家を出る前に何度も時計を確認した。リビングの時計も自分の部屋の目覚まし時計もいつも学校に行くときにつけている腕時計も、家じゅうの時計を全部確認したかもしれない。遅刻するのが怖くて、出かける準備万端の状態で無駄に一時間ぐらい過ごしてしまった。
でもさすがにそろそろ家を出たほうがいいだろうと思って、玄関から母親に声をかけた。
「行ってきます! 晩ごはんは食べて帰ってくるから」
「今日は木兎くんと一緒なんだっけ? あんまり遅くならないようにね〜」
のんびりした母親の声に背中を押されて、ドアに手をかける。もうこの時点で心臓がどくどく脈打っていて、いつもみたいに家を出ただけなのにこんな状態だったらこれから先どうなっちゃうんだろう。
「はぁ……ちょっと出るの早すぎたかも」
待ち合わせの時間は10時、待ち合わせ場所までは家から30分ぐらい、でも今はまだ8時すぎ。普段朝練で登校する時間よりはずっと遅い。電車が休日ダイヤだから学校に行く時よりも少しだけ早く出よう、なんて時間でもない。
「どうしよう、このまま行っちゃっていいかなあ……」
家にいても落ち着かないだけだし、何か不測の事態が起こって待ち合わせに遅れるよりも早く着いたほうが良い、と自分に言い聞かせながら駅までの道を歩いた。いつもより軽いリュックがなんとなく頼りなくて通り道にあるコンビニでミネラルウォーターのペットボトルを買っても、まだリュックは軽いし時間もちょっとしか潰せていない。このままだと待ち合わせの1時間以上早く着いてしまう。
「まあいいか、待ってればいいんだし」
いつものように定期で改札を通って、いつも通り梟谷方面の電車に乗る。いつもと違うのは降りる駅だけ。お互いに電車通学だから可能な限り定期券で行ける範囲で会おう、って約束した待ち合わせ場所はちょうど二人の家から中間あたりの駅。路線じたいはよく知っていてもほとんど降りることない駅はどこかよそよそしい感じがして、待ち合わせの時間よりずっと早く着いてしまったからかなんとなく落ち着かない。
「えっと、この先にたしか目印が……」
待ち合わせを決めてからお互いに何度も確認をして、なんなら前日寝る前に『明日が楽しみすぎて寝られない!』と通話を繋いできた木兎さんをなんとか寝かせるためにあらためて確認をした待ち合わせ場所。緊張していてもちゃんとたどり着けるように、事前に下調べをして俺が決めた。
木兎さんでも見つけやすいようにと、ちゃんと向こうのスマホのマップアプリにも目印をつけておいた。わかりやすくて見通しの良いその場所は、遠くからでも街行く人の表情までよく見える。
休日で少しだけいつもよりのんびりした雰囲気の人たちの先に目をやったら、ドキンと心臓が跳ねた。まるで視界の中に飛び込んでくるみたいに目に入る、特徴のある髪型と広い背中。
「えぇ……まだ9時にもなってないのに」
別に悪いことなんてしてないのに、思わずかなり手前で立ち止まってから物陰に隠れた。俺が木兎さんを見間違えることなんて絶対にない。毎日毎日彼に向かってトスを上げ、つい休みの日にも口に出してしまいそうなぐらいに名前を呼んで、目を閉じていても思い浮かべられるぐらいにスッと通った鼻筋を見つめているんだ。ソワソワと落ち着かない様子で待ち合わせ場所に居る背の高いひと、木兎さんで間違いない。
「……木兎さんが、俺より早く着いてる」
自分でそう口に出した途端、ブワッと顔に血が上ったのがわかる。寝られなかったのか、それとも早く起きてしまったのか。どちらにせよ血圧が低めで寝起きの悪い俺と違って、木兎さんは合宿でも寝付きが良くて起きてすぐに動けるひとだった。
今日は付き合って初めてのデートだから……きっと早く起きちゃったんだろうな。昨日もあんなに眠れない眠れないって騒いでいたわりに、ストンと寝て朝はきっとスムーズに起きたに違いない。それだけ楽しみにしてくれていたんだと思ったら、赤くなる顔を止めることなんてできない。
