それだけ、悠生にとって衝撃的だったのだろう。
洗面所から持ってきていたドライヤーのプラグをソファ下まで延長したコンセントに差す。それからスイッチを入れた。
律歌が悠生の髪を乾かすようになったのは、悠生があまりにも自分のことに無頓着だった時期があったからだ。一度やって以来、悠生に触れることを許されている、という確認のために、家にいる時はだいたい律歌が乾かしている。
根元から丁寧に風を当てた。悠生の髪は艶があって細い。地肌を傷つけることがないように、一本一本きちんと乾くように、と神経を注ぐ。
また髪が伸びただろうか。律歌が気づいたときに切っているけれど、そろそろその時期かもしれない。律歌はこの一年半で、悠生専門の美容師になれた気がしている。
画面の中では整った顔立ちの男がなにかを話しているが、ドライヤーの音にかき消されて全く分からない。読唇術でも心得ていない限り読めないだろう。それでも悠生は画面を食い入るように見つめている。
律歌は毛先まで水分が飛んだのを確認して、スイッチをオフにした。
「ありがとう」
ドライヤーが終わったことには気がついたようで、こちらを振り仰いで、いつものように礼を言う。
「今日お酒買ってきたんですけど、飲みます?」
買ってきたものを全て冷蔵庫に仕舞ったのは悠生だ。だから、買ってきたことは分かっている。
「配信はお休みなの」
「はい。ゆっくりしようかなって」
「じゃあ飲む」
プラグを抜いて、コードをドライヤー本体に巻き付けた。悠生とふたりでゆっくり、という時間は、食事を除けば実はあまりない。律歌は楽器を弾くかゲーム配信か、そうでなくともインターネットを通した友人たちと遊ぶことだってある。
酒を口実に二人で時間を過ごすのは心地いい。悠生が好きだと自覚してから、時間を作るようにしていた。
洗面所にドライヤーを片付けた帰りに缶チューハイとつまみを冷蔵庫から出す。それらをソファ前のローテーブルに置いた。
「どっちがいいですか?」
新発売のクラシックレモンサワーと、期間限定のいちごサワー。律歌はどちらでもいいと思って買った。悠生がじっとパッケージを見つめて、それから控えめに、律歌くんは、と訊ねてくる。
「どっちでも。先輩の好きな方選んで」
悠生は困ったように眉を八の字、唇をへの字に曲げる。律歌の好みを図りかねているようだ。遠慮せずに好きな方を選んでくれればいいのに、こういうときにいつも律歌を優先する。きっと悠生は「居候させてもらってるから」と言うのだろう。
「……じゃあ、いちご、もらってもいい?」
「はい」
寝間着代わりにしている淡い黄色のトレーナーの裾から白く細い手首が覗く。極上の音楽を奏でる指が、大きく果実がプリントされたいちごサワーの缶を捕まえた。
床に座ったままだった悠生はクッションを背もたれに移動させてソファに座る。律歌はその隣に腰を下ろした。二人掛けのソファは、成人男性が二人座るとちゃんと埋まる。
缶のプルタブをあげて、ぷしゅ、と小さく炭酸が抜ける音を聞いた。
「かんぱい」
右側に座った悠生と缶を合わせる。
目の前の大画面では相変わらずドラマがやっていた。缶を傾けながら画面を注視する悠生の気を引きたくて、話しかける。
「この人リミ・エンの人ですよね」
子供っぽい嫉妬心だった。懐かしむような瞳を向けさせたくない。
「うん。……シズ、ずっとドラマやりたいって言ってたんだ」
「へえ」
悠生が所属していたリミテッド・エンジェルは、あくまでアイドルグループだった。バラエティやドラマにも出ていたけれど、期間限定のアイドルユニットと銘打つだけあって、ライブや音楽番組への出演の方が圧倒的に多かったらしい。これは、のちにインターネットで得た情報だ。
「すごいよね。たぶん、けっこういい役」
噛み締めるような声。ドライヤーだったり会話だったりでまともに見ていない律歌でも、かなりの割合で画面に映っていることくらいは分かる。悠生のこんな声は久しぶりに聞いた。それだけシズという男がドラマに出ているのが嬉しかったのだろう。
そうなると、もう邪魔は出来なかった。律歌は静かにチーズのパッケージを開封する。一センチ角にカットされたそれを口に放った。
「デビューして一年経たないくらいの頃にね」
「うん」
一年半ほど一緒に暮らしても、アイドル時代のことはどこまで触れていいのか判断がつかない。こうして悠生が話してくれるときは多分、聞いておいた方がいいのだろう。
悠生は片手で缶を持ちながら片足を立てる。
「僕とスイがさ、ドラマのゲストに呼ばれたことがあって」
スイ、というのもリミテッド・エンジェルのメンバーだ。
「シズがしばらく怒っててさ。ぼくはドラマがやりたくて事務所に入ったのにー、って」
「みんなアイドルを目指してたんじゃなかったんですか」
「ううん。事務所所属のためのオーディションに受かっても、思うとおりの活動ができない子もいっぱいいる」
じゃあ悠生は、何がしたくてアイドルになったのだろう。音楽大学へ行かずに四年間だ。律歌は今までの大学生生活三年間を振り返る。目的もなくただ与えられる課題をこなしていくだけの三年間だったが、悠生はこの三年以上の期間を芸能活動に捧げていた。志願していたはずの音楽大学にも行かずに、だ。
きっとやりたいことがあったのだろう。
律歌はそれを、その理由を、知らない。
「でもほんとに、よかったなあ」
報われたんだね、と画面にちいさく語りかける悠生が、シズという男を慈しんでいる。ぎり、と奥歯を噛んだ。
「シズね、自分に演技力が足りないからだ、ってワークショップ行ったりして……忙しかったのにすごいよね。舞台へのオファーはちょこちょこあったみたい。でも、ツアーとかと重なってることが多くて大半は断ってた。もちろん、日替わりゲストとかダブルキャストでやれるようなのは受けてたけど」
「……よく知ってるんですね」
「一番仲がよかったから」
「あぁ」
だんだん返事が素っ気なくなっている。話を遮らずに聞くことを選んだのは律歌だ。ひとつ息を吐いてレモンサワーを飲む。
「他の人たちも、アイドル志望じゃなかった?」
「どうだろう。けど、スイは今シンガーソングライターだし、シキはモデルとかダンサーとか、色々」
ここで、悠生は? と訊ければよかった。それを、悠生に踏み込めなかった、と表現するならやさしい友人と評されるだろうか。
