「さて、やっと二人きりになれたね。時間はたっぷりとってある。実は君みたいな鍛え上げられた体の男がとても好みなんだ。今日はいろいろ話しながら、素敵な時間を過ごせたらと思っているよ」
微かな灯りのなか、バーソロミューが目を細めた。ベッドが軋み、サイドボードに置かれたランプが微かに揺れる。男はベッドの上で性急にバーソロミューのシャツに手を伸ばした。
その手を押し留め、唇を薄く結ぶ。
「おっと、ずいぶん情熱的だね。そう急がず、まずは君のその素晴らしい肉体について教えてくれないか? この節くれだった指で、どんな仕事をしていたんだろう。とっても興味があるよ」
さびれた宿の一室には、ベッドと備え付けのクローゼットがあるばかり。
「君、昔は船乗りだったんじゃないかい。どんな船に乗っていたのかな。そうだ、ホウ……いや、ハウエルってやつを知ってるかい。古い知り合いなのだけど」
「ハウエル……」
返事を待つ間、バーソロミューは焦らすような手付きで衣服越しに男の下腹部に指先を這わせた。
「知ってる?」
しかし言葉の代わりに男はバーソロミューの手を引き寄せると、その唇に強引に口づけた。
「っ、……ん、っぐ」
生意気な。主導権はこちらにあるというのに、よくも。無遠慮な舌の動きと鼻先にまとわりつく臭い息に顔をしかめながら、舌を噛み切ってやろうか、それとも股間をひねり潰してやろうかと思案していると、男が不自然に動きを止めた。
鉄仮面をかぶった大男が、二人のすぐそばに立っていた。中世の騎士が身につけるような、ものものしい鉄仮面。それだけでも不気味だというのに、その手には銃を持っている。仮面の下は白いシャツとズボンというアンバランスさ。ニメートル近くもあるその男は、室内に備え付けられたクローゼットに潜んでいたのだった。
「今すぐ、その人から離れろ」
仮面越しに響く、正義感が滲む若い男の声。
突然の闖入者に、ベッドの上の男は驚きに目を見開き、身を強張らせている。先程までバーソロミューの太腿に当たっていた服越しにも伝わる男の熱く硬い質感は、今やすっかり存在感を失っていた。
バーソロミューはチッと舌打ちを鳴らす。
呼んでいない、タイミングが違う。
「な、何だお前は……」
吃るようにして男が問う。返る言葉は、この場に不似合いな清廉さを持って響いた。
「その人から離れろと言っている。質問の答えを口にする前に手を触れた。あなたは、作法を違えたのだ」
まるで、姫の窮地に駆けつけた騎士のような堂々たる振る舞い。バーソロミューは呆れたように鉄仮面の男を見やった。
「……君、呼んでないぞ」
銃を構える鉄仮面の男は、わずかに困惑した。どうやら体が勝手に動いてしまったらしく、怒られることを想定していなかったようだ。けれど、これで三度目である。
バーソロミューははだけたシャツの襟元を整え、すっかり勢いをなくした男から身を離すと、鉄仮面の男を冷ややかな目で見つめた。
「もういい、萎えた。予定変更だ」
ベッドから立ち上がり、くるりと男に向きなおる。バーソロミューは笑みをたたえたまま、腰のポケットから細いロープを取り出した。男の両手をベッドのヘッドボードに手早く拘束し、鉄仮面の男が構えている銃を取り上げる。そのまま、自由を失った男の眉間に押し付けると、低く冷たい声で囁いた。
「デイヴィスを殺した首謀者の名を三秒で吐け。でないと引き金を引く」
「……い、言えない」
「それは残念」
バーソロミューは躊躇なく引き金を引いた。ぱんと乾いた音がして、男が倒れる。
「音がするだけのおもちゃの銃で失神するなんて、とんだ小物だ。そも、銃をニセモノとも見分けられない。末端の末端だな、これは」
「でも、彼は“知らない”ではなく“言えない”と答えた。銃を突きつけられているのに、咄嗟に出る言葉がそれというのはひっかかる。トップは箝口令を敷いているだけでなく、末端にまで影響力をもつようなカリスマを備えた人物なのかもしれない。東の大陸からの流れ者、あるいは力を蓄えている西の組織か……」
淡々とした鉄仮面の推理を、バーソロミューはつまらなそうに聞いている。
「だからそういう細かい話を、彼からじっくり聞き出すつもりだったんだ。会話だけじゃない、視線の動きや声の調子、方言や癖なんかも含めて、多角的に情報を集めるのが私のやり方だ。それなのに君が邪魔に入ったせいで、全て台無しになってしまった」
警戒を解きつつ時間をかけて話し合うはずが、あんな脅しをかけてしまってはもはやその方法も通用しない。叩き起こして吐かせたとして、得られる情報の精度には疑問が残る。
ベッドで両手を縛られ失神している男の顔に、乱雑に布団を被せておく。その流れで、床に脱ぎ捨てた自身の上着を拾い上げた。バーソロミューは埃が付着して白くなった布地を不機嫌そうにはたきながら、クローゼットのそばに立ち尽くす鉄仮面の男に一瞥をくれた。不機嫌を隠そうともせずに。
「どうしてもう少し待てなかった?」
「あなたに危険が及んだ際には、すぐ駆けつけるという話だったので」
「……合図を送ると言ったよ」
「合図を送れない場合は、私の判断に委ねると」
「そうかい。君は自分の判断にずいぶんと自信があるようだ」
「この男は、違法な薬を所持している。口づけという方法であなたに薬を摂取させる可能性は、否めなかった」
「なるほどね。わかったよ。けれども、合図はやはり待つべきだ。あまりにも判断が早すぎる。今回の件は悪手だったと言わざるを得ないよ」
「それは、……申し訳ない」
初めて謝罪の言葉を口にする鉄仮面。しかしそれでも渋々のニュアンスは否めない。バーソロミューは深々とため息をついて、鉄仮面にあいた視界を確保するための暗い孔を睨んだ。
「で、いつまでそれをつけて突っ立ってるつもりだい? この男はきっとしばらく目を覚まさないよ」
「……ああ、それもそうだね」
彼は無骨な鉄の仮面に両手を添えて、ゆっくりと外した。白銀の髪が流れるように首筋にかかり、端正な顔が顕になる。空色の瞳がバーソロミューを捉えた。
