らい
2025-04-04 21:00:24
6865文字
Public レオいず
 

レオいず30days④「水底には奴がいる」

学院編④ お題「プール」 ※高1
(注)モブが下品な会話で盛り上がるシーンがあります



 夢ノ咲学院出身のタレントが、動物番組の撮影でワニに噛まれたらしい。
 レオは世間のニュースにそれほど関心がなかったが、食卓のテーブルに流れるニュース番組に家族はくぎづけだった。目玉焼きの皿を置いた母親は「怖いわねえ」とつぶやいて、新聞を読む父親は「おまえは、危険な仕事をさせられていないだろうな」と怪訝そうに尋ねてくる。
 うちの家族は、おれと違って心配性だ。レオは黄身の絡んだ白米をかきこむ。

「お兄ちゃんは、あぶないところに連れていかれない?」
「気にするな。大丈夫だよ」

 牛乳のコップをぎゅっと握りしめる妹の頭を撫でると、レオは「ごちそうさま!」と両手を合わせた。そうしてリビングを駆けて、スニーカーの靴ひもを結び、玄関の扉を「いってきます!」と開け放つ。
 夏に焦がされた朝陽のにおい、セミの大合唱が響き渡る通学路。冷房の効いた電車で鼻歌を奏でながら、夢ノ咲学院の門をくぐる。特別でもなんでもない、七月の日常だ。

「おはよう世界~! 天才のおれにひれ伏せ~!」

 半袖からはみ出た腕を元気いっぱいに振ると、クラスメイトは開口一番に「聞いたかよ、ワニ」と最新のニュースを振ってきた。親指と四本指をぱたぱたと動かしながら「ワニ!」と相槌をうって、レオは一目散に駆け抜ける。
 獰猛なワニに襲われた人間の悲劇より、月光に跳ねる金魚の美しさに触れていたい。レオの世界は、彼と出会うことではじまるのだ。

「セナ、お~はよっ」

 朝の教室はワニの話題で持ちきりだというのに、泉は気怠げに音楽を聴いていた。伏せたまぶたからは細いまつ毛が伸びている。前世はほんとうに金魚で、美しいひれの名残なんじゃないかと思うぐらいに繊細な束だった。
 右、左、真正面。あらゆる角度に忙しなく動きながら、レオは何度でも見つめていたい衝動に駆られる。

「セナってば♪ ど~してそんなに♪ きれいなの♪」

 即興の歌で絡んでみせるが、反応がない。レオは、泉のイヤフォンをひょいっと奪ってみせた。可憐な金魚はあっというまに食べられて、歪んだ眉根の鬼が「ちょっとぉ」と現れる。
 レオは前方座席の背もたれに顎を乗せて、「おそろしや~!」と笑ってのけた。

「勝手に取らないでくれる? チョ~うざぁい」
「だって、あいさつ返してくれないから寂しいんだもん」
……おはよう」
「うんうんっ、おはよっ。……ところでさ、なに聞いてるの?」
「あんたが昨日の夜、わざわざスマホに送ってくれた曲」

 昨晩、ベッドに入った直後に思い浮かんだメロディー。一番に聞くのは泉であってほしいから、深夜に送っておいたのだ。今の今まですこんと忘れていたけれど、さっそく聴いてくれたことが嬉しい。レオは腰を浮かせて、前のめりで問いかける。

「なあなあ、どうだった?」
「どうもこうも……。俺、あの時間帯ってもう寝てるから、チョ~迷惑なんだけど」
「それはごめん。でも、他にもっと感想あるだろ~」
……まぁ、曲自体に罪はないからね。……今回の曲、結構好きだよ」
「ほんと!」

 ふんわり柔らかく笑うので、レオの胸はきゅんと高鳴った。世界じゅうの音楽を創造する天才指揮者のつもりで生きているのに、泉の美しい笑みを浴びると、たちまち楽器に変えられてしまう。かき鳴らすギター、とどろくドラム、そよ風のフルート───心臓のリサイタルを開演しながら、レオは八重歯をのぞかせた。

「ったく。小学生のガキみたいにニヤニヤしちゃってさ」
「だって、おれの曲が好きなんだろ? おれも、セナのことがだぁ~い好きっ」
「はいはい」

 泉が呆れ顔で頬杖をつく。朝のホームルーム前、なんでもないやりとりを交わす一瞬が、レオはたまらなく好きだった。高校生になってからはじめて出会って、泉との歴史はまだ浅いけれど───最近では、『れおくん』と呼んでくれるようになった。
 瀬名泉という人物をたくさん知って、レオもありのままの中身を晒けだす。朝の数分は、レオにとっての宝物だ。

