冬人と水樹さん

ネモフィラ再訪。

 去年、ここを訪ったときは冷い空気を感じていた。それが天気によるものではないと気づいたのは後々になってだが、今日訪うことで改めて感じるものがある。
「わ……前回よりも沢山咲いてない?」
「そう、だね……うん。来るのが遅かったら散っていたかもしれないから、今日来れてよかった」
 水樹の言葉に前方を見回した冬人は、海のように、海よりは淡い色合いで広がる花畑の丘に目を細める。
 冬人と水樹の眼前に広がるのはネモフィラの花々である。空の色をそのまま映したかのような青い花は丘を埋め尽くし、晴々と咲き誇って坂道を行くひとに愛でられては小首を傾げるように揺れていた。
「日差しが少し強いから、暑くなったら言ってね」
「うん、冬人さんもね。もし冬人さんが隠しても、名探偵水樹が見抜いてみせますよ!」
「ううん、水樹くんに隠し事はできそうにないなあ」
 言いながら、去年は随分と隠し事をして、身勝手に黙り込んでしまったものだと冬人には自覚がある。だからこそ口元に浮かぶのは苦笑いだったのだが、水樹はぱっと日向の笑顔で冬人の片手を取り「行こ!」と坂へ向かって歩きだす。
……水樹くんが水樹くんでよかったなあ」
「え? なんですか、哲学ですか?」
 冬人は水樹が踏み出す一歩に手を引かれて前へ進んできた。去年もそうだ。去年はここで、大きな一歩を踏みだすことができた。それができなければきっと冬人は今日ここにいなかったし、水樹と顔を合わせて言葉を交わすことさえなくなっていたかもしれない。想像するだけで冬人の胸は雲がかかったように寒々しいものになるようだった。
……きみが好きだよってこと」
「ん゛ん……!!」
 去年までは促されなければ伝えることさえできなかった言葉をしっかり声にすれば、水樹はマイクを持つように拳を口元へあてながら大仰な咳払いをした。顔を隠すように横を向いた彼の耳はほんのりと赤くなっていて、常から軽妙で突発的な出来事にも動じない彼が見せてくれる愛愛しさを冬人はいつか写真に収めたいと思うのだ──きっと怒られてしまうかしら。
……あんまり照れさせられると困りますよ。僕たちにはまだすべきことがあるんですからね」
「うん。列ができる前に行こうか」
「今日は天気がいい分、人も多いからね」
 ゆったりと、けれど軽い足取りで水樹と整備された坂道を登る冬人は、時折ネモフィラや花を背景にした水樹にカメラを向け、また向けられながら小高い丘を行く。
 丘に響くのは設置されている鐘の音。冬人と水樹は今日、ネモフィラを見ることもだが、この鐘を鳴らすことを楽しみにも目的にもしてこの丘を訪れていた。
 たった一年前に聴いた切りだというのに、胸に込み上げるものがあるのは音色に刻まれた特別な記憶があるからだろう。
 ネモフィラの丘を進む人々は多いが、その全員が鐘を目指しているわけではない。丁度、鐘のある場所に着いたふたりの前には四人ほど並んでいたが、それぞれ二人組だったようで冬人と水樹の順番は三番目だ。
「おかぁち、はやく!」
 からあん、と鳴る鐘よりも高らかな幼い声が後ろからする。振り返れば身を屈めて小走りになっている母親の手を引く幼い女の子が走ってきていて、彼女は真っ直ぐに鐘を目指しているようであった。
「はやく!」
「順番よ、順番」
 言い聞かせる母親と女の子のやり取りに冬人が微笑ましいものを感じていれば水樹も同じだったのか、彼は榛色の目を穏やかに細めて女の子を見ている。
 気が急いている女の子に順番を譲るのは簡単だけれど、母親が「ちゃんと待とうね」と言っているのを聞いていればきちんと待つ経験を奪ってしまうのは良くないかとも思えるし、どうしようかと考える間も然程ないまま鐘を鳴らす順番はふたりへ回ってきた。
 小さな鐘から垂れ下がる引き綱に手を伸ばし、ほんのりとした緊張を抱いていれば水樹が冬人へ向かって片目を瞑る。もう片方の目も瞑りそうになっていたけれど、立派なウインクは冬人にとっては頼もしい軽妙さだ。
「せえ、の!」
 水樹の掛け声ひとつ、鐘を鳴らす。
 からあん、からあん、と鐘は鳴る。順番待ちのときも間近で聴いた音色なのに、水樹とともに鳴らした鐘は格別の音色で以て冬人の鼓膜を叩いた。
……良かった」
「ん? なにが?」
「水樹くんとここに来れて。さっきも思ったんだけどね、改めてさ」
……僕も良かった。ね、また来年も来よう。僕たちあちこち行くけどさ、同じ場所でもなんだか……感じるものって違うじゃない」
「うん。今年は去年と大ちが……
「おにーちゃんたちはやくして!」
「あ、すみません……
「すぐにどきます……
 とんとんとその場で足踏みする女の子とその母親にぺこぺこ頭を下げたふたりだが、気恥ずかしさとともにその場を離れようとした足は再び上げられた女の子の声で止まる。
「おかあちもするのっ」
「でも、そうしたら写真撮れないよ? お父さんに見せるんでしょ」
「おかあちととるの! だっこして!!」
「ええ……
 一緒に鐘を鳴らすところを写真に撮れと女の子は母親に要求しているようだが、母親には母親の荷物があるし、女の子を抱えながら鐘を鳴らして自撮りをするというのは相当に難しいだろう。
 冬人が今度は声をかけようと思ったとき、それより早く水樹が母子へ近づいて女の子と視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「良かったら僕たちが撮りましょうか?」