律歌はただ、一年半も同じ家で過ごしたくせして、再会した日と同じようにはぐらかされるのが怖いだけだった。
***
休みの日はアラームを設定せずに眠る。不規則な生活をしている自覚もあるし、実際、それで起きられるのはよくて十時ごろ。一番遅くて十五時半まで寝ていたことがある。
ふっと目が覚めて、リビングの方で音がしていることに気がついた。テレビが点いている。律歌はまだ微睡の中から抜け出せそうになく、何時だろう、と思いながら寝返りを打った。
悠生が律歌より先に目覚めるのはいつものことである。朝ごはんはいらないと昨晩のうちに言ってあったから、食事の匂いはしない。もう一度深い眠りに落ちそうになったとき、ガシャン、と何かが割れる音が聞こえた。
「っ、」
扉のすぐ向こうというわけではない。おそらく、台所の方。今、この家でそんな音を立てられるのは悠生しかいない。
律歌は飛び起きてリビングへ入る。
「先輩!」
ざっと見渡すがリビングにはいなかった。テレビは賑やかなワイドショーを映し出している。急いでキッチンを覗くと、荒い息遣いが聞こえた。
「あ、……あぁ」
突き当たり、壁と冷蔵庫が合わさった角に背中を押しつけて、悠生はずるずると座り込む。
きっともとはシンクの辺りにいたのだろう。床には白い取り分け皿らしきものの破片が散っていた。
律歌は慌てて飛び出してきたからスリッパを履いていない。構うものか、と大きな破片を迂回するように踏み入れて、悠生の前にしゃがみこんだ。
「せんぱい」
「い……やだ、っ、あ、あぁ」
悠生は耳を塞いで身体を震わせている。顔は真っ白。譫言を吐き出す唇は色をなくして、瞳は濁ったように焦点を失っていた。
ああ、と律歌は眉を寄せる。悠生がこんな風にパニックを起こすのは、初めてではない。両手を伸ばして悠生の手首にそっと触れる。びく、と大げさに震えるが抵抗はなかった。
「先輩、先輩」
届くように、と顔を覗いて何度か名前を呼ぶ。
「悠生先輩」
辛抱強く名前を呼び続けると、ようやく、ばちりと目線が合う。それから悠生は瞳をうろうろと彷徨わせた。浅く息をしながら可哀想なくらい眉を下げる。
「り、っか」
「うん」
「ぁ……どう、しよ、来る」
今度は悠生が律歌の両腕を縋るように掴んだ。涙の膜が張った目で見上げられる。震える指先は簡単に振り払えないほど力が込められていた。
「なにが来るの」
「くる、くる……っ」
まだ落ち着ききってはいないようだ。まともに会話ができない悠生の脇の下に腕を入れる。そのまま力を入れてなんとか立ち上がらせると、首筋に額を押しつけられた。律歌の肩に手をかけた悠生は小さな声で来る、だの嫌だ、だのと繰り返している。
「……だいじょうぶ」
安心させるように背中を叩いた。
「向こう、行きましょう」
そう促すが動く気配はない。律歌は仕方なく悠生の膝裏に腕を入れ、彼を横抱きにした。細いとはいえ重量はある。破片を踏まないように注意しながら移動し、二人掛けのソファに悠生を座らせた。
そのときだった。
『と、いうわけで、大人気アイドルグループ「リミテッド・エンジェル」の元メンバーSAE、結局引退後の足取りは掴めませんでした』
大げさに抑揚をつけた男性の声がリビングに響く。それは画面に映された、司会芸人の声だった。はっとして律歌がテレビを見る。
画面右上には「今なにしてる?」と書かれた番組ロゴ。その下に「元リミ・エンのSAE」と書かれた文字。
どうやら引退して行方をくらませた悠生のことを探るような企画があったらしい。
「ひっ、」
自分の名前が聞こえたことは分かったのだろう。悠生はまた耳を塞いで、ソファの上で身体を縮めた。
ローテーブルの上に置いてあったリモコンでテレビの電源をオフにする。悠生にパニックを起こさせたトリガーはこれだった。
律歌は悠生を安心させるために隣に座る。こちらにもたれるように仕向けると悠生は簡単に律歌の腕に収まった。耳から手を剥がして抱きしめる。
「大丈夫」
頭から肩、腕、背中をゆっくりさすりながら大丈夫、大丈夫、と繰り返した。
「大丈夫です」
本当は律歌にもどうしたらいいのか分からない。ただ、悠生を安心させるために、怖いことはなにもない、と言い聞かせるしかなかった。
「こわい。みつかる」
「見つからない。見つけられなかった、って言ってました」
「あ、ぁ」
「大丈夫」
どのくらいそうしていただろうか。ようやく落ち着いてきた悠生が身じろいで、律歌の身体を押す。呼吸は整いきっていないけれど、震えは収まったようだった。
「ごめん」
「落ち着きました?」
「……ん」
俯いてしまった悠生の確かな返事を聞いて、律歌はソファから立ち上がる。なにか温かい飲み物を持ってこよう。そう思った。
マグカップを取り出すにも、電子レンジを使うにも、電気コンロを使うにも、まずは皿の破片を片付けなければならない。掃除機を取り出してきて周囲の細かい破片を吸う。指でつまめるものはそっと重ねて、キッチンペーパーで包んでコンビニ袋に突っ込んだ。ひとまずこれでいい。
それから冷蔵庫を開けた。目的のものはきちんとそこにある。律歌は悠生専用のマグカップを取り出して牛乳パックから牛乳を注ぐ。ラップをかぶせてから電子レンジで一分半温め、すこしだけ砂糖を入れてスプーンでかきまぜた。
スプーンで掬ったそれを味見して、ほんのりと甘さがあること、温まっていることを確認する。
そしてマグカップだけを持ってリビングで項垂れたままの悠生にそれを手渡した。
「悠生先輩。これ」
「……ありがと」
悠生は力なく笑って両手でマグカップを握る。じんわりと響く温かさを感じるように目を瞑った。ソファの反対側に回った律歌が隣に腰を下ろしても、口をつける気配はない。
なにか考え込んでいる様子の悠生を横目で窺いながら背もたれに身体を預けた。それからベランダへ続く窓のほうに視線をやって、閉まりきったカーテンのむこうは晴れているのだろうか、と考える。
悠生に初めてホットミルクをつくったのは、一年半前のことだった。
***
大学一年生で悠生と再会したあと、律歌は悠生の息抜きに付き合うようになった。息抜きというのは律歌が思っていただけで彼からそう言われたことはない。有名なアイドルとして活動する悠生が律歌に構う理由など、そのくらいしか思いつかなかった。
芸能に疎い、高校の時の後輩。そのくらいの立ち位置にいる人間のほうが、何も話さずに何も気にせずに遊べるのかもしれないなと結論付けていた。
