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千代里
2025-04-10 08:22:43
10795文字
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リーブラ14話
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リーブラの針は問う・14話・その60
(囚われのお姫様役というのも、存外に退屈なものなのですね
……
)
頭上から差し込む微かな日差しの角度に変化が生まれていると、オデットは寝ぼけ眼をこすりながら確かめる。
この様子だと、今は昼間だろうか。それとも、まだ朝の時間帯だろうか。日が出ているということは、今日は珍しく雲が少ないようだ。
「ゲルダは
……
まだ戻ってきていないんですね」
今、オデットの傍らに友人である少女はいない。彼女を診察してほしいというオデットの願いが叶い、ヒューイが一時的に外へと連れ出しているからだ。
外といっても結局はこの建物の中なのだろうが、ゲルダの具合を見てもらえるのなら、今は文句を言っている場合ではない。
ヒューイが持ってくれた大判の外套を掻き寄せ、オデットは膝を抱える。ノエがきっと助けに来てくれると信じていても、誰もそばにいないのは少しばかり心細かった。だが、それはあくまで孤独感から生じたものだ。
「もっと怖い思いをするのかと思っていましたけれど、意外と放ったらかしなのは助かりました」
もし、最初の頃のようにオデットたちを犯人が恫喝し続けていたら、今以上に精神的に追い詰められていただろう。
少し前の親子喧嘩のおかげか、オデットは見張りの者にいたずらに虐待されることもなく、静かな時間を倉庫の中で過ごしていた。
見張りの男も、現在の状況に慣れてしまったのだろうか。たまに中の様子を確認するために覗くことこそあったが、オデットが大人しくしていると分かり、今は倉庫の前に立っているかも怪しいような有様だ。
(ヒューイさんは、彼らの企みは上手くいかないと思っているようですが
……
)
彼がそう言い切る理由は、オデットにも分かるような気がした。
最初こそ見張り番が何度かオデットたちの様子を見にきていたのに、興味が失せたら早々に顔も見にこなくなるというのは、いくら何でも気が緩みすぎるだろう。
まるで、もう要求が通ったかのような扱いに、人質のはずのオデットが面食らっている始末だ。流石に、まだ一日も経っていないうちに、ルグロ家の者が悪党たちに膝を折っているとは考えにくい。
「貴族のことを知らない人にとって、貴族とはそんなにも弱いものに見えるのでしょうか。それに、取引が終わったら、わたしは本当に解放されるのでしょうか
……
?」
ヒューイの言うように、彼らの望むような長期的な目標に対して、誘拐と人質という短期的な交渉はさして意味がないように思える。あるいは、長期的に意味をなすような策を練っているとしたら。
「たとえば、人質を返さないとか
……
? アガテルさんが前に話していたように、身内に取り込んでしまうとか
……
」
顔も知らない相手との婚約の話をしていたことを急に思い出し、オデットの顔に苦い感情がよぎる。
ひょっとしたら、令嬢と異端者の間に姻戚関係を作り、切っても切れない縁を作るつもりなのではないか。そう考えた瞬間に、自分で思いついた譬え話なのに、嫌悪とは異なる拒絶の感情が沸々と湧き上がってしまう。
顔も知らない誰かに手を取られる姿を想像し、寒気とは異なる意味で背筋がぞっとした。
(だめです。わたしは兄さんと一緒にいるって決めたんです)
自分の手を取る相手をノエに切り替えた瞬間、今度は顔がぼっと熱くなり、誰が見ているわけでもないのに他愛のない妄想に恥ずかしくなり、オデットは何度も首を横に振った。振りすぎて、頭がくらりとしてしまったほどだ。
(わたしは、何を考えているんですか
……
!)
