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ひさね
2025-04-07 00:36:04
14910文字
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当該世界の余録と補遺
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再定義について
本編9話。
何か変わったような変わらなかったような話。
「ちょっと
……
感情は要らないんじゃない?」
原稿を閉じて開口一番。神様
――
真っ黒で正しく影そのもののようなそのひとは、不可解なくらい真っ白いこの空間に呟いた。
「そんなことない! です! よ!」
「いや、やり方が口伝というからには、まあ。その方法なら入っているのが常識的ではあるかもしれないけれどね?」
ロイは耳を思い切り絞らせては、ぶうっと頬を膨らせて、地面から生えたかのようなそのひとに噛みつかんばかりに頭をぐいぐい寄せる。それを受けている上半身だけの人型をした神様は、顔のパーツが口しか無いが故に表情が読めないその特徴の割に軽い調子で、己より背丈が大きいロイをひょいひょいと手で宥めすかしていた。
「でもロイさんに頼んだのは記録であって、私小説ではなくてですね」
「じっさいあったんだからいいじゃないですか!」
「ええ
……
良くないよー」
「なんで? わかるように、はなしてください」
わやわやと、ああだのこうだの応酬をする所を、わたしは眺めていた。
上半身だけの神様は身体の輪郭が覚束なくて、指先や毛先のような輪郭の端から真っ黒な自分の一部をぽたりぽたりと落としている。そのひとは影のように不定形だった。
今日ここに来たのは、ロイがマリィと出かける前に一度原稿を神様自体に確認を貰っておきたいと言ったからだった。普通なら書き直し始めたばかりで文量が足りないと頭を抱えていただろうが、先週のマリィの提案に意外と皆
――
極一部を除いて乗り気だったから、すぐにそれなりの量になった。ロイがかなり良い聞き手で、情報を過不足なく引き出していたのもあって、五日間という時間の割に出来が良い方だったと自認している。ロイも大層満足気だった。
それに、わたしはわたしで神様に聞く事があった。
そういう訳で、週始めである今日、正当な依頼主の元へ馳せ参じたのである。正しくは押し掛けたと言うべきだが。と言うのも、ロイは神様の御使いであるから、彼女が戻ろうと思えば何時でも真っ暗で、それでも何かの光がちかちか瞬く宇宙擬きの空間を経由してここに行けるので、事前連絡は特にしていないらしかった。実際来た時に神様が少し驚いていたから気が付いた。それでもすんなりロイの要件を聞き、受け入れていたので、これも日常茶飯事になっているのであろう。
今、神様とロイの応酬は堂々巡りに陥っていた。神様は理屈を並べて色々と説明している。どうしても事実だけで済ませたかったらしかった。それだけ拾って後は適当に聞き流す。
上司に対して遠慮なく、虫でも叩き落とす勢いで尻尾を振り回すロイを見るに、意外と対等にやっているようだった。彼女は神様の事を初めから気に入っていて側に居たいとか何とか言って、無理に使者の職に滑り込んだのを覚えている。職場でも何ら変わりがないのが彼女らしかった。
「もう、しおんもなにかいってください!」
くるり、とロイが振り返る。目が若干きらきらしていて、興奮で涙が溜まっているらしかった。頬も赤くなっている。
「
……
想定していた懸念点だったので、今の所は何も無いですね」
「なんでしおんもそうなんですかー?」
そう言いながらロイはわたしの膝にしがみついて来て、身体を少しだけ隠して神様の事を凝視していた。
はは、と形だけ笑声を模った息を漏らして、影のようなそのひとを見下ろした。途端、胸の中を逆撫でする感覚を押さえ付けながら、普段使いしていない敬語を持ち出す。
「申し訳ありませんね。ロイが、かなりお世話になっているようで」
「元気で意思が強いのは悪い事じゃないよ。ちょっとロイさんは、頑固な所あるけど」
「わからずやなのがわるいんですよ」
「あー、拗ねてる。別に否定をしている訳ではなくてね
……
」
「うそですよ、ぜったい」
ロイはすっかり半身をわたしの後ろに隠してしまった。こうなると中々、元の機嫌に戻すのは難しい。元々気性難寄りの子馬ではあったから。神様はそれをよく理解していたようで、ロイの方は一旦置いておいて、わたしの方に顔を向けた。