だから決して律歌から連絡を取ることはしない。その代わり悠生から連絡が来たら、必ず会うと決めていた。はじめは外食。それから、買い物に付き合ったりもした。律歌は悠生に止められたとおりアイドル活動をしている彼のことを調べようとはしなかったが、街中やテレビ番組で見かけると、ああ、自分はこの人と知り合いなのか、とどこか現実味のないことを考えるようになった。
そんなある日、律歌がレッスン帰りにヴァイオリンを背負ったまま悠生に会ったときのこと。
「律歌くんのヴァイオリン、久しぶりに聴きたいな」
個室居酒屋の一室。楽器の音は小さくない。個室とはいえ、外に漏れるだろう。
「こんなところで弾いたら、迷惑になっちゃいますよ」
「……言ってみただけ」
律歌の返答に不満そうな悠生から目を逸らして、考える。家に防音室があるのは悠生も知っているはずだ。招くことはできる。
それから律歌の頭にアップライトピアノの影が過ぎった。普段は見向きもしない、調律もしていないそれ。耳の奥に聞こえてくるのはあの夏悠生が弾いてくれた調べで、浮かんできたのは目の前の成人した彼が弾いている姿だった。
「悠生先輩は、その……ピアノは、もう弾かないんですか」
控えめに訊ねる。結局再会してからピアノについて聞くことができたのは、それがはじめてだった。
悠生はわずかに目を見開いて固まる。しかしそれは一瞬で、すぐにふっと息を吐く。
「忙しくてぜんぜん弾いてないな」
弾かない、と言われればそのまま引き下がるつもりだった。けれど悠生はそうは言わなかった。ならば聴きたいと強請るくらいはいいだろう。
「じゃあ、……うちで、弾きませんか」
それでもそう切り出すのには相当な勇気を要した。あの夏、うちに来ますかと言ったときはもっと気軽だったと思う。
律歌の提案に、悠生はうーん、と首を捻る。失敗した。もしかしたら気を悪くしたかもしれない。
「あの、でもほんとにずっと調律してないから、今日は無理なんですけど」
律歌は慌ててそう付け足した。
「今度、ってこと?」
頷くと悠生は無言でウーロンハイを煽り、目を伏せる。
「……それなら、いいかも」
それきりその話は終わった。帰宅した律歌がやはり失敗だったなと後悔していると、悠生から調律が終わったら教えてほしい、とメッセージが来た。
信じられない思いで何度も何度も読み返して、アプリを開きなおしては確かめて、喜びをかみしめる。もう一度、悠生のあの音楽が聴けるのだ。
翌朝、急いで昔頼んだことのある調律師に連絡を取った。ひどい状態だったピアノを万全の状態に調整してもらうのには時間も料金もかかったが、些細なことだった。毎月大学生には過ぎるくらいに与えられる生活費は恐ろしいほど余っていたし、なにより、悠生が弾いてくれるのだ。
そうして悠生が再び律歌の家を訪れて、座り心地の悪いピアノ椅子に腰かけたのは、翌月のことだった。
「ほんとに弾くの?」
アップライトピアノを前に悠生はすこしだけ、困った顔をする。律歌はすでに悠生の要望通り演奏を終えていて、ひとまず緩めた弓と一緒にヴァイオリンを床に置いた。
「俺は弾いたし、順番です」
「まあ、そういう約束だったけどさ。へたくそでも笑わないでね」
む、と唇を突き出して拗ねたように言うと、律歌の返事を待たず鍵盤に手を置いた。
笑うわけがない。高校一年生の春から、ずっと、焦がれている音楽だ。律歌には到底奏でられない種類の音。
すう、と悠生が息を吸った。すぐにゆったりとした曲が防音室を満たす。
ラヴェルの「なき王女のためのパヴァーヌ」だった。律歌もヴァイオリンで弾いたことがある。当時通っていたヴァイオリン教室の先生に、もっとノスタルジックに、と再三注意された記憶がよみがえってきた。頭を振ってそれを飛ばし防音室の壁にもたれかかる。
穏やかでやさしい曲。律歌は床に体育座りで丸くなると目を閉じて耳だけを研ぎ澄ませた。
記憶にあるものと、音の硬さが違う。それは楽器の違いではなく、長らく弾いていなかったせいだというのは、普段ピアノを弾かない律歌でも理解できた。楽器は一日触らないだけで感覚を取り戻すのに三日かかる。両親にも教師にもそう言われて育った。
それでも悠生の持つ繊細さというのか、やわらかさというのか、そういった滲み出る何かが防音室を満たす。技術だけではどうにもならないことがこの世界には存在しているのだ。言ってしまえば悠生の技術は高校三年生の時より退化しているはずなのに、音楽はすこしも色褪せていなかった。
かつて律歌が天からの使いと表現してしまったことは間違いなどではない。音楽を届ける素質が、悠生の中に生まれた時から存在しているのだ。
ちりちりと胸の奥が小さく焼け焦げるような痛みが生まれる。これを律歌が持っていたら、きっと、両親や周囲の期待通りにプロを目指していただろう。悠生と違って毎日楽器に触れているのに、同じようには弾けない。
悠生と同じ世界は見られないのだ。
やがて、防音室に静寂が訪れる。律歌は顔を上げて悠生を見た。飴色の瞳が不安に揺れている。不出来だと、思っているのだろう。
「……やっぱり悠生先輩の音、好きです」
心臓が締めつけられ、絞り出すように告白した律歌に、彼はほっと息を吐いた。悔しいのに、嫌いだと思えない。
「まだ天使みたい、って思ってくれるってこと?」
軽い口調で悠生が昔の律歌を茶化した。
「先輩はリミテッド・エンジェル、なんでしょ」
真面目に答えるのは恥ずかしく、律歌も茶化すように首を傾げる。ユニット名まで天使だなんて、やはりそういう星の下に生まれたのだろうな、なんていう、ロマンチックなことまで考えてしまう。
それからというものそれまで以上に会う時間が増えた。大半が律歌の家の防音室。
悠生はピアノの練習がしたいから貸してくれと手土産をもって訪ねてくることもあったし、昔のように二人で曲を弾いたりすることもあった。二重奏をしたいと言い出したのは悠生だ。
学校のゴミ捨て場に縛られて置かれた楽譜のことが脳裏を過ったが、結局訊ねられなかった。捨てた理由を知ったらもう二人では会えないかもしれないと思ったからだ。言われないことは、訊かない方がいい。
代わりに悠生は新しい楽譜を買ってきてくれた。律歌はそれを鶴崎との講義に持ち込んで細かく指導してもらったこともある。今こうして二人で演奏できるのだからそれでいいじゃないかと、自分に言い聞かせていた。
