今となっては両親なんて疎ましい存在だが、それでも幼い子どものころには、家族三人で一緒に映画を観たことがある。小綺麗なリビングの柔らかいソファーで、母親と父親のあいだにちょこんと挟まりながら、大画面のレイトショー。紙コップに注いだオレンジジュースを片手に、照明を暗くするだけで、すっかり大人の気分になれる年頃だった。
あらすじはうろ覚えだが、主人公の男がひどく情けなかったことは記憶している。アパートの大家、職場の同僚、十年来の親友にまで裏切られ、「僕はもう生きている価値がないのかもしれない」と額を抱える男を慰めるように、ヒロインの女がそっとキスしたことも。
こどもの泉は、ひどく驚いた。私の可愛い泉ちゃん、おやすみなさい。幼い泉は、すやすやと夢を見るまえの、おでこのキスしか知らなかったのだ。
「ねえ、ママ。おやすみのキスなのに、おかしくなぁい? このひとたち、ずっと、ずう~っと、ちゅうちゅうしてるんだけどぉ」
母親の袖をくいっと引っ張ったら、あっという間に身体を持ち上げられた。軽々とベッドに連れていかれて、「泉ちゃんは良い子だから、おやすみの時間なのよ」と寝かしつけられた思い出がある。
おれはもう大人だよ。夜更かしぐらいできるよ。そうやって主張しているうちに、気づけば朝になっていた。
映画のラストは結局、見届けていない。
あれから高校生になって、キスシーンの意味を理解できる年齢になった。だとすれば、世間的には友人の間柄であろう男とのキスには、一体なんの意味があるんだろう。泉はずっと考え続けている。
「……ん」
柔らかなくちびるが離れたあとで、レオは「インスピレーションが湧いてきた!」と高々に叫んだ。使い古したノートにペンを走らせて、まるで音符のトランポリンを跳躍するように、愉快な鼻歌を奏でている。ほのかに濡れている上唇を人差し指でなぞって、泉はうつむいた。
だぁい好きなセナとキスをしたら、最高のメロディーが生まれる気がする。
レオの部屋でくちびるを奪われたのは、七月のじめじめとした雨の日だった。窓硝子を叩きつける雨の音。ふたりきりの部屋で欲しがるレオに、泉は「うん、いいよ」と返事した。湿っぽいファーストキスを皮切りに、ふたりは定期的にくちづけを交わすようになった。
当人同士の認識はともかく、世間的には『ともだち』として扱われている男とキスをする。はっきり言って正気の沙汰ではなかったが、そうでもしなければ、レオは壊れてしまいそうだった。夢ノ咲学院の抗争はしだいに激しくなってきて、レオは事あるごとに「おれ、ちょっぴり疲れたよ」と口ずさむ。出会ったばかりのころは、白紙のページをきらめく楽譜に変えてみせたのに、今はそうもいかなくなった。
「ちょっと待って、考えさせて。あと五分……いや、あと十分でできるから! ……ごめん、やっぱり嘘、駄目だこんなの。まるでスクラップ工場の殺人鬼だ。おれはいま生まれたばかりの音楽を、むざむざ殺した! 懲役何年かなあ? 執行猶予はつかないな。だったら死刑だ、わはは!」
うわ言のように繰り返して、五線譜の綴られた紙を丸めてしまうことが増えた。
レオの楽曲に頼ってきた泉は、岐路に立たされた。アイドルは、顔だけではやっていけない。他のユニットと差別化を図るには、やはり周囲を打ちのめすほどのパフォーマンスが重要だ。その源泉である曲が断たれるとなれば、有象無象の敵に叩き潰されることは明白だった。
昔のように悠長に構えていられない。すこしでも多く武器が欲しい。泉が決断をするのに、さほど時間は掛からなかった。たった一回、キスをさせてやるだけで、素晴らしい曲が生まれるのだ。トップを目指すためなら、くちびるなんて安いものだった。
初めてのキスをしてから、週に一回はレオの部屋に転がりこんでいる。ふたりきりの部屋で過ごしているときは、必ずくちづけを交わした。曲作りに行き詰まったレオが「なあ、セナ」とそわそわしだしたら、始まりの合図である。
これといって表情の色は変えないまま、冷ややかな眼差しを携えて、乾いた唇を受け入れる。一方で、レオは毎度のことながら嬉しそうに、目尻にしわを作っていた。
「セナのくちびるって、やわらかくってだぁい好き」
