運動がてら珍しく局から歩いて帰っている。うっすら日が落ちた空を横切る飛行機を見上げると、小さな花びらが鼻先に落ちた。来週末には葉桜になっていることだろう。見頃に雨が降らなくてよかった。ややぬるくなった風に吹かれ、息を深く吸い込む。幼い頃は特別好きでもなんでもなかった季節に心躍るのは、歳をとった証拠かもしれない。
帰っている、というのは自宅へということではないのだが、俺にとってはそちらよりよっぽど巣のような居心地の場所である。
桜をつついて落として遊ぶ、二羽の雀を一枚収め、一番に見せたい人にメッセージを送った。
ドアを開けて真っ先に感じ取ったのは嗅ぎ慣れない香り。甘さのないリラックス感のある、分かりやすく言えばオシャレな匂いだった。俺の警戒レベルが10上がる。玄関ライトをつけると、靴箱の上のアロマストーンに気がついた。どうやらまた凝り出したらしい。警戒はすぐに解けた。
「盧笙」
呼びかけて出てくるほど殊勝でもないところが好きだ。ところが今日はどうしたことか、足音が近づいてくる。
「おう、なんや来たんか」
香りの次は、見慣れない姿だった。可愛い襟足の髪が綺麗に刈られ、首元がすっきりとしている。
「めっちゃ切ってるやん!」
「せやねん、春やしおもてな」
まさかと思うが、期待を込めて聞いてみる。──出迎えたのは俺に早く見せたかったからか、と。
「お前はほんま、いちいちやな」
ふい、と部屋へ引き返した背中に飛びつく。あしらう手がパーからグーになるまでぴったりと張り付いてやった。
「この時期にそんなピシッと髪揃えたら、まるで新卒の子みたいやな」
「それは無理あるわ。実際今日もウチの新卒の人と喋ったけど、ときどき通じひん話あるもん」
そらそうや、と二人して腕を組む。喋りっぱなしの時間に一瞬の沈黙が流れると、かすかに落ち着くリズムが聴こえた。
「なんかかけてる?」
「おっ、気づいた?」
上機嫌の盧笙は立ち上がり、冷蔵庫から何か取り出した。ここではあまりお目にかかれない瑞々しいサラダの山だった。青々としていかにも春らしい。
「最近聴いてんねん、ボサノバ」
切り立ての髪を耳にかけ、自慢げに笑みを浮かべた。手には大きなチーズな塊を持ち、クルトンが乗ったてっぺんに、チーズグレーターでパルミジャーノ・レッジャーノを削って仕上げた。器具名を知っているのは、購入に踏み切った様子を隣で見ていたからだ。
「チーズ削りデビューや、春やから?」
「これに関しては俺も新人や」
お互い新生活など久しく経験していないが、なんとなく新しいことをしてみたくなったのだろう。さっきの俺も歩いて帰宅したあたり、そういうことなのだ。盧笙のほんのり染まる桃色の頬を見て、思わず手が伸びる。
「嬉しそうやな、可愛い」
「やりたかったらやってええで」
盧笙はお気に入りのアイテムを快く譲ってくれたが、触れた指先に伝わった弾力とキメの細かさにそれどころではなかった。
「えっ……スキンケアも変えたぁ〜……?」
あまりの触り心地に動揺が隠せない。まじまじ見ると、顔だけではない。髪を切ってよく見えるようになった首筋も、上下ともに薄着になってちらりと覗く脚や腕も、以前にも増して触れたくなる質感だ。
「変えたっちゅうかちゃんとやるようになった。まあ、春やし?」
フフン、と鼻を鳴らし食卓につく。いつもと少し違う部屋と盧笙にそわそわと落ち着かない気分になってくる。手を無意味に揉み込んでいると、盧笙がちらりと俺を見た。
「触りたかったら触ってええで」
脳天に春雷。お言葉に甘えて早速両手を伸ばす。
「季節の味覚を味わってからな」
左手には箸、右手には茶碗を持たされた。返事は唾を飲み込む音だった。
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