午前六時の朝焼けに横たわる静寂が好きだ。深夜に降り注ぐメロディーの流星群も愛おしいけれど、建物のすきまから差し込む朝の陽ざしは、真夜中の暗がりでは発見できなかった音符のかけらを照らしてくれる。
家のベランダはそこまで広くはなかったが、折りたたみ椅子でくつろぐには十分だ。レオは程よく焦げた目玉焼きのパンを頬張りながら、新品のノートに筆を走らせた。朝焼けの空がじわりと滲んで、張りつめた空気の層が澄んでいく。地球はまるで巨大な楽譜だ。愛おしい音楽がまっしろな紙から誕生するように、白い朝陽が昇ることで一日が始まるのだから。
「よぉ~しっ、書けたぞ~っ!」
最後の音階を書き終えると、レオは仕上がった曲のページに幾度もキスをする。小鳥たちのさえずりと共鳴するように、産み落としたばかりのメロディーを鼻歌で口ずさんだ。
れおくん、おはようって寝ぼけ眼のラルゴ。れおくん、寝坊するよってカーテンが開かれてアレグレット。れおくん、いいかげん起きなって布団を剥がされて、イラタメンテ───朝の恋人をメロディーに閉じ込めて、レオは陽気にコーヒーを飲む。噂をすれば、ベランダの窓がおもむろに開いた。
「ったく、朝からいないと思ったら……」
眩しい朝光に、つや肌が溶けていく。気だるげに目を細めているのに、麗しい造形はほとんど変わらない。フィレンツェの安いアパートには、瑞々しい木々と透き通る湖畔などありはしないのに。朝靄の妖精は、そこに立ち尽くしているだけで自然を作りだしてしまうのだ。
レオは腰を半分ほど浮かせながら、突如として射しこんだもうひとつの美しい陽光に釘付けになる。
「セナ~っ、おはボンジョルノ~! おまえは今日も綺麗だな~、昨日よりも断然輝いてる! 五十億年後に太陽はぽっくり死ぬらしいけど、おまえの輝きさえあれば美しいこの地球は永久に回り続ける! わはは~、一緒に長生きしような~!」
「全っ然わかんないけど、褒めてくれてどうも。……てか、朝から何してんの?」
「ん? キャンプ!」
「そりゃあ、見ればわかるけどさあ……」
ふあぁふ、と泉が欠伸をしながら、目尻を擦る。ひどく眠たげではあるが、くせっ気の前髪は既に整えられている。たぶん歯みがきも終わって、スキンケアも完璧に済ませてきたんだろう。恋人との同棲生活でさえ、隙あらば美を磨いている。生まれ持った容貌にあぐらをかくことなく、努力を惜しまない。レオは、そんな泉が好きだった。目に焼きつけるたびに綺麗になっていくのが、嬉しくてたまらない。
レオは、隅っこに寄せてあるもう一脚の折りたたみチェアを開くと、片手でぽんぽんと叩いた。なにぶん狭いベランダだから豪勢なおもてなしはできないが、早朝のデートを楽しむには問題ないだろう。
「ようこそ、おれの秘密基地へ!」
「朝っぱらから、元気だよねえ」
ぶつぶつと異論を唱えながらも、泉は「まぁいいけど」と腰を下ろした。レオは嬉しくなって、手早い動作で食パンを取りだす。生地の中心部をぎゅっと押してくぼみを作ると、片手で器用に割った卵を注いだ。黄身がこぼれないようにマヨネーズの外壁を塗りたくり、三ツ星シェフのような顔つきで塩こしょうを少々。オーブンシートを手品みたいに被せて、ホットサンドメーカーを乗せたカセットコンロを起動する。
お泊まりレジャー隊の紅郎から教えてもらった、秘蔵のレシピだ。男に生まれたからにはラピュタ飯だろうが。得意げに卵を割る紅郎に、光が「わくわくするんだぜ~!」とぴょんぴょん跳ねていたのを思い出す。
「なぁに。俺の分まで用意してくれてるの?」
「もちもちの木! 朝ごはんは一緒に食べたほうがおいしいだろ? あったかいコーヒーもあるぞ! ほい、火傷すんなよ~」
「……ありがと」
マグカップに注いだコーヒーを受け取ると、泉はこくりこくりと味わった。朝の陽ざしに照らされる横顔は、起き抜けと思えないほど美しい。付き合いはじめてから散々触れているのに、何度だって欲しくなる肌をしている。
