※『恋を一杯』『続・恋を一杯』の続編になります。どちらも読んでおくことを推奨しますが、本がなくてもピクシブに同シリーズを掲載しているので、そっちを読むでも多分大丈夫なはず…。
その喫茶店は、なだらかな坂の上、赤い提灯が目印の中華料理店のすぐ隣にひっそりとある。
不揃いに並んだチョコレート色の煉瓦の外壁に、誰かさんの目の色と同じ青いひさし、同じ色の枠が嵌められた丸い窓がトレードマーク。傍には背の低い電飾看板があって、喫茶ツバサの文字と一本の大きな白い羽根が描かれている。
それからもう一つ、お店とお客さんを結ぶ、マスター直筆のメニューボード。
今週のおすすめは、揚げたてドーナツか。
ドアを開ける前から、たっぷりの油の中でじゅわじゅわと揚がっていく音とふんわりした素朴な甘い香りがボクを誘ってくる。まあ、それがなくとも、ボクはこの店の扉を開くけどね。
だってここは、ボクの一番のお気に入りのお店だから
「聞いてよ、マスター! フラれたんだけど〜!」
穏やかな昼下がりの喫茶店内。カウンター席の右側を陣取る女子高生の鼻声が響いた。
喫茶ツバサはテーブル席が三つ、カウンター席が五つある。でも小さな喫茶店だから、テーブル席同士の距離は近く、隣の席の会話も聞こえてしまう。それはカウンター席も同じで、女子高生とは真逆の左端の席に座るボクのところにも、まるですぐ隣から話しかけられていると錯覚するかのように聞こえてしまうのだ。
神経質なお客さんだと、あまり居心地は良くないかもしれない。ボクのようにノートパソコンを開いて作業をする場合は、尚更だろう。
だけど、ボクは問題ない。お客さんとマスターの会話が聞こえてきても、作業を続行できる。むしろ、ボクの場合はお客さんとマスターとの会話に興味があるから、積極的に耳を傾けるようにしている。
「フラれたって、この前言ってた部活の先輩?」
食器が戸棚に置かれる繊細な音と共に聞こえてきたのは、この店のマスターの声。
小柄で幼さの残る顔つきに対し、彼の声には力強さがあって、誰に対しても気さくで明るい物言いには、ホッとするような優しさがたっぷりと含んでいるから、お客さんはついつい彼に何でも話したくなってしまう。この女子高生のお客さんも例外ではないようだ。
「そう〜! 毎日一緒に帰ってたし、LENEも交換してたし、誕プレも送り合ったんだよ〜? なのに、告白したら、『妹みたいなものだと思っていたから、彼女とかそう言う風には考えられない』って言われたの! しかも! LENEで! そんなフラれ方なくない? あたしは直接告ったのにぃ!」
「アンタだって最初は日和ってLENEで告ろうとしてたでしょーが」
「そーだよ! でも、直接告白しようって勇気出したのにぃ〜!」
失恋したらしい明るい茶髪の女子高生に、その友人らしき黒髪ポニーテールの女子高生。制服から察するに、どちらもこの近辺にある私立高校の生徒だ。この喫茶店の客層は十代から二十代くらいの女性が多いけど、彼女たちみたいにテンションが高め且つ賑やかなお客さんは少し珍しい。
「あー……それは確かに、ショックですね。相手もきっとお客さんを傷つけないようにって考えた結果なんだろうけど」
「でも、あたしは直接言って欲しかったなあ……どっちにしろ超落ち込むけど……はあ……この春休みはデートたくさんしようって決めてたのにぃ」
「オッケーもらう気満々だったんかい……ま、次行こ次。男なんていくらでもいるしさ」
「うー、よっちゃんは彼氏いるから余裕だよねえ……はあ、先輩みたいなかっこいい人、学校にいないよ〜、バイトはおじさんばっかだし〜。ねえ、マスター、お客さんにいい人いな〜い? 若くてかっこいい人、来たりしない?」
アイスティーをストローでかき混ぜながら、女子高生がマスターに尋ねた。
「うーん、ここはあんまり若い男の人来ないからなあ。でも、恋人が欲しいって気持ちを持ち続けていれば、いつかそういう人に巡り会えると思いますよ。そういうのって、やっぱり気持ちが引き寄せてくれるもんだと俺は思うんで」
「そういうもんかなあ?」
「そういうもんだって。恋を成就するお客さんを何人も見てきた俺が言うんで、それなりに説得力はあると思いますよ」
マスターの快活な笑顔を見て、しょんぼりしていた女子高生の長い付けまつ毛で彩られた大きな目がパッと見開かれた。
嫌な予感がする。
「ね、マスター。マスターって年下はあり?」
「え?」
「アリならさ、あたしと付き合ってよ!」
突拍子もない告白にマスターだけでなく、彼女の友人も、キーボードを淀みなく打っていたボクもギョッとした。
