いぬみ
2025-04-04 16:07:24
6428文字
Public 逆裁
 

Flying Kiss

事故キスがお互いのファースト・キスになった成立前オドキョ。
キスをしてからお互いの恋心に気づく話。

 キスしてしまった。
 おデコくんと、意図せずに。
……
 至近距離に迫ってきた顔も、唇にふれたやわらかい感触も、気のせいにするには、ずいぶんとはっきり記憶に残ってしまった。それは彼も同じなのだろう。前のめりになった体勢をなおした後も、呆然としたふうに、目をぱちくりさせている。

 昼下がり、なにやらハシゴに乗って、探し物をしているらしいおデコくんと出会ったのが、すべてのはじまりだった。迷いネコの依頼なんです、と、ハシゴに乗ったままぼくを振り向く彼に、「危ないよ」と言った矢先のこと。降りなよ、というぼくの声に反応して、急いで降りようとした彼の足が滑ったのが、事件の発端だった。
 咄嗟におデコくんの肩を支えようとしたぼくと、支えを求めて倒れ込んできたおデコくん。手が彼の肩に触れて、助けが間に合ったんだとほっとして。思ったよりも負荷が強くて、ぼくは体勢を崩してしまった。
 それでもなんとか、ケガする事態は避けようと思って、引き寄せて──おデコくんも地面との衝突は避けたいと、身を捩って、こちらに方向転換して──それらが、どうにも噛み合ってしまって。
 気づいたら、ぼくの顔の前に、おデコくんの顔があった。そのまま、近づいてきて。それでも、彼の身の安全を考えると、避けることはできなくて。
 ──肌と肌が、ぶつかりあった。
 具体的には、唇と、唇が……

…………
…………
 気まずい。驚きと困惑と、なんともいえなさが混ざりあって、ぼくらのあいだを流れている。
……ケガはないかい?」
 変な沈黙を破るためにも、とりあえず、それだけ口に出した。ピタリと固まっていた彼は、それを聞くとびくっと体をわななかせて、おおげさに頷く。
「大丈夫ですっ!」
 いつもの大声、いつもの口癖だ。
 さっきまで静寂だったこともあって、耳にキンとくる。本当に大丈夫そうだ。……少なくとも、身体は。
 そして、彼は気を取り直した様子で、状況をふりかえる。
「あの。ええっと…………キス、しちゃったって、こと……ですかね」
「まあ……そうなるね」
 はっきりと口に出されると、やっぱり、気まずいものがある。
 唇と唇がふれる行為の名称。……キス。口付け。接吻。恋人への愛情表現なんかでやるべき行い。そういうものを、ぼくらは、してしまった。
「いわゆる事故だけど」
「で、ですね。含めません……よね!」
 お互いの意思もなく、ただ、接触しただけ。皮膚と皮膚がぶつかっただけ。ただその部分が唇だったというだけで──しようとして、したわけではない。いわゆる愛情表現だとか、挨拶だとか、好意の象徴の意味は、持たないだろう。
 含めないだろうと結論づけて、どこか肩の力を抜くおデコくんは、〝キス〟に対して、世の中の人間がたいていそうであるように、特別性を感じているようだ。
「まあ、含めるとしても、牙琉検事は問題ない……と思いますケド…………その、慣れてる、でしょうし。アメリカで留学してたんですもんね……
 ……とりわけ、ファースト・キスを意識している様子だ。そういうのを気にする彼はらしくもあって、意外でもあった。はじめては好きな相手に捧げたい。ロマンチックなものに仕上げたい。どうにせよ、そんな情熱的なロマンスを、おデコくんは抱えている。ぼくはそれをもう済ませているのだろうと安堵している。
 はじめてのキスが、男同士で、しかもこんな情緒も何もないタイミングのものであるという、悲劇というには大袈裟だけれど、決して気分のいいものではない事故の被害を、せめて矮小なものと片付けるため。あとから、おデコくんも、ぼくも、このことを引きずらないように、彼は結論を導き出そうとしているのだろう。
 ……だから、真実がどうあれ、ここでは、『慣れている』フリをするべきだったのに。
「ううん」
「え!」
「問題は……あるよ。……ハジメテのキス、っていう話なら」
 なぜだかおデコくんの勘違いを見過ごせなくて、口に出してしまった。
 唇の純潔を守っていたこと。それが今、おデコくんによって、身体的には、奪われてしまったこと。
「え……!」
 おデコくんは、驚愕に赤くなって、動揺に青くなって、衝撃に固まってしまった。当然だ。お互いに水に流そうとしていた事態が蒸し返されて、その被害が何を意味しているのかを、カミングアウトされたのだから。
「アメリカだからってね。どの地域でも挨拶はキス、ってわけじゃないんだよ。……それに、挨拶のキスはだいたいフェイクで、音だけだしね……
 挨拶としてのキス文化が根強いのは、南アメリカや、ヨーロッパといった国であって、ぼくが留学した地域には当てはまらない。ハグや握手はたしかに日本にいたときより頻繁にしたけれど、キス──しかも、唇に──は、今までしたことがない。
「つまり」
 おデコくんが繰り返す。
「うん、奪ってくれちゃったワケだ」
 だから、ぼくもはっきり答えた。
 つまり。──はじめてだった。いわゆる、キスというのが。
「きみはハジメテだった、ワケかい? ぼくと、同じで」
「は……はは、はいッ……!」
 わかりやすいほど動揺していて、予想通りだったのに、なんだかおかしかった。ウブな反応とか、案外ロマンチックな態度とかに見合って、彼も経験がないようだった。……それこそ、お互いさまに。
 まいったね。なんて、そう困り果ててもないまま、そんな言葉だけ軽く口に出した。

