透き通る空の下、エピクレシス歌劇場、フォンテーヌ廷、そして我らがフォンテーヌレイクを一望出来る丘の上。柔らかな風が吹き抜ける草原に、フリーナは佇んでいた。
傍らにはロマリタイムフラワー。淡い青色と、ほんのり色づくピンクのグラデーションの蕾が可愛らしい、フォンテーヌの特産品。
フリーナは花びらが重なり合った、まん丸の輪郭にそっと手をかざす。掌から放出された水元素を受け取り、花はふわりと蕾を開いていく。
花弁が開ききると、蕾と同じくまん丸の花芯が姿を見せる。高貴な青色と称されるその花は、ぷわぷわと小さな泡を吐き出していた。
「……ふふっ」
幻想的とも、可愛いとも表現出来る咲き誇り方を、フリーナはけっこう気に入っている。
「……よいしょ」
しゃがみこみ、膝を抱えるようにして視線を落とす。手ずから咲かせた花と視線が重なる。
これは最近の、ちょっとした趣味。陸に揺れるロマリタイムフラワーに水元素を与えて、水中の姿を思い出させる。それがなんだか、楽しい。
水元素を受けて花開くロマリタイムフラワーは、フォンテーヌレイクの中か、水元素を操れる者の手でないと咲かせられない。
そのため長らく只人でありながら水神を騙っていたフリーナが、陸に咲く姿を見ることは殆どなかった。
長時間潜ることも、水元素を操ることも出来なかったし、だからといって、水元素を操れる誰かに頼むなんてことは、もっと出来なかった。
水神なのに元素を操れないのか、などと疑いを掛けられては困るからだ。
だからフリーナはずっと、心のどこかで草原に咲く水の花びらに焦がれていた。手が届かないからこそ、夢は膨らむものだ。
摘み取られた花束を貰うことこそあったけれど、野に咲く姿はまた別種の美しさだろう。
今のフリーナには神の目がある。自らの手で水元素を操り、蕾に水を灯すことが出来る。それがなんだか、嬉しいのだ。
最初はサロンメンバーに頼んでみたが、彼らのやり方は少し……ほんの少しだけ荒っぽかった。水泡でパシパシと叩かれる花が、あんまり可哀想だったので、以来頼んでいない。
代わりに、こうして掌から水元素を出せるよう猛特訓した。思うよりも繊細な元素コントロールが必要で、結構な苦労をしたが、結果として神の目を操る良い訓練になったと思う。
まだ蕾は残っている。次の花に向かって立ち上がろうとした、その時。ふっと視界に影が差す。
「フリーナ殿」
「ヌヴィレット?」
首を上げると、そこにはフォンテーヌ最高審判官──ヌヴィレットの姿があった。
「どうしたんだい?こんなところで」
ここは街外れ。周りには自然のみで、道も建物もない。まさか、こんなところに用事があるとは思えない。
「歌劇場から出たところ、君が此処にいるのが見えた。一体何をしているのかと思い、様子を見に来たのだ」
龍の視力、すごい。
フリーナは思わずエピクレシス歌劇場を見た。当たり前のようにヌヴィレットは語ったが、ここからはそれなりの距離がある。
現にフリーナから見る歌劇場付近の人の姿は豆粒で、彼らの営みは勿論、誰が誰かなんて分からない。
しかしヌヴィレットは一目で自分を見つけ、ここまでやって来たのだと言う。
龍の視力が人より遥かに優れていることは知っているが、それでも驚いてしまう。
「……こんな所で、何を?」
周囲を一瞥しながらヌヴィレットが訊ねてくる。
それはそうだ。ここは街外れ。周りには自然のみで、道も建物もない。まさか、こんなところに用事があるとは、普通なら思わない。
「花をね、咲かせていたんだ」
すく、と立ち上がりながらフリーナは答える。
「花……?」
僅かに首を傾げたヌヴィレットは、しかしすぐにフリーナの言葉を理解したようで、ひとつ頷いた。
「成程。ロマリタイムフラワーか」
その視線が、フリーナが咲かせたばかりの花へと向けられる。
「そうだよ。本来水の中でしか見られない姿だから、なんだか楽しくってね」
「ふむ。君はそう感じるのか。私からすれば、この姿こそが見慣れた姿だ」
フリーナはぱちりと瞬いた。言われてみれば、そうかもしれない。彼は数百年前にフォンテーヌ廷に招かれるまで、ずっと水の中で暮らしてきたのだから。