「朝からワニワニ、うるさいよねえ」

 ざわめく教室は、事件の話題で持ちきりである。レオはちっとも興味がなかったが、事故の被害者はどうやら夢ノ咲学院出身のタレントとして、ずいぶんと名を馳せているらしい。レオは椅子の重心を揺さぶりながら、「あー」と返事した。

「おれ、あんまり詳しいこと知らないんだけどさ。……ワニに襲われたひとって、結局どうなったんだ?」
「腕を噛まれたみたいだけど、軽傷らしいよ」
「フック船長にならなくて、よかったな~。……でも、どうして噛まれたんだろ。『太ったか?』って聞いちゃって、セナみたいにぷりぷり怒っちゃったとか?」
「俺を例えに出さないでよねえ。……一瞬だけ噛んだあと、ワニのほうから逃げ出したんだって」
「噛んどいて?」
「うん。……ワニとは何度も共演してるし、仲良しコンビだって話題だったのにさあ」
「そうなのか~」
「あんたって、本ッ当~~~に夢ノ咲出身のOBに興味ないよねえ…………まぁ、俺だってどうでもいいけど」

 そう吐き捨てて、泉はぐるりと教室を見やる。四方八方から聞こえるワニの話題に、眉を潜めた。

「夢ノ咲学院出身の奴らって、ただでさえ評判悪いのにさあ。『ワニに噛まれた人が卒業した学校だよね』になるじゃん。チョ~最悪ぅ」
「うちのお母さんも、『あんたのとこ、管理体制とか大丈夫なの? ちゃんとしてるの?』って聞いてきた! わははっ、とっくの昔に卒業して、芸能事務所に入ってるのに! 良くも悪くも学歴社会! 夢ノ咲出身って肩書きが独り歩きして、風評被害にもほどがある~!」
「はあ、笑えないよねえ……。ただでさえクソみたいな環境をどうにかしたくて、必死こいてるっていうのにさ。クラスのアホどもは、低レベルのお喋りばっかだし……
「おいおい、他人の悪口は良くないぞ~」
「ろくにレッスンしないくせに、出てくる話題といえばワニワニ、女、ワニワニだから怒ってるの」
「セナは真面目だなあ」

 ふん、と鼻を鳴らす泉を見つめながら、レオは考える。確かにそう言われてみれば、入学前に想像していた環境とは違っていた。学院内に他校の女子を招いてゲラゲラ笑っている上級生がごろごろ存在しているし、事務所の後ろ盾を利用して夜遊びに明け暮れる人物もいる。座学が苦手なレオもしょっちゅう授業を欠席しているので、他人をとやかく指摘はできないけれど───誠実な生徒は早くも見切りをつけて転校しているし、逆にそうでない生徒は、生ぬるい環境でだらだらと過ごしていた。
 頑張れば頑張るほど、損をする。そんな環境下においても、泉はがむしゃらに生きていた。誰もが振り返るほどの美貌にもあぐらを掻かず、努力を怠らない。レオはそんな泉がまぶしくて、好きだった。
 綺麗だ、ほんとうに。見た目も、中身も、大好きだ。赤のネクタイを人差し指で回転させていると、とつぜん視界が爽やかな蒼に染まる。泉がぐいっと顔を近づけていた。

「なぁ~にが『セナは真面目だなあ』だっての。あんた、他人事すぎない?」
「うわ! 急にお小言はじまった!」

 部屋を片付けるまで夕飯抜きだからね、と鬼のツノを生やす母親を重ねながら、レオはたじたじと後ずさる。レオの額に人差し指を押し当てながら、泉は説教で攻めたてた。

「れおくんも、しっかりしなよねえ。芸能界はね、代わりはいくらでもいるわけ。天才肌と持てはやされてきたやつでも、油断するとあっという間にポジションを取られるんだから」
「うう~……おれは褒められて伸びるタイプなのに、厳しく叱られてる~……
「俺は、真剣に言ってるの。あんたは確かに作曲できるけど、ちゃんと堅実に仕事をこなして、周りの信頼を獲得しなきゃ駄目。例えば今回の事件みたいにワニに噛まれて腕が動かなくなっちゃって、指揮棒を振れなくなったらどうするの? 窮地を助けてくれるのは、これまでの評判なんだからねえ!」
「ワニワニうるさいって文句いってたくせに、結局セナだってワニの話してる……
「はあ? それはそれ、ワニはワニ!」