「それで、君が書いたものについてはさっき言った通りだけど。これを想定していたって所に申し開きはある?」
「
……
特には何も」
淡々と、でもプレッシャーは変えないように軽く尋ねる神様から目を逸らす。
わたしは、このひとが余り得意ではなかった。
足元を見ている訳でも、傲慢な振る舞いをしている訳でもない。強制力は確かにあったけれど。
「そんな事言わずにさ。僕の使命だとか仕事を勝手に割り振っている訳だから。僕にはその言い分も知る必要があるんだよ」
使命という言葉。瞼が微かにひくつく。このひとはこの言葉を良く口にする。
この神様というひとは世界から存在が消える、因果律の例外として根付いた不条理を観測して、いずれ管理出来るようにする事を使命としていた。実際、不条理から派生して、あるいは都合良く利用して存在する怪異の量を減らしている。部下、というよりは遠隔操作可能な人形のような存在を使っているのは、失われた旅の最中、中間報告をする折に数度見た事があった。独立した存在の部下らしい部下はロイしか知らない。だが、ロイ以外に居ないとは考えにくかった。怪異の数は意外に多くて厄介なのに、加えて不条理を研究するのはいくらなんでも時間が足りないから。
常に試行錯誤するこのひとを見る度に考える。
不条理は管理出来ないから不条理なのだ。因果律の存在が不条理を定義する。それぐらい、このひとだって知っているだろうに。因果律の外から働く魔法だって、結局は因果律の一部になるのと同じだ。因果律の中と外。世界の中と外、そのどちらに在るのか。それぐらいの意味しかない。なったものはなるしかない。
因果律それ自体を自由に操る事は出来ない。作為が効くものではない。それが世界の規則だった。
それでもこの神様は使命を持っている。それが何からの要請かは知らない。失われた旅を振られた時も同じ言葉を使っていて、一度尋ねた事はあるが、珍しく不機嫌を隠さずにはぐらかされた。
ともかく、このひとはそれを随分大事にしているようだった。
そんな神様は気さくそうにひらひらと手を振って、表情の代替にしながら言う。
「強制力があるのに、方針をちゃんと決めなかった僕の責任もあるしね」
「そうであれば、貴方が作成すればよかったのでは? 顛末はきっちり知っているでしょう」
「当事者というのが大事なんだよ。僕はその場で全部、隅から隅まで、ちゃんと見ていた訳じゃない。ずっと解決しない別件があってね。それが意外に面倒なんだ。そういう訳で、旅の一番始めから一番最後まで欠かさず見ていたのは君しか居ない。人間じゃないから記憶もちゃんと正確。なら一番適任でしょ」
「
……
そうですか」
「旅の予定を捻じ曲げてすまないね」
冷ややかなわたしの物言いにだってこのひとは律儀に、温和に答える。このひとは自分に強制力がある事に自覚がある。だからちゃんと謝るのも知っている。本来なら、大抵苦手意識が出る筈はないのだ。
でも、こうやってまともそうに謝罪するこのひとの事がどうにも苦手だった。
「まあ、これまでを推測するにロイさんの拘りなのは分かったけれど」
ふくらはぎに尻尾の毛先が掠めていくのを感じる。ロイとしては完全に不服らしい。彼女としては感情も残しておきたいのだから当然だ。そして私がそれを懸念して渋ったのも事実だった。
「それを受容したのはどうしてかな」
それでも結局、感情もろとも書く事を選択したのも同様に事実である。ロイの拘りばかりが原因ではない。
頭の中を整理しながら、おもむろに話し始める。
「あの旅は、過半数が人間なのは勿論ご存じですよね」
「そうだね。六人、あるいは七人いて、その内、理由は知らないけど四人が例外で。二人は旅の事を若干でも覚えていて、もう二人は大体全部覚えてるんだったね。ロイから聞いていたよ」
「そうでしたか。記憶の状況まで把握しているんですね」
「例外は今の所、把握しているだけだけどね。原則が良く分かっていないから、何処から手を付けたものか決まらないし」
神様はへらへら軽く笑っては、肩を竦める。その中に、若干の棘が含まれていた。不条理に対してか、それとも。
「それで、人間が居るからどうなのかな」
「
……
あの旅を通して大体の人間には認識の変化がありました。その結果、感情の感じ方や行動の傾向が変わりました。例えば不信心を認めて教会を辞めようとしたり、自分の権利を躊躇わず最大限活用したりだとか。そういう変化が確かに在る。それがちゃんと変化だと言い切るには、変化前後以外に変化した瞬間、いわばきっかけの感じ方と行動を残す必要がある。だからロイの提案を飲みました」