「そういえばキミは、フォンテーヌ廷に来たばかりの頃、陸の蕾を物珍しそうに見ていたね」
「ああ、初めて見る姿だったからな」
薄い紫色の瞳に浮かぶ追想の色。きっと今、自分も同じ色を浮かべているのだろう。
懐かしい。彼と出会ったばかりの頃は、水神の演じ方も、彼との接し方も、全てが手探りだった。
絶対に正体を知られる訳にはいかず、けれども『鏡の中の僕』の計画の、大事なピースだとも分かっていたから、距離を置くことも出来なかった。関わり続けるしかなかった。
一挙手一投足に気を配りながら、人間社会を教え続けた。
……懐かしいな。
フリーナは目を細める。
思い返すも綱渡りな日々。けれど全てが終わった今、彼と過ごした時間は決して悪いものではなかったと、そう思う。
いつ終わるかも知れない孤独で苦痛な年月の中、彼との時間が幾ばくかの救いとなっていたのも、また事実なのだから。
……そういえば、こうして話すのは、いつぶりだろう?
水神の座を降りてからというもの、こうしてヌヴィレットとささやかなやり取りを交わすことはなくなった。
今や自分は一般市民で、方や彼はフォンテーヌの国家元首。二人の身分の違いを考えれば、それは当たり前の距離。
「……さて。残りも咲かせてしまおうかな」
瞬間、胸に押し寄せた小さな隙間から目を背け、フリーナは未だ蕾を残す花へと近付いた。
蕾に掌を掲げる。ふと、二人の間に柔らかな風が吹き抜けた。さわさわと草花が擦れる音がする。
ロマリタイムフラワーが揺れる。フリーナの咲かせた花と、蕾のままの花。
──どちらも、綺麗だった。
「……やっぱり、やめた」
フリーナはそっと手を下げた。
「……何故?」
ヌヴィレットが不思議そうに、急な心変わりの理由を問うてくる。
「今日はキミがいるからね」
「私が?」
「うん。この蕾は人間社会に来てからキミが学んだことの一つな訳だろう?ある意味、共生の証とも言える訳だ」
水中と陸、両の場所に姿を変えて咲く花。
それが今、それぞれの姿で草原に彩りを添えている。
「それに、なんだかキミに似ているだろう?」
水龍と最高審判官、両方の姿を併せ持つキミと。
目を瞬くヌヴィレットに、フリーナはそう言って微笑みかける。
「……花と似ていると言われたのは、初めてだな」
対するヌヴィレットは、並ぶロマリタイムフラワーに視線を落とした。フリーナも彼の視線の先を追う。
ヌヴィレットに似ている。そして、両方綺麗。
だから、今日はこのまま。
◇◆◇◆
──なんだかキミに似ているだろう?水龍と最高審判官、両方の姿を併せ持つキミと。
風に揺れるロマリタイムフラワーを見つめながら、ヌヴィレットはフリーナの言葉を反芻していた。
ヌヴィレットにとっても馴染みのある、水中で咲く花。
メリュジーヌが住まうメリュシー村にも同様の花が咲いており、シグウィンに至っては、化粧品レビュー投稿時のペンネームにまでしているらしい。
柔らかい花びらは吸水性に優れ、弾力があるため、人間社会においても、多くの日用品の原材料として使われている。
水の世界にも、陸地にも、両方に息づく花。
……フリーナのようだ。
フリーナは自分に似ている、と言ったが、ヌヴィレットからすれば、彼女にこそ似ていると思う。
メリュジーヌと人間、両方に慕われる、彼女こそ。
「覚えているかい?花言葉というものもあるんだよ?」
ヌヴィレットが己の結論を伝えるよりも早く、フリーナが問いを投げかけてきた。
花言葉。知っている。花の色や性質などからつけられる単語。
世界の全てが見えない乏しい知識と、溢れる表現意欲を併せ持つ人類を象徴するような戯れ。
「一つはね、『忠誠』」
フリーナは片指を立てる。
忠誠──主君や主人に仕える、一途な心。
フリーナとはかつて上司と部下の関係だったが、彼女は決してヌヴィレットの主君や主人などではなかった。
だから、ヌヴィレットがフリーナへ抱いていた感情は、『忠誠』ではない。
この想いが『忠誠』ならば、上下関係が崩れた今、手放せばならない感情となる。
それは、嫌だ。…………嫌だ?