***
冬を越えて大学二年生になる直前、律歌はStream Channelでの配信活動を始めた。
きっかけは高校生の頃からずっと連んでいる棗だ。舞台俳優としての仕事が安定してきて、実力もついてきたからとゲーム実況チャンネルを開設した。実況を撮るにあたって人数が必要なゲームに協力してくれないかと頼まれたのだ。棗たちとゲームをするのは楽しいし、参加して損はないだろうと引き受けた。
この頃には隣人からのクレームにより防音室にパソコンを移していた。ゲーム内の報告に熱中すると、声が大きくなることがあったためだろう。周囲を気にせずゲームができる環境を作り上げ、実況の収録に参加したのが十月のことだ。初めてアップロードしたのは、四人で一人の鬼から逃げ切るサバイバルゲーム。鬼から逃げながら建物から脱出するためのアイテムを揃え、脱出出来たら勝ち。鬼に捕まって殺されたら負けのシンプルなものだ。BoLのようなキャラクターが多くルールが複雑そうに見えるゲームよりは万人受けするだろうとサバイバルゲームにした。追いかける側でも逃げる側でも画面映えはする。
カスタムモードでプレイヤーを身内にして撮ったものをアップロードすると、棗のファンの間で瞬く間に広まった。動画の本数が増えていくにつれ、ゲームを成り立たせるためのモブプレイヤーの一人であるはずだったリッカの言動や行動に注目したコメントも増えていく。
『リッカくんが身を挺して棗庇ったのかっこよすぎ! 脱出できてよかった』
『リッカ普通に上手くね?』
『棗くん以外の人たちもおもろいし、また五人でゲームしてほしい』
それらを読む度、楽器の腕前を褒められるのとは違うむず痒さが生まれた。音楽以外で人に褒められることがない人生だったからだろうか。
面白い、楽しい、と収録の際に溢したら、棗が「じゃあリッカもやれば?」と勧めてきた。
「まさか本当にチャンネル作ると思わなかった」
「家まで来てセッティングしてくれた人が何言ってるんですか」
動画編集までできる気がしない、と言うと実況には動画だけでなく生配信もあると教えてくれたのも、棗だ。編集がなくその場で喋るだけならできるかもしれない。そう思ってチャンネルを作った。
SNSアカウントを開設し配信日を告知すると、棗のファンが見に来てくれた。やってみると案外面白く、当時アルバイトをしていなかった律歌は配信にのめりこんだ。音楽という物差しのない会話をするのが気楽だった。
一方で鶴崎にレッスンをしてもらっているときや悠生と演奏をしているときも、楽しさは感じていた。音楽のことを嫌いになれたらいいのに。二十年も生きていないのに、その人生で何度も思った。
それから大学二年生に進級し、ひと月。一般教養の講義、楽器のレッスン、ゲーム実況配信。日々は案外忙しなく過ぎていき、ゴールデンウイークと呼ばれる大型連休に入った。
しかし大学生に祝日というものは存在しない。曜日で決まった授業を受け、その分の休みは学内の行事―例えば文化祭とか―の準備日に充てられる。律歌も例外ではなく、月曜日から木曜日まで授業を受け、ようやく全休の金曜日を迎えていた。毎週を三連休にしてはみたものの、楽器かゲームかの生活をしていると、休みなどいつでもよかったな、という気もしてくる。
朝起きてスマートフォンを見ると、メッセージが一件来ていた。差出人は悠生。
『誕生日おめでとう。今日、夜空いてる?』
可愛らしいおめでとうのイラストスタンプと共に送られてきていたそれに、思わずスマートフォンで日付を確認する。
今日は五月六日。正真正銘、律歌の生まれた日だ。
「う、わ……」
忘れていた。律歌は忘れていたというのに、律歌より忙しい悠生が覚えてくれている。その事実がどうしようもなく嬉しい。じわじわと顔が赤くなっていくのを感じる。今日の夜、もしかしたら、祝いに来てくれるのかもしれない。
『ありがとうございます。夜、空いてます』
期待を抱きながら返事をする。何度か読み返したけれど、これ以上の言葉は出てこなかった。
『家行っていい?』
直球を投げられて喉がぐっと詰まる感じがする。やっぱり、祝ってくれるつもりなのだろう。はい、と返すとさらに「何食べたい?」と訊ねられた。
なにか特別な希望はない。というより誕生日祝いで何を食べるのかを思いつかない。
『ケーキとか……』
つまらない回答しかできなかった。それでも悠生は「じゃあピザとケーキね。持っていくから、待ってて!」とメニューを決めてくれる。それがまた嬉しかった。
誕生日当日に直接人に祝ってもらえるのは、覚えている限り小学校低学年ぶりかもしれない。あの頃はまだ、父も母も誕生日に合わせてなにかをしてくれていた。
果たして夜、二十時を回ったところでインターホンが鳴る。悠生だ。エントランスを開けてしばらくするともう一度同じ音がした。玄関扉を開けると、右手にピザの平たい箱、左手に大きな荷物をぶら下げた悠生が立っている。
「お待たせ。はい、これ」
にっこり微笑んでピザを差し出してきた。それを受け取って二人でリビングへ歩く。
「全部おいしそうだから三枚も買ってきちゃったけど、食べれるかな」
「この大きさならいけるんじゃないですか」
律歌は手に持ったビニール袋の中にある幅三十センチもなさそうな箱を見た。律歌も悠生も一般的な成人男性だ。悠生は細いけれど律歌と同じくらいは食べる。だから、時間をかければきっと食べきれるだろう。
ピザの箱を三つ並べて、蓋を開けた。てりやきと、明太子ソースがかかったものと、チーズだけのものがある。
「うまそう」
思わず呟いた律歌へ、悠生は得意げに「でしょー」と言った。
「先輩、水と緑茶どっちがいいですか」
台所に向かいながら問いかける。こんなことなら甘い炭酸飲料でも買ってくればよかった。ピザとケーキに水もしくは緑茶なんて、すこし味気ない。
「あ、いいよ。律歌くん、こっちきて」
「え?」
振り返ると、律歌が受け取らなかった方の大きな荷物をごそごそと漁っている悠生が見えた。なんだろう、と寄っていく。
「はい!」
きらきらの笑顔で眼前に突きつけられたのは長いビン。のけ反ってよく見るとそれはワインのボトルだった。
「律歌くん、今日で二十歳でしょ。だから買ってきた」
「え、……あ、そっか」
そうだ。今日は律歌の、ニ十歳の誕生日なのだ。確かに四月の末、両親が送ってきたメッセ―ジカードには成人おめでとうと書いてあった。女性のように晴れ着の写真を残すこともなく、成人式があるのは来年。すっかり頭から抜け落ちていた。