「べ、ベンショーとか、したほうがいいんですかね」
 すると、おデコくんがそんなことを言い出した。
……へえ、具体的には? どうオトシマエをつけてくれる気なんだい?」
「えっ! あ、その……
「言っておくけど、ぼくは……安くはないよ?」
 ──なんせ、世界中の女のコがぼくの唇を求めているんだからね。冗談を言ってみれば、おデコくんはおろおろと慌てたり、バカ正直に考え込んだりと忙しく動く。愉快だった。──そもそもこれは、お金でどうこうなるモンダイかな? 発想が甘いんじゃないかい。なんて付け足してみる。
 大事かのように慌てふためく彼がおもしろくって、ついからかってしまう。普段だったら、なに言ってるんですかとか、世界中が求めてようがオレにとってはただの野郎の唇ですよとか、そういった文句のひとつやふたつ返ってきそうなのに、彼は黙って聞き入れている。動揺のあまりに、悪態すらもつくことができていない。
 もう、ぼくとしては何も気にしていないのに。問題はないのに。こんなふうに大真面目になっているのが、おかしかった。
 そう。おかしい。特に不快感とか、落胆とか、そういった感覚は一切ない。それもなんだか不思議で、つい笑みが漏れる。
 たしかに直後は驚いたし、動揺もしたし、どうにも気まずかったけれど。今となっては、取り立てて悪い出来事でもなかったと純粋に思う。
……まあ、冗談として。すまなかったね。あんまりいい気分じゃなかっただろ。口直しになにか奢るよ」
 おデコくんもさっきの件で本調子じゃないみたいだし、からかうのも程々にして、〝弁償〟の提案をする。からかっておいてなんだが、ぼくも、おデコくんの〝はじめて〟を、あんなカタチで奪ってしまっている。彼に弁償を頼むなら、ぼくもそれに倣わねばならない。
 その旨をいたって平凡に話す。奢られやすいように、奢りやすいように、話が重くならないように、にこやかに。ランチでもディナーでも喫茶店でも、なにかを一品ずつ頼みあって、払いあって、それで済むだろう。そういった提案をしていると、何やら考え込んでいたおデコくんが口を開く。