こんなに美しい男、一度目にしたら忘れられるはずがない。彼から仕事を手伝いたいと申し出られた際、君のように目立つ青年を伴うのはリスクでしかないと一笑に伏した。それでもと食い下がる姿に根負けし、顔が見られないようにと厳命して、スクラップ屋の片隅で見つけた大きな鉄仮面を彼に買い与えたのだった。
鍛え上げられた肉体と、圧倒的な強さ。
ものものしい鉄仮面を被った大きな男が無言で立ち回る姿は、相手に純粋な恐怖感を植え付けた。銃のような殺傷力の高い武器は威嚇にしか使わず、いざとなれば拳で応戦する。それでも大抵は相手が戦意を喪失してくれるので、仕事は早く片付いた。
物資の調達を生業とするバーソロミューには、常に危険がつきまとう。依頼を受ければ違法な薬品や中身不明のアタッシュケース、なんだって運び出す。物騒な相手とのやりとりも少なくない。
彼の存在は抑止となり、つまらない怪我を負うこともずいぶんと減った。バーソロミューは時折、仕事に彼を伴うようになった。
しかし最近、彼はたびたび指示を無視する。今日も手数を踏んで男を宿に連れ込んだというのに、早々に台無しにされてしまった。
「君との相性は良いほうだと思っていたが、その考えを改めるよ。明日からは相棒を変えることにする」
同業者のミックは事故に遭い、杖がなければ歩けなくなった。以前、よく一緒に仕事をしていたヨハンは、ヘマをして捕まり拷問を受けてからメンタルが不安定。ならば彼の弟分のアンリあたりが適任か。
「アンリと組むよ」
「彼は最近恋人ができて、このような危険な仕事を控えているのでは?」
「そうだね。でも恋人に素敵なプレゼントを贈りたいとも言っていた。金は必要さ。声をかければきっと応じる」
「……それは感心しないよ。アンリはまっとうな仕事で生計を立てようと、街で唯一の家具職人に弟子入りしたばかりじゃないか」
そんなことはわかっている。わかっているからこそ、静かに咎めるようなパーシーの口調に腹が立った。
「アンリは君みたいに余計なことはしない。指示が通りやすいのは良いことさ」
「どうしても私では駄目なのだろうか?」
「君はすこぶる強いし賢い。頭の回転も早い。顔だってとても綺麗だ。――でも、これで何度目かな、私の仕事を邪魔するのは?」
三度目です、と彼は答える。
しかしその声に反省の色はなかった。
「あなたは自分を大切にしない。それが必要な仕事であれば止めないが、体を差し出してまで情報を得ることには賛同できない。他にもやりようはあるはずだ」
毅然とした態度だが、その瞳は憐れみや悲しみのようなものを湛えている。ひどく不愉快だ。
「……パーシー」
「はい」
「やはり君とのコンビは解消だ」
「何故?」
「前々から思っていたが、君にこの仕事は向いていない。酒場の帳簿付けのほうがまだ似合う。それに賢い君ならば私の仕事を手伝わずとも、いくらでもまっとうな職につける。遠くの平和な街に行けば、教師としてでもやっていけるんじゃないか?」
「それは、バート……!」
突き放すように言って、バーソロミューは立て付けの悪いドアに手をかけた。
「後は任せる。私の邪魔をした罰だ。その男の口を割らせて、上手く片付けておいてくれ」
後ろ手でドアを閉め、背後を振り返ることなく歩き出す。
もう彼と一緒に仕事をすることはない。
憐れむような、悲しそうなあの眼差し。
腹の底から暗い感情がふつふつと沸きおこる。
わかりあえないのだと、思い知った。
所詮、彼とは住む世界が違う。
そうとも、何もかもが違うのだ。
あんなにキラキラとした男とはもともと相容れるはずもないのだと自分に言い聞かせながら、バーソロミューは薄暗い階段をひといきに駆け下りた。
パーシーと出会ったのは、二年前の夏。
仕事帰りに通った下水道の細道で、バーソロミューは偶然彼を拾った。
ちろちろと流れる汚水が放つ悪臭と不気味な暗がり。上流からの汚物を伴い流れ込んでくる水は、赤みを帯びていたりどす黒かったり、不自然に泡立っていることもある。近隣の者達でさえ足を運びたがらないその場所を、バーソロミューはよく通る。息さえ止めれば臭いもどうにか耐えられる。住処への近道なのだ。
行き止まりの意味を持つ名前の街に、バーソロミューは住んでいる。その中でも特に治安の悪い地区。道を歩いていて死体にでくわすのは珍しいことではない。だから男が倒れているのを見たときも、またか、と思った。止めている息がもたない。観察しながらも、足早にそばを通り過ぎようとした。
倒れているのは大柄な男で、体は赤錆のような水で汚れ、仕立ての良さそうな白いシャツはくすんだ煉瓦色に染まっている。
死体であればすぐに興味を失くして立ち去っただろう。しかし、男には息があった。外傷はなく、気を失っているだけのようだ。濡れた髪をそっと指で押し上げてみる。顔色は悪いが、よく見ると端正な顔立ちをしていた。
意を決して、汚水の臭いを吸うまいと詰めていた息を吐き出し、声をかける。返事はない。
幾度呼んでも反応がないので、仕方なしに肩に担ぎ上げ、住処に連れ帰ることにした。自分より体格の大きな男だったが、仕事柄、かさばる荷物を運ぶのには慣れている。
住処である酒場の地下室に男を運び込む。汚水を吸った服は重たく、ぽたぽたと雫を垂らして不衛生だ。まずは服を脱がせる。シャツをはだけ、その体を一目見て察した。彼はこの街の住人ではない。鍛え上げられた肉体は彫刻のように美しい。栄養状態がよく、日頃から鍛錬を積んでいることがうかがえる。左手の薬指には白銀の指輪。既婚者らしい。誰かに連れ去られたか、ワケアリか……。少しだけ興味がわく。
間借り先の酒場の主人は、露骨に嫌そうな顔をした。うちでは飼えない、拾った場所に返して来いと、まるで犬猫のことのように言う。
話を聞きつけた酒場の常連たちは、意識が戻らぬうちに売り飛ばせば数日分の酒代になるぞとはしゃいだ。立派な体におさめられた臓器たちは、さぞ良い値段がつくであろうと、算段をはじめる始末だ。
しかしバーソロミューはいずれの意見も聞き入れず、彼の意識が戻るまでは自らが面倒を見ると宣言した。看病にかかる費用は自分がもつ、誰にも迷惑はかけないと。
