養父と小海獣の話を書こうと思って冒頭だけ書き出したもの。義息が幼い頃の思い出を抱えて生きる水の前に現れたのは──的な…。鬼水の畑で育てているので鬼水になると思うけどまだわからない話です。前に画像だけ上げてたのであらためてこっちに。
夏の房総は海水浴のメッカで、臨時列車が走ることは水木も知っていた。だがその日たまたま外回りで立ち寄った両国の駅で見かけたヘッドマークに、楽しげに乗り込む家族客に、したたる汗を拭くのも忘れて見入ってしまった。思い浮かべるのは小さな養い子のこと。あの子はまだ海を見たことがない。
「……」
気がついたら居ても立ってもいられず、水木は窓口へ向かっていた。
最近よく喋るようになってきた(うるさいということはないが)鬼太郎は、今日も今日とて水木の膝の上を陣取って熱心に色々な話をしてくれる。要領を得ない部分もそれなりにあるが、ただただ可愛くて仕方がない。みじゅ、あのね、と高い可愛い声で呼びかけられて、無視などとてもできない。なぜそんなに可愛いと思うのか、水木も正直自分は変わっているのでは…と思わないでもないが、それがどうしたという気持ちもある。
鬼太郎、今度海に行こう、と繋いだ手を揺らしながらいえば、うみ?と首を大きくかしげる。
「大きな水たまりみたいな…とっても広いんだ」
うみ……?とまだ不思議そうにしている幼子の茶色い頭からヒョコッと目玉に小さな体がくっついた、人形のような妖怪が姿を現す。
「良かったのう、鬼太郎、海は広くて、魚がたくさんおるんじゃぞ」
水木は笑いながら小さな体を抱きしめ、海水浴場にはいないかもしれないが、と言う。
「俺も太平洋側はよく知らんのだ。おやじどのは行ったことはあるか?」
「どこの海じゃ?」
「安房…かな?」
「安房か。そうか、八犬伝じゃな」
水木は笑った。
「鮑やサザエがとれるそうだ」
「鮑か! 良いのう」
酒がすすむという顔に、またしても水木は笑ってしまった。
「確か鯨もとると聞いたな」
「鯨か」
鯨の大和煮やベーコンは水木も親しんだ味だ。目玉もそうなのか、浮かれた様子だ。
「くーじゃ…?」
こてんと首を傾げて見上げる幼子に、水木は目を細めた。
「く、じ、ら。すごく大きい…魚、じゃないが、まあ魚みたいなもんだ」
「おしゃかな?」
「うーん。まあ、うん」
「おっきぃの?」
「そう。すごく大きい」
ぱちぱち瞬きした後、鬼太郎はにこっと笑った。
「くじゃしゃん、おはなしできゆ?」
「ん? どうかなあ、でも鬼太郎は可愛いからお話できるかもな」
全く理屈の通っていない言葉をでれでれと口にした水木と違い、幽霊族の目玉の方は、かつて海底を歩いて旅した若き日に言葉を交わした、鯨達の群れのことを思った。
「わしが鯨語を教えてやろう」
従って、この申し出は真実しか含んでいなかったのだが、水木は目玉のも話を合わせてくれたか、としか思わなかったのだった。
特急券は水木の母の分も予約していたのだが、母は、芋洗いの中に行くのはごめんですよと息子達を送り出した。確かに考えようによっては、息子達がいない一日がある方が母は休めるということもあるかもしれないが…、少しでも旅費を抑えさせようという親心だろうと水木も目玉も思った。お土産買ってくるよと調布からまずは新宿、そこから両国へ。そこでいよいよ臨時列車へ乗り込みだ。目玉が荷物扱いなのは料金的に助かる。
初めての車窓の景色に、鬼太郎は釘付けだった。それを穏やかに見守りながら、水木もまた目を細める。
町中を抜けて海が見えだせば、小さく、だがはっきりと歓声を上げた鬼太郎がくるりと水木を見上げてきた。黙って頷いて、髪をかき回すように頭を撫でてやれば、鼻を膨らませてまた窓の外を見る。可愛いなあ、と水木は我知らず微笑んでその様子を見守る。夏の日差しが降り注ぎ、それは絵のように美しい光景だった。
「…ヴォ…、ぉ、」
「? 鬼太郎?」
と、不意に鬼太郎が窓枠につかまるように背伸びをすると、可愛らしくも恐ろしい、つまり大人が聞けば微笑ましい、何らかの吠え声のようなものを真似した。
どうした? とのぞき込んだ水木に、パチリと瞬きした後、くじゃしゃんとおはなししゅゆの、と返ってくる。一瞬ぽかんとした後、水木はたっぷりした涙袋をたわませ、そうか、お話できるといいなあ、と微笑み幼子をぎゅっと抱きしめる。他の乗客の手前隠れてはいるが、恐らく目玉のも今頃この子の髪の毛の下で我が子を優しく撫でているのではないだろうか。
「ヴォ、ぉ…、ぉ……、グォ……」
繰り返す鬼太郎にくすくす笑いながら、水木は尋ねる。
「それで、うちの鯨さんは何て言ってるんだ? みじゅに教えてくれるか?」
きょと、と目を丸くした後、鬼太郎は自分のぽこりんとしたお腹を見つめた。そして、きりっとした顔で教えてくれる。
「おなかしゅいたって」
水木は目を丸くした後、膝の上抱いた子をうりうりと揺らして、さっき饅頭食べたばっかりじゃないか、腹ペコ鯨め、と笑って頬ずりした。きゃあきゃあと楽しげに声をこぼす幼い鬼太郎と、車窓のきらめく海と、轍を踏む汽車の振動──それらは皆水木の大事な記憶になった。
「…ぅ、ヴォ……、ォ…、ヴォウ…」
突如として現れた、犬にしては大きく、また色も変わっている不思議な獣は、水木を見るなり悲しげな声を上げた。
水木は目を瞠った。
──その声を。言葉を、知っていると思った。
気付た時には、その得体のしれない生き物を抱きしめていた。地面に膝をつき、スーツが汚れるのも構わず。苔むしたような色をした獣は、びっくりした様子で固まった。水木の腕の中で。
「鬼太郎だな?」
「! ヴォ、オウ!」
水木は顔を離し、しげしげと獣を見つめた後、いたずらっぽく笑った。
「腹が減ったんだろう? 俺はお前が何を言っているかわかるぞ。覚えてるからな」
「…………」
長い毛に埋もれ気味の丸い片目から、ポロリと雫が落ちた。ヴォ、グォ、と籠った声はまるで泣いているようだ。
「よしよし、怖かったな。おいで、とにかく何か食べよう」
水木は言いながら体を離し、不安げに瞳を揺らした獣の頭を撫でてからジャケットを抜いだ。そうして、すっぽりと獣を覆ったかと思うと、よいしょと抱き上げてしまう。
「重くなったなあ」
──十年以上前に巣立った息子。活躍は耳にしていたが、痛い思いはしていないか、悲しい思いはしていないかと、片時も忘れたことはなかった。
ぽんぽんと布ごし、背中を叩いてやりながら、ずしりと感じる重みに音を上げることなく帰途を急ぐ。
ぐすぐすと鳴いている獣に頬をつけながら、俺がいるよ、大丈夫、大丈夫だ、と優しく水木は繰り返した。あの夏の日を思い出しながら。
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