「要は変化の瞬間そのものを確定させたかった訳だ」
「そうなりますね」
成る程ね、と神様は輪郭の覚束ない手を顎の辺りに当てて頷いた。二、三回頭を振って、口を開く。
「じゃあ、それを残す意味と価値は?」
「と、言うと?」
そして神様は気さくに、気軽に根本を揺るがす事を聞く。だからわたしは、何が言いたいか分からないような顔をして聞き返した。ロイとの問答を聞いていたから想定内だった。このひとは頑なに感情を残す事自体を認めなかったから。
そのひとは「そうだねー」と首を傾げて、わざとらしい思案声を漏らす。
「当事者の目線から旅の周辺の事実だけ残すのが目的だから。個人の変化は別に要らないかなって」
「それで意味も価値もなくなる理由も、教えていただければと思うのですが」
「単純に世界が変わったかどうかっていう話。認識が変わったからって世界それ自体が変わる訳じゃない筈でしょ? 解釈は存分に変わるかもしれないけれど。行動も変わるかもしれないけれど。それでも結果ありき、だよ。結果に繋がる事実と結果だけあれば十分。今回の場合は、旅の始まりから終わりまでの存在が確定できれば十分って事。個人の変化じゃ存在の記述にならないからね」
このひとは、本当に。
胸中がざわざわ騒がしくなって流石にあんまりだと思う自分が居たから、その自己を否定するような感慨も湧いてこなかったから。何時もの調子で、喉の閊えもなく、淡々と反論を組み立てる。
「当事者の目線が重要なんでしたよね。そして記録を残すそもそもの目的は、不条理が齎した影響のカバーにある。失ったものは今更どうにもならないから、残っている部分だけでどうにかする。間違いないですよね」
「うん、その通り」
「だとすれば尚の事、変化した事実、もとい変化したと認識した事実は残す必要がある、と思いますけど。転換点が遡及して消えて、変化との整合性が本当に取れなくなった時、人がどうなるか、何をするか分からないですし。人間は認識する生き物であるのはご存じでは? そして人間が世界に影響を及ぼす事も分かるでしょう。旅の元凶は人間から生まれた呪いだった事からも明白だ。そんな人間の、変化を認識していた事実が消えるというのは、不条理を制御したい貴方にとっては不都合である筈ですが」
「一種の不完全な過去改変なのも、人間の感情、行動に影響を及ぼすのは僕も認めているよ。だから旅の型を取ろうとしている訳だし。認識した事も事実に入れているなら、認識の変化自体を記録したい意味は理解できた」
真っ黒なそのひとは手をひらひらと、空気を払うように振って、「でも」と続けた。
「だったら余計に旅の事実だけあれば良くない? 妙な空白になったあの旅があったとだけ認識していれば、そこを境に変化前と後の認識が紐付けられるでしょ。だって、肝心の中身が空っぽなんだから何を入れたって良い。そういう訳だから、感情の現れとかは必要がないと思うんだけど」
「
……
変化した瞬間が今より過去時点にあれば何時でも良い、整合性だけあれば良い、では暴論でしょう。変わったその瞬間を特定の時間に紐付けるきっかけになるもの、それが感情表現であれ具体的な出来事であれ、それを残さなくては記録として不完全かと」
「うーん、そうかなあ」
わたしの反論に神様は大げさに首を傾げて、諧謔じみた調子は維持したまま、寧ろ軽々しさを強調しながら言う。
「人って過去を曖昧にするでしょ? きっかけだってなくなれば適当に作るし。結局、整合性があれば良いんだから、足掛かりに使える事実さえあればそれで良いんじゃない」
両の手をひらひら、風にでもなびかせるかのように振りながら言う台詞は飛んでいくほど軽い。真っ黒で、影のようだから存在しない双眸も、在れば軽々に笑っていたのだろう。でも言っている事は、余りにも冷淡だ。言い方と言った事のコントラストが激しい。
このひとは、本当に、掴めない。事実以外を見ないようにするのに、こんな事を口にするから。そして、それを矛盾とも言い切れないから印象のしこりがなくならない。
直接の反論は差し当たって思いつかなかった。人間は過去を忘れるし、時折歪める。それは事実だと、わたしも認識している。
けれど、どうすればわたしの意向を通せるかも知っている。軽く息を吸って吐く。
「
……
だとしても、知っているからには痕跡ぐらいは残すべきでしょう。痕跡がある上で曖昧になるのか、何も残さず曖昧にするのでは訳が違う。知っている以上、それを残す責任はあると思いました」