「もしかして、忘れてたの?」
大きな飴色の瞳がこぼれそうになるほど目を見開いて、悠生は身を乗り出してくる。
「実は誕生日も、先輩に言われなかったら忘れてました」
「ほんとに?」
「ほんと。だから、ありがとうございます」
悠生の手からワインボトルを受け取る。中身は白ワインのようだ。
「ワイングラスとかないんですけど、いつものグラスでいいですか?」
「うん」
高級そうなボトルをダイニングテーブルの上に置いて、背の低いグラスをふたつ、キッチンから持っていく。
律歌はボトルの頭を包んでいる包装を破ってから、コルクの嵌ったそこを見て、この家に栓抜きなど存在しないことに思い至った。
「これ、どうやって開けるんですか」
「手で開けられるよー」
冷蔵庫にケーキをしまいに行った悠生がこちらに向かって声をあげる。そうなのか、と思いビンの先から出たコルクをぎゅっと捻った。力を入れるが、開いた瞬間にボトルごと落としてしまいそうで怖い。ゆっくり角度を変えていくと、無事に律歌の力だけで蓋が開いた。
「律歌くん」
それちょうだい、と言われてワインボトルを悠生に渡す。律歌が持ってきたグラスに、悠生がワインを注いだ。
「冷めないうちに食べよう」
「……はい」
「律歌くん、お誕生日おめでとう」
二人でグラスを掲げて乾杯をする。はじめて口にした白ワインはやわらかく、甘い。悠生が飲みやすさを考えて選んでくれたのだと思うと、舌がしびれる。これならいくらでも飲めてしまうかもしれない。
最近あった面白いことや律歌が受けている講義の話など、とりとめのない話をしながらピザを三枚平らげ、ワインボトルも空にした。
気持ちも腹も満たされ、アルコールのせいでふわふわした気分のまま寛ぎたくてソファに移動する。BGM代わりにテレビを点けて背もたれに体重を預けた。
どうやら出版社に勤める雑誌編集者のドラマが放映されているようだ。
「んん……」
とん、と左肩に重みが加わった。
「酔いました?」
眠そうに目を瞬かせる悠生に声を掛ける。騒ぐタイプではないけれど、じっと黙っているほうでもない。そんな悠生が無言で身体を預けたまま動かないとなれば、酔ったのだろうな、と思うのは当然だろう。
「んー……」
否定とも肯定ともつかない返事だ。寝たいならベッドがある江恋の部屋を使えばいい。そう提案しようと口を開いて悠生を見た。
長めの前髪が顔にかかっている。わざと色を抜いてグレーに染色してあるその髪は、何度も色を変えているせいで傷みが見えた。それでもさらりとした艶のある髪だ。そんな前髪の間から覗く丸っこい目の縁に生えているまつ毛は飴色のままで、あの頃と変わらない部分もあるのだと思う。
潤んだ瞳がテレビの画面を映しているが、悠生はそれを見ていないようだった。酒気を帯びて上気した頬も相まって心臓がどくりと音を立てる。
「ゆきせん、」
ほとんど吐息と一緒に吐き出されたそれは悠生に届かなかった。
その代わり、律歌にかぶせるようにして悠生がろれつの怪しくなった口調で話しかけてくる。
「りつかくんはさ、ぼくのこと、……どう、思ってるの」
まるで、スナイパーライフルに頭を撃ち抜かれたかのような衝撃だった。律歌はわずかに目を開いたまま固まって、唇を震わせる。
「どう、……って」
再会してから、律歌は悠生のことをただの先輩ではない何かで、ただの友人でもない何かだと思っていた。
悠生が奏でる音には心酔している。同時に眼前の壁として立ち塞がられている。律歌はその壁を壊したり乗り越えたりするのではなく、寄りかかって生きていくのもいいかもしれないと思い始めていた。壁の向こうの世界が見えないことを嘆くより、悠生の音楽を近くで聴けることを歓喜するべきだ。
そんな胸中をいきなり晒すのは、恥ずかしい。どうして突然そんなことを聞くのだろう。
無意識のうちに普通ではない態度を取っていたのかもしれない。
「りつかくん?」
アルコールのせいで膜が張っていると思った瞳が不安に揺れている。悠生は律歌を見上げてじっと言葉を待った。
ごくりと唾をのむ。どうしてか、ここで言葉を間違えてはいけないような予感があった。
「悠生先輩の音が……ずっと好きで」
すると悠生は形のいい眉を八の字にゆがめて、縋るように律歌の腕を掴む。
「きらいになった?」
「えっ、なんでそんな話になるんですか」
「まだ好きでいてくれる?」
「す、……好きです」
好き、と口にした瞬間自分の心臓がどくんと大きく脈動した気がした。パズルの最後のピースがカチリと嵌まる。視界が開ける。悠生の音楽について言ったつもりが、全てに納得してしまった。
一方の悠生は安心したように手の力を抜く。それから、律歌の左肩に額を押しつけた。
「ごめん、忘れて」
ちいさく、くぐもった声が聞こえる。か細い、ともすれば震えているかもしれないそれに胃の奥がぎゅっと絞られた。
申し訳ないが忘れることは出来ない。今の一言で、律歌は悠生のことが好きなのだと自覚してしまった。どうして悠生がこんな事を訊いてきたのかは分からないけれど、もう、忘れてあげられない。
何かあったんですかと訊いてもいいものだろうか。以前から、悠生は自分のことを律歌に教えようとしない。
どうしたの。なにがあったの。どうすれば俺は安心をあげられるの。
頭の中に浮かんだどの言葉も不適当な気がして、律歌は目を伏せた。それから左腕を悠生の背に回す。そ、っと撫でると彼の身体が強張っているのを感じた。
悠生がずるりとバランスを崩して律歌の膝に落ちる。眠ってしまったらしい。悠生の細身の身体を抱き上げて、江恋の部屋に運ぶ。律歌より数センチ身長が低いだけで、悠生の身体は驚くほど軽かった。
律歌の前ではそんな素振りは見せないけれど、アイドルらしく、体型維持など制約があるのだろうか。
すこし酔いが醒めたような、けれど熱に浮かされているような気分で江恋の部屋を出る。点けたままだったテレビを消して、律歌も自室で眠ることにした。
***
「楽しくて飲み過ぎちゃった。ごめんね」
というのが、朝起きてきた悠生の言い訳だった。覚えているのかいないのかについては言及していない。
「俺じゃなくて先輩の方が酔っ払うんですね」
苦笑しながら辛うじてそう返した。たいして迷惑は掛けられていないがどう触れたらいいのか、迷う。
「ほんとにね」