かいがいしい世話は一週間続いた。
はたして目を覚ました男は、自分のことを全て忘れ去っていた。パーシーという呼び名以外、住んでいる場所も、どうしてあんな場所に倒れていたのかも。
けれどその所作や言葉遣いから、彼が育ちの良い青年であることは明白だった。文字の読み書き、計算もできる。白い肌は潤いと張りに満ち、若々しさにあふれている。落ち着いた印象を受けたが、どうやらバーソロミューより年下であるらしい。
パーシーの性格は思慮深く温厚。今のうちに恩を売っておけば、いつか彼が記憶を取り戻したときに有利に働くかもしれない。バーソロミューは彼に良い印象を持ってもらえるようにと、つとめて紳士的に接した。
狭い地下室をカーテンで仕切り、簡易的ながら木のベッドを拵えて大きな彼でも足を伸ばして眠れる寝床を用意してやった。
ほんの気まぐれと大いなる打算から、バーソロミューはパーシーの後見役となることを決めたのだった。
パーシーは文字の読み書きが出来た。整った文字を綴り、難解な計算でもすらすらと解いてみせる。もっとも、その答えが正しいのか確かめる術がバーソロミューにはなかったが、言葉を尽くして説明してくれる姿をみれば、それが本当なのだろうと信じることができた。
誠実が服を着て歩いているようだった。
彼はよく食べ、よく働く。最初は捨ててこいと嫌がっていた酒場の主がたちまちにパーシーのことを気に入って、様々な仕事を斡旋するようになった。力仕事だけでなく帳簿付けなどの事務作業もできるため、彼はとても重宝されている。手が空いても休むことなく、何か仕事はないだろうかと笑顔で問うてくる。パーシーを嫌う者はいなかった。
カビの臭いが染みついた地下室に日だまりの匂いがするようになった。パーシーが昼間に布団を干したのだろう。彼自身からも、そんな匂いがする。
バート。彼はバーソロミューのことをそう呼ぶ。酒場の常連達の呼び声が耳に馴染んだのだろう。そういえば、バーソロミューは彼にちゃんと名乗ったことがなかったが、穏やかな彼の声でバートと呼ばれることは心地良かった。
信頼を込めた声でバート、バートと呼ぶ姿を見て、飼い主になつく大きな犬みたいだと誰かが言った。
バーソロミューは宝石でも手に入れたような気分だった。掃き溜めのようなこの街に天使がいる。しかも自分に恩を感じて、親愛の情を向け、慕ってくるのだ。
学校に通ったことはなく、難しい字の読み書きはできない。金もなければ身寄りもない。気づいたときにはこの街にいて、きっとこの先、外の世界を知ることもなく死んでいく。
行き止まりのこの街に、出口はない。
風に吹かれた埃が一箇所に集められるように、ぐるぐると同じ場所を舞うばかり。
柵が張り巡らされいるわけでもないのに、入るのは容易く出ていくことは難しい。
ここはワケアリが最後の最後に足を向ける場所、好奇心で立ち寄った者もたちまちのうちに取り込まれてしまう。何も知らずに連れてこられた者は、身ぐるみ剥がされ街の色に染められる。たとえば、バーソロミューの父親のように。
元々この街で生まれ育った者が外に出ていくことはもっと難しい。学のなさや立ち居振る舞いから、すぐに外の者との見分けがつく。まっとうに生きるだなんて夢のまた夢。
外の世界とこちら側には見えない境界線がはっきり敷かれていることをバーソロミューは幼い頃から理解し、実感していた。
運び屋、あるいはなんでも屋。嫌な仕事を請け負い生きる自分には、薄汚れた暗がりがお似合いだ。
でも、隣に彼がいれば。彼が信頼を込めた声でバートと呼べば、それだけで自分の価値が押し上げられたように思えて、気分が良かった。
何かと理由をつけて、彼を連れ回した。
難しい計算はできずとも、この街のことなら誰よりも知っている。先輩風を吹かせて、肉屋が廃棄品で作ったハンバーグを振る舞う曜日や、端材を大鍋で煮込んで誰にでもレードル一杯分ずつのスープを分けてくれる老婆の家を教えた。貧しくても食いっぱぐれることはない、ここはそういう街でもある。
パーシーは初めて食べる不思議な味や、それらが無料で分け与えられるという仕組みに驚き、その初心な反応で町の住人を楽しませた。彼は礼儀正しくもあったので、老婆は特大のレードルできっかり一杯ぶんのスープをよそった。肉屋はパーシーの顔を見ると、脂ぎったハンバーグにポテトを添えてくれることもある。パーシーはそうした優しさにふれるたび、彼らに心からの感謝を伝えた。慣れない賛辞の言葉に、まるで王侯貴族に褒められたようだと人々は喜んだ。この街は掃き溜めに違いなかったが、寂しくも温かい優しさがひとつかみほどは存在するのだということを、彼には覚えておいてほしいものだとバーソロミューは思う。
早く記憶を取り戻してこの街を出なければいけないね。いつまでもここにいては、君が汚れていってしまう。けれどこの街の中でならばどんなことでも力になるよ。バーソロミューは優しい声音で囁きかける。心の中では、彼の記憶が戻らないことを願いながら。
「この町を出たいと思ったことはない?」
ある日、パーシーは神妙な面持ちでバーソロミューに問いかけた。
「ないね。私はここから出られないんだ」
嘘だった。かつて一度だけ、考えたことがある。外からやってきた男、ハウエル・デイヴィス。彼に誘われたときだ。
卑屈になるな、気高く生きろと言って、船乗りの無骨な手で少年だった自分の頭を撫でた。外に出るなら助力は惜しまない、お前はもっと大きく生きるべきだと。しかしその夢はデイヴィスの死によってあっけなく潰えてしまった。外の世界の広さを語り、バーソロミューが憧れを抱いたデイヴィスは、ある日突然何者かに殺された。その殺され方は言葉にできぬほど惨たらしく、まるで身の程に合わぬ夢を見るなと現実を突きつけられたかのようだった。
バーソロミューは復讐を誓った。惨たらしい死には、同様の制裁を。相手がどんな立場の者であろうと知ったことか。何を差し出してもかまわない。どれだけ時間がかかろうとも、あらゆる手を尽くし、犯人を見つけ出す。それは外の世界で平和に暮らす者ではなく、危険に満ちたこの街で生きる者にしか成し遂げられないことだ。