責任、と口にして胸に小さい棘が刺さった気がした。痛くはないが、痺れる感覚がある。
別に、このひとの言う通り事実のみという方針を飲めば、わたし一人で書き上げられる筈だった。皆と楽々話しながらこなせば良い筈だった。筈だったのだが、どうにも。
このひとが事実と呼ぶものが何か、良く飲み込めなかったから、食い下がっている。
影のようなひとは一瞬わたしの顔に、存在しない目で視線を注いだ。その無言が妙に重苦しい。が、神様はすぐにちょっと顎を引いて俯いた。ぼそり、と呟く。
「んー
……
まあね。事実中心だし、責任はある、か」
盗み聞きながら考える。このひとは事実ばかり採用するのに、最終的な決定権は使命と責任が握っていた。その違和感を拭えないでいる。
蟠りを追っている内に、そのひとがぱっと顔を上げて沈黙を破った。いつも通り、気さくそうに。
「認識の変化については、大枠は外してないし、そこら辺は任せるよ。心情描写だけどうにかして貰えればって感じかな、結論は」
「寛大な配慮に感謝します」
やっぱり結局、感情については譲らないか、と頭の隅に転がしながら恭しく礼を述べれば、神様は、はは、と笑い声を出した。非常に乾いた、温度のない声だった。
「
……
やりかたはかえないですからね」
意外にもずっと黙っていたロイが静かに、それでも頬は膨らませたまま宣言する。
「良いよ。編集は後でも出来るしね。まずは叩き台が無い事には始まらないから」
「へんしゅうもいらないです」
耳を思いきり倒すロイを見て、神様はあはは、と今度はちゃんと笑って「一緒にやろうねー」と暢気な事をのたまう。
ロイがうんうん唸っては膝を強く絞めるのを感じながら、どうどうと、彼女の前で手を挙げたりおろしたりして宥めすかしてやる。ロイの尻尾がまたふくらはぎに当たった。
多分わざとだろうなと苦笑しながら、「ついでなので一つ聞きたいんですけど」と口を切る。これがもう一つの本題だった。
「神様の部下、というかロイの同僚とか貴方の知り合いに、見た目がロイの色を反転させた以外はとても、良く似たひとって居ますか」
脳裏には先週の少女が居た。何故か原稿を知っていた彼女。一段落、と言っていた彼女が何なのか。
ずっと片隅に引っ掛かって、原稿を書く度に影が差した微笑が浮かんで胸騒ぎがしていたから、丁度ロイが神様の所に原稿を見せると言い出した折に、ついでに解消してしまおうと思っていた。
外観は軽い世間話のつもりで投げたのだが、神様は少し首を傾げて訝しむようにわたしを見る。
あれ、と胸元が冷えた瞬間、そのひとはその仕草の通りに答えた。
「居ないよ、そんなひとは」
「
……
居ないんですか」
予想外の答えに間抜けなオウム返しをする。口元を手で覆う。微かに指が震えていた。
では、彼女はいったい誰なのだろう。何故原稿の中身を、わたしがそれを書いている事を知っていたのだろう。ただの悪戯にしては偶然が過ぎる。考えても空回るだけで、答えは出ない。
わたしの動揺を知ってか知らずか、黒々しいそのひとは続けた。
「うん。部下はロイさん
……
ともうひとりしか居ないし、知り合いはそもそも居ないから確かだよ」
「えっ、わたしのどうりょうって、いるんですか?」
ロイがぱっと手を離したから、急に足が軽くなる。ロイにとっても神様の答えは想定外だったようで、しかしわたしとは全く真逆に目を爛々と輝かせていた。
「でも、あったことないですよ?」
彼女が弾んだ声で投げた質問に、神様は少し動きを止めた。驚いた時、困惑した時の硬直にそっくりだった。常に気さくであろうとするそのひとのそれは初めて見た。思わず息が詰まる。わたしが使命について聞いた時ですら、振る舞いには滞る所はなかったから。
たっぷりの間を空けて、漸く神様は口を開く。話し方だけはいつも通りテンポ良く、軽かったが、声は幾ばくか低く警戒を滲ませていた。ギャップが大きく、かえって沈むようだった。
「
……
ああ、ちょっと別件を任せていてね。今は居ないんだ」
「どこにいるんですか?」
「さあ。世界の何処かだよ。報告は上がっているから、活動はしているみたいだよ」
「
……
そうですか」
まるで他人事のようだった。ロイを構っていたその態度とは似ても似つかない。神様はすっと黙り込む。真っ白なこの空間で、そうされると益々不気味だった。
ロイも何かを感じ取ったようで、色々聞きたそうに耳をくるくる捻りながらも、これ以上は何も聞かなかった。