悠生はその後、仕事があるからとすぐに帰っていった。
ゴールデンウィークが終わると、湿気が鬱陶しい時期が来る。そこを抜けてじりじりと太陽が地面を焦がす季節が来た。悠生が好きだと自覚してから、浮ついた気分が続いている。
誕生日の後も悠生とは何度か会った。会う度に音楽以外の、顔や、声や、仕草にどきどきする。きっとずっと悠生のことが好きだったのだとも思った。初めて、ピアノを聴いたときから。
夏休みは悠生から一度も連絡が来なかった。理由は知っている。ちょうど梅雨どき、律歌の家の防音室で演奏をしたあと、悠生が教えてくれたのだ。
「律歌くんにお願いがあるんだけど」
「なんですか」
改まって頼まれることとは、と思いながら構えていたヴァイオリンをおろす。
「九月の最終日、空けておいてほしい」
「……どうして」
「リミ・エンのライブがあるんだ」
思わず首を傾げた。今まで何度もライブをやっていたのを知っているし、そのどれもに、律歌は招待されたことがない。恥ずかしいから見ないでと、言われたことも覚えている。以前番組でピアノを弾くことになったと言っていた時も、ここでいくらでも弾くからどうしても見ないでくれと懇願されたくらいである。
それが今になって、どうして。
疑問が顔に出ていたのだろうか。悠生は律歌から視線を逸らして、ポーン、と鍵盤の適当な場所を人差し指で押し込んで、つぶやいた。
「解散ライブだから」
「解散?」
「そう、解散」
先ほどの音はG。今度はC。
解散するから見てほしい。そういうことなのだろうか。
正直、アイドル活動をしている悠生を見てみたいと思ったことは何度かある。悠生の髪色が変わったとき、今日はミュージックビデオの撮影があったから疲れたと聞いたとき、今度ドラマの主題歌を歌うと教えてもらったとき。
それでもわざわざ調べたりしなかったのは、やはり、悠生が言った「見ないで」が引っかかったからだ。ピアノと楽譜を捨てたあとの悠生のことを直視できなかったという面もある。
けれど今は、悠生が好きだと気づいた今は、観に行きたい。
「行っても、いいんですか」
「うん。最後だから……見てほしいと思って」
「なら空けておきます」
律歌はすぐに頷いた。見ないでほしいを上書きされてしまえば断る理由などない。鍵盤と向き合っていた悠生が律歌を振り仰いだ。
「ありがとう」
悠生はそう、はにかむ。
その日を境に悠生は律歌の家を訪れなくなった。忙しいのだろう。解散ライブまであとふた月。
先日流れていたニュースではリミテッド・エンジェルが解散することを惜しむ話題が出ていた。ニュースになるほどのことなのだ、という認識をしたところで、悠生がそこへ所属しているのだという実感は湧かない。
ほとんどリミテッド・エンジェルについての情報を得ないまま、解散ライブ当日を迎えた。わくわくしながら会場に向かう。見たことのない悠生が見られる。
律歌の家に郵送で届いたチケットは関係者席のものだった。それが分かったのは、関係者受付から入場してほしいという旨の手書きメモが添えてあったからだ。メモの通りに受付を済ませると、人がまばらな一画に通される。
そこは国内でも有数の大きなホールだった。外から見ても大きかったが、中に入ってみるとさらに広さを感じて驚く。
ステージは正面に設置されており、花道が客席中央に伸びている。花道の終わりには円形の小さなステージがあり、そこにも移動していくのだろうと予想ができた。
律歌が座った席は、関係者席の一画の中の最前列だった。悠生がこの席を用意してくれたのだろうか、と思いながら下階、アリーナと呼ばれる座席を眺める。開演の十分前ということもあってかそこには既にたくさんの人が座っていた。オーケストラのコンサートホールをゆうに超える大きさのこの会場を、悠生たちリミテッド・エンジェルは埋めてしまう。
待っていると、やがて場内の照明が消えた。前のステージのバックスクリーンに映像が映し出される。四人がデビューした日付が表示され、その文字の後ろにある時計の針が時を刻んでいく。それに合わせて文字もどんどん今に近づくよう変わっていって、とうとう今日の日付になったとき、ポップなデザインのライブタイトルロゴが現れた。
わっ、と歓声があがる。会場にいる誰もがペンライトを振って応援していた。関係者席の中にも、それを持っている人が数人いる。
画面はメンバーの写真と名前が順番に表示され、その度に黄色い声が彼らを呼んだ。シキ、シズ、スイ、ときて悠生のサエは四番目だった。歓声の大きさでは個人の人気の差は測れない。今日アイドル活動を辞める四人全員に、ファンがちゃんと思い入れている証のように感じた。
映像が終わると四人がステージの天井からゴンドラでゆっくりと降りてくる。観客はさらに盛り上がった。
四人はゴンドラの上から手を振るでもなく、目を閉じて立っている。そうしてすぐに、バラード曲のイントロが流れ出した。歌いだしは、リーダーのシキ。伸びのある声がホール内に響き渡る。
そして、作り物の白い羽根がたくさん、ステージ上にひらひらと舞い落ちた。
四人全員が、デビューのときと同じ衣装を纏い、髪色は全員白に近い色にしている。デビューの時、と分かったのはその衣装に見覚えがあったからだ。律歌は音楽室で緑に悠生のことを聞いた日を思い出した。それから、歌い繋いでいく悠生を食い入るように見つめる。
たくさんの照明に照らされた舞台の上、静かに、けれどやさしく歌う姿は、確かに悠生だった。ほとんど白に近い髪の毛が動く度にさらさらと揺れる。首輪のような白いチョーカーは、まるで悠生をリミテッド・エンジェルに縛りつけているみたいだ。
ライブは、中盤の激しい曲で最高潮の盛り上がりを見せ、最後にメンバー一人一人の心のこもった挨拶をし、アンコールで幕を閉じる。
律歌は最後まで悠生に釘付けで、他のメンバーがどうしていたかなど、一切覚えていなかった。
***
悠生から連絡が来たのは、ライブが終わってすぐのことだった。
『面会、きて』
その短いメッセージに気づいたのは、ふわふわとした気持ちで会場を離れたあと。まだ出口を通って一、二分歩いただけだったが、ああいうところは再入場が出来ない。
『出ちゃいました。すみません』
会いたい気持ちはあったが、余韻を抱えて帰りたい気持ちもあった。本人を前にしたら頭がパンクしてしまいそうだ。すでに、身も心も満たされている。