それがデイヴィスの望みなのかと聞かれれば、答えはノーだろう。しかし、一人で外に出たとて何になる。それ以来、バーソロミューが外の世界に出たいと思ったことは一度もない。
「……どういうことだい?」
バーソロミューはその過去には触れず、外に出られないもう一つの理由を口にした。
「親が残した多額の借金があるんだ。踏み倒したりしたら、債権者から地の果てまでも追いかけられるだろうね」
「金額は、いくらくらい?」
この男もデイヴィスと同じことを聞くのだな。かつてデイヴィスは、債権者にかけあって俺がそのゼロをことごとく駆逐してやると不敵に笑ったっけ。
バーソロミューはその時のデイヴィスの表情を真似て唇をつりあげると、自身のシャツの中に手を突っ込んだ。胸元から細い鎖を手繰り寄せる。鎖の先には豪奢な十字架がついていた。裏側には細工がしてあり、小さなものなら納められるようになっている。
「この十字架は死んだ父の形見でね。私が所有するもののうち、唯一価値のある品なんだ。父は私にこの十字架と借金を残した」
裏側の蓋を開き、隙間に指を差し入れる。爪の先に引っ掛けて、中から折りたたまれてボロボロになった紙切れを取り出した。
「これが借用書だよ」
パーシーは受け取ると、目を見張った。
「かなりの額だね」
「ゼロが行列を作ってるだろう? ほうっておけば、どんどん増えてしまうらしい」
「バート、これはとうてい一人の人間が払える額ではないよ。あなたのお身内がどれほどの金額を借りたのかは知らないけれど、これはあまりにも……」
そもそも前提がおかしい、利息の計算方法もでたらめだ、などと真面目くさった顔で顎に手をかけてぶつぶつと言い始める。
「普通の借り入れでこんなことにはならない。常識じゃ考えられない金額だ。気を悪くしないでほしいのだけど、あなた方はおそらく騙されていると思う」
バーソロミューは思わず吹き出した。
この街で、普通だとか常識なんてものさしで物事を押し量ろうとする者はいない。完全によそ者の思考である。
バーソロミューだって、その借用書が正当なものだなんてはじめから思っていない。しかし突っぱねて誤りを指摘して交渉に臨むには、あまりに分が悪い。債権者はこの街を取り仕切る男だ。背後でさまざまな組織と関係を結んでいるときく。やつが本気を出せば、バーソロミューなどひと捻り。無駄な抵抗をするくらいなら、日銭を稼いで少しずつ借金を返して適当に食べて飲み、気晴らしをして生きていくほうが楽だ。多額の借金だが、耳を揃えてすぐに返せと言われるわけでもない。日々の稼ぎの半分以上を納め続ければ、ひとまずの命は保証されている。その点に関して、バーソロミューは楽観的だった。
「しかし、おかしいよ。これがある限り、あなたはずっとこの街に縛られることになる。債権者に私が掛け合ってみようか?」
今度こそ、バーソロミューは爆笑した。
「あはは。面白いことを言うね、君は! 債権者の名前を見ても何も思わないだなんて、やはりよそ者だ。きっと随分と遠くから来たんだろうね」
じっと紙切れを見つめて、パーシーが黙り込む。
「出られたとしても何十年も先の話、行くあてもない。けれどここでなら生き方がわかる。この街の通りなら、目を瞑ってでも歩けるよ」
「外にはいろんなものがあるよ、バート。美しい花が咲く公園、外国の茶器や骨董品を取り扱う店、ケーキが美味しい店だって……」
「そんな話は聞きたくないな」
バーソロミューはあからさまに嫌悪をにじませた声で、パーシーの言葉を遮った。
彼が外の話をするときは、よその女の話を聞かされているようでひどく気分が悪い。
遠くに向けられる焦がれるような眼差し。
あたたかでキラキラとしたそんな世界を、彼は誰かと歩いたことがあるに違いない。
指に嵌る指輪を見やる。彼はいっときの同居人。街の外からやってきて、いずれはここを去っていく。記憶が戻ればさようなら。だからせめてここにいる間は私のことを見てほしい、そんなことを思う。あさましい独占欲だ。――けれど。
「仕事だよ、アンリ。ひと稼ぎと行こうじゃないか」
街で唯一の家具職人に弟子入りしたアンリは、住処であるボロ屋の前で一心不乱に練習用の木材にノミをあてているところだった。辺りに散る木片を避けながら、年若いアンリに近づく。彼は額の汗をぬぐい、作業の手を止めた。
「久しぶりだな、バート。パーシーはどうしたんだい。最近は彼と仕事をしてるんじゃなかったのか?」
「彼と組むのはもうやめたんだ。真面目すぎる人間は、かえって使えない。やっぱりああいう仕事はこの街育ちで話がわかる君のような男のほうが良いって学んだよ」
……でもな、とアンリは口籠った。断りの言葉を考えていると察したバーソロミューは即座に笑顔を浮かべてアンリの手を握る。
「恋人ができたんだってね。隣町に住む、花売りの娘だときいたよ。彼女にプレゼントを贈りたいとは思わないかい? 胸元を飾るブローチ、いや、それとも指輪かな。スクラップ屋の中古品なんかじゃなく、ちゃんとした店で仕立ててあげれば、きっと彼女は喜ぶだろうね」
アンリは彼女との将来を意識して、カタギの仕事に本腰を据えようと思っているのだろう。しかし家具職人の、それも今から見習いともなれば月収などたかが知れている。
「彼女はどんなモチーフが好みだろう、月や星、それともやっぱり花だろうか。もしも利用するのであれば良い宝飾店を知っているよ。あそこの店主には貸しがあるんだ。私の名前を出せば、店の奥から上等の品を出してきてくれるはず」
アンリが独り言のように呟いた。
「……報酬は」
「もちろん、はずむとも! うまく行けば一日で、家具職人一ヶ月ぶんの収入を得られるよ」
手はずはこちらで整える。追って連絡するから。アンリと約束を交わして、その日は別れた。パーシーがいる住処には戻る気になれず、その後しばらくは顔なじみのミックの家に居候する日々を送った。