「じゃあ、もどりますね。またあるていどできたら、きます」
彼女が少し小声で言えば、神様は「よろしく」と言葉少なに返すだけであった。
***
妙な緊張が走ったまま、帰り道でもある真っ黒で何かが瞬く空間をロイとのろのろ歩いていた。わたしのもう一つの本題は結局謎のままだったから、未だに肩が強張っている。
「わたし、どうりょう、いたんですね」
不意に、途切れ途切れにロイが呟く。
「
……
神様から聞いた事、なかったの? いや、わたしも全然知らなかったけれど」
「はい。まったく。きょうまでしらなかったです」
何故、神様は彼女に同僚の存在を教えなかったのだろう。それに、ぎこちない様子もおかしかった。考えても答えは出る訳もないのだが、それでも違和感はしこりになって残っている。
「そのひとの事、何か警戒している感じがしなかった?」
「そうですね。あんな、めいはくに、はきはきしていないところ。はじめてみました」
「何かきな臭そうな感じ」
「そうですか? わたしはすこし、わくわくしていますよ。どんなひとなんだろう、とか」
ロイは惜しむようでもあったし、少し嬉しそうでもあった。彼女は人が好きな質だったから、既に謎の同僚を信頼しているらしかった。
「不安じゃないんだ。不思議な同僚の事」
尋ねると、くすりくすりとロイは笑った。穏やかで、全く警戒している様子はない。
「ふふ。あのひと、べっけんがたてこんでいるとかいっていたでしょう?」
「ああ、そうだね。だからこんな奇怪な依頼をやっている訳だけど。それが?」
「あのひとにとっては、べっけんがほんだいなんですよ。それをまかされているから、あのひとはああだったけれど、きっと、ちゃんとしているひとだろうなって、おもっているんです」
「そうなんだ。
……
その別件って何なの?」
「ぜんぜんしらないです。おしえてもらえなくって。せんもんがいで、けんげんぶそくだから」
ロイはへにゃりと眉を下げた。聞き覚えのあるフレーズ
――
彼女が依頼をしに押し掛けて来た時のそれと今の少し寂しそうな顔がぴたりと重なった。
よしよしと頭を撫でると、彼女はにぱりと笑って、すっかり何時もの元気なロイに戻ったようだった。切り替えの早さに、少し驚く。
些か妙な展開はあったが、それはそれとして原稿自体は、神様の要望通りではなくとも、今の形式で書いて良いと許可を貰ったのでその意味では安堵していた。何せ今日の夕方ぐらいにまた話を聞いて書く予定があったし、なるべく早く戻って日常の中でくつろぐのが、ロイにとってもわたしにとっても良いと思われた。
歩くペースを上げると、ロイがそれに合わせて軽やかに足を踏み出した。
数歩だけ。不意にぴたり、と立ち止まる。「しおん」といやに静かに、落ち着いた声で呼ばれて、振り返る。
彼女はまっすぐに、微かに驚くわたしを見上げた。
「やっぱり、きいてもいいですか」
「
……
何を?」
「いまのしごとのこと。しおんは、たびのことをかきたいのか、かきたくないのかということ」
言葉が詰まる。だから無言で見下ろす。
答えたくない、という訳ではない。ただ、答えて良い筈がないから黙っていた。
何も言わないわたしを見て、ロイは小さく首を振る。
「いや、ききますね。じっさい、どうおもっているんですか」
「どう思う?」
断言する勢いで問いを続行されて、わたしの視線が微かに揺らぐのが分かった。誤魔化すように質問で返せば、ロイはまた糸を巻くように手をくるくると回して、ううんと唸った。次第に静かになって、それがしばらく続いて。ぼちぼち戻ろうか、と声を掛けようと思った時。
ロイは訥々と話し出す。顰め面で時折悩んで、間を空けながら。
「じょうほうをせいりしているときとか、たびやなかまのことをはなしているときは、かこうとおもっているようにみえて」
「まあ、仕事だから頑張るよ。流石に」
「でも、こうやってはなすと、しごとっていうし。やっぱりこっちがむりをいっているので、かきたくないとおもっていても、たしかにってなりますし」
そう見えていたのだな、とぼんやり考える。同時に焦点の定まらない話がじれったく、それでも言葉にしようとするロイを見ていると、じりじりと思考が焦げ付く気がした。
だから目線だけ僅かに左に逸らす。ちょっと冷たい空気を吸う。
それからまたロイの瞳を見て、冗談っぽく、笑いかけながら答えた。
「だって。書けないって言っても、依頼が取り下げられる訳でもないんでしょ?」
「まあ
……
はい。ぜったいですから」