冷たい床に額を押し付けると、自分のせいで振り回されていた感情が少しずつ落ち着いていく。何度か深呼吸をした後、
「何か、気を紛らわせるようなことがあるといいのですけれど
……
」
そこまで考え、オデットは何気なく自分の手元に視線を落とす。
一見すると無力な少女の手に見えて、そこには他者とは異なる魔道の才能が眠っていることを、オデットはよくよく知っている。
「そうだ。一人でもできることはありますよね。魔法の修練なら、暇つぶしにうってつけだって、ルーシャンさんも言ってました」
魔法の中でも、初歩の初歩にあたる技法を教えてもらっていた頃のことだ。彼の助言を聞いて、指導者不在のときにも、エーテルをあれこれ操作していたものである。
「ルーシャンさんがわたしに魔法を教えてくれたのは、わたしが
……
ルーシャンさんの養父である方の娘だと知っていたから、なのでしょうか」
ふと、そんな考えが頭によぎる。
ただの親切心からの指導だと思っていたが、ノエから教えてもらった情報を照らし合わせると、ルーシャンという一人の仲間への視点にどうしても変化が生じてしまう。
「お仕事が終わったら、ちゃんとお話ししたいと思っていましたのに
……
」
まさか、こんなことになるなんて。再び落ち込みかけた心を、これまたかぶりを振って追い払う。
今生の別れというわけでもないのだ。むしろ、自分は何が何でもノエたちの元に戻るという気持ちを持つべき時だ。
ならばと、オデットは指先にエーテルを集中させる。今まで習ってきた魔法を改めて一つずつ確かめる。
魔法の障壁、傷を癒す魔法、時間差で空間に衝撃を与える魔法。
まだはっきりと思い出せていない記憶の中に、占星魔法の指南をしてくれた老女の姿があった。いずれ、彼女に会うためにも、オデットはこの場所で燻っているわけにもいかない。
(
……
わたしは、兄さんと一緒に行くのですから)
部屋に戻ってきたゲルダに「オデット、顔が怖いよ」と言われるまで、オデットは一心に魔法の修練を続けていた。
***
オデットが倉庫の中で頭を抱え、一人で煩悶を繰り返している頃。
ゲルダは隣にある一室に通されていた。そこは、ヒューイに用意された仮宿でもあるとのことだった。
異端者に殴られたせいで一度昏倒した少女の容態を見たい、とヒューイが相談をしたところ、見張り番の男は最初はゲルダを外に出すのを渋っていた。だが、
「あんた、気絶するほどの力で女の子を殴ったのかい!?」
と、またぞろ母親の叱責を受けた結果、ヒューイの部屋で治療を受けることが許されたのであった。
倉庫に備品を持ち込んで診療すればいいと言われなかったのは、倉庫の寒さを母親が汲んでくれたからだ。
ヒューイの部屋には暖炉がある。怪我人の治療のためには衣服を脱ぐ必要もある以上、暖かい部屋で容態を診るのが適切だと、何を言わずとも母親の方は理解していたようだ。
そんな理由もあって、ヒューイは一通りゲルダの状況を観察することができた。
「ヒューイ。私って、どこかおかしいの?」
寝台の上に腰を下ろし、もそもそと服を着直しているゲルダが、唐突にそのような質問を投げかける。
「おかしいところがあると、何かあなたにとって困ることがあるのですか」
質問に対し、ヒューイは淡々と返事をする。オデットに見せていたような人好きのされる柔和な微笑はそこにはない。
実験動物を見るような冷め切った視線が
――
ヒューイにとっては、何も取り繕っていない状態の視線が、ゲルダを見据えていた。
「私は別に困らないんだけど、オデットが心配の顔をするから」
ゲルダは服の袖を通し切ると、自分自身を納得させるように深く一度頷いた。
「オデットが心配の顔になるのは、嫌だなって思うの」
「あなたは、そのように感じるのですか」
「うん。あのね、オデットが泣きそうになるときって、眉がこうやってぎゅーって寄って、顔が何だか硬い感じになるの。それは心配だったり悲しい気持ちの顔で、私はその顔は好きじゃないんだ。だから、オデットが心配の気持ちになるのは嫌だって思う」
拙い言葉ではありながらも、ゲルダは己の思いをヒューイに説明する。
オデットはゲルダにとって一番身近な存在だ。できれば、彼女には嬉しそうにしていてほしい。
ゲルダは、自分に近しい人が笑っているときほど、自分の気持ちが満たされていると自覚するようになっていた。それは、母のそばにいたときや、異端者のそばにいたときでは分からなかったことだ。ゲルダの中に生まれた暖かい感情は、オデットが拾い上げて形にしてくれたものばかりだ。