「……あんたって、ほんとうに物好きだよねえ。男子校だから感覚が麻痺してるかもしれないけどさあ。男のくちびる程度で喜んでるとか、アホみたい」
「男とか、女とかじゃなくて。おれは、セナがいいんだよ」
不貞腐れたレオがもういちど迫ってくるものだから、泉は人差し指で制止する。ちぇ~、とタコみたいに唇を尖らせて、レオは意気揚々とペンを五線譜に泳がせた。調子が良さそうで、なによりだ。泉はノートを覗き見る。
「ねえ、今回はどんな曲が書けたの?」
「わはは。聞いて驚け見て笑え、天才作曲家月永レオさまの神聖なるメロディーを! ……これなら絶対に、蹴散らせるぞ」
出会ったころと違うのは、勝敗を主軸に置いていることだ。楽しい、嬉しい、幸せだ! 楽譜と踊ることなく、無心で曲を書き続けている。
れおくん、仏頂面になってるよ。こわいよ。
伸ばした手を引っ込めて、泉は壁掛けのカレンダーを眺めた。あと何日、何ヶ月、どれくらいのキスを繰り返せばいいんだろう。そのうち昔みたいに、人懐こい八重歯をきらめかせてくれるだろうか。
胸に秘めたささやかな願望は、形になることはない。無垢な笑顔は日に日に薄れていって、秋を迎えるころには、レオはいよいよおかしくなった。
「駄目だぁ、書けない! こんな駄作、とてもじゃないけど聴かせられない! おいそこの音符、おまえは一体どの面下げておれの五線譜にぶら下がってる? やる気がないなら帰れ、おれの前に二度と姿を現すな! 死刑! 王さまの命令は、ぜ~ったいっ! 死ね! 死ね! 死ね!」
レオは楽譜のノートを破いて、ばら撒いた。紙くずばかりが散乱するベッドに突っ伏して、乾いた声で歌っている。
純粋に音楽を愛していたレオの姿はもうない。毒でも盛られたみたいに肩を震わせながら、一心不乱に曲を綴っている。
「ド~は、ド~ナツのド~、レ~はレレレレェモ、レレレレモンの、レぇ」
ひっくひっくと肩を震わせながら、嗚咽まじりにメロディーを紡いでいる。もうこいつは駄目だ。内心思っていても言葉にするのは残酷で、泉は無理やり口角を上げた。くしゃくしゃに丸められた楽譜のしわを伸ばしながら、レオの震える背中をさすってやる。
「……でも、ひととおりラストまで書けてるじゃん。えらいねえ、王さま。すごいよ、王さま。……だから、ねえ。王さまが頑張って作った曲、鼻歌でもいいから聞かせてよ」
「勝てない! 勝てない勝てない勝てないうううう、ああああ、うううううう」
「そんなの。聞いてみないとわからないでしょ」
「なるほど! セナの言うことも一理ある!」
ブレザーの裾で鼻水を拭いながら、レオは勢いよく立ち上がる。不気味なほどニコニコと笑うから、泉は肩をびくりと震わせた。レオの様子がおかしくなった頃からそうだ。どれだけ低い呻き声を漏らしていても、泉の一声ですぐさま元気を取り戻す。
だが泉は、これが泡沫のぬか喜びであることを知っている。
黒のボールペンをマイクに見立てて、レオはすうっと息を吸った。しかしながら最初の一音すら発せられずに、膝が崩れる。泉が懸命に伸ばしたしわくちゃの楽譜を破り捨てて、レオは呻き続けた。
紙きれが粉雪のように舞って、泉の鼻に落っこちる。
「ペンライトが光らないんだよ! あっちもそっちも、ほら見ろこっちだって!」
「王さま、落ち着いて……」
「おれたちの色はどこだ? おれは、おまえを一番にするって約束したのに! おれは一体どうやったら、おまえを輝かせてやれるんだ? なあ、どうしようセナぁ、呼吸が苦しい、視界がふわふわ浮いてる、まるで宇宙の果てに放り出されたみたいにまっくらだぁ」
「王さま。王さま、大丈夫だから……」
黄昏色の髪を振り乱しながら、レオは幼子のように縮こまる。こんなとき、固い絆で結ばれた友達ならば、どんな言葉を掛けてあげられるだろう。泉はレオの肩にそっと指を伸ばし、やはり思い直して引っ込めた。たぶん友達はキスなんかしない。名前のない関係。そんな相手にできることなど、ひとつだってありはしなかった。
泉が押し黙っていると、レオは急に視線をもたげた。そうして両肩を力強く掴まれたので、泉は静かに身を任せる。
ブレザー、皺になっちゃうよ。
現実的なことを考えながら、泉はうっすらと瞳を閉じた。
「王さま、キスしたいの?」
「ううう、あうううあうううう」