「じゃあ、書けって言われたから書く、じゃ駄目?」
嘘を吐いている訳ではない。脳内で繰り返す。自己暗示、と思考が進みそうになっては取り止める。ロイの顔を無心で凝視する。何時の間にか彼女の手は下ろされ、ぴたりと止まっていた。
「げんに、かかせているてまえ、なにもいえないです。ものがあればいい、ともおもいます。わたしがまんぞくできれば、それで。
……
けど
……
だから」
ロイはポツリ、ポツリ、と言葉を落としていく。途切れ途切れでも、しっかりと、迷っている事すら誤魔化していなかった。
それを裏打ちするように、彼女の視線だけはぴったりと動かなかった。わたしの瞳を針で刺し止めるようだった。
「たんじゅんに、しりたくて。しおんが、なにをかんがえて、かんじているのか」
この間、マリィと話している時もそんな事を言っていたな、とぐるりと思考する。まっすぐな問い。それが、不可解だった。
わたしの気持ちを、感情全般を異様に気に掛ける彼女の事が分からなかった。
――
感情というものは、一説によると、脳内の電気信号と分泌物の配合の因果関係による副産物であるらしい。
加えて、その副産物が齎すもの自体や解釈は時間経過と共に消えたり、欠けたり、無いものが増えたりする、らしい。
要するに感情というものは時間と共に移り変わって、始めから変わるよう志向されている。その筈である。
だとすれば。
「ナンセンスでしょ」
「
……
なぜ?」
ロイの眼差しが鋭さを帯びる。分からず屋を見る、と表現するには真っ直ぐすぎるそれで、わたしを見つめる。
ちょっと顔を逸して、考える。感情の事を。何故か。
時間と共に流動する感情は良く知っている。自分でも掴みきれず、言い淀むものを知っている。公園で、ケントに言おうとして直ぐに流れて去るものの事。喉が詰まる度に霧散していくものの事。
「さっきも言ったけれど
……
きみの上司はもっと苛烈に言っていたけれど。感情で起こった事実が変わる訳じゃないから。事実を変えられなくて、行動が変わったのならまだしも、それすら何も変わりないなら知る意味も価値もないよ。残すなら尚更」
頭の中を渦巻くものとは裏腹な、ありきたりな言葉を吐きながら、喉に突っかかる追いたくもない何かと胸焼けを追っている。
「どうしてなにかをかえなきゃ、かわらなきゃ、かちがないんですか?」
思考の方に追随するようにロイが口を挟む。もう一度、眼差しを見る。そうしてわたしがはっと息を呑んだから、返す言葉を一番手近なものから吐き出す。
「実用的じゃないから。人を、例えば病気から救うって言っておいて、祈っているだけじゃ意味ないでしょ。お金を集めるなり、人脈を広げるなり、技術を身に着けるなり。行動として変えないと。わたし達の旅もそうだったでしょ。行為ありき、だよ」
返答をこじ開けるわたしと裏で回る思考に割くリソースに差があって、酷く引き伸ばされた反論に思えた。
反面、ロイは瞬きをする間もなく、すかさず、テキパキ諭すように話す。
「でもこうどうするうらには、かんじょうがありますよね。たすけたいとか、にくみたいとか。にげていたいとか、わからないとか。いのりだっておなじでしょう。ありましたよね? わたしたちのたびには、いつも」
在った。否認し難い事実だった。
でも、腕を組んで、口から出るのは逆接ばかりであった。
「
……
皆、結局は動いて世界を救ったでしょ。乗り越えて、皆が変わって、そんな感情も最早話の種だ。深刻さは、あの時程迫真じゃない」
「でもはなすことはやめていない。だいじそうにはなしていたの、しおんもしっているでしょう」
「成長した者の特権って奴だよ」
「とっけんってなんですか」
「過去を俯瞰するには、認識を変える必要がある。感情の元である認識が変わらなきゃ語れないって事。皆はあの旅に転換点があった。わたしにはなかった。だから資格がない」
「しかくって
……
」
淡々と語るよう努めていたら、ロイが嘆いた。
たっぷりとした沈黙が流れる前に彼女は、今度ははっきりとわたしに突き付けた。
「どうして、しおんはしおんをじょがいするんですか?」
ロイの問が裏の思考と重なる。思考が勢い付く。
流動する感情を、わたしが言わない理由。
思考を抑制しようとすれば胸の内がむかむかする。むかむかするから思考する。胸焼けがする。思考する。無限後退に嵌まる。
「知ったとして何になる?」
循環の最中に鈍い痛みが走って、声がした。それから、失言したと気が付いた。わたしの手は、自分の腕に爪を立てていた。