「オデットは、ヒューイの説明は信じるみたいだったから。だから、ヒューイには私がおかしくないのかどうか、教えてほしい」
数度の静かな瞬きを経て、ヒューイは唇を開く。
「先日渡した薬は、飲みましたか」
「うん、飲んだよ。たしか、オデットが攫われる前も、それを飲んでからどこかに行こうとしていたみたいだったって話していたよ」
「あの晩は、エレオノーラだけでなく邪竜の咆哮もよく響いた夜でしたから。あなたの中に眠るものが共鳴して、惹きつけられたのでしょう」
ゲルダは大きな瞳を一度ゆっくり瞬かせる。
エレオノーラ。その名前は、夢の中に出てきたゲルダ
――
もといゲルトルーデという竜が友人として寄り添っていた竜であり、ゲルダにとっては「お母さん」と呼んでいた竜のことだ。
「ヒューイは、お母さんのことを知ってるの?」
「ええ。偶然の出会いではありましたが、今は目的を同じくしている同志のようなものではあります」
「んん
……
つまり、やりたいことが一緒ってこと?」
「おおまかに言うとそうなりますね」
ゲルダは母親の「やりたいこと」を考えてみるが、全くもって想像できなかった。
オデットやノエのやりたいことは何となく分かるのに、ノエたちよりも長く共にいた母親の気持ちは、ゲルダにとっては掴むことのできない霞のようなものになっていた。
けれども、母親ではなく、夢の中の母のことなら少し分かるような気もする。夢の中のエレオノーラは、自分の友人と一緒にいる時間を楽しんでいるように見えた。
「あのね、ヒューイ。私、長い間夢を見ていたの」
「どんな夢でしょうか」
「私が竜になってね、お母さんと一緒に暮らしていて
……
そうそう、ヒューイもいたよ。今よりちょっと若い感じのヒューイと、遊んだり一緒にごろごろしたり、ぼーっとしてたり、何だかのんびりした時間を過ごす夢」
オデットに話したら、随分と風変わりな夢を見たのですね、と笑って話を聞いてくれた。
なら、ヒューイはどうだろうか。
ヒューイは
――
今までゲルダが見たことない顔をしていた。
オデットたちと話すときのような笑顔でもなければ、ゲルダの診察の時だけに見せる表情というものをどこかに忘れてしまったような顔でもない。
何かに期待しているような、驚きと喜びの顔。同時に、その期待を額面通りに受け取ってはいけないと己に自制を呼びかけているような顔でもある。
「竜になって、私と過ごす夢を見たのですか」
「うん。自分が経験したことがない、ありえないことを夢って言うんでしょう?」
「一般的にはそのように表現しますが
……
あなたの場合は、少し事情が異なるでしょうね」
「私の場合は? 私が見たのは、夢じゃないの?」
ゲルダの素朴な質問に、ヒューイは再び表情を消して数度の瞬きを間に挟む。
ゲルダのためではなく、他の誰かのために思考する時間を費やしている。直感的に、ゲルダはそう感じていた。
やがて、幾ばくかの時間を経て、ヒューイは顔を上げた。
「今から、少し長い話をします。あなたにとっては、おそらく何ということもない内容かもしれません。あなたには、私と同じように人並みの常識が備わっていないようですから」
横から聞けば大層失礼なようにも聞こえる内容ではあったが、ゲルダは平然とした顔で頷いた。
実際、ゲルダはオデットから『常識』を教えてもらってはいたものの、それはあくまで『知っていて当然の知識の一つ』という認識にしかなりえず、自分の肌身に当然のように馴染むものとして受け入れたわけではなかった。
「ですが、この話はオデットさんやその他の人間にとっては非常に恐ろしく、悍ましいもののように聞こえるでしょう。なので、みだりに話すことはおすすめしません。オデットさんから恐怖と困惑の視線を向けられるのは、あなたも嬉しくないでしょう」
いえ、とヒューイは言い方を変える。
「あなたは、オデットさんを心配させたくないでしょう?」
その質問なら、ゲルダははっきりと肯定を返せた。ヒューイは頷き返すゲルダに対して、ゆるりと目を細めて続ける。
「ならば、今から私が話す全てをあなたが口にするときは
……
あるいは、それを知った上で行動するときは、あなたが相手の気持ちを無視しても構わないような状況であることをお勧めします」
「それって、どんなとき?」
無邪気なゲルダの質問に、ヒューイは何かを懐かしむように口元に笑みをひく。