「いやいやいや、アンタ、いきなり何言ってんのよ。急すぎるでしょうが」
「えー、でも、マスターってかっこいいじゃん。お客さんからも超モテてるし〜。マスター目当てで通ってるお客さん、たくさんいるっぽいし〜」
「い、いや、前の店からの付き合いでこっちの常連になってくれる人はいるけど、別に俺のことをどうこうって思ってる人はそんなにいないと思うけどなあ……」
苦笑いしながら何とか躱そうとしているけど、彼女はすっかりその気になってしまったのか、マスターをうっとりと見つめている。
「ねえ、あたしめっちゃ通うからさ〜。何ならお店のことも手伝うし」
「いや、普通にお客さんとして来てくれていいですって」
「じゃあ、普通に付き合お。大丈夫、他のお客さんに言いふらしたりしないからさ」
諦めない彼女に、ボクは密かにため息をついた。
ある意味羨ましい。そうやってめげずにアタックできるのは、そう簡単なことではないと知っているから尚更だ。
とはいえ、昨日まで別の好きな人がいたのに、振られた直後にすぐ別の相手にアタックしようっていう思考回路は理解できない。しかも、その相手がこの店のマスターとなると、ボクとしては非常に面白くない。
確かに彼は人当たりがいいし、包容力がある上に、容姿も整っている。彼女の言う通り、彼に恋愛感情を抱いてこの店に通っているお客さんもいる。当の彼は全く気づいていないようだけど。
でも、いくら彼に魅力を感じたからって、そんなに軽々しく「付き合って」だなんて言わないで欲しい。以前からずっと彼に恋をしていたと言うなら分かるけど、単なる思い付きで「好き」だなんて言わないで。
つい刺々しくなってしまった視線を彼女たちに気づかれまいと、ボクはノートパソコンの右横に置かれたドーナツへ目を向ける。
シンプルな味わいのドーナツは、この喫茶店のコーヒーに合うよう作られている。
かつて、ボクはコーヒーが苦手だった。でも、この喫茶店に通うために練習して克服した。そのお陰で、コーヒーとスイーツの相性の良さを知ることができるようになり、中でもこのドーナツはショートケーキに次ぐお気に入りになった。
お客さんの間でもツバサのドーナツはとても好評らしい。季節限定で春にはいちごのチョコレート、クリスマスにはホワイトチョコレートでコーティングしてもいいかも、とついこの間、マスターが話していたことを思い出していたら、
「――ごめんな。俺、恋人がいるから」
突如聞こえて来たその声に、ボクは思わず視線を向けた。
彼女にではなく、この店のマスター・ショウへ。
ショウは特別でもなんでもない、いつもの明るい笑顔を浮かべていた。
「なーんだ、マスター、カノジョいるの〜?」
「そりゃそうよ。こんなかっこいい人にいない方がおかしいって」
「あはは、まあ、そういうことなんで」
軽やかに笑ってショウが頭を下げる。
それで終わり、かと思いきや、彼女は目を輝かせてこんなことを言い出した。
「ね! マスターの恋人ってどんな人?」
「えっ」
「ちょっと、アンタ、これ以上マスター困らせんのやめなよ〜」
「えー、でも気になるじゃん。モテモテのマスターが好きになる人なんて! ね、ね、どういう人? やっぱりお客さんの誰かなの?」
「えっと、そこは秘密ってわけには……」
「じゃあ、じゃあ! どこの誰とかは聞かないからさ、その人の好きなとこ教えてよ。ね、いいでしょ? 傷心のあたしを助けると思って、思い切りノロケてよ〜!」
両手を合わせて懇願する女子高生に、ショウは青い目を瞬かせていたけど、やがて手元にあったティーカップに視線を落とした。
「俺の作るケーキとか紅茶とか、コーヒーを、いつもおいしそうに食べたり飲んだりしてくれるところ……かな。一見クールなんだけど、めちゃくちゃ素直に感情を出すところがあって、悩んでるとすぐ眉間にしわ作るし、何か言いたいことがある時はそわそわするんだ。それがいちいちおかしいというか、目が離せなくなるというか……どんな表情も可愛いんだ」
じわじわと何かが込み上げてくるような感覚が襲ってきて、ボクは咄嗟にドーナツに視線を戻す。顔を見られないように、深く俯いて。でも、耳はよく澄ませて。
「素直じゃないことを言うこともあるけど、美味しいとか好きとか、そう言う気持ちは誤魔化さずに伝えてくれるところもすげえ好きで……そう言われるたび、俺もめちゃくちゃ元気もらえるし、いろいろなこと頑張ろうって気持ちになる。あいつが……その、恋人が俺に向けてくれる気持ち以上のものを、俺も与えてやりたいって思うって言うか」