律歌は断りのメッセージを入れた後すぐに、「すごくよかったです」と付け足した。
『来てくれてありがとう』
『こちらこそ。生で見られてよかったです』
この先、もう二度と彼らがステージに上がらないと思うと残念な気がする。今まで見ていなかったことを後悔しそうだ。リミテッド・エンジェルという名の通り、はじめから期間限定だったのだろうか。あとで悠生に訊いてみよう。
耳の奥に、まだ悠生の歌声が残っている。ピアノを弾くところばかり見ていて、あんなふうに歌うのだということを知らなかった。
律歌はスキップしそうな足取りでコンビニ弁当を買う。そのまま帰宅し、食事と寝支度を済ませてベッドに仰向けになった。
「すごかったな……」
思わずつぶやいて、目を閉じる。
つい数時間前に見た光景がぼんやりとよみがえってきた。まばゆい照明に、客席で光るペンライト。大きなスピーカーから流れるイントロとそれに乗せられる調和のとれた声。熱気のこもった会場の空気がまだ身体に残っている気がした。
翌日、太陽が頭上に高く登った頃にスマートフォンの着信音で目を覚ます。メッセージアプリで使える通話機能の着信音だ。
「……はい?」
知らない人間ではないだろう。寝ぼけた頭で相手も確認せずに出ると、電話の向こうから切羽詰まった声が飛んできた。
『鈴原さんすいませんっ、あの、あのひとが新居の前にもいてっ、』
確認するまでもない。悠生だ。けれど律歌は鈴木であって鈴原ではない。電話を掛け間違えたのだろうか。それを指摘する前に、もはやか細い悲鳴のような訴えが鼓膜を揺らす。
『事務所でもどこでもいいから、一旦匿ってくれませんか? 今、もう駅にいるんですけど』
いつもの穏やかでやさしい声でも、天真爛漫さのある色でもない。何かに追われ強く身体を引き裂かれてしまうようなそれに急き立てられて名乗った。
「先輩。俺、律歌です」
『り、……つか?』
息を呑む気配がある。まさか自分が律歌に電話を掛けたとは思わなかったのだろう。
「うん」
『あ、ごめ、かけ間違えた、ぽい』
弱々しい声。少し乱れた呼吸。聞き取れる範囲でも悠生が正常な状態でないことはわかる。
律歌はなるべく静かに、悠生を誘った。
「先輩、困ってるならうち来てください」
『で、でも、迷惑かけちゃうから』
「聞いちゃったら、助けないわけにはいかないです。今なに駅ですか?」
伝えられたのは律歌の家の最寄り駅から電車で三十分もかかる駅。
「改札出たところで待ってます」
有無を言わさずに電話を切って、支度をする。悠生がなにに巻き込まれているかは分からないけれど、好きな人が困っているなら力になりたい。
悠生は、あの人が新居の前にもいて、と言っていた。昨日のライブを見ればわかる。悠生はアイドルで、そういう不届き者がいるだろうことは想像に難くなかった。馬鹿げた勘違いで動いていて恥ずかしい思いをするかもしれないけれど、何もないならそのほうがいい。
逸る気持ちを抑えながら、意味もなく早足で最寄り駅への道を歩く。走ってしまいたいほど落ち着かないが、走ったところで悠生が乗った電車の到着時刻が早まるわけではない。
人の波が降りてきて、その中に悠生を探す。まだ到着時刻には遠い。音沙汰のないメッセージアプリの画面を上へスワイプして何度も更新する。しかし、悠生からの続報はない。
「……クソ」
生まれて初めて、免許と車を持っていなかったことを後悔した。今すぐ迎えに行く、と言えたらどんなによかっただろう。そわそわしながら、半ば睨みつけるように改札前で門番をしていると、いきなり背後から肩を叩かれた。
「せんぱ、……っ」
思いのほか大きな声が出て慌てて口を噤む。
「おまたせ」
キャップのつばとマスクの下に隠れて表情が分からない。ただ、分厚い伊達眼鏡のレンズ越しに見える目が潤みきっている。それでも崩れないのはここが外だからだろう。
「行きましょう」
悠生に対して、初めて、庇護欲を抱いた。安全な場所へ連れていかなければという使命感で手首を掴み、タクシーが停まっているロータリーへ向かう。運よく一台だけ待機していた。
悠生が何も言わないで引きずられるのをいいことにそこへ押し込む。律歌の住むマンションへの道のりを軽く説明して、シートに背中を預けた。
外では太陽が輝いていて、十月になったというのにまだ暑い。律歌は半そでティーシャツにハーフパンツを履いて気楽な格好をしているくらいだ。
しかし七分袖のシャツを羽織って、ぴったりとした黒スキニーの悠生は、それでも寒いと言うように腕で自らを抱いている。かぶっていた黒キャップは目深にかぶり直し、窓から隠れるように丸くなっていた。
タクシーの中で下手に話すのもよくないだろう。律歌は視線を自分が座った側の窓の外へ向けて、マンションに着くのを待った。
信号に捕まることもなく進み、マンションの車寄せに滑り込む。ポケットに入れていた財布を取り出して料金を支払い、タクシーを降りた。
降りてから、悠生が全く動いてないことに気が付く。
「着きましたよ」
肩を叩いて降車を促した。悠生はびく、と跳ねあがって、それから触ったのが律歌だと認識すると、ごめん、と謝ってこちらへやって来る。苛立った運転手が雑に曲がって去っていくのを尻目に、エントランスへ入った。悠生はぶつかりそうなくらい近くをついてくる。エレベーターを十三階で降りて自宅の鍵を開け、玄関に入った。
「先輩っ」
先に靴を脱いで振り返った瞬間、悠生が膝から崩れ落ちる。律歌は反射でそれを抱きとめた。
「大丈夫ですか?」
「だい、じょぶ。……ごめん」
謝罪を絞り出した声が震えている。声だけではない。律歌を押し返そうとする腕もほとんど力が入っておらず、立ち上がろうとする脚も同じだ。
「へいき、だから」
それでも自力で立とうとする悠生の腕を肩にかけて持ち上げた。こんな姿を見せられて、平気、と言われても信じられない。背中に手をまわすと、シャツが湿っていた。密着した身体はつめたい。恐怖に流した汗なのだろうと思い至って、律歌は強く腰を抱いた。
なにか怖い思いをしただろうに、それでもまだ律歌の前で「平気」と強がろうとする。それが悔しくもあり、いじらしくもあった。
悠生を二人掛けのソファに座らせて、律歌は台所へ入る。なにか身体が温まるものはあっただろうかと冷蔵庫を開けた。
「あ、いいじゃん」