眼前でぱちり、と瞬きが一つ。ロイは足元を見た。耳は立ったままだった。沈黙がわたし達の間を素早く横切って、そして通り抜ける前に、そっと静かに破られた。
「わたしがまんぞくします。たぶん、それだけ」
彼女は手持ち無沙汰な手を、指だけ重ね合わせた。余りにも、穏やかな微笑を浮かべていたから、返す言葉を飲み込んだ。
「だけど」とスタッカートを混ぜて、弾むようにロイは続ける。
「いみとかは、よくわかりませんけど。でも、かちってそういうものでしょう? わたしがまんぞくできるか。なっとくできるか。それがいちばん
……
」
声が尻すぼみになって、掠れて、消えた。その一瞬間後、ロイははっと目を見張る。納得、と掠れた息とも間違う程に小さく、自分が言った言葉を反復する。
それから、彼女はわたしの視線とぴったり目を合わせた。
閃いた瞳は爛々と輝いている。
その瞬きに反して静かに、それでも地面をちゃんと蹴って弾むような調子は崩さずに、ロイは喋りだした。
「わたしは、なっとくしたいんです。ずっと! しおんがなににひっかかって、なにになっとくできなくて、かんじょうをかきたがらないのか。どうして、しおんもあのひとも、かちがないといいだすのか」
――
ロイには関係がないのに。
そう思うなり、細い声が聞こえたかと思えば、ロイは益々破顔して、尻尾をブオンと振って、わたしの心を見透かしたかのように答えた。
「かんけいないからこそ、ですよ。しらないから、しりたい! わかるかわからないかもふくめて、ちゃんとしりたい!」
そう言って、ロイは一歩踏み出し、わたしの手を引っ張った。組んだ腕は引き剥がされる。同時に馬らしい力の強さによろめいて、咄嗟に左足が前に出た。
そうして剥がした手をロイは握る。あたたかな手だった。真っ直ぐな視線も相まって、漸く失言を繰り返したと気が付いた。
「ねえ、どうしてきもちをかかないんですか。じつようせいは、ほんだいじゃないでしょう」
「何を根拠に」
口だけが動いていて、言葉が声になっていない気がする。だが、ロイの耳がぴくぴく動いていた。
「じつようてきかどうか、それをほんきでいっているなら、くのうじたいがなくなることをかなしまないとおもうから。ひとのかんじょうのかいしゃくになやまないとおもうから」
彼女はここで一回言葉を止めて、目を瞑って、小さく息を吸ってから続けた。
「あのひと
――
かみさまみたいに、かんじょうぜんぶにふたをしているわけじゃないから」
それでも微笑を浮かべるのだな、と、ロイの閉じた眼差しに見入る。瞼がぱちりと開かれて、わたしも見入られる。
「おしえて」
「知らないよ」
切実な響き。実体のない塊が喉を塞ぐ。
ロイは動かないし、変わらない。表面的な言葉。内面的な思惑。全部嗅ぎ分けて、選り分けて。鼻が良いから、勘が鋭いから、人になる前からずっと正確だった。それがどうして、こうにも。
忌々しいのだろう。
そして。どうしてわたしは。
「
……
在っても無くても、在るのも無いのも、変わらないから」
隠した内側を話しているのだろう。
「感情は流動する。自分でも掴めない。でも無理矢理掴んで、書いて、固定しても。本にして、標本にしても。それが開かれない時。鑑みられない時。在る事と無い事の区別はつかないでしょ」
訥々と落とす言葉をロイは静かに聞いている。わたしの意味の無い話をただ聞いている。
「読まれる事が価値って言いたい訳じゃない。逆に開かれて読まれても、それはきっと同じじゃない。元々掴めないものを無理をして言葉にしているから。自分でも分かっていないから。認識が変わらなきゃ、良く分からない」
そういう性質のものだから、残したって仕方がない。外から見ているわたしは理解していた。だからこうやって話せる程に考える意味はないと理解していた。
分かった上で話しているのなら、それの示す所が何か。感じる所があるとは、分かっている。
不定形で、固定できないくせに、起点にはなるから。
だから、わたしは。また喉が閊える。
「わたしの認識とわたしのものじゃ、語る意味も価値も見当たらない」
それでも、塞がれた喉の、辛うじて開いている隙間を縫って、言葉を吐いている。喉を塞ぐものが不吉なものであるのも知っている。知らなければ、こんなに取り立てて言葉を重ねはしない。
こんなに執着していては、きっと何時か碌でもないそれを、きっと最悪な形で目にする事になる。それぐらい承知していた。わたしはわたしが何者かよく分かっているから。
けれど、今は関係ない事だった。目を瞑る。恒例の儀式、と自嘲しながら。
