厚みのあるカーペットが柔らかく音を飲み込み、俺の足音はすこしも空間に響かなかった。美術品に適した温度に設定されている部屋の中の空気は静謐でここが都会のど真ん中だということを忘れさせてくれる。ご用があればお声がけください、と言った画廊の受付の方の視線だけが時折背中に刺さるけれど、絵の前に立てばそんなことは気にならない。
離れて全景を、近づいて細部を。他に人もいないしんとした空間でそうして過ごしていれば、ふわりと部屋の中の空気が流れを変えた。誘われるように顔を上げ、入り口の扉を開けて入ってくるその人を見つける。
「こんにちは、吏来さん」
「ん、こんにちは。まだ見てていいよ、俺もちょっと見てみたい。いい?」
「もちろん。一緒に?」
「今日は別々で。感想を求められたらなんて言おうかなって緊張しちゃうから」
「いくら俺が聞いたって、話したくないことを話す必要はないですよ。俺はあなたの心の中を知りたいと思うけれど、何を見せて何を隠すかはあなたの自由だ。それは答えたくない、と言ってくれればそれ以上は追求しません……たぶんね」
「そのたぶんが怖いな。それに俺は、おまえに聞かれたらなんでも答えちゃうから。気が済んだら声かけて。俺も疲れたら声かける」
「ありがとうございます」
ひらりと手を振って吏来さんは部屋の奥へ進んで行った。俺は見ていた絵に視線を戻し、それがさっきまでとは違って見えることにふと笑みを浮かべた。心の持ちようで見え方すら変わる正解のない世界の、なんと美しいことか。
足音はほとんど聞こえないのに吏来さんのいる場所はなんとなく分かった。顔を合わせることなく半分ほどの作品を見終えたところで、隣の絵の前に吏来さんが立つ。真剣な顔で作品を見つめる吏来さんの横顔を、俺はまるでそれが一つの作品であるかのようにジッと見つめた。
すっと伸びる鼻筋、普段より下がり気味の眉、唇の膨らみに耳の形、俺の好きなくっきりとした喉仏は今日はタートルネックの下に隠れてしまっている。影が落ちる首元の、見えない部分を想像してごくんと飲み込んだ唾液が熱く体の奥へ下りていった。
「……視線が痛いな。もういいの?」
「あぁ、すみません、吏来さんが美しくてつい」
「おまえがそれ言う?」
「ふふ。今日はもう終わりにしておきます。今は美術品より吏来さんを見ていたいから」
「……プレッシャーだなぁ。んじゃま、行きますか」
「はい」
受付の方に「また来ます」と声をかけて画廊を後にする。外に出た瞬間、あまりの雑音の多さに一瞬足を止め、だけど吏来さんが「あったかくなってきたよなぁ」となんでもないように言って空を見上げたから、俺も高い空を見上げてそっと息を吐いた。
「それで、どこに連れていってくれるんですか?」
「んー、腹減ってる?」
「それなりに」
「近くにカフェがあるから一旦そこで作戦会議しよっか。カフェの前の通りに桜が咲くから綺麗なんだって、冬の頃に教えてもらってからまだ行けてなくてさ」
「いいですね。お花見だ」
「した? 今年、店の集まりは一応あったけどおまえ来れなかっただろ」
「そうですね。家から見えるところにも咲いているので桜自体を見ていないわけじゃないですが、お花見というとしてないかも。お花見弁当、三色団子、抹茶……」
「ふ、実は結構腹減ってる? もしかしたら時期だしそういうのもあるかもしれないけど、わりと普通のカフェなんだけど」
「言ってみただけです。抹茶は久しぶりに飲んでみたい気もしますが、コーヒーでももちろん。吏来さんのオススメのお店ならなんでも美味しいだろうし」
「うーん、またプレッシャー与えられてる。おまえ、楽しんでるだろう」
「何をです? 吏来さんと一緒にいることなら、いつだって楽しんでますよ」
「……はいはい。可愛い可愛い」
「なげやりだな」
笑いながら言えば吏来さんは大きな手のひらを俺の頭の上に乗せて、わしゃっと、犬を撫でるような優しい手つきで撫でた。
「本当に可愛いって。俺もおまえと一緒にいるといつもすごい楽しいよ」
「……それは光栄です」
「あ、あった。あの建物の二階にあるんだ。空いてるかな」
吏来さんが「ちょっと見てくる」と言って階段を上っていった隙に、俺は建物の影に入って小さく息を吐いた。じわりと熱い頬は日差しのせいではない。あの人の前でだけ心地良いテンポを刻む素直な鼓動が好きだった。
「恭耶、おいで。空いてたよ」
「……いま行きます」
階段の上にいる吏来さんの元へ、焦ることなく一段ずつ上っていく。だって、この人は待っていてくれるから。一歩近付くごとに楽しくなって、一番上の段、吏来さんと目が合う場所で思わずふっと笑い声を溢した。目を丸くした吏来さんが「なに?」と首を傾げる。俺は笑みを浮かべて「なんでもないですよ?」と返した。
「なに企んでんだよ……」
「なんでもないですって。ふふ」
「……ま、おまえが楽しいならいいけどさ」
「俺、楽しそうですか?」
「とっても。俺といることがそんなに楽しいんですかねぇ?」
「……大正解。あなたといることが、とっても楽しいんです」
「……」
いつも滑らかに言葉を操る吏来さんが、呆気に取られたように言葉をなくし俺のことをただ見つめる。ずっとそうして見つめ合っていたっていいんだけど、カフェの出入り口の目の前じゃ邪魔になってしまうだろう。
「吏来さん、行きましょう」
ちょんと引っ張るように指先だけを掴んで、吏来さんがハッとして口を開こうとしたところですぐに手を離す。扉を開いて振り返れば俺の後ろから手を伸ばした吏来さんが扉を押さえた。腕の中に抱かれるような近さで、そっと視線が絡む。
「お先にどうぞ」
「……ありがとうございます」
「おっと、恭耶ストップ。出るお嬢さんがいらっしゃった。デカい男が道を塞いでしまってすみません、お先にどうぞ」
にこっと笑った吏来さんに女性が顔を赤くして横を通る。彼女たちが通り過ぎてから俺の肩を掴んだ手を離し、吏来さんは「恭耶?」と俺の顔を覗き込んだ。
「ごめん、痛かった?」
「……いえ、大丈夫です」
「? ほら、もう中入っていいよ」
「……吏来さん、もう一回」
「ん?」
「お先にどうぞって言うのやってください」
「……お先にどうぞ。って、言わなくたって、俺は基本的におまえを最優先してると思うけどな」
「……たしかに。そうですね。……うん、満足です」
「……それはよかった。ふ。なんだよ、今日は本当に楽しそうだな?」
楽しいですよ、と、今日何度も伝えている感情を、もう言葉にはしないでただ吏来さんのことを見つめた。俺はあまり分かりやすいと言われることはないけれど、あなたにはきっと伝わるでしょう。重なった視線で、吏来さんも楽しいって言ってる気がした。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.