想いを遂げ、喜八郎と付き合い始めて早1ヶ月。お互い実習や課題はあるし、学年も違う。毎日会うことは叶わないが、それでも以前よりは格段に一緒に過ごす時間が増え、俺は幸せな日々を過ごしていた。
まだ手を繋いだことくらいしかないが、俺にとってはそれで十分だ。そりゃあキスやそれ以上のことに興味がないといえば嘘になるが、今は会って、他愛のない話をして、笑い合うだけで幸せだった。進んでしまえばもう元には戻れないから、しばらくはこのままの関係を楽しみたかった。
「今日の宿題、難しくて全然わからないんですよね〜」
デートの最中に喜八郎がぼやく。デートといっても人のあまり来ない裏庭で話をするくらいだ。話の内容だって、こういう色気の欠片もないようなものがほとんどだ。
「どんな宿題なんだ?」
「これなんですけど」
喜八郎が懐からごそごそと宿題を取り出す。見せられたのは、俺も1年前に解いた覚えのあるものだ。確か当時の俺もなかなかに苦心した覚えがある。
「あー、これ難しいよね」
「やっぱりそうですよね。面倒だしやらなくていいかな」
「あはは、先輩としてそれは推奨しかねるけど。良かったら教えてあげようか」
「え、いいんですか?」
先輩として、恋人として、かっこいいところを見せてやりたいという下心たっぷりの申し出に、喜八郎は嬉々として食いついた。
「もちろん。どこがわからないんだい?」
「あ、待ってください」
しかし、張り切って答えようとした俺に喜八郎がストップを掛ける。
「僕、今日は夕食の当番なんです。そろそろ行かないと」
西の空には真っ赤な太陽が沈もうとしている。夕食の準備をするなら急ぐ必要があるだろう。なかなか複雑な問題だから、すぐに説明して終えられるようなものでもない。
「なら夜、俺の部屋に来るかい?」
口にしてから、しまったと気がついた。恋人を夜に自室に誘うだなんて、そういう意味だと思われてもおかしくない。
「あ、いや、別に変な意味じゃないよ!? 勘右衛門もいるし、宿題やるだけで」
大慌てで両手を振って否定する。顔が熱い。喜八郎はわかっているとでもいうように小さく笑う。余計に気恥ずかしさが増して、俺も笑って誤魔化した。
「じゃあ、夕飯とお風呂が終わったらお伺いしますね」
「あ、ああ。待ってる」
「遅くなったらお泊まりしてもいいですか?」
「えっ」
「だって、あまり遅くに部屋に戻って滝夜叉丸を起こしてしまっても申し訳ないですし」
「そそそ、そうだな!」
断るのも不自然な気がして応じたが、動揺は隠せない。お泊まりということは、一晩中喜八郎が同じ部屋にいるということだ。寝顔も見放題。朝には寝起きの姿も見られるだろう。それなりに長い学園生活、実習中に同じ部屋で仮眠を摂ったり風呂で鉢合わせたりといったこともあるけれど、それらは全て付き合う前の話だ。他に人もいたし、好意を自覚して以降は極力避けてきた。なのに、突然のお泊まりだ。
「じゃあ僕、急ぐのでまた後で!」
笑顔で去っていく喜八郎があまりにも可愛い。元々可愛いとは思っていたが、付き合い始めてから一層その想いが強くなった。喜八郎からも好かれているのだと思えば嬉しくていつだって何度だって顔がだらしなくにやけてしまいそうになる。
きゅーんと胸が締め付けられるのを感じながら、でもまだ手を出すには早い、と決意を固める。だってまだ1ヶ月だ。そういう欲がないとはいわないが、身体目当てだと思われるのは不本意だ。大丈夫。勘右衛門もいるし。俺は力強く拳を握りしめた。
自室に戻り、早速勘右衛門にそのことを伝えると、勘右衛門は急ににやにやと意地の悪い笑みを浮かべた。
「俺がいないからってここぞとばかりに連れ込むわけか」
「えっ!? いないって」
「ん? 委員会の話があるから今日は三郎のとこに泊まるって話しただろ」
「そう、だっ……け……?」
「なんだよ忘れてたのか」
勘右衛門はけろっとしているが、俺にとっては一大事だった。頭の中が真っ白になる。
「どうしよう!? 勘右衛門もいるからって誘ったのに、それじゃ騙し討ちしたみたいじゃないか!」
「気になるなら今からでも言ってくれば?」
「今更言われても断りづらいでしょ……」
「そんなの気にするようなタイプか?」
「そういう問題じゃない!!」
勘右衛門がいないからといって如何わしいことをするつもりは毛頭ないが、喜八郎相手に不誠実な真似はしたくない。何より嘘つきだと思われて今後信用してもらえなくなったら悲しい。どうすればいいかを考えて考えて、俺は閃いた。
「そうだ! 八左ヱ門に頼もう!!」
俺が突然大声を上げた所為で勘右衛門が驚いていたが、そんなことを気にしている場合ではない。八左ヱ門にも予定があるはずだから、依頼は早いに越したことはない。
「いってくる!」
「お、おう」
気圧されたような勘右衛門の声を後ろで聞き流しながら、俺は八左ヱ門の部屋へと走った。
事情を聞いた八左ヱ門は、深く突っ込むこともなく俺の部屋へのお泊まりを快諾してくれた。「ついでに俺も勉強しよ〜」と気遣いまで見せてくれる。持つべき者は心優しい友である。ありがとう。今度の休みには美味しい豆腐をたくさん食べさせてあげよう。