「在っても無いのと同じだから、完全に在るって言えないから」
今、息を呑んだのはどちらだったのだろう。それとも、二人分重なっただけなのか。
「
……
そうだったんですね。ありがとうございます」
柔らかく言われて、握られた手が更にあたたかくなった。「
……
でも、それでも」とロイは助走をつけるように、頭の中身をちゃんと伝える準備をするように、小さく呟いた。
「わからないことが、たくさんあって」
「良いよ、それぐらい」
「はなしてもいいですか」
「
……
うん」
「じゃあ、めをあけてください。めをみないと、たぶん、はなしがちって、はなせないから」
可愛いようで可愛くない我儘だった。今のロイの前では、今のわたしでは、瞼越しの目を晒してはいけないような気がした。
それでも。この宇宙のようで、宇宙ではない空間の光を映す。細く、次第に広く。
ロイはまっすぐと、ひたすらにわたしの瞳を見ていた。彼女はにこりと目だけを細めて、尻尾をふわりと揺らす。
そして小さな口から、大きく息を吸って、話しだした。
「わたし、かんがえていたんです。しおんがあのひととはなしているあいだに。いみとか、かちとかいろいろいうから。しおんが、これをかくかちのこと」
「そう。だから静かだったんだ」
えへへ、とロイは珍しくはにかんだ。彼女はわたしの手の甲をもぞ、と一瞬だけ撫でた。いじらしい仕草。
「わたし、おもうんです。さっきはなしてくれたことをふまえて、おもうことがあるんです」
それでも縷々としてつつがなく言葉は流れていく。
「そんざいすることがかちといいたいなら。しおんがいちばんわかるはずでしょう。なんといったって、あなたがかくんだから。あなたがことばにしたことは、でんぶんでもなんでもよくって、あなたがかいたからには、いま、ここにあるにきまっている」
どこまでも真っ直ぐな目線が頭の後ろまで貫くようだった。それに相乗りして耳当たりの良い声が、無意味なセンテンスが渦巻く頭の中に殊更響いた。
「でも、それでもわからないといいたいなら。わたしがあるっていいます。そうすれば、いみもかちもぜんぶ、あるでしょう」
「
……
ロイの中であって、世界に在るって訳じゃないでしょ」
意地の悪い返事だと自分の事の癖に俯瞰していた。
それでもロイはたじろがず、寧ろにこにこと笑みを深める。己の上司を語る時にそうしていたように。
ちゃんとしている。彼女はずっとちゃんとしていた。
「あります。わたしがかちです」
余りにも真っ直ぐに。余りにも直截に。わたしの瞳を刺し貫いたまま。
「だから、かいてください。わたしのために!」
彼女は臆面もなく言いのけた。
は、と浅い呼気を吐く。いつの間にか肺に貯めるばかりであったらしい。
ロイが力を緩めたから、握られた手をするり、と抜く。それを見下ろす。白い手。ロイの温い温度がまだ張り付いていて、自分のものだけれど、自分のものでないような感覚があった。
ロイが価値とはどういう事か。確かにロイは存在しているが、しかし、暴論だ。世界を結びつけるには、余りにも独り善がりで。だから、どうして。
「
……
自分が、正しいって思いたいから?」
鮮明に断言できるのか。わたしもロイの言う事が分からなかった。
「へへ。だって、ただしいから!」
彼女は、捻くれた嫌な言い分すら軽やかに笑い飛ばしてしまった。この変な、真っ暗なのに瞬くものがあるこの空間にロイの言葉は吸い込まれていく。
「わたしが、あのひとをなっとくさせますから。
……
きっと、かならず」
「
……
それは心強いね」
それでも残った輪郭の確かさは、一体何なのだろう。不安を、感覚を生きる実感として持ち続けていたあの頃であれば、一口ぐらいは囓れたのであろうか。あの、自分がしたことの意味も、自分が何かも、分かっていなかった昔であれば、きっと。
胸の内側から痒くなる一歩手前のもどかしい感じがしてきたから、歩く。宿屋に戻る。
結局の所。わたしがする事に変わりはない。話を聞いて、書く。目下はロイのために。神様の意向に合わないものを作る。それだけ。
そう望まれているから、そうするのだと繰り返す。反論はあるけれど、何時もよりは静かだった。
「あ、まってくださいよ!」
背中に声をぶつけられたが、足取りを緩めなくてもきっと追い付くのだろう。彼女は足が早いから。
出口へ向かいながら、ロイがぱたぱたと後ろで走りだす足音を聞いていた。
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