織音
2025-04-05 15:06:20
2056文字
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ad libitum.

『白紙の五線譜が織り成した、貴方の世界』
ピアノを弾くだけの里指。
それ以上も以下もない。

 楽譜とは世界地図のようなもの。そんなことを昔、誰かが歌った。
 曲という世界を表し、音という場所を示す。
 速度、調号、コード、付点、音楽記号。世界の正しい形を教えるそれらの通りに地図を辿れば、紡がれるのは旋律という道。
 その道を辿り耳に届くことで聴き手、奏者でさえもようやくその世界を知ることが出来る。

 キィ、と開いた扉が軋んだ音を立てた。
 訪れたのは一台のグランドピアノが置かれた芸術協会の一室。そこに足を踏み入れた青を纏う構造体は、探した人間の姿を確かに薄花色の視覚モジュールに映した。が、いつものように指揮官、と声をかけなかったのは普段は見ることの出来ない姿をそのモジュールに映していたからに他ならない。
 その人間はピアノの前に佇み、鍵盤へ手を伸ばしていた。
 その身に纏っているのはピアニストのような、ステージに降り注ぐ煌びやか光を想像させる荘厳な服装ではなく、硝煙と、常に隣り合わせる死の匂いを想像させる灰の軍の制服。
 来訪者には気が付いていないのだろう。全てを包容する色と拒絶する色をした鍵盤の上を踊る指は止まることなく、目の前に置かれた世界地図に記されているであろう道筋を辿る。
 その音色にはどこか明るくも隠しきれない儚さが滲んでいる。そう思った。
 芸術協会に所属する、あの浅紅色をした構造体が此処に居たのならばきっと、すぐにでもこの瞬間を残すため、創作を始めたのかもしれない。構造体は薄花色をした目を細めた。
 それほどまでに芸術とは程遠く彩度の低い戦場に身を置く人間が、跡になったばかりの傷だらけの手で一つの楽器に向き合う姿は絵になっていた。
 しかし、滔々と紡がれる旋律が途切れたのは突然のこと。
 不意に動きを止めた指揮官は何かに気付いたように顔を上げると、扉の近くに立つ構造体へと視線を向けた。
……………
 構造体を認識して、静かに見開かれた瞳がゆっくりと閉じられる。そして再び瞳が開くと、氷が融け出すように柔らかに笑んだ。
 形の良い唇を開き微笑むような口の形で、優しくその構造体の名を呼ぶ。
「リー」
「此処にいるとアイラから聞きました。最近は芸術協会に足を運ぶことも少なかったので、珍しいとは思いましたが
 リーと呼ばれた構造体は指揮官からピアノへの視線を移した。黒光りする大きな楽器はよく調律されているのだろう、白鍵に指を沈めれば、磁器同士が擦れた時のような澄んだ音が聞こえる。
「ピアノ、弾けるんですか」
「少しだけね」
 ドラムが叩けるということは知っていた。しかしまさかピアノが弾けるとは。
 指揮官は自身のことを多く語らない。それ故にまだ、自分が知らないことも多いのだろう。もしかしたら幼少期にでも触れていたのかもしれないと、そう勝手に推測しながら、指揮官へと視線を戻した。
「リーも弾いてみる?」
 指揮官は柔らかに笑んだままやたら広いピアノ椅子の、自分が座っている隣を軽く叩いた。
 それに導かれるまま、彼の隣へと腰を下ろす。そして視線を上げ、目の前に置かれた楽譜を見てリーは静かに目を見開いた。
………先程から、この楽譜で演奏を?」
 指揮官は静かに頷く。
 目の前に置かれていた楽譜には、ただの五線譜があるだけだった。
 本来そこに記されているはずの音符もコードも記されていない白紙の五線譜。そこに一文だけ、曲名が記される場所に鉛筆で書かれたようなアルファベットの羅列があった。
……ad libitum?」
 聞き馴染みがないどころか聞いたことすらない単語に軽く首を傾げた。
 調べてみれば何か分かるだろうか。データベースにアクセスし、検索をかければすぐに目当てのものは現れた。
「ラテン語で『思うままに』、ですか」
 音楽の発想標語の一つであり、略してad lib。『思うままに』以外の意味は『気ままに』、『随意に』。
「せっかくなら、たまには気の向くままに弾いたって良いんじゃないかと思ってね」
「では先程の演奏は即興演奏、だったということですか」
「それがこの楽譜の意図だから」
 面白みも何もない演奏だったけど、と指揮官ははにかむ。
 それを横目に、リーは再び白鍵に指を沈めた。そして慣れない動きで一音ずつ、辿るようにして奏でられたのは先程指揮官が即興演奏したものの一節。
 面白みのない演奏。奏者である指揮官がそう評したものの。
もう一度弾いて頂いても?」
 もう少し、聴いていたいので。そう告げれば、指揮官は驚いたような表情を浮かべる。そしてすぐにふっと眦を緩めた。
「さっきと同じ演奏ができるかは分からないけれど君が望むなら、喜んで」
 指揮官は再び鍵盤に手を伸ばした。その姿は、やはり絵になる。
 ad libitum、その発想標語が示す、『思うままに』。
 指揮官が音を織り、旋律という形で創り出す世界をもう一度。
 儚さが滲む世界の音に耳を傾けながら、芸術協会の一室で日は暮れていく。