「こんなもん、と」

現パロ転生 犬を飼ってる雑
動物側は、犬の高、猫の雑です
⚠︎雑さんの離婚描写があります

「こんなもん、と」

 保護犬を引き取りたいと言ってうちに来た犬が、今度は私を守るように巻きついてくれる。目のまえには一枚の紙と、いらなくなった指輪があった。部屋に残った荷物は少なかったから、こうなることは予想されていた未来で、決められていたレールだった。犬がついてきたことには少し、想定外だ。連れていくとばかり思っていたから。
 ──あなたに懐いているもの。
 じんざ、と呼ぶと、犬は顔を上げた。「元」妻の最後の言葉が浮かんでは消える。桜が散り、梅雨が来ようとするこの季節、平均気温が十五度を越え始めて生温かい風が吹く。
(湿気があるのは、嫌だな)
 じりじりと滲む世界は、昨年結婚したときを思い出す。挙式もせず、指輪をつけただけ。両家の親と言えど、自分の親はいないし相手方の不審は募る。早めの梅雨がやってきて、居宅を決めて引越したとき、雨がザアザアと降り続いていた。家財は濡れることもあった。文句ばかりの妻が日々の潤いにと保護をした犬。犬と散歩をしながら妻の両親の愚痴を聞く。最近あの子、あなたと仲良くやれている? そういう義母の言葉がちくちくと胸に刺さる。そうして義母の表情が曇っていくたびに、妻の仕事量が増え、気がつけば違う男の元へ行くと言われた。本当に仕事が増えていたのかはついぞわからずじまいだし、義父母には泣かれ、頭を下げられた。きっと彼らは自分を憐れんで泣いた。犬だけが私を守る。窓が濡れ、そのときもそういえば雨だった。
 じんざ、と名付けた犬はそれはよくしつけられていた犬だった。どうして保護犬になっていたのかはわからない。飼い主不明で放られて、施設の端で大きな体を丸めていた。妻が引き取り、私たちは運命的に出会った。妻のことも、きっとじんざは好きだったはずだ。けれど私の方によく来た。どちらかと言うと、じんざは夫婦の形をどうにか守りたくて、必死だったように思う。私のみに懐いていたわけではなかった。ただ、妻が「あなたに懐いている」と言ったのは、妻がじんざを置いていくためのていのいい理由だろう。そう言えば、私が黙ると思ったのだ。
 もしも私たちが円満に家庭を築いていたら、じんざはきっと凛とした出立ちで街を歩いたに違いない。もしも子どもが生まれていたら、じんざはきっと良い相棒になったに違いない。無くなった未来は想像にどうにも欠けて、虚しく、私の中にしっくりこないし落ち着かない。
……私はもしかしたら、これで良かったと思ってるのかもな」
 そう呟いて、じんざの頭を軽くなでた。じんざは鼻をひくつかせ、私の手のひらをやさしく舐めた。
 ──その、私を慰めるほど器量の良いじんざが。
 二日後の、雨上がりの散歩でばったり出会った青年の、「病院の、帰りで」と言って手に下げていたケージをじっと見つめ、顔を伏せ、鼻を添わせた。ケージの中からはじんざの鼻先ほどの大きさの前足が伸び、それが猫の手だとわかる。私になんか目もくれず、じんざはその前足の主に顔をすりつけ、ケージを軽く揺らすものだから迷惑をかけているとわかっていた。わかっていたが、その二匹の邂逅かいこうを止められずにいた。
「猫になってしまわれたとばかり思い、てっきり、その」
……うん」
「お恥ずかしい、だめです。この子の名をどうか聞かないでください」
「嫌、かな。なんてつけたの」
 青年は額に手を当て、後悔の色ばかりを滲ませていた。私は腹の底から笑いたくなるが、笑えばもう一生許してもらえないかもしれない。雨がもう一度心に降るのはごめんだった。
「陣左、どんな名前にしたの。このずいぶんと大きい猫の」
 ケージのサイズが猫にしては大きい。北欧系の毛足の長めの猫だろう。憎たらしく飼い主の横でひと鳴きして、それで守っているつもりなのだろうか。犬のじんざが鳴き声に反応して、軽く尾を振る。私こそ尾があれば、盛大に振っていたかもしれない。
 青年はその様子を眺め、犬に親近感を覚えたのだろう。まるで自分だと思ったのだろうか。いつか、私の下で働きたいと言ったような。
 そのあまりの飼い猫へのやさしい眼差しに、青年は目を細め、覚悟を決めて口を開いた。