 ヒステリックな指摘が鼓膜になだれこんでくる。
 恐怖! 説教美人姑!───架空のサスペンス劇場を想像しながら、レオは梅干しを食べたようなすっぱい顔をした。

「ったく……。授業には遅刻するわ、忘れ物が多いわ…………そうだ、今日はプールの授業だよねえ。ちゃんと水泳着は持ってきたの? 教科書と違うんだから、俺は貸せないからねえ」

 季節は夏。スポーツに長けたアイドルを輩出している夢ノ咲学院では、当然プールの授業がある。レオは塞いでいた耳をぱっと離して、得意げに答えてみせた。

「もちろん! こないだ、セナに『忘れ物するやつ、だらしなくて嫌い!』って言われてショックだったから、ちゃんと持ってきたぞ。どうだ、偉いだろ~!」
「胸を張ることじゃないでしょ。……でもまぁ、俺の言うこと覚えてたんだ」

 約束を守るやつは、嫌いじゃないよぉ。
 雨上がりの朝顔みたいに優しく微笑むから、レオは椅子ごと背後にひっくり返ってしまった。
 小学生の夏休み。夜になると萎んでしまうのに、朝になると元気いっぱいにつぼみを咲かせている朝顔が不思議だった。あれはたぶん、美しい太陽に心を惹かれてしまうからだ。当時の観察日記には、いったい何を書いていたっけ。もはや一文字たりとも思い出せないけれど、一日の始まりを彩る朝陽はこうして昇るのだろう。

 「ちゃんと座ってないからでしょ~」

 ため息をつきながらも手を貸してくれる泉は、やっぱり優しい。
 レオは表情をぱぁっと綻ばせて、夏空の向日葵を咲かせた。



 体育の授業はそれなりに好きだ。特にプールは、数ある種目のなかでも楽な部類かもしれない。団体球技は足並みを揃える必要があるが、水泳は個人競技だ。タイムの計測さえ終われば、残りの時間は自由に過ごすことができる。座学が嫌いなレオにとって、奔放に動きまわりながらも単位を取れる授業というのは、実にありがたい存在なのだった。
 レオは太平洋を横断するイルカにでもなった気分でレーンを泳ぎ、ゴールの壁をタッチする。水飛沫を吹かせながら、堂々の一着だった。「月永は強ぇなあ」とずぶ濡れの顔を拭うクラスメイトに自慢げに笑って、レオは飛び込み台を仰ぐ。泉が、次の出番に備えて手足を伸ばしていた。一着を獲ったレオに見向きもしていない。「れおくんって、泳ぎも上手なんだねえ」と褒められるのを密かに期待していたから、すこしばかり残念ではある。
 さて、全員の計測が終わるまでは自由時間だ。「イルカに乗って、どこまでもスイスイのうた!」と曲を作ろうとしたが、水場にはお気に入りのノートもペンもありはしない。この場から脱走して教室に戻ろうかとも企てたが、泉にねちねち叱られることを考えると、どうにも気が進まなかった。「授業にちゃんと出るって言ったよね? 約束を破るやつ、俺は嫌いだから」と突き放された日には、水底に沈んだまま二度と浮上できないだろう。
 髪のしっぽから水滴を垂らしながら階段を上がり、レオは壁ぎわに腰を下ろす。既に測定済みのクラスメイトが数人ほど座っていたが、彼らの輪には入らなかった。どうにも波長が合わない。気の弱い生徒を小突いたり、控えめな教師に丸めたプリントを投げつけて、下品な笑い声を響かせていたりする。モーツァルト以外の他人を嫌うことがないレオでさえ、なるべく干渉したくない。耳障りな不協和音を奏でているグループだった。
 セナ、はやく泳ぎ終わらないかな。
 入念に準備運動している泉をまじまじと観察しながら、レオはあぐらの姿勢で左右に揺れた。華奢な白い肌に、ほっそりとした美しい足が伸びている。現代にも人魚って存在するんだな、セナってほんとに綺麗だなあ、とニコニコ見つめながら、レオは丸めた膝に顎を乗せた。
 泉が、両腕をぐっと伸ばす。程よく引き締まった腰は、柔らかな曲線を帯びていた。胸にぽつんと浮かぶ薄桃の飾りに、水滴がぽつりと垂れて───あれ? レオは唾を呑む。胸の奥に広がる湖に波紋が広がって、美しい人魚の姿がひしゃげていく。
 なんだ。この気持ち。
 レオは膝を抱えて、縮こまる。高らかなホイッスルが響き渡って、横から下品な笑い声が突き抜けた。