ーーしくじった。
宿に男を連れ込み、アンリをクローゼットに潜ませて、いざとなったら応戦させる。そのやり口が、既に外部に知れていた。
足がつかないように慎重に場所を選んでいたはずだが、詰めが甘かったか。
街はずれの宿、よそ者らしい羽振りの良さそうな男に目星をつけて近づいたものの、返り討ちにあい、捕縛されるまでは一瞬だった。罠にかけられたかのような鮮やかな手口。
アンリはクローゼットに閉じ込められたまま外に出られず、バーソロミューは男に首を締められて意識を失った。木の枝がねじきれるような異音に目を覚ませば、激痛とともに自身の腕が折られたことを知った。
「……ぐ、がっ」
体をよじろうとして、両腕が細いロープでベッドに縛り付けられていることに気づく。自分と同じ手口でやられるなんて、屈辱で腸が煮えくり返る思いだ。パーシーが逃してやった男が、バーソロミューのやり口を周知したに違いなかった。
「意外と手応えがなかったですね、騎士の加護つきなんて話は噂だったのかな?」
「クローゼットに潜んでいたのは年端もいかない若造だった。鉄仮面なんてつけてもいない。おおかた、噂に尾ひれでもついたんだろう」
大柄な男が、ベッドに腰掛けて乱れた髪を整えている。先程までいなかった抜け目のなさそうな付き人が、隣に立って相槌を打つ。
「ヘマをした恥かしさから、話を大きくしたのかもしれません」
「まあ、そうだろうな」
「殺しますか?」
「ひととおり遊んでからね。このドブネズミ君とは、ゆっくりとデイヴィスの話をしてみたい」
「それはいい」
デイヴィス。今、デイヴィスと言ったのか。激痛に意識を飛ばしそうになりながらも、バーソロミューは必死に男たちを睨み据えた。
「……なん、だって?」
「簡単なことだよ、バーソロミュー・ロバーツ君。君はデイヴィスの仇討ちを企てているそうじゃないか。デイヴィスの死に加担した者を探すためなら、体だって差し出す。ちらちらとデイヴィスに関わる名前を出せば、すぐに手懐けられるという噂を聞いたんだ」
「デイヴィスを、殺したのはお前か?」
「私ではない。まあ、我々の同志の誰かだろうけどね」
男は楽しそうに目を細めた。
「デイヴィスは目障りだった。元船乗り風情が、生意気にも私達のシマを荒らし、大言壮語を吐いて若者達に夢をもたせる。ドブネズミ共が活気づき、外界にまで牙をむき出したら厄介だ。行き止まりのゴミ溜めは、私達に益をもたらす場であるべきなのに。きっと、私と同じ危惧をもつ誰かが、身の程を知れという思いで彼を殺したんだろうね」
できる限り惨たらしく。男はニタリと笑みを刻んだ。そして効果は抜群だったと、隣の男が言葉を足した。
「バーソロミュー。本名はジョン・ロバーツ。ただのジョン君が、デイヴィスに感化され、似合いもしないバーソロミューを名乗り、裏ぶれた街の片隅でなんでも屋を営んでいる。……ヤツの夢の名残を感じさせるね。滑稽だよ、とても」
捻り折られた腕よりも、本質を突く男の言葉のほうが胸の奥を抉りとられるように痛かった。
「デイヴィスの仇討ちなんてつまらないことに人生を捧げるのはやめたまえ。彼の死は、この街の先行きを思う者たちの総意だよ。もしも彼の死に関わる者を追えば、君はいずれ大量殺戮者になってしまう」
「……それでもいい、私はデイヴィス殺しに加担したやつらを一人として許しはしない」
いい顔だ、と男は下卑た笑みを浮かべた。
「そうだ、私が君を買おう。君の借金をチャラにしてあげる。この街の元締めには顔が利くからね。君が私のお気に入りになるのなら、外にだって出してあげるよ。……さあ、痛みと怨恨を忘れる口づけを交わそうじゃないか」
べろりと男は舌を出した。妙な香りが鼻先を掠める。嫌な予感がした。
いつかのパーシーの推理を思い出す。
――“知らない”じゃなく“言えない”。カリスマ? いいや、手駒となる者達を中毒性のある薬で従えていたのだ。薬物を所持している男との口づけ。あのときはたまたま運が良かっただけ。けれど、今はもう――
その時である。勢いよく扉が開き、突入してきた者がいた。鉄の仮面を被った、大きな男。しかし顔を見なくともわかる、パーシーだ。
「……これが、噂の騎士?」
「ば、馬鹿。なんで来たんだ。君との関係はもう、解消したはずだ……!」
「私はその件を了承していない。あなたは何日も住処に戻らないし、嫌な予感がして探し回っていたら、宿に入っていくあなたが見えて……」
「だからって部屋にまで乗り込んできたのか? 無関係の君が」
「無関係ではない!」
「おやおや、先客をさしおいて痴話喧嘩とは、ずいぶんと礼儀知らずな騎士じゃないか」
男が舌を引っ込め、懐から銃を取り出すのが見えた。
しかし迷いのない圧倒的な強さは、拳銃などものともしない。パーシーは勢いよく男に体当たりをかまし、恐るべき速さでその場を制圧した。
「バート、どうかそんなことを言わないで。私は」
パーシーが何か叫んでいる。しかし、バーソロミューはあまりの痛みに耐えかねて、意識を手放してしまった。
次に目が覚めたとき、バーソロミューは見知った酒場の地下室、自身の住処にいた。しかし見上げる天井はいつもと違う。目覚めた場所は、パーシーのベッドだった。
太陽と彼のにおいが混ざった大きな毛布。足を伸ばしても、まだ余裕がある。ふと視線を感じて隣を見やると、パーシーが立っていた。
「……アンリは?」
真っ先に思い浮かんだのは、仕事に付き合わせた友人の安否だ。恋人へのプレゼントを理由に危険な仕事を手伝わせ、彼には悪いことをした。
パーシーはふっと、目元を緩める。
「彼は無事だよ。私が救出した。怪我も、あなたほどではない。もう家具作りに戻っているよ」
今回の件で、実入りは悪くともやはりカタギの仕事が一番だと、再認識したようだ。
バーソロミューの怪我は、適切な応急処置と町医者の診療のおかげで、二ヶ月ほどで回復の見込みがあるという。
「あなたは、いつも無茶をする」
「……そういう生き方しか知らないんだ」