「あの、どうすればいいのかとか、オレ、何すればいいのかとか、全ッ然……全然、分からないんですけど、でも……あの、とりあえずッ……!」
 冷静に努めようとしているぼくとは違って、未だ混乱に支配されているらしい彼は、落ち着かない表情で、思ってもみないことを叫んできた。

……イヤでは、なかったです! ……さっきの!」

 いいにおい、したし! やわらかかったし! 目をつぶってたら、女のヒトとやってるのと変わらなかったんじゃないですかね! あの、それくらい、少なくとも不快じゃなかったってことで……。むしろ、もう一回しちゃったって問題ないぐらい……

「それ、そんな大声で宣言することじゃ、ないと、思うよ」
 放っておいたらさらにとんでもない告白を続けてきそうなおデコくんを遮る。公共の場で、人の目のある場所で、言い放つのを見過ごせる内容ではない。その内容が、何を意味するのか……それをぼくがどう感じてしまったか……は、ともかくして。
「す、すみません、なんか……忘れられなくてっ……! ついさっきのコトだから、だと、思うんですけど、少なくとも……牙琉検事に……〝弁償〟されるようなコトじゃないように、思えて……
 感触だとかなんだとかの記憶が巡る中、〝悪くない〟と思う自分になによりも困惑している中。それを〝弁償〟されそうになって、さらに混乱して、謎の弁解してしまった、という。そういう話だったらしい。おデコくんは、オデコまで真っ赤にして、ワケわかんないと思います、すみません、と繰り返す。
「うん。その。……ぼくも、イヤじゃない、ね……。」
 ぼくも何を言っているんだろう。なにか言葉を返さなければ、と思って、咄嗟に出た言葉。別に言うつもりなかったのに、言う必要なかったのに。こぼれてしまった。
……もう一回しちゃっても、問題ないくらい……
 そう思ったのはおデコくんだということが、ぼくの口を滑らせた。
 奇妙な沈黙がぼくらを包んだ。さっきのような気まずさとは違う雰囲気が漂う。照れくさいような、甘いような、そんな変な空気だった。じわり、じわりとぼくらの距離が近づいていくような……そして、実際に、どちらにともなく、距離が縮まっていって。
 ──肌と肌が、ぶつかりあった。
 具体的には、唇と、唇が……
……
……
 キスしてしまった。
 ……今度は、自分から、双方に意思を持って、おデコくんと。
 確かめてしまった。〝もう一度〟が本当に問題がないのか、そう思えるのかを、よりによって実践で、お互いに止めずに、止められずに。もうこれは、事故ではない。自己の意志を持って、わざわざ起こしたことだ。
 そして、顕になった事実は。
「やっぱり……
「イヤ、じゃない?」
 この状況で、やっぱり、から始まるなら、答えはただひとつだ。
 さきほど考えたことが──正しかった、ということ。
 ぼくとキスをしても、おデコくんはかまわない、ということ。
……牙琉検事も、ですか」
…………うん」
 そして、ぼくも、おデコくんとキスしてもかまわない、ということ。
 一回だって、二回だって、どちらとも……不快なんかじゃない。むしろ、あのカサつきつつもやわらかな、絶妙な感触には、彼の息遣いが感じ取れる距離感には、それでしか味わえない心地良さが確かにあった。確かめてしまったから、手に取るように、わかってしまった。
……これって、あなただから、いいんですかね。なんか……
 これはきっとおデコくんとだからそう思えてしまうのだ、ということすら、わかってしまった。
……ぼくも同感、……かな」
 他の相手と、こうなってしまったら。それを考えてみて。〝確認〟している際も想像してみて。野暮だと思った。こんなことを許せるのは、おデコくんだからだと、わかってしまった。
 おデコくんだから、心地いいのか。
 キスがすごいのか、おデコくんがすごいのか。
 ……というより、ぼくのほうが、おデコくんを好ましく思っているからそうなっている、のか。そんな可能性が──今のところ、一番信憑性のある選択肢が──思い浮かんでしまった。
「もしそうなら、ぼくも、きみに取り返しのつかない〝ファースト〟を送ってしまったわけ、だね」
 そしてそれは、おデコくんのほうが先に気づいた選択肢だ。とりあえず忘れてみようと、見て見ぬフリをしようとしたぼくを、オレは忘れられない、なんて、そんなつもりがなかったにしろ引き止めたのは、他でもない彼だ。彼のおかげだ。
 顔が熱い。とんでもないことに気づいてしまった。
 さきほどまでのおデコくんに同情する。こんな気持ちを抱えていたならば、そりゃあ、失言もしてしまう。