「こっちは遊びのつもりだったのに、向こうは本気っぽいんだよね。私は、あなたのことが大好きよ。でも、あなたの大好きは、エッチしたいって意味なの? って。面倒くせえ~! 助けてくれ~!」
「クズアイドルとしてデビューしとけよ、お前はよ~」

 断片的に聞こえてくる会話だけでも、ろくでもない野郎であることがわかる。顔も名前も知らないが、こんな笑い話にするような奴に騙された女の子が、かわいそうでならなかった。
 大好きよって、逆にそれ以外に意味があるのか。
 お前のこと、これからも大切にするって抱き締められたら、どんな女の子でも胸が高鳴るに決まってる。祝福のチャペルだって、鳴り響いていたんじゃないのか。
 誰かを想うときの愛しい気持ちって、すべてが音楽になるはずなのに。
 大好きって、そういうものじゃないだろ。
 大好きって、そういうものじゃないだろ。
 大好きって……それじゃあ、おれは?

 一着を獲った生徒が、勝利の握りこぶしを披露する。二着の生徒がやや遅れて帰ってきて、三着目に泉がゴールした。泉は前髪をかき上げて、苦しげに呼吸する。白い肌に水滴が滑り落ち、胸元を濡らして───レオの心臓が、どくりと波打った。

「面倒なセフレだとしても羨ましすぎる。俺も女抱きて~」
「悲報、男子校」
「でもさあ。わりと綺麗なヤツ多いじゃん、ここ」
「ああ、確かに。ほら、あいつとか」
「ええ~、瀬名ぁ?」

 レオは鼻で笑うクラスメイトを横目で見やった。
 せな。世界でいちばん大好きな音階が、下劣なトーンに上書きされる。

……いや、あれは無理だろ」
「俺、いけます」
「マジ?」
「いくら中性的な顔っつってもさ~」
「ああいうのに限って、わりと従順だったりするんじゃない? 仕事をやるかわりに抱かせてくれっつったら、『いいよぉ~、恩に着てよねえ〜』って」
「似てる!」
「似てないっ!」

 下卑た声で笑ってのける不良のひとりに、レオは掴みかかる。確かに泉は美しいけれども、だからといって生まれつきの外見に甘んじる生き方はしていない。一秒たりとも妥協しない泉が、名声のためにプライドを捨てるわけがなかった。夢ノ咲学院で出会って、まだまだ付き合いは浅いけれども、それでも泥臭く踏ん張り続ける泉の姿を、近くで見てきたのだ。
 だって、大好きだから。
 でも、大好きってなんなんだ。
 水滴に濡れた艶かしい腰を思い返して、レオは訳がわからなくなる。リーダー格の男を無理やり立たせて、がむしゃらに胸倉を揺さぶった。

「女の子ひとりにさえ、幸せなメロディーを届けてあげられないおまえが! 好きとか嫌いとか、語るな!」
「おい、なんだよ急に!」
「セナは、そんなやつじゃない!……おれだって、ちがう!」
「やめろって!」
「だぁい好きって気持ちは、美しくって優しい音楽のはずなのに!」

 成長途中のレオよりも遥かに体格の大きい不良が、レオの攻撃を交わす。決死の突進をすかされたレオは体勢を崩して、プールに転落した。激しい水柱が吹き上がり、小柄な体は水底にみるみる沈んでいく。
 しかしながら、すぐに新鮮な空気が流れ込んできた。手首を掴まれ、地上に引き上げられたのだ。

「れおくん! あんた一体なにしてんの、大丈夫!?」

 ぷはっと息継ぎをしながら、視線を持ちあげる。間近の距離に、透き通る真珠肌とブルーダイヤモンドの瞳が迫っていた。助けてくれたのが泉なのだと認識するまえに、濡れた頬が柔らかな触覚を拾い上げる。胸の突起が擦れていると気づいたとき、レオは硬直した。
 食べちゃいたいな。
 半開きの唇から熱を帯びたよだれがこぼれて、レオはぎょっとした。揺れる水面から一歩、二歩と後ずさり、泉に訴えかける。飛び出した声は、情けなく掠れていた。

「セナぁ、どうしよう」
「え?」
「おれ…………

 ワニになっちゃった。
 プールの底に潜って、レオは二十五メートル先の壁まで逃げた。遠くとおく、誰にも見つからない沼の底まで泳いでしまいたかった。
 夢ノ咲学院出身のアイドルを噛んだワニ。仲良しだったはずの人間を傷つけた。けれども軽傷で済んだ理由がわかった。きっと噛んでいる途中で、恐ろしくなって逃げたのだ。
 おまえを、食べたい。
 たった一瞬でもそう考えた自分が、とてつもなく怖かった。