怒るでも呆れるでもなく、パーシーはバーソロミューを見つめている。何から話すべきかを迷っているようにも見える。
バーソロミューのほうはといえば、聞きたいことが山ほどあった。
「君はあの後、どうしたんだい? あの男達はどうなった?」
パーシーは困ったように、口籠る。
「あの場であなたたちを救出し、あなたのやり方を真似して……彼らには、この街に二度と手を出さぬよう約束させました」
「私のやり方……寝たのか、あいつらと?」
「寝……? いや、そうではなく。拘束の方法を真似たという意味で」
パーシーは顔を険しくして即座に否定した。
「それで、彼らと約束? はは、言ってきくような連中じゃないだろう」
彼らはデイヴィスを殺した連中とも繋がりを持つ、街の外部組織の幹部だろう。
「いえ。心当たりのある方面に働きかけて、今後の動向を監視させることにしました。これまでのように派手な動きは出来ないかと……」
いつだって彼は真面目くさった顔でおかしなことを言う。実現できるはずもないことを淡々と語るものだから、聞き流すべきか話にのるべきか、毎回判断に迷ってしまう。
「君って、本当に変なやつだね。冗談が下手すぎて、どうつっこんでいいものやら」
はは、と笑った瞬間、腕に激痛が走った。「バート、あまり動くとよくない。骨は悪意のある折られ方をしていて、回復には時間がかかるようなんだ」
静かに怒りを放ちながら、固定具で固めて包帯が巻かれた腕をそっと抑える。
「しばらく仕事もできそうにないな……」
場合によっては、酒場の主人に前借りをして、糊口をしのがなくてはいけない。
「……その件だけど」
ふいに、神妙な面持ちでパーシーがきりだした。
「あなたの怪我が癒えたら、この街を出ませんか?」
「またそれか。以前に言っただろう、私はここから出られないと」
布団の端に、大きな丸い缶が置かれる。
それはクマのイラストが描かれたクッキーの缶で、スクラップ屋で見かけた際、パーシーに似ていると言ってバーソロミューが面白半分に購入したものだった。ふだんはそこに仕事の謝礼で得たキャンディやビスケットを入れているが、今はずしりと重い。
パーシーが蓋を開けると、中には紙幣ばかりがぎゅうぎゅうに詰まっていた。
「ここに来てから、少しずつ貯めたお金だよ」
「……なんの、冗談だ? いくら君が真面目に働いたって、こんな金が手に入るわけが……」
そこで、はっと思い当たる。視線は声よりも先に、彼の大きな手に向いていた。指に嵌っていた銀色の指輪がない。
「君、指輪はどうした?」
「売ったんだ。思いのほか高くで買い取ってもらえたので、良かった」
あなたの名前を出したら、過去に世話になったからと高値で買い取ってくれて。嬉しそうに、パーシーが微笑む。
「良かったって……」
きっと大切なものだろう。婚約者とお揃いで拵えたに決まっている。それを手放すだなんて。抗議の声を上げようとするバーソロミューに彼ははっきりとした口調で語りかける。
「とにかく、お金はある。あなたの借用書について、債権者に問い合わせもした。勝手かとは思ったが、話をつけてそちらの支払手続きも完了している。つまり、あなたは自由なんだ」
「自由……?」
それは初めて口にするかのように、現実味がない言葉だった。パーシーが何を言っているのかよくわからない。
「私はあなたに自由になってほしくて、あなたをここから連れ出したくて、資金を集めたんだ。指輪を売ったことについて、後悔は一片もない」
「そうかい、それはありがとう。借金がなくなって嬉しいよ。しかしそれは君の傲慢というものだ」
パーシーはまるで心の内を見透かすようにして、バーソロミューを観察する。
バーソロミューが皮肉げに笑みを浮かべふと、その顔を見つめながら静かに言った。
「あなたはハウエル・デイヴィスとの過去を、引きずっている」
ハウエル・デイヴィス。その名を聞いて、バーソロミューの笑みが一瞬にして凍りつく。
「……何故、それを」
「あなたが無茶な仕事をするのはたいてい彼の気配があるときだ。昔、ジョンという若者がデイヴィスに誘われて街の外に出ようとしたことがあると聞いた。デイヴィスが惨たらしく殺され、ジョンは行方不明に。そんな事件のしばらくあと、バーソロミューという男が酒場に転がり込むようにして居候になったと聞いたんだ」
「私はジョンじゃない、別の誰かだろう」
「以前あなたが見せてくれた借用書に名が記されていたよ。『ジョージ・ロバーツが借金を返済できない場合、息子のジョン・ロバーツがすべての返済義務を負う』、と」
チッ、とバーソロミューは舌打ちをする。
署名は流れるような文体で、バーソロミューには読みとくことができなかったのだ。
「あなたはデイヴィスにとらわれている」
「……そうとも、それは否定しない」
「けれど今のあなたは自由だ。デイヴィスの仇討ちに固執して、この先あなたが幸せになれるとは私には思えない。だから」
「君は自由だとか幸せだとか言うけどね。デイヴィスの件があろうがなかろうが、あいにく私はこの町の汚れた空気の中でしか生きられない。なんでも屋とはいうが、盗んだり殺したりバラシたり運んだり、ようは汚れ仕事の請負人だ。そんな人間が、町の外でまっとうな職につき、生きていけると思うのかい?」
「字も計算も教える。私のできることならなんだってする。それにあなたは器用だ、人の心を掴む魅力がある。きっとどこでも生きていけるはずで……」
「君には関係ないだろう。そもそも金を用立ててくれと頼んだ覚えはない。自由がほしいなんて言った覚えもね」
「……では、私があなたを買いうける。それでどうだろうか?」
おそらくそれは食い下がろうとする彼の口から咄嗟に出た思いつきの言葉だろう。しかし。
ーーそうだ、私が君を買おう。君の借金をチャラにしてあげる。この街の元締めには顔が利くからね。君が私のお気に入りになるのなら、外にだって出してあげるよ――
あの男の言葉が耳に蘇る。バーソロミューは口元を歪めて、卑屈に笑った。