それは、ゲルダにとっては初めて目にするヒューイの微笑であり、なぜかどこか懐かしいと感じる笑みでもあった。
「それは
……
たとえば、誰かを守るために、なりふり構っていられないとき、ですかね」
それから、ヒューイは多くのことをゲルダに語った。
その殆どは、イシュガルドはおろか、この世界で生きるための『常識』すら知らなかったゲルダにとっては、すんなりと受け入れられるものだった。
ノエやオデットのように、話の節目に驚いたり身を乗り出したりといった聞き手としてのリアクションすら、ゲルダには必要なかった。
けれども、彼女は漫然とヒューイの説明を受け流していたわけでもなかった。
自分にとって彼が伝えた内容がどのような形で関わっていくものなのか、常識を知らないからこそ、ヒューイの説明を己の血肉の一つとして胸に刻んでいた。
話の最後に、ヒューイは一つの瓶を渡した。真っ赤な液体の中に、どろりとした塊のようなものが一つ浮かんでいる。それについても、ヒューイは丁寧な言葉を使って一から説明してくれた。だからこそ、ゲルダも今自分の手の中にあるものが何かが分かる。
「これが、最後の一欠片です。あなたがこれをあるべき形に戻したとき、どのような結末になるかは私にもわかりません」
「ヒューイには、こうなるといいなって思うような目標があったんじゃないの?」
「ええ、ありました。ですが、それはあくまで願望が混じった目標であり、理想に過ぎません。私は『こうなるかもしれない』という予想をたくさん積み重ねた上で、あなたに今説明していたようなことをしていたのです。ですが、こうなったらいいと思う予想の裏では、同じくらい、私の予想は裏切られることも考えていました」
それはまた途方もないことをしている、とゲルダは素直に思う。
ゲルダが出会った異端者も、オデットやノエたちも、日々を生きる中で何かを目指していた。実現は難しそうに見えても、叶わなかったときのことを最初から考える、などという人はいないように見えた。
だが、ヒューイは、自分の夢が叶う瞬間と、叶わない瞬間を同時に横に並べていたようだ。
「これ、全部飲んだら、私は
――
」
ゲルダは、一つの質問をした。
ヒューイは彼女の問いに答えた。
それは、ヒューイにとっては予想できる答えの一つであったのだろう。だが、同時にこの状況下において、ゲルダにとっては最も有力な情報でもあった。
「
……
もし、ヒューイが言うようなことになったら。一つだけ、お願いをしていい?」
「何でしょう」
「オデットのこと、ヒューイに守ってほしい」
その瞬間、ヒューイは目を丸くしてゲルダを見つめていた。微かに開いた唇は、一瞬呼吸そのものを忘れ去ってしまったかのようだ。
「あなたにとって、オデットさんはそれほどまでに大事な方になったのですか」
「うん。私、オデットの心配の顔は見たくないし、オデットが怪我をするのも嫌」
だからこそ、自分はオデットが凍てついた川に落ちて溺れかけたとき、彼女を助けるために躊躇なく飛び込んだのだと、今なら胸を張って言える。
「その感情すら、所詮は影であり、夢の続きのようなものに過ぎないと知ってもですか」
「うん。多分、今こうしてあれこれ考えているように見える私も、結局は『私』が見ている夢の続きみたいなものなのだと思う。もう少しこの世界にいたいっていう『私』が、少しだけ我儘を言って、ヒューイやお母さんが頑張ってくれたおかげで、今みたいな形で夢を見ていられる」
ゲルダは、自分の胸に手を当てる。その奥に微かに息づく鼓動に、今は感謝を捧げる。
この手足も、毛筋の一つまで、今の形となっている奇跡が続けばいいと願う。
だが、きっとそれは近いうちに終わりを告げることを予想できていた。たとえヒューイが今渡してくれたものを口にしなかったとしても。影とは、いつか消えるものだから。
「それでもね、私がオデットといて楽しかったなあと思う気持ちは本当だと、私は思うから。オデットも、きっと同じことを言うと思う」
「
……
」
ヒューイは、表情を消してゲルダを見つめている。それは鉄面皮のように見えるが、彼なりの逡巡の現れなのだとゲルダには分かった。
夢の中で、彼は自分の表情を出すのが苦手だと話していたが、ゲルダから見れば彼も存外にわかりやすい人だ。それとも、それは『私』が彼を見ていた時間が長かったからだろうか。
「分かりました。他ならぬ、貴方がそう言うのなら、私は貴方の願いを守ると誓いましょう」
「ありがとう、ヒューイ」