ちょうどよく牛乳パックがある。数日前にふと冷たい牛乳が飲みたくなって気まぐれに買ってきたものだ。客用、とはいえ専ら悠生のためのマグカップに牛乳を注いで、ラップをかけて電子レンジに入れる。ポケットに入れていたスマートフォンで「ホットミルク 電子レンジ」と調べて出てきた分数を設定した。
砂糖はない。甘くしてやった方が気持ちも解れるかもしれないが、自炊をしない律歌の家にそんなものは置いていなかった。
牛乳を温めただけのそれを持ってリビングへ戻る。ソファの上で悠生は座らせたままの姿勢で固まっていた。
「悠生先輩」
隣に腰を下ろして、彼の目の前にマグカップを掲げる。のろのろと視線をそれに合わせた悠生が両手でマグカップを受け取った。持ち手の部分に指を入れると片手でそれを傾けようとする。
熱すぎはしないだろうかと不安になりながらそれを見つめて、ふと、悠生の顔がマスクに覆われたままであるということに気が付いた。おそらく、悠生は気が付いていないだろう。
「待って」
静止をかけると、ぴたりと止まった。
「マスク取りますね。あと、眼鏡と帽子も」
そう断りを入れて耳にかかっていたゴムを外す。黒フレームの伊達眼鏡はブリッジをつまんで引き抜いて、キャップはつばを持ち上げた。それをされる間悠生は、じっ、と固まったままだ。
「はい」
怖くなってすぐにゴーサインを出す。すると悠生はゆっくりマグカップを傾けた。縁に唇が触れる。
「あったかい……」
ひとくち含んだ悠生がそうつぶやいてほっとした。それから、彼は再びマグカップの縁に口をつける。
気に入ってもらえたならよかった。律歌は視線を悠生から透明なローテーブルの天板に移す。ガラス板が天板になっているそれは江恋の趣味で置かれているものだ。テーブルだけではない。この部屋にあるものは大抵、江恋が選んでいる。
なにを、どこから聞けばいいのだろう。
配信なんてものをやっているが、話すのが上手いという自負はない。友人も少なく、無論こういった場面に遭遇したことなどなかった。友人たちと波風の立たない上辺だけの付き合いばかりしてきたことを後悔しても遅い。
ガラス板の上にマグカップが置かれる。
悠生がホットミルクを飲み終えたのだろう。それがわかっても、律歌は動くことができなかった。
重苦しい空気が部屋に充満する。今まで、悠生とふたりの沈黙がこんなに重かったことがあっただろうか。
「……何から話せばいいのかな」
律歌が迷っていると、ぼんやりとした芯のない声で呟かれた。戸惑っているのもつらい思いをしているのも悠生なのに、気を遣わせている。
「話したくないなら、……いいです」
何から逃げてきたのか。何を怖がっているのか。
ほんとうは、全て知りたい。
教えることで悠生が苦しむならいらない、というのは半分以上嘘だった。
また時が止まる。律歌は膝の上で組んだ指を一本一本観察して、悠生が何か話すのを待った。何も教えられないと言われたら、わかったと頷いて江恋の部屋を貸そう。落ち着くまではそこにいてもらう。もう帰ると言われたら玄関先までと言わず駅まで送ろうと決めた。
「ストーカー、が、いて」
「……っ」
思いがけず直接的な単語を聞かされて驚いた。律歌には縁のない言葉だけれど、芸能人である悠生がそれに悩まされるというのは理解できる。先ほど一瞬想像したようなことが、現実に起こっていたらしい。
単語を聞いた律歌のほうが、喉を詰まらせた。
「ちょっと前からいて、ホテルにも行ったけどだめで、でも、もう辞めるから、それはよくて……。それで引っ越し先とかも、誰にも教えてなくて、なのに、今日からあそこだったのに、部屋の前に、い、いて」
言葉尻が震える。要領を得ない話ぶりだった。悠生は身を守るように両腕で身体を抱いて俯いてしまう。恐怖に耐えるかのように噛みしめた唇が切れてしまわないかと心配になった。
「鈴原さん、ってマネージャーでしたっけ」
世間話をしているときに何度か名を聞いた。悠生はきっと、マネージャーに助けを求めたのだろう。昨日解散したグループのアイドルと事務所との契約がどうなっているのか、律歌には知る由もない。けれど助けてくれる当てではあったに違いない。
「あ、……電話、しなきゃ」
「助けてもらえるんですか?」
「新しいところには帰れないから。……住んでたところ、もう退去してるし」
引っ越しの準備は解散ライブより前に進めていたらしい。つまり新居に入れない今、悠生は本当に行き場がないのだ。
新居にも、元いた場所にも帰れない。そしてマネージャーに助けを求めると言う。
律歌はスマートフォンを取り出して電話をかけようとしている悠生の腕をおさえた。不思議そうに首を傾げられる。勇気を振り絞るのに、目線を上げる余裕はなかった。
「行くとこないなら、うちにいてください」
顔を見れないままの誘いを悠生はどう受け止めただろうか。心臓が大きな音を立てている。
これは、困っている悠生を助けるための申し出だ。何度もそう自分に言い聞かせながら反応を待った。
しかし律歌の方が沈黙に耐えかねて悠生を窺う。彼は大きな瞳をさらに大きく見開いていた。目が合うとぱちぱちと瞬きをして、俯いた。迷っているのだろうか。迷っているとしたら、理由はなんだろう。
出ていくよと言われたくない。この状態の悠生を誰かに任せたくない。畳み掛けるように口を開く。
「ホ、ホテルと変わんないかもしれないけど、お金いらないし……ってそういうのは事務所が出してくれるんですかね。でもほら、風呂とトイレは別だし、なんかあっても、俺がいる、の、で……」
言いながら、最後のは安心材料になるのだろうか、と疑問に思った。それこそホテルに泊まったほうが監視カメラや警備に期待ができるのかもしれない。
「……ありがとう」
ふ、と隣の張りつめた気配が緩んだ気がした。悠生の右手をおさえた左手の指先を、彼の左手に握られる。
「律歌くんさえよければ、今日だけ泊めてほしい」
すこしだけ潤んだ瞳に見上げられた。今日だけと言わず、せめて引っ越し先についての問題が解決するまでいてもいい。さらに言い募りそうになったが、そういう話は落ちついた後でもいいだろう。
「はい、ぜひ。母さんの部屋片付けてきます。先輩はここにいてください」
結局マネージャーには電話をしなければならないだろうし、律歌も深呼吸する時間が欲しい。悠生の手をゆっくり解いて立ち上がると、律歌は江恋の寝室へ入った。
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