金だ。出自の異なる二人を繋ぐのは、結局のところ友情でも親愛でもない。哀れみから彼に買われ、次は主従の関係になりさがる。なんてつまらない展開だろう。
「そんなことを言うのは、私が哀れだからかい。君のもとにいれば悪いようにはしないって? 義務感だかなんだか知らないが、君のそういう善意の押し売りみたいなところ、正直吐き気がするよ」
紙幣の詰まった缶を突き返す。驚いたパーシーの手にぶつかった缶はベッドの上を跳ね、束ねた紙幣が床にごそりとぶちまけられた。
「バート!」
「金なんかで私を買えると思わないことだ。これだけ資金があるならば、こんなところで私と暮らす必要はない。どこか遠くへ行ってくれ、二度と私の前に現れるな」
先輩風をふかせて恩情をかけていたつもりが、むしろ彼のほうがこちらに憐憫を向けていた。そのことが情けなくも腹立たしい。
「違う、そんなつもりはないんだ。私はただ、あなたに自由に生きてほしくて」
「何をもって自由とするかは、私が決めることだ。外に出れば幸せになれるという保証もない。万が一君の気まぐれに付き合って外に出たとして、きっと君はすぐに私に飽きるだろうしね」
ここにいるから、寄る辺が私しかいないから、向けられていた親愛の眼差し。しかし外の世界に出てしまえば、私になど見向きもしなくなる。そんな確信があった。
「何故そんなことを言うの、バート」
彼はなかば泣きそうな顔をしていた。バーソロミューは少しだけ口調を穏やかにして彼に囁きかける。その視線を、指輪の跡が残る左手に向けながら。
「君は気づいていないのかな。外の話をするとき、君はとても優しい顔をする。愛する人を想う顔だよ。きっと君には将来添い遂げることを誓った相手がいるんだ。ここにいるうちは、君の関心は私に向くだろう。しかしひとたび外に出れば、たちまち私の薄汚さに気づく。記憶が戻れば、私は君の重荷になるよ」
――そして、私の前から去っていく。
本来の暮らしに、光のあるところに、君は帰っていくのだろう。
パーシーは潤んだ瞳をバーソロミューに向ける。泣くのかと思ったら、彼は涙を引っ込めて、ひどく穏やかな表情をしていた。
そして、意外な言葉を口にする。
「あなたは海を見たことがある?」
「ない。……ただの水だろ。水たまり」
「ええ。けれど青くて、どこまでも広がっていて……空と海の境を水平線と呼ぶんです。太陽はそこから上り、沈んでいく」
ああ、またあの顔だ。恋い焦がれる顔。
バーソロミューは、内心で醜い心が身をもたげるのを感じる。知っている、これは嫉妬だ。目元を険しくするバーソロミューを見て、パーシーはおかしそうに笑った。
「実は、私も見たことがないんだ」
「……そう、なのかい」
「だから一緒に、見に行きませんか?」
「でも君は」
「外の話をするとき、恋に焦がれるような顔をしているとあなたは言った。でもそれは……あなたと二人で外の世界を歩くことを夢見ているときの私だよ」
「……え」
彼はもう一度、まっすぐにバーソロミューを見つめた。
「改めてお願いする。私はあなたと一緒に外の世界を見たい。だから、どうか私と一緒に来てほしい」
「来てほしいって……でも、君、記憶は? きっとどこかに君の帰りを待つ人がいる。私と過ごしている場合ではないのでは……」
実は、とパーシヴァルが言った。
「記憶は随分と前に戻っていたんだ。私は……親族間の争いから逃げ出して、死にかけていたところをあなたに助けられた」
パーシーが暮らしていた場所は、バーソロミューの街を含む一帯からさらに渓谷を越えた異邦の地。彼はその地において権力を持つ、王族に連なる血筋のようだった。
しかし様々な陰謀やしがらみが渦巻き、パーシーは親族の内外を問わず、各方面から命を狙われていることを淡々と打ち明けた。
豪奢な屋敷に異国から取り寄せた調度品。親が取り決めた顔も知らぬ婚約者。用意された揃いの指輪。生活は満ち足りているが、食事に毒が混ぜられていたり、懇意にしていた庭師や女中が突然不審死を遂げることは日常茶飯事で、心が安らぐことはない。
「幸い、友には恵まれた。彼らは私の力となり、国外への逃亡を手助けしてくれた。途中で追っ手に捕まりかけて、本来の予定にない場所に来てしまったが……。それも、私にとって幸運だった」
彼の友とは、国家に介入できるような要職に就く高貴なる人々のことらしい。詳細を聞いてもいまひとつ理解ができないが、相当な力を持っているらしいことはわかる。記憶が戻ってから、幾度か書簡でのやりとりを経て彼らに無事を伝えていたらしい。
彼らであれば有象無象が渦巻く行き止まりの街に、光を差し当てることはできそうだとパーシーは言う。バーソロミューを襲った男達やこの街の権力者に、武力ではない方法でアプローチをかけることも。
「そんな友達がいるなら、すぐにもここを出られたろうに」
呆れるバーソロミューに、パーシーはふふふと子供のように無邪気に笑った。
「ここでは、誰も私を知らない。それがひどく心地良かった。あなたと過ごす時間は、何にも替えがたいほどに楽しくて。命をかけて飛び出してきたのは間違いではなかったと、そう感じたんだ。屋敷では毒に怯え、他人の目を気にして、神経を張りつめて、死んだように生きてきた。それがあなたと出会って、ここで初めて生きていることを実感したんだ」
ハンバーグを美味しいと頬張り、老婆のスープに深い謝辞を述べるパーシー。
さびついた鉄仮面を磨き上げる真剣な顔、酒場の帳面をみて眉間にシワを寄せる姿、ひだまりみたいな匂い。
「実は、外の世界を知らないのは私も同じ。供を連れて、決まった場所にしか出かけられない。全ては、書物で得た知識。だから私は、あなたともっといろんな景色を見てみたいと思った」
国を離れ、しつこい追っ手を撒くうちに、協力者が待つはずの道から逸れてしまった。渓谷を越え、人目につかぬ道ばかりを選び、薄暗い方へと足を進める。足を踏み外して落ちた暗渠、ひたすら歩き続けるうち、先の見えない水路には汚水ばかりが流れるようになった。
「長く暗い道を延々と歩いた。流れる水は濁っていて、汚くて……。ああ、死ぬ前に海を見てみたかったなと、そんなことを思ったんだ」