ゲルダは、以前よりずっと楽に浮かべられるようになった笑顔をヒューイに見せる。
かつて竜と共に笑っていた青年もまた、笑顔と呼べるもので彼女の微笑みに応じる。それは、以前浮かべたものと比べれば随分と寂寥を帯びたものではあったが。
***
朝食と支度を済ませ、ノエたちはルグロ家の騎兵たちが行き来する屋敷を後にしようとしていた。しかし、出立の直前、
「あの、ノエ
……
さん」
玄関口でアガテルが一同を呼び止めた。ノエは皆を先に行かせて、強張った表情でオデットを陥れた令嬢と向かい合う。
「オデットを、探しに行きますの?」
「ええ。ルグロ家の騎兵の方々に任せてはおけないと判断しましたので」
返答の声音は、ノエが自分でも驚くほど冷え切っていた。
怒りを暴力という形で表す必要はないとオランローに諭されてはいたが、だからと言ってノエが怒っていないかと言われれば、そのようなことはないと言い切れる。
ただ、感情に任せて恫喝する以外にも怒りを示す方法はある、というだけの話だ。
「わたくし、その
……
オデットのことは
――
って、ちょっと、どこに行きますの!?」
すでに踵を返しかけていたノエに驚き、アガテルが声を張り上げる。
「あなたがどれほど申し訳なく思っていたとしても、僕にあなたの謝罪を聞く義務も時間もありません。あなたが罪悪感を覚えたと言うのなら、今度はそんな感情を抱く前に、踏みとどまるという選択肢をしてくれればいい。僕があなたに望むのはそれだけです」
一息の間にそこまで言い切ると、ノエはアガテルに背を向けて扉を開き、彼女が何か言う前にその大扉を閉じた。
待っていた面々にも声は聞こえていたのだろう、ヤルマルには肩をすくめられ、サルヒは瞑目してゆっくりと首を横に振った。
「ノエの言う通り、時間が惜しい。お嬢さんの愚にもつかない謝罪を聞いているより、チョコボ留めに向かった方が時間の有効活用ができてるってもんだ」
「旦那様、いつになく不機嫌ですね」
「不機嫌にもなるだろ。貴族だ何だって言ってるんだから、中途半端に頭を下げるくらいなら、いっそのこと最後まで傲慢なお嬢様を演じてみせろってんだ。悪役に徹しているのに耐えられなくなって馬脚を表すくらいなら、顔なんざ見せなきゃいい」
少し先を行くルーシャンは、サルヒの言う通りアガテルの態度にいまだに不満を覚えているようだ。雪を蹴る足どりが、常よりも荒々しい。
ノエとしてはルーシャンの意見に概ね賛成ではあったのだが、
「旦那様がそれを言いますか」
「何だよ、サルヒ」
「いいえ、お気づきでないのなら良いのです」
何かルーシャンとサルヒにだけ通じることがあるのか、彼は苛立ちを外に出すのはやめて、上着の中に首を埋めるかの如く肩をすくめてみせた。
確かにルーシャンはわざと悪ぶってみせるところはあるが、それはあくまでジョークとして流せる範囲のことだ。サルヒにあそこまで辛辣な物言いをされるようなことがあっただろうかとノエが思っていた頃には、一同はチョコボ留めの近くにある教会へと差し掛かっていた。
朝の礼拝が終わったのか、教会からは数名の人が出てくるところだった。最後尾には教会の司祭であるハンフリーの姿も見える。
「おや、皆様お揃いで
……
」
礼拝に来た信徒を全員送り出した後、ハンフリーは小走りでノエたちへとやってきた。彼はゆっくりと一礼をしてから、誰かを探すように首を左右に振り、
「ノエさん。孤児院で見かけたお嬢さんが見当たらないようですが、あのかたはどちらに?」
オデットを知る者から、オデットがいないことを指摘されて、ノエは冷たい氷の針が心臓に突き立ったかのような、言葉にし難い痛みを覚えた。
事情を知らない者からの何気ない問いかけであるからこそ、日常から彼女が取りこぼされたように思えてしまったのだ。
「オデットは
……
今は、少し別行動をしているのです」
まさか、正直に全てを話すわけにもいかず、ノエは言葉を濁す。
「そうでしたか。それで、今はどちらに?」
「ちょっとばかり野暮用で、外にな。なーに、すぐに俺たちも合流する」
間に割って入ってくれたのは、ルーシャンだった。ノエが話しづらそうにしているからもあったが、ひょっとしたらハンフリーも誰かがなり代わり、異端者に味方している可能性も彼は考慮の内に入れていた。
「そうでしたか
……
」
ハンフリーは周囲を素早く見渡した後、ノエにすたすたと近寄り、