 女の子に向かって「こんにちは!」と挨拶してから自身を見上げる水樹に母親は「いいんですか……?」と遠慮がちに確認する。
「彼、写真がとても上手いんですよ」
「任せてください。お嬢さんとお姉さんの輝く一枚を撮ってみせます。ね?」
 頼もしく胸を叩いた水樹に母親が気が抜けたように笑い、お願いしますとカメラモードにした携帯端末を渡した。
「はい、ちー……ず!」
 引かれる鐘と同時の合図は定番だが、携帯端末を構える姿は凛として見える。写真に関してはもう以前のように冬人が水樹に教えることはほとんどなくなった。水樹は水樹らしい一枚をそれこそ構えることなく撮っているし、今回もその一枚が増えただろうことは携帯端末を受け取った母親の明るい顔からよく分かる。
「え、なんだかプロの方に撮ってもらったみたい! カメラなさっているんですか?」
「はい。彼とあちこちよく撮りに行くんです」
「へえ、素敵……ほら、ちいちゃんも見てごらん」
「おかあちがいる!」
……うん、いるねえ」
 女の子は写真の出来よりも母親と一緒に写っていることが嬉しいようだ。先ほどの様子を見れば、母親は娘を撮ることに精一杯で自分も一緒に映るというのは難しかったのかもしれない。思い出の一枚ができたのならなによりだ、と冬人は母子に手を振る水樹の隣で控えめな会釈をして歩きだす。
「ねえねえ、冬人さん」
「なに?」
「今度またうちへ写真撮りに来ない? 母さんと三人でさ、撮ろうよ」
 控えめに冬人の手を握りながらも揺らす腕は大胆に。水樹が晶晶とした目で見つめてくるのに、冬人は彼の指と自身の指を絡めて繋ぎながら頷く。
「うん、撮りたいな」
「やった。あ、その前にツーショット撮らないと。今日まだ冬人さんと一緒に撮ってない」
 水樹が片手で携帯端末を取りだそうとするので名残惜しくも手を放そうとした冬人だが、それを察知してか水樹の手に力がこもる。
……出し難くない?」
「え、なんのこと? 僕ともなればこれくらい……おわ、と、と……!」
 取り落としそうになった携帯端末を掴んだ水樹が安堵したようにため息を吐くのを聞いて、焦った冬人もほっとする。せっかくの場所で残念な思い出はなるべく作りたくないものだ。
「スマホもちゃんと用意できたことだし……ほら、冬人さん。もっと寄って寄って」
 手を繋いだまま肩をぎゅうぎゅうに寄せ合って、水樹が伸ばした片手に掴む携帯端末がふたりを映す。
「はい、ちーところで冬人さん大好きです」
「えっ」
 唐突な告白に思わず冬人の顔が赤くなり、水樹のほうを向いた瞬間にシャッター音が鳴る。
「ちょ……っと!」
「ふふふ、お宝ゲットしちゃったな」
 自分がいつかしようと思っていたことを水樹にされて、冬人は二重にも三重にも恥ずかしさを感じてならない。消すつもりはないものの咄嗟に携帯端末を取り上げようとした冬人の手を今度はするりと解き、水樹は軽い足取りで坂を駆け上り始めてしまった。
「ちょ、ま……水樹くん!」
「はい、日永水樹はこちらです!」
「そうじゃなくて!」
 たったかと走る水樹を追いかければ、時折振り返る水樹が満面の笑みを浮かべている。
 ──丘を走る。
 走って、走り、勢いのまま水樹の全身を抱きしめるように捕まえれば、彼は楽しそうに「捕まった!」と逆に冬人を抱きしめ返してきた。
……不意打ちはもうしないでね」
「はい、承知いたしました……消す?」
……いいよ、そのままで」
「ありがとう! このまま待受にしちゃおうかな」
「それはやめて。別の写真あるでしょ」
「そうだね、沢山あるよ。今日も増やすつもりなので、もう一枚いいですか?」
 期待でいっぱいな水樹の目を見て、冬人がどうして否と言えるだろうか。
 照れを苦笑に隠して頷けば、水樹は冬人へ背中を預けるように寄りかかりながら携帯端末を構えた。
「はいちー……
「水樹くん」
「ぉ゛わ……!」
 シャッター音。携帯端末には目を丸くした水樹と、その蟀谷にキスを落とす冬人の姿が映っている。
 勢いよく振り返った水樹の顔が赤いのを見て、冬人は鐘の音のように高らかな笑声を上げた。
「お返し!」
「ぐう……っ」
 ぐうの音を上げた水樹はしかし、次いで冬人へ向かって顔をずいっと近づける。
「蟀谷では足りないので唇へのちゅーを要求します」
 ……してやられた。
 がしっと腰に回された腕は本屋での勤務で鍛えられているからか、存外力強くて冬人は抜け出せそうにない。抜け出す気も、自分のことながら恐らくはなかった。
 じっと見つめてくる水樹の顔が赤い。見つめ返す冬人の顔も火照って赤い。
……好きだよ」
 うん、と応えた水樹が頷く前に、冬人は彼の唇に自身の唇を重ねた。
 唇から熱が広がるように、顔だけではなく全身が熱くなる。
 離れた唇が遠くなる前に、水樹が「あのね」と口を開く。
「僕も、冬人さんが好きです」
 ざあ、と頬を撫でる風はひんやりとしているのに、体が熱くてならないのは走ったばかりだからだろうか。いいや、きっとそうではないのだ。いま、体が熱い理由は去年の帰り道と同じであった。
 からあん、とさっきのように、いつかのように鐘が鳴る。
……これからもよろしく」
「こちらこそ!」
 帰る道を歩いても、この熱が冷めることはないだろう。
 この恋の熱は一生灯り続ける。
 水樹とともに生きていく間、ずっと。ずっと。