「海って、しょっぱい水だろう?」
「でも、青くて綺麗だとも聞くよ」
それも本の知識でしかないけれど、とパーシーが笑う。バーソロミューもつられて笑った。
「……パーシヴァル・ド・ゲール、それが私の名。しかし私は死んだのだ。そしてあなたに助けられ、この町で新たな命を得た」
曇りなき眼で見つめられ、バーソロミューは頭を振った。
「買いかぶりすぎだ、パーシー。私が君を助けたのは、恩を売って見返りを得るため。君と一緒にいたのは、そうすれば私の価値が上がると思ったからだ。優しさじゃない、私は利用したんだ、君を」
「それでも、あなたは私の全てだ。私は、……あなたが好きだ。生まれて初めて、誰かのことを心から好きだと思った。あなたと一緒にいたい。愛している、バート」
哀れみや義務感でもない、主従になりたいわけでもない。パーシーはまっすぐ真剣な眼差しをバーソロミューに向けていた。
しかしバーソロミューに、愛という言葉は響かない。昔からそうなのだ。
「……愛してるだなんて言葉を軽率に使うものじゃないよ。君の国ではどうだか知らないが、少なくともこの街でそんな言葉はうすっぺらにしか聞こえない。偽物ばかりが出回って幅を利かせている、チープに輝くおもちゃの宝石みたいなものさ。だから私は恋だとか愛だとか、そういう不確かなものは信用しないと決めているんだ」
パーシーは少し考えてから、口を開いた。
慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと発音する。
「では、この金で……あなたを雇うことは可能だろうか。私は、海が見たい。私を海のあるところまで連れて行ってほしいんだ」
「それは、どういう」
「あなたはなんでも屋だ。私は仕事として、あなたに海までの護衛を依頼をしたい」
「仕事……」
「そう、仕事だ。あなたの意見を聞いた上で、ちゃんとした契約書を用意するよ。そして仕事が終われば、あなたは自由だ。この街に戻ってもいいし、行きたいところがあればそちらを目指してくれてもかまわない。その場合の交通費はもちろん私が支払う。……それで、どうだろうか?」
たしかに愛だのなんだの正体のわからない言葉で距離を詰められるより、ずっと良い。自由で、報酬があって、選択権もある。それになにより、海とやらにはバーソロミューも少なからず興味があった。
「ふむ。……悪くはない話かもね」
「本当は、仕事を終えたあとも、あなたとは心通わせられる関係でありたいと、思っているのだけど」
その言葉には笑みだけを向けて答えない。
傷が癒えたら、とバーソロミューは頷く。
「君を海まで連れて行くよ。仕事だからね。私は、運び屋。プロ意識を持って遂行するとも」
***
青くて、広い水たまり。これが、海。
話には聞いたが、見るのは初めてだ。
こんな景色があるだなんて、知らなかった。
本当に空と海の境目がある。あれを水平線と言うらしい。その先には何があるんだろう。どうなっているのだろう。
長い日々を経て、二人はついに海へとたどり着いた。
それは穏やかな春の日の午後。
頬に触れる風が、心地よい潮の香りを運んでくる。初めての香りだが、バーソロミューはそれを好ましいと感じた。キラキラと輝く巨大な水場は、下水道を流れる色付きの水とも、雨水がたまって出来た濁った水溜りとも違う。
ああ、来て良かったな。目の前に広がる景色を見渡して、純粋にそんな気持ちがわきおこる。
二人の道行きは波乱に満ちていた。行き止まりの街を出てからは、互いの知恵を寄せあい、知らない街や国を通りすぎた。危険にさらされる夜があり、ささやかな幸福に胸があたたまる日があった。
でも、それも今日で終わり。パーシーを無事に海まで連れてきた。仕事は果たされたのだから。
パーシーは隣に立つバーソロミューを見て、にっこりと微笑んだ。
「運び屋さん、ここまで連れてきてくれてありがとう。あなたと海が見られて、良かった」
「私もだよ、パーシー。仕事とはいえ、こんな景色を拝めるなんて役得だ。帰ったらみんなに自慢して回るよ。海というのは広くて大きくて、砕いたラピスラズリを敷き詰めたみたいに美しかったってね!」
「ここまで詐欺師や強盗から私を守ってくれたこと、本当に感謝している。私一人ではきっと上手く対処ができなかったと思うから。なにより、とても楽しい旅だった」
報酬を支払うと言って、パーシーは背負った大きな荷物を砂浜に下ろした。
バーソロミューはただ黙って、パーシーがお気に入りの大きな缶から紙幣の束を取り出す様子を見守っている。
一つ、二つ、三つ……四つ。
「おや、契約書の金額より多いのではないかな?」
パーシーは札束を掴んだまま、ゆっくりと顔を上げた。
「実は最後にもう一つだけ、あなたに仕事を頼みたくて。叶えてくれると、嬉しいのだけど」
「ああ、追加の仕事か。いいよ、ここまで来たなら付き合おう。なんなりと言ってくれ」
初めての海に心が弾んでいるのだろう。機嫌よく頷くバーソロミューを見て、パーシーが微笑んだ。
静かに息を吸いこみ、決意を宿した瞳を向ける。空色の双眸が、海を背にしたバーソロミューを捉えた。
パーシーは心を込めて言葉を紡ぐ。
「どうか、私の心を届けてはくれないだろうか。海に着いたら告げようと決めていたんだ。“愛している、これからもずっと、私のそばにいてほしい”と」
――バーソロミューという人に伝えて。
パーシーの言葉は、途中でかき消えた。
バーソロミューがパーシーに抱きついて、その驚きに声を失ったためである。しかし、問題は何一つとしてなかった。パーシーは両腕でバーソロミューをしっかりと受け止めると、その体を大切そうに抱きしめた。穏やかな波音が聞こえている。
「もう仕事は果たしたよ、パーシー」
波音に磨かれ海の青さを映したその言葉は本物の宝石よりも輝いて、バーソロミューの心に既に届いていたから。
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