「……いいよ」
あんたの心が楽になるなら、手段はなんでも。
幾度も重ねてきた、なんの変哲もないくちづけのつもりだった。しかし泉はぎょっとして、まぶたを開いた。
レオの薄い舌が歯列の隙間をくぐり抜け、侵入を試みている。生温かい感触に、背筋が跳ねた。執拗に舌を絡めとられ、頭が真っ白になる。こんなの知らない。泉は、迫り寄る胸板を押し返した。
「んっ……ちょっと、王さま!? 触れるだけのキスしかしないって、俺と約束したよねえ!?」
「セナ……」
「王さま……?」
あっという間に世界が反転する。柔らかなベッドに押し倒されたことで、平静を保っていた泉の表情は、とうとう青ざめた。レオはブレザーを無理やり割り開いて、ベストのボタンを外そうとしている。必死に押し退けようとするが、半ば強引に攻めようとするレオの腕力にはかなわない。
「王さま、やめてよ……ねえってば」
泉はいやいやと腰をひねって、両脚をばたつかせる。泉の抵抗をものともせず、レオは首筋にすり寄った。
「セナ、おれ怖いんだよ」
「やめて」
「おれの世界には、愛しの音楽とセナだけだったのに」
「王さま」
「メロディーを失って、おまえにも要らないっていわれたら、おれ。……おれ!」
「やめてよ」
「まっくらな宇宙に、ひとりぼっちになっちゃうよぉ」
「やめてったら」
「セナ」
「ねえ!」
「セナぁ」
「俺の嫌がることする『れおくん』、嫌い!」
早く着替えないと、嫌いになっちゃうよぉ。
いつの日だったか。面白半分に脅したら、レオは慌てふためいた。「それは、こまる!」と忙しなくうごめく姿が滑稽で、大好きだった。
嫌いになるわけなかったのに。
こんな風に叫んでしまったら、ほんとうに何もかもが終わってしまう気がした。
「ごめん……」
レオはふらふらと脱力して、泉の身体から静かに退いた。
無理やり襲うなんて最低だ。いっそのこと、ぶん殴ってやろうかと拳を握りしめて───やっぱり止めた。八の字に歪んだ眉で、「わぁん」と泣きべそをかいている姿にとどめを刺すほど、冷酷にはなりきれなかった。
「……謝るぐらいなら、最初からしないで」
泉は、床に散乱した紙くずをかき集める。ごみ箱に捨てる気にならなくて、散らかった机にそっと降らせば、小指ほどの紙きれになにやら文字が書いてある。『セナをしあわせにす』───途切れた文字の最後は、見つけられなかった。はなから気づかないふりをした。わざわざ探したところで、なにが変わるわけでもない。
最初は、ふたりきりで過ごすだけで楽しかった。
おはようって挨拶をして、ホームルームが始まるまで喋り続けて。
放課後、ゲームセンターで寄り道して遊んだり。
夕暮れの教室で喧嘩しても、すぐに仲直りした。
おれは、セナのことがだぁい好き! ───今となってはもはや色褪せた思い出だ。いったい、どうしてこうなってしまったんだろう。
キスを許してしまったから? そもそも、出会ったことが間違いだった?
わからない、なにも。ただひとつわかるのは、レオは変わってしまった。かげがえのない友達という清らかな間柄も。ただ、それだけだ。
「……『れおくん』」
俯いていたレオが視線を上げる。
頬を濡らす涙を舌で舐めとると、泉はそっとキスをした。
「大丈夫だよ。明日になったら、きっといつもの『れおくん』に戻るから」
しわくちゃの顔が一瞬だけ和らいで、うん、とレオが返事する。子どもみたいに安心した顔をするから、泉も泣きそうになる。薄暗い青春は、もうこれきりにしたかった。真っ暗闇の宇宙など夢のなかに閉じ込めて、永遠に眠ってしまえばいい。
そういえば、子どものころに鑑賞した映画のヒロイン。弱っている主人公にキスをしたのは、ラブシーンを盛り上げるための演出なんかじゃない。ほんとうの意味が、今ようやくわかった気がする。わかったところで、もう何が変わるわけでもないけれど。
高校生同士の拙いキス。映画として成り立たなければ、表題さえも付きはしないだろう。それでも、泉には理解できる。あれは、たぶん───優しく、穏やかで、そして寂しい。つらい夢に祈りを捧げる、おやすみのキスだったのだ。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.