「もう一つはなんだと思う?当ててごらん」
穏やかに微笑むフリーナは、かつてヌヴィレットに人間社会を教え導いた水神の頃に似ている。
似ている……というのは、全く同じでもないからだ。今の彼女はもう人間で、「水神」という役から解放された。
だから今の彼女は、真実フリーナ自身の姿。呪いにより保たれていた不老不死の寿命もなく、もうヌヴィレットとは異なる時を歩んでいる、人間の少女。
「…………」
──嫌だ。改めてそう思った。
ヌヴィレットとフリーナの距離は、もう彼女が水神を演じていた頃と同じではない。
もうパレ・メルモニアに彼女はいないし、ヌヴィレットの執務室に騒がしく現れることもないし、審判中に見上げても、神座に座る者はない。
彼女との繋がりは、目に見える形で分かりやすく失われている。
それが、嫌だ。
失いたくない。彼女との縁が遠のいたことを、自分は嫌だと感じている。彼女との繋がりを持ち続けたいと思っている。
……そういえば、彼女とこうして、たわいのない話をするのは、いつぶりだろうか?
「おや、降参かい?」
黙り込むヌヴィレットを勘違いして、フリーナは実に軽やかに笑う。
透き通る空の下、エピクレシス歌劇場、フォンテーヌ廷、そして我が大海を背景に、彼女は笑う。そうして柔らかな風に吹かれるフリーナは、そのすべてが霞むほどに、眩く輝いていた。
……私は……、
唐突に理解する。自分は、この笑顔を守りたいのだ。この想いは──、
「……不変の誓い」
「うん、正解!」
ぱちぱちと両手を叩いて、にっこりと笑うフリーナ。水神を演じていた頃の笑みとは、やはり違う。
鈴の音を転がすような軽やかさは、あの頃にはなかったものだ。五百年に渡る孤独で苦痛な歌劇から解放されて、軽くなるものがあったのだろう。
それはとても喜ばしいことで、これからも軽やかな足取りで、新たな舞台を謳歌してほしいと思う。
そして、願わくば。
「……フリーナ殿。一つ、提案があるのだが」
「ん?なんだい?」
きょとん、と色違いの青い瞳を瞬かせながら、彼女は首を傾げる。
気負いのない無防備な表情と仕草。好ましいのは、なにも笑顔に限ったことではないのだと、ヌヴィレットはまた一つ気付かされた。
「今回だけの偶然の邂逅で終わらせず、これからは定期的に会うようにしてはどうだろう」
フリーナの大きな瞳が見開かれる。
「……でも、キミは忙しいだろう?それに僕はもう一般市民だから、最高審判官さまと定期的に会う理由なんてないよ」
細い眉を少し下げながら、フリーナは唇を上げた。人間がそういう表情をする時は、主に困っていて、尚且つそれを誤魔化そうとしている時。
そういう細かな機微も、人間社会に身を置く中で少しは分かるようになっていた。フリーナが、教えてくれた。
「君の視点や発想は私にはない知見であり、非常に興味深いのだ。最高審判官として見識を深めることは重要だと、かつて君も言っていただろう」
分かるようにはなったけれど、それでも物分かりよく引き下がりたくはなかった。
彼女は神の座を降りてから、身分だなんだと、やたらと線を引くようになった。その見えない細くて強固な一線が、どうしようもなく煩わしい。
「…………」
フリーナは考え込むように腕を組む。ややあって、引き結んだ口を開いた。
「……そういう職務の延長みたいな誘いは、好きではないな」
「…………」
それが色よい返答ではないことは明らかだ。
しかし長い間、最高審判官として公平を保つための在り方だと、他者との接触を避けてきたヌヴィレットには、もうどう言葉を紡げばよいのか、分からなかった。
「──だから、こうしよう」
「……?」
フリーナが片指を立てる。その指は空ではなく、ヌヴィレットに向けられた。
「僕だけでなく、キミも話をしてくれ。僕だけが話し続けるなんて、それではコミュニケーションとは言えないよ」
それで僕たち、対等だろう?