ダメだ。じっとしていられない。彼の言葉を真面目に聞こうとすると全身がムズムズして、落ち着かなくなる。
ドーナツを食べて、その甘さとか柔らかさとか、とにかく何でもいいから、別のところに気持ちを向けなきゃ。
そう思うのに、指がうまく動かない。
ふんわりふかふかの生地の向こう、照れ笑いしながら恋人のことを……ボクのこと話すショウが見える気がして――それ以外、何も考えられなくなってしまう。
「俺がこの店を営業できるのもその恋人のお陰なんです。だから、俺にとって、この店と同じくらい大切な存在だと思ってます」
「超熱烈……わ〜、聞いててほっぺ熱くなっちゃった……」
「私も……マスター、その人にベタ惚れなんだねえ」
「あはは、まあ、事実ベタ惚れなんで」
「えー、いいなあ〜! あたしもマスターみたいに熱烈に惚気てくれる人ほし〜」
賑やかな彼女たちの声を捉え続けるのは、そこまでで限界だった。
一度聴力をオフにして、上がりきった熱をゆっくりと冷ますことに専念する。ドーナツの小さな穴は何のために空いているのか、無意味に検索をかけ、出てきた結果をぼんやりと眺めながら、ボクの心が落ち着きを取り戻すのをじっくりと待って――。
「藍、コーヒーのおかわりはどうだ?」
唐突に聞こえてきたショウの声に、ボクは大いに動揺した。
どうして。
ちゃんとオフにしていたのに、何でショウの声が聞こえるんだろう。
「藍?」
不思議そうな彼の呼びかけに、ボクは目の前のドーナツを手に取り、そっと顔を上げた。
小さな丸の中、目を丸くしたショウが見えた。
「なんでドーナツから覗いてんだよ」
「……君のせいだよ」
「へ?」
「聞こえてたよ、全部」
ちら、と右端へと視線を向ける。
ボクが聴力をオフしている間に彼女たちは立ち去ったようで、氷だけのグラスと青色のケーキ皿が残っていた。
「あ、やっぱ聞こえてたか。お前、集中してるみたいだったから、そんなに聞こえてねえかもって思ってたんだけど」
「集中してたって聞こえるよ、この距離なら。
……と言うか、君、色々話しすぎだよ」
「あー、俺もあそこまで話すつもりじゃなかったんだけどさ、一つ話したら、あれもこれもっていろいろ言いたくなっちまって。普段隠してる分、止めどきが分かんなかったんだよ」
ドーナツの穴にすっぽりと収まるショウは、悪びれもなく笑ってる。
何か悔しい。ボクの方が先に好きになって、彼以上に彼の好きなところを羅列することもできる自信があるのに。実際、さっきの仕返しに色々言ってやりたいと思うのに、今のボクはドーナツの穴から彼を見るのが精一杯だ。
「あ、もしかして、ダメだったか? お前だって特定されるようなことは何も言ってねえつもりなんだけど」
「それは大丈夫だと思うけど……とにかく、ダメ。今後はああ言う質問があっても答えないでね。恥ずかしいから」
「そっか、残念。俺はお前のこと好きって堂々と言えて、めちゃくちゃ嬉しかったんだけどな」
「っ、そんな顔で言ってもダメだから。お客さんに聞かれるたびに惚気られたら、ボク、ここに来るの嫌になりそうなんだけど」
「あー、それは困るな。わかったよ、他のお客さんの前ではもう言わない。直接、お前に伝えればいいしな」
「……っそれも、困るんだけど……」
「いいだろ。恋人に好きって伝えるのは全然変なことじゃねえんだからさ。
なあ、そろそろドーナツ越しじゃなくて、ちゃんと顔見せてくれよ。今せっかく二人きりになれたんだからさ。他のお客さんが来ちまうぞ?」
ショウに促され、ボクは観念してドーナツをお皿に戻した。
ドーナツ越しじゃないショウは、いつもよりもうんと近くに感じられて、すぐさま目を伏せる。
すると、眉間をつん、とひんやりした指先でつつかれた。
「しわ、できてるぞ」
「……っ」
「コーヒー、おかわりどうする?」
「……まだ入ってるから、先にそっちを飲むよ。そしたら淹れて」
「それ、冷めちまってるだろ。淹れなおすよ」
「ううん。それでも飲みたい。君が淹れてくれたものだから」
ひんやりするすみれ色のティーカップをそっと持ち上げると、ショウがくす、と小さく笑った。
「お前のそういうとこ、好き」
「……言わないで」
「お客さんの前じゃなきゃいいだろ?」
「…………程々にしてね」
ドキドキしすぎて、何も食べられないし飲めなくて困るから。
小さな声で伝えると、ショウがからから笑った。
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