「昨日、私はルグロ家のお嬢様のお話を聞きにいったのですが、あの場で演説をしていたアガテル様と、ノエさんの側にいるお嬢さんは瓜二つの顔をしていました。ですが、私が以前ルグロ家の方々にお会いしたときには、お嬢さんと似た姿をした子供はいなかったはずです」
ハンフリーの言葉に、ノエは小さく息を呑んだ。ここにも、アガテルの本当の姿を知る者がいたようだ。
「もしや、あのお嬢さんは
……
貴族の関係者なのですか?」
「いえ、そういうわけではありません」
「ですが、たしかに彼女はアガテル・ド・ルグロの名を名乗っていました」
「少しばかり縁があって、お嬢様の変装のモデルになったんだよ。知らない人たちの視線に晒されるのが、貴族のお嬢様には恐ろしく思えたみたいでね」
食い下がるハンフリーに、ヤルマルは虚実織り交ぜた言葉を返した。実際、半ば騙されたとはいえ、変装に手を貸す結果になったのは事実だ。
アガテルがオデットというモデルを必要としたのは、錬金薬を使った変装には具体的なモデルか、あるいはモデルの体の一部などが必要だったからだろうと、昨日ルーシャンが説明してくれていた。そうでなければ、わざわざ年齢の近い少女を傭兵として雇い入れる必要はない。
「そのような理由があってのことでしたか。では、もしや、お嬢さんは貴族の用事で皆さんと行動を別にしているのですか?」
「そのような感じです。すみません、急いでいるのでこれくらいに」
「ああ、失礼しました。次にお会いするときは、ぜひお嬢さんにもお話をさせてください」
ハンフリーは再び一礼して、礼拝堂の中へと消えていく。
その背中を見送っていたノエの側に近寄り、オランローは「昨日のことだが」と低い声でつぶやいた。
「オデットに化けたアガテルの演説の前に、あの男に出会ったんだ。そのとき、ミラベルにも会ったんだが、どうにも二人の仲はあまり良くないようだった。ミラベルは、ハンフリーがやけに孤児院を外から覗いていた、と話していた」
「ハンフリーさんが? 様子が気になって、手伝いに来たんだろうか。一昨日も、手伝いがしたいって訪問してきていたから」
もっとも、ハンフリー司祭は今まで長らく町にいたというのに、孤児院の手伝いには一度も訪れなかったらしい。手のひらを返したような偽善者のような態度が気に障ったようで、ミラベルがけんもほろろな態度で追い返してしまっていた場面は、ノエ自身目にしていたからよく知っている。
「どうだろうな。聞いた限りでは、そのような感じではなかったらしい。先ほども、やけにオデットのことを気にしているように見えたが」
「アガテルさんがオデットの姿を借りていたから、本当の姿を知っている彼は混乱してしまっただけなんじゃないか」
「それだけならいいんだが
……
」
だが、今はハンフリーの不自然な挙動について悩んでいる場合ではない。すぐに気持ちを切り替えて、ノエは町の入り口近くにあるチョコボ留めの係員に、チョコボを出してくれるように依頼する。
すでに顔馴染みとなった係員は、ノエから厩舎の利用代金を受け取りつつ、
「あれ、五人分ですか。今日は、あの小さなお嬢さんはいないんです? あと、一緒にいた銀髪のお嬢さんも」
「
……
ええ。でも、すぐにまた一緒に走るようになりますから」
「そうですかい。あの二人のチョコボ、預かったばかりの頃はよく疲れて帰ってきてましたが、近頃は随分と楽そうでしてね。チョコボの騎乗に慣れてきたんだなあって思っていたところなんですよ」
何気ない世間話をする係員の言葉に、ノエはありし日の情景を思い返していた。
まだチョコボの騎乗に慣れておらず、それどころか魔力の暴走で足すら不自由だった頃のオデットを連れて、グリダニアの牧場で彼女をチョコボに乗せたことがあった。いつもよりずっと高くから見える景色にはしゃぐ少女の声が、耳の奥にこだまする。
「それじゃ、お気をつけて。二人の分は、引き続き預かっておきますよ」
「ええ、お願いします」
ノエは深く頭を下げてから、自分のチョコボの鞍に荷物をくくりつけ、今では慣れた手つきで騎乗する。
捜索のためには、あまり目立った動きは避けた方がいい。洞穴の少し手前で、チョコボには一度厩舎に帰還してもらう必要があるだろう。
次にあのチョコボ留めに行くのは、オデットと共に行く。ともすれば不安にかき消されそうな希望を自分の胸に必死にかき集め、ノエは鈍色の雪景色へと踏み出した。
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