夢ノ咲学院からほど近い、商店街の路地裏。いまどきのSNSで流行するような若者映えするカフェは少ないが、隠れた名店がいくつか立ち並んでいる。数日前の雨で広がった水溜まりさえ、まだ捌けないアスファルト。警察に追われるやくざが蹴飛ばしていそうな薄汚れたごみ箱に、野良猫がちょこんと座る。ロマンチックの欠片もない日陰だ。そんな場所に美しいアイドルを連れ込むなんて、多分どうかしている。本当にどうかしているのだけれど、レオは嬉しかった。
とりわけ映えもしない場所で、夕飯のひとときを過ごす。それは当たり前のようでいて、長らく失っていた時間だったから。
「いっただきま~す!」
カウンター席に、ブレザー姿の高校生が仲良く並ぶ。レオは行儀よく両手を合わせると、割りばしを器用に半分にして、湯気の煮立つ味噌ラーメンのにおいを嗅いだ。
芳醇な香りを堪能しながら細い麺をすすり、ラー油にたっぷり浸したぎょうざをチャーハンに乗せる。おおきく口を開けば、すぐ隣で小サイズのラーメンをすすっている泉が、げんなりと見つめていた。カロリー爆弾じゃん、信じらんない、とでも言いたげな眉の形をしているが、真正面で麺を茹でている店長を前にして遠慮しているらしい。
「……でっかいクチ。トトロみたい」
そのかわり、なんとも幼い感想を並べた。おまえジブリは観るよな、ガンダムとかそういう熱き男たちの戦いは興味ないくせに。メンマをかじりながら返せば、泉はちいさな唇でラーメンをちゅるちゅると吸う。相変わらずの少食である。
「セナはあんまり食べないよな~」
「当たり前でしょ」
「おれだって、一気食いするほうじゃないけどさ。放課後は、さすがにお腹ぺこぺこのぺこちゃんになるぞ。そんなので、腹が膨らむのか?」
「俺にはこれで充分なの。そもそも、あんたのお母さんに『よかったら、レオと一緒に食べてきてね』なんてサービス券を渡されたから、しょうがなく来てるだけで───」
麺をゆがいている店主の動きがぴたっと止まる。泉はばつが悪そうにコップの水を飲んだ。
わはは~、セナが黙ってら。レオはけらけら笑いながら、ゆで卵をぱくりと頬張った。
「まぁ、ここのラーメン結構おいしいし。別にいいけど」
「なんで上から目線なんだよ」
よかったら感想を教えてね、と頼まれたわけでもなし。例えば、いかにもラーメンが好きそうな───同級生のモリサワチアキとか、とにかく知り合いに渡してしまえばよかったのだ。美味しかったです、と無難な感想でごまかすこともできるだろうに。他人から受けた施しをこうやって律儀に受け取ってみせるのだから、根はいい奴である。レオは白米をもぐもぐと咀嚼しながら、にっこり笑った。
高校二年生の春休みから不登校になり、ようやく復学したのは秋のことだ。それから暫くはぎこちない距離感が続いて、先日のスタフェスを皮切りに、やっと会話の温度が戻ってきた。こうしてまた夕飯をふたりきりで食べるのは久しぶりのことだったけれど、ああ、そういえば、おれはセナのこういうところがだぁい好きだったんだよなあ、としみじみする。白い雪が解けて花の芽が顔を出すように、胸の奥からじわりと温もりがあふれるのだ。
お月さんみたいに美人なのに、鬼姑ぐらいガミガミうるさくて。いつだって理不尽で口が悪いけど、一度でも関わったことのある人間にはちょっぴり優しくて───出会ってからずっと、完璧な容貌とはうらはらの不器用さが好きだった。ううん、いまでも変わらず大好きなのだ。青春の終わりを二度とは繰り返したくないから、いささか慎重になっているけれど。
おれは、おまえと一緒にラーメンを食べられて嬉しいよ。多分おまえが想像してるより、何十倍、いや何億倍だって。おれの気持ちを知ったら、おまえはどう思う? ───まっすぐに聞けたら、どんなに楽だろう。胸に秘めた想いごと嚙みちぎるようにチャーシューを咀嚼していると、なにやら視線を感じる。泉がじっと見つめていた。
「ねえ、ネギついてる」
頬杖をつきながら、冷ややかな眼差しで首を傾げている。レオは両頬をぺたぺたと触ったが、それらしき物体を認知できない。
「さすがセナ! 視力検査いくつだった? おれは両眼二・〇!」
「聞いてないし、誰でもわかるし。ほら……くちびるの、ここ」
「ん~?」
「違う、逆。そっちじゃない」
「う~ん……?」
「もう。俺がやったほうが早いよねえ」
カウンターに置かれた備えつけのナプキンを引っ張ると、泉はそっと身を近づけた。至近距離でも毛穴ひとつ見当たらず、汗の一滴さえ浮いていない美しい肌。レオは、思わずくぎづけになる。
ほんとうの月じゃなくてよかった。見惚れた地球が重力で引き寄せて、人類は滅亡していただろうから。
泉はくちびるの端っこを優しくふき取って、美しい所作で紙をまるめる。
「いくつになっても、ガキなんだから」
耳たぶに髪をかけながら、泉がどんぶりのラーメンをすする。ちゅるりと吸い込まれていく麺に、セナのくちびるってこんなに小さかったっけ。昔は柔らかかったけど、今はどうなんだろう───甘酸っぱくて、それでいてほろ苦い記憶の感触をたぐり寄せながら、レオはぼんやりと泉の横顔を眺める。
頬が熱いのは、多分ラーメンの湯気のせいだけではないだろう。
「なぁに。俺の顔にもネギついてる?」
「ん〜ん。……相変わらず綺麗だなって思ってさ」