「だとしたら……ベンショー、しなきゃね。……お互い。」

 弁償という名の、責任を負わなければならない。
 むしろ。責任を取りたい、責任を取ってほしいと思ってしまうのが、不思議だった。それはたぶん、おデコくんもそうなのだろう。さらには、ぼくは。
(はじめてがおデコくんでよかった)
 ……なんて、思ってしまっている。
 こう思いたかったから。彼にもそう思われたかった、ぼくは、彼の『慣れている』なんて勘違いを撤回したくなったのだろうか。
 ウソをついても、彼にはわかってしまうのだから。変に隠して、変に悟られて、変に困らせて、挙句にウヤムヤになるぐらいなら──これから先が気まずくなってしまうぐらいなら、今のうちにハッキリ、おデコくんにバラしてしまったほうがいい、と思った。彼なら、きちんと考えてくれる。きちんと、ぼくのことを尊重してくれる。彼にならぼくのすべてを見られたっていい。それがどんなに〝ぼくガリューらしくない〟ものでも。

 〝牙琉響也〟を、おデコくん──王泥喜法介なら、理解してくれる。理解されたい。……そう思える時点で。経験がないなんてぶっちゃけてしまえる時点で、ぼくは、だいぶ、彼に好感を得ている。キスをしてしまってもかまわないと思えるぐらい。〝その先〟だってかまわない──その先を、弁償してほしいと願うぐらい、弁償させてほしいと祈るぐらい、なのだ。

 それはたぶん、ぼくは、おデコくんのことが好きだということ。

 一般的には順序は逆だ。キスしてから想いに気づくなんて。行動につられて、思い込んでいるのかもしれない──と考え直してみる。けれども、思えば思うほど、おデコくんには、どんな〝はじめて〟を捧げたって許せてしまう感情は、彼と話し始めたころからあったものだと、気づくだけだった。
 順序が逆の、不格好な恋の芽生えでも、おデコくん相手なら、大丈夫だ、なんて確信もできた。どんな状況で生まれたものであれ、ぼくの気持ちを真摯に受け取ってくれると、信頼できた。
「はい。……責任、取ります」
 顔を赤く、喉をごくりと鳴らした後に、おデコくんはゆっくりと、はっきりと、声に出してくれた。
 おデコくんが〝いい〟と発言するのは、本当にそれができる、と確信したときのみだ。不確かだった場合は苦言を呈するし、別の方法を提案してくる。何度か顔を合わせて、何度か交流していくうちに、ぼくは、そう理解している。
 だから。その答えは……同感と、好意を表す。〝その先の責任〟までを弁償し合うことを、かまわない、できる、との宣言を示す。──たぶん、おデコくんが、ぼくのことを好きだということの、宣言。
 そういう、おデコくんの、真面目で、ハッキリとした言葉で安心させてくれるところが好ましい。どこまで甘えていいのか、どこまで許してくれるのかわかりやすいのが、ほっとする。こういう感情が、おそらく、〝好き〟で、恋心の元なのだろう。つくづく、ぼくは、自分の気持ちに鈍感だったのだと痛感する。
 それにどんなきっかけであれ気づいてしまえば、あとは早い。……そういうことだったのだろう。
 未だ熱の残る唇をなぞりつつ、気づいた直後に叶った恋に心地良さを感じて、酩酊するように微笑んだ。