そう言って、ふわりと花開くようにフリーナは笑う。
「……成程」
要するに、言葉が足りなかったのだ。最高審判官と一般市民が会う是非を問われたから、ついその土俵に乗って答えてしまった。
しかしヌヴィレットが真に望むのは、フリーナが話す内容ではなく、彼女との繋がりそのものなのだから、確かに先の言葉は相応しくない。
「納得してくれたかい?では、これからよろしく頼むよ、ヌヴィレット」
向けられた指が解かれ、今度は小さな掌が向けられる。
これも知っている。握手、あるいはエスコート。フリーナが教えてくれた、人間社会の文化。
この手を取れば、きっと彼女とのこれからの関係は、元上司と元部下、一般市民と最高審判官──その細くも頑固な一線を超え、例えば友人、あるいは良き隣人。そう言った関係性へと変わるのだろう。
それはとても喜ばしいこと。……けれども、願わくば。
ヌヴィレットはそっと小さな手を取った。お互いに手袋をしていても、それでもじんわりと温かい。
刹那、フリーナから教え込まれた人間社会の『正しい』が過ぎり、けれども龍としての在り方、そして何よりヌヴィレット自身の願いが、その儚い一線を超えていく。
「え……っ」
愛おしいその温もりを、自らの唇に誘う。驚いた可憐な声がどこか遠い。びくん、と細い指先が震えるのも好ましかった。
もっと感触を味わいたくて、瞼を閉じて視覚を遮断し、触覚に神経を尖らせる。そして手袋が邪魔だと、頭の片隅で思った。
若干の不完全燃焼を感じながら瞼を上げると、真っ赤に染まった花のかんばせが目に入る。
「な……、な……っ」
ぱくぱくと開閉を繰り返す小ぶりな唇は、けれども音を紡ぐこともなく、ただ酸素の交換だけを繰り返している。
もう背景もなにも目に入らない、強力な引力。
紅色の頬に手を添える。温かく、柔らかい。逆らえない引力に従って、己の唇を近付けて──華奢な掌に、遮られた。
「……何故?」
「な、なぜじゃないよ!こういうことは、好きな人とするんだ!こんな訳の分からない流れでするものじゃない!」
眉を寄せるヌヴィレットに、フリーナは頬の紅潮を保ったままに叫ぶ。
「……成程」
そしてその言に、また一つ納得を得る。
「わ、分かったら手を離して!あと、か、顔を近づけるのをやめてくれ……」
もにょもにょと彼女は顔を背ける。おかげで耳まで赤く染まっているのが見えた。
「好きな相手とならば、問題はないのだな?」
「う、うん……?そう……なるかな……?」
やはり彼女は、自分に様々なことを教えてくれる。込み上げるこの感情の名を、教えてくれた。
「……好きだ、フリーナ。私は君を、愛している」
色違いの青い瞳が、弾かれたようにこちらを向いた。
見開かれたその目は、水を纏ってゆらゆらと揺れている。するりと小さな掌が唇を滑り落ちていく。花唇から零れる僅かに乱れた吐息の音だけが、やたらと鮮明に聴こえる。
これらの意味は、なんだろうか。
しかしこの調子では、いくら待っても彼女の口から回答が得られることはないだろう。
ヌヴィレットはそう見切りをつけて、唇の温もりで答えを確かめた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.