率直な感想を告げると、泉は上唇の油を拭き取りながら返事をよこす。
「まぁた、どこで覚えてきたんだかわからない口説き文句。そういうのは、可愛い女の子にでも言ってあげたら?」
男とか、女とか、生物学上の性別はどうでもよくて、おまえだから言ってるんだけどなあ。もちろん伝えられるわけもなく、レオは残りのチャーハンをもぐもぐと頬張った。
「まぁ、アイドルやってる以上は、恋愛なんてご法度だけどさあ。でも、れおくんもいつかは……好きな子、できるでしょ」
「……うん」
「好きな子の前では、絶対にカッコつけたいよねえ。だったら、顔にネギなんてつけてちゃ駄目」
とっくの昔に出会ってるんだけどなあ。これまた返すことなく、レオは空いたコップに水を注いだ。勢いよく傾けたおかげで中身が跳ねて、テーブルが水浸しになる。レオが慌ててナプキンで拭くと、泉は失笑した。
「言ったそばから、顔にしょうが付いてる」
三本もくっついてるよ。そうはならないでしょ、とくすくす笑ってのける泉はやっぱり綺麗で、レオはなにも言えなくなる。
おれ、本当におまえのことが好きだよ。もしも伝えたら、せっかく元に戻った関係が壊れてしまうそうだから。ネギとしょうがを拭き取ったティッシュみたいに、こっそり丸めておくことにした。
「ふぅ~、おいしかった! ごちそうさまでした!」
それから一時間後。ラーメン屋の主人に会釈して、のれんの外をくぐる。温かな店内とは一変して、肌寒い空気が頬を突き刺した。黒塗りの冬空から、粉雪が舞っている。寒がりのレオは身震いしながら、制服のポケットに手を突っ込んだ。
今日という日はさっさと帰って、ひとっ風呂を浴びるに限る。
泉が編んでくれた毛糸の帽子と手袋をはめて、駅に向かおうとする。ところが唐突に腕を掴まれて、レオは背後に「わっ!」と反り返った。
「なんだよ、セナ~。危ないだろ~」
「待って。にんにくのにおいする」
「なんだって!?」
ふかふかの手袋でくちびるを封じて、呼吸する。ミトン型のてぶくろの隙間から白い息がこぼれたが、自分のにおいというのは正直よくわからない。むう、と唇を尖らせながら考えあぐねていると、泉がブレザーから四角いケースを取り出した。
「ったく……。こんなんじゃ好きな子とデートするとき、嫌われちゃうよぉ」
「あ?」
「はじめてのキスがにんにくのにおいとか、そういうの絶対にやめなよね」
泉はレオの手袋を脱がすと、はじける果実が描かれたブレスケアの容器を上下に振る。てのひらに転がった桃色の粒を見つめながら、レオは黙りこくった。ばかのひとつ覚えみたいに、好きなこ好きなこって。一体なんなんだ。出会ってからずっと、たったひとりに恋しているのに───秘めた想いを察してもらおうとは思わない。けれども、架空の登場人物に恋焦がれる自分を想像されるのは、どうにも気に食わなかった。
ピーチの香りがする粒を勢いよく放り込み、レオはぐいっと顔を近づけた。
「おれが好きなやつは、桃の香りがするから。そいつとちゅ~して、上書きしてもらうからいい」
どうせ、鈍感ラブコメ主人公には通じないんだろうけど!
胸の奥にこっそり隠した想いを噛み砕くように、ピーチの粒を舌で転がす。ところが、泉は一向に言い返してこない。不思議に思ったレオは、泉に視線を向けて───おもわず唇を半開きにする。
泉が、耳たぶを真っ赤にしていた。
「急に……なんなの」
「へ……」
「俺のことかと思って……びっくりしちゃったじゃん」
「いや……え?」
「馬鹿! とっとと帰るよ!」
チョ~うざぁい、と言い放って、泉はさっさと歩き始める。紅潮した耳たぶから更に広がって、頬まで赤くなっていた。
これって、もしかして……意外と、脈アリ?
思考回路の屋台で切り盛りしているラーメン屋の店主が、「へいお待ち!」と特別メニューを差し出す。湯立った容器からハート型のナルトが飛び出して、レオの頭上にめいっぱい降り注いだ。
「セナ、待ってっ」
肌を突き刺す寒さなんてものともせずに、レオは走り出す。
おれの気持ち、いつかは知ってもらえたらいいな。はじめて出会ったときから、ずっと恋焦がれていた。いつしか『だぁい好き』の意味をはき違えて、離ればなれの道を歩むことになった。もういちど交わることができた今だからこそ、あの日の地獄をぶり返したくなかったから───遠目から見つめるだけが、せいいっぱいの償いだと思っていたのに。
やっぱり諦めきれない。大好きでだぁい好きで、たまらない。なみなみに注がれたどんぶり一杯の愛が、全身の血管にあふれて止まらなかった。
秘めているだけの毎日は、もう終わりにしよう。心の奥に隠したままの気持ちを伝えないことには、なにもかも始まらない。すこしずつ、すこしずつ───ありったけの恋をごちそうさまと、屈託なく笑えるように。
「セナ、さむいっ。あっためて~♪」
「ちょっとぉ。くっつかないでよねえ」
「だぁい好きだから、もっとも~っとくっついてたいっ」
「ちょっと何ぃ、この甘えん坊はぁ」
雪に埋もれ続けていたほんとうの気持ちを、湧きあがる湯気で溶かしたい。泉の腕にぎゅっと密着しながら、レオは何度でも「セナ、だぁ~い好き♪」とつぶやいた。
卒業まであとすこし。暖かな春は、きっと思いのほか近づいている。
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