レオがごくりと喉を鳴らせば、泉は肩をびくんと揺らしてくしゃみをした。最近は随分と暖かくなってきたけれど、早朝の空気はまだまだ冷ややかである。レオは背もたれに掛けていたブランケットを広げると、ふたりぶんの肩を覆い尽くした。ぴったりと密着していれば、寒気もどこかに退散するだろう。
ふぅふぅ、とタコのくちびるで息を吹き掛けると、泉は迷惑そうに顔を背ける。
「ちょっとぉ。近すぎぃ」
「メ~ン。メ~ン」
「こぉら、メンダコ星人。くすぐったいってば」
脇腹をくすぐっているうちに、ふいに視線が絡みあった。朝になったら、隣にはおまえがいる。恋人同士の今となってはもはや当たり前のことで、ときには鬱陶しいと感じるときもあるけれど、なんでもない普通の瞬間がたまらなく好きだった。投げ捨てられたペットボトル、破かれた楽譜、締め切られたカーテン───辛くて悲しい夜も、いつかは明ける。
レオは胸がぎゅっと熱くなって、斜めに傾けた顔を泉のくちびるに近づけた。
「セナ……」
「わぉん! ばうばう!」
柔らかな唇がちゅっと触れたとき、犬の鳴き声が響き渡る。折りたたみ椅子ごと背後にひっくり返りそうになり、レオは必死にもがいて立ち上がった。
ベランダの手すりから往来を見下ろせば、見覚えのあるブロンド髪のマダム。真っ赤なリードに繋がれたゴールデンレトリバーが、「わん!」と挨拶をした。
「ツキナガ! 今日も早起きね!」
「お~! キャンプしてる!」
「いいじゃない!」
「だろ~!」
「それはそうと、今度またうちにいらっしゃいな! 焼きたてのピッツァをご馳走するから!」
「お~、行く行く!」
「今日も素敵な一日を!」
「ありがと~! チャオ~!」
人懐こいゴールデンレトリバーが、「ぼくとも遊んでね!」と言わんばかりに、柔らかなしっぽを振る。どちらかといえば猫が好きだけれど、犬だって愛らしい動物だ。
レオがふんふん、と上機嫌に歌いながら振り返ると、泉はブランケットに縮こまっている。頬をうっすら紅くしながら、眉をきつく吊りあげた。
「ねえ。……おばさまに見られてないよね?」
「う~ん。アパートの下からは、さすがに見えてないと思うけど」
「ほんとに?」
「……まぁ、おばさんはすご~くいい人だし。万が一目撃されたとしても、むしろ歓迎されるんじゃないか?」
「俺は、絶対に嫌」
「え~? おれと付き合ってるの、バレるのが?」
セナは恥ずかしがり屋さんだなあ。軽々しく問い詰めると、泉はううん、と首を振った。
「おはようのキスは、れおくんと俺だけの秘密にしたいわけ」
「え」
「だって、特別でしょ」
なんでもない朝のキスでさえ、大事にしてくれているのだ。レオの胸いっぱいに瞬く間に大聖堂が建てられ、祝福の鐘が鳴り響く。幻聴のベルが朝焼けを染め、純白の鳩が飛び去った。
「ねえ、れおくん。焦げてるんじゃない?」
「あ~っ!」
「ばぁか。俺の美しさに、よそ見なんかしてるから」
こげ茶色に焼けてしまったが、あわや黒焦げの惨事を回避できたらしい。レオが「あぶなかった……」と安堵すると、泉は「ほんとに大丈夫かなあ? ねえ、味見させてよ」とまぶたを閉じる。
焼きたての目玉焼きサンドは熱くて、とてもじゃないが触れられない。けれどもキスのリベンジがしたいから、レオは消火活動に励むかのようにフーフーと冷ます。
「あはは。一秒でも早く俺とキスしたくて、たまらないって顔してる」
意地悪に笑うものだから、今度は勢いよく唇を押し付けてやった。キスをするのが好きなのは本当。でもそれ以上に好きなのは、こうして繰り返すフィレンツェでの幸せな朝なのだ。
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