俺は心に誓ったが、事はそう上手く運ばなかった。夕食と湯浴みを終え、雑談に高じている俺たちの下に、「竹谷先輩はここだと聞いたんですけど」と孫兵が訪ねてきた。なんでも、またペットの毒蜘蛛が逃げ出してしまったらしい。
「なんだと!? 急いで探さないと!!」
八左ヱ門は孫兵の後を着いて行きながら、「すまん、兵助。そういうことだから」と去っていってしまった。俺はそれを呆然と見送るしかない。
まさか毒蜘蛛をそのままにしていいとは思わないが、こっちはこっちで放置されては困る。頭の中をどうしようが駆け巡る。
「今、孫兵と竹谷先輩が出ていきましたけど、どうかしたんですか?」
八左ヱ門が開け放したまま出ていった扉から、寝支度を済ませた喜八郎がひょこりと顔を出す。見慣れない緩んだ寝巻き姿が既に眩しい。直視できない。
「あー、その、今日は勘右衛門がいなくて……」
代わりに八左ヱ門を呼んだが、都合がつかなくなったと説明すると、「おやまあ」と感情の読めない反応を返される。
「でも僕、竹谷先輩とはあんまり話したことないので」
文机に持ってきた宿題を広げながらそう言われて、それもそうかと気がついた。八左ヱ門なら快諾してくれるだろうとの人選だったが、慌てすぎてそこまで考えていなかった。確かに俺と八左ヱ門と喜八郎では、喜八郎の居心地が悪いかもしれない。俺だってここに滝夜叉丸を呼ぶのは違う気がする。自室なのに疎外感がありそうだ。俺とも喜八郎とも関わりのある人物といえば、1人しかいない。
「そうだ、タカ丸さんを呼ぼう!」
「はい?」
「タカ丸さんなら喜八郎とも仲がいいだろう。適任じゃないか」
「おやまあ」
俺は早速立ち上がって、タカ丸さんの部屋へ向けて出発した。いきなり「泊まりに来てください」だなんて迷惑かもしれないが、タカ丸さんは喜八郎とのことも応援してくれているし、邪険にはされないだろう。喜八郎も俺の後ろを着いてきた。
タカ丸さんに事情を説明すると、困ったみたいに眉を下げた。
「それ、僕お邪魔じゃない?」
「お邪魔なんかじゃありません! ぜひ! 良かったらタカ丸さんの宿題も一緒に教えます!!」
俺は強くお願いするが、タカ丸さんは俺と後ろにいる喜八郎を交互に見てうーん、と考え込む。それから指先でちょいちょいと喜八郎を呼ぶと何やら小声でこそこそと話し始めた。
それを見てうっと胸が締め付けられる。もしかしたら喜八郎は2人きりの方が良いかもしれない。けど恋人同士が密室で2人きりだなんて、何もしなくてもそういう目で見られるかもしれないし、俺が何もしない自信もない。する気はないけれど! でも! 湯上がりの喜八郎に身を寄せられでもしたらだいぶかなり自信がない。いや、喜八郎も望んでいるのならいいのか!?
俺がぐるぐると考えを巡らせている間に2人の話は終わったようで、喜八郎はこちらへ戻ってきた。
「宿題の申し出はありがたいけど、今回は遠慮しておくね」
タカ丸さんににっこりと手を振られて、俺は退散するしかなかった。
タカ丸さんの部屋の扉を閉めた途端、喜八郎にぎゅっと手を握られた。
「久々知先輩は、そんなに僕と2人きりが嫌ですか?」
そんなつもりはなかったが、そう思われるのも無理はない。
「そんなことはないけど……」
「じゃあいいじゃないですか」
「いやでも」
「じゃあ、何か他に問題でも?」
ぐっと言葉に詰まる。まさか手を出さない自信がないなんて言えるはずもない。それ以上反論できず、そのまま自室への廊下を歩く。
喜八郎は怒っているようには見えなかったが、気まずさは拭いきれない。はっきりと真意を聞くことができれば話は早いのだが、できるわけもない。
自室の扉を開くのにこんなにも緊張したのは初めてだ。勘右衛門と喧嘩した後だって緊張するが、それとは似て非なるものだ。心臓が妙に早い。宿題をやるだけ、宿題をやるだけ、と言い聞かせるけれど、それで終わる気が全くしない。手が震えそうになる。いつまでも無為に時間を掛けることもできず、ええいままよ、と覚悟を決めて扉を開けた。
「あ、どこ行ってたの?」
中から呑気な雷蔵の声がして、俺はぽかんと口を開けた。
「へ? 何で?」
「あれ、勘右衛門から聞いてない? 委員会の話はあんまり他人に聞かれたくないから、今日は勘右衛門と部屋を替わることになってたんだけど」
「そうだったのか?」
正直全く覚えがなかったが、勘右衛門が三郎の部屋に泊まることすら忘れていたくらいだ。聞き流してしまっていたとしてもおかしくない。
「あれ、喜八郎もいるの?」
雷蔵が後ろの喜八郎に気づいた。
「もしかして、僕お邪魔だった?」
「いやいやいやそんなことないっ! ありがとう助かった恩に着る!」
後ろから舌打ちらしき音が聞こえたが、聞こえなかった振りをする。先に進むにはまだ早い。キスくらいならなんて過ぎった自分が後ろめたい。歳上として、ここはしっかりと自制しなければ!
「喜八郎に宿題を教えることになってたんだ。良かったら雷蔵も一緒に」
「うん? そうだね。まだ寝るには早いし」
「よろしくお願いしまーす」
喜八郎に軽く睨まれたが、それくらいで動じるつもりはない。部屋に来た時に文机の上に広げたままだった宿題を3人で覗き込む。
その日は健全なお泊まり会で終わった。
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