「ほんと、なんなんだよ──」
嬉しさとくすぐったさと照れくささに、心の奥の柔らかいところがキュンと疼いた。スーハーと何度か深呼吸をしてから、パチンと両手で頬を叩いて気合いを入れる。気を抜くとにやけてしまいそうな顔を必死で整えてから、向こうに気づかれないようにもう一度ウロウロする木兎さんの姿を確認して……何事もなかったかのように一歩踏み出した。
「木兎さん!」
斜めがけのボディバッグを所在なさげにいじる木兎さんに向かって、元気よく声をかけた。声は震えていなかっただろうか、ちゃんと明るい声になっていただろうか、大丈夫……たぶん。
「あ、あかーし!」
俺の声にびっくりしたのか、目の前で木兎さんがビクッと背中を震わせて勢いよくこっちへ振り向いた。一瞬だけ見えたしょぼくれ顔がパアッと明るくなって、いつもの木兎さんに戻る。ああ、木兎さんもちょっと不安だったんだな。
「すみません、待ちましたか?」
「ううん、今来たとこ!」
嘘ばっかり。まだ待ち合わせの1時間も前なんだぞ、なにが今来たとこだよ。少なくとも俺が木兎さんを見つける前から居たはずだから……いつからここに居るんだろ、本当に困ったひとだ。ここ数日は夏日になりそうなぐらいの春の陽気が続いているけど、朝はまだほんの少し肌寒い。あまり体が冷えてないといいな。
「……それ、本当に言うひといるんですね」
ついポロリとこぼれてしまった本音に、木兎さんの顔がピキッて引きつった。お見通しなんですよ、早く来てるのは。
「ほんとだもん、さっき……ついさっき来た! 赤葦に声かけられる直前に来たとこだから!」
上擦った声も一生懸命な言い訳も、木兎さんの挙動の全てが俺の中で愛おしさに繋がっていく。もう本当に、ほんとうに……言葉では言い表せないぐらいに、好きだという気持ちが内側からあふれそうになった。俺だって夜寝られなかったし早く目が覚めちゃったけど、先に来た木兎さんの方が好きの気持ちが勝っているみたいに思えてちょっと悔しくなってしまう。だから絶対に悟らせたくない、今はまだ。
「まあ俺もちょっと早く来すぎちゃったんで、木兎さんが来てくれて助かりました」
全然ちょっとどころじゃないし、こんな早く来ちゃってどうしようって内心ドキドキしてる。でもとりあえずそういうのは置いといて、今日一日じゅう木兎さんと一緒に過ごせることを喜んだ方が良いんじゃないか。
「なんか……ワクワクしちゃって、気がついたら家出てた。制服でもユニでもない赤葦と一日じゅう一緒に居られると思ったら、嬉しくて」
木兎さんも自分と同じ気持ちでいてくれたことが嬉しい。素直にそれを口に出せる木兎さんが、ちょっとだけ羨ましい。もっと長く付き合っていけば、俺も素直に口に出せるようになるだろうか。俺の方が木兎さんよりもずっと今日を楽しみにしてたらどうします? って言ったらどんな顔をするだろう。
「……睡眠時間はちゃんととれましたか? それに四月の花冷えを舐めちゃダメです」
「あかあし、花冷えってナニ?」
「桜が咲くころに、一時的に寒さがくることです。春はまだ朝晩冷えますからね」
照れ隠しじゃないけれど、ほんの少しだけ話をずらした。でも大筋からは離れてないから大丈夫だろ。
「ふぅん……?」
今日はこの駅から近い大きめの公園に桜を見に行って、お花見期間中限定のフードトラックや出店を楽しんで、軽くショッピングモールを流したあと帰りはラーメンを食べて帰ることになってる。でもこんなに早いと桜を見るぐらいしかやることがないけど、まあいいか。木兎さんとなら、どこだって楽しい。
「まあ、このままのんびり公園まで歩きましょうか。店はまだ開いてませんが、桜なら満開ですし」
「了解!」
お互い待ち合わせ場所に早く来すぎた俺たちの初デートは、まだ始まったばかり。
2025.4.8
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