眼下には一面の黒が広がっている。表面は僅かにさざめいており、それだけが暗闇の正体を示す手掛かりとなっていた。波はどこまでも光を吸収し、空との境目を曖昧にする。夜の海がこんな風に見えるなんて陸に上がるまで知らなかった。
人間たちにとっては揺籃のような安息地なんてものではなく、全てを飲み込む孔そのものなのだろう。稀に人間が海まで落ちてくることがあるが、それもそういうことなのかもしれない。きっとなにか惹かれるものがあるのだ。
海に背を向け、室内に戻る。ベランダに続く扉は開け放ったままだ。潮の匂いを感じるのが好きだから。そして、そんな不用心を許してくれるきみも好き。夜風がカーテンを攫う。影が彼の─────ジュンの頬にかかる。風ではためく布も、落ちる影も全てが特別なものだった。彼が特別にしてしまった。
月光を閉じ込めた瞳は厚めの瞼に仕舞われ、日和の検分するような視線をものともせずぐっすりと眠っていた。脱力し安心しきった顔をした彼に、何故だか胸の奥を擽られている心地になる。ベッドに腰かけ、少年らしさの抜けきらないまろやかな輪郭をなぞる。やはり反応は返ってこない。多少手持ち無沙汰で、常ならばつまらないので強引に起こしてしまうところだが、今日だけはそうしてはいけない理由があった。
輪郭がぼやけ始めた左手を見遣る。存在したりしなかったりの明滅を繰り返しており、まだしっかりとかたちが残る右手で触れようとするも空を掴むばかりだった。とっくに見せかけだけのものになってしまっていたらしい。全て消えてしまう前にどうにかしなくては。
懐から短剣を取り出す。これでジュンの胸を一突きすれば日和は助かる。泡となり消えずに済む。魔女に声帯と鰭を明け渡して海に戻らなくなった弟を救うべく、一縷の望みをかけて兄が託してくれたものだ。秘術だの代償だのがどうこうと言っていたが、見た目だけならそこら辺のナイフと変わらない。こんな普遍的な短剣でさる高名な魔女の呪いを解くことが出来るかは疑問であった。
日和と魔女が結んだのは呪いであり、契約だ。魔術に必要な対価が致命的なものであればあるほど複雑で大規模な呪いを行うことが出来るが、基本的に不可逆であるため質に入れたものが元通り返ってくることはまず有り得ない。無理に解こうとしたり、契約の内容を反故にするようなことがあれば大抵の場合命は無いと思った方がいいとまで言われる。魔女との取引というのは文字通りの呪いなのだ。そんな呪いをこんなナイフ一本で白紙に戻すというのだから、本当に効果があるのか首を傾げてしまうのは致し方ないだろう。
ジュンの胸の真ん中辺りに手を添えた。皮膚越しに鼓動が伝わる。彼が生きている証左であり、これから奪うかもしれないもの────否、奪われることなく動き続けるもの。
再度彼の顔を覗き込む。目付きが悪いせいで怯えられがちだが、本当はあどけなさの残る存外幼い顔立ちなのだと知っていて、寝ている時はそれがよく分かる。垂れた眉尻、弛んだ口許、シーツに投げ出された四肢。危険なことなど何もありませんと芯から理解しきっているから晒してくれるのだ。日和と暮らしたこの部屋が彼の安全基地になっている。これ以上に喜ばしいことが他にあるだろうか。
そうだ。ここに、ジュンの隣に来るために全て棄ててもいいと思った。声を捨て、鰭を捨て、故郷を捨てて陸に上がった。それだけが始まりだったのだから、終わりのかたちも最初からずっと決まっていた。
短刀を右手で握りしめ、開いたままのベランダに向けて振りかぶる。これを兄から受け取ってからずっと気が重かったが、ようやく身軽になれるのだ。泡となって消えてしまうより、彼の命を代償に息をする方が恐ろしかった。自己犠牲の献身なんて今時チープだろうが、おそらくこういうものを人は愛と定義するのだろう。
なんて愚かで、浅慮で、馬鹿馬鹿しい。それでもこの過ちこそが人間らしさというのなら、それでよかった。血脈と本能に従って生きていくよりずっといいに違いない。
そうして腕にぐっと力を込め、窓の向こうに切先を合わせて────その時だった。
右の手首を血の気が失せるほど強く掴まれる。
衝撃で短刀を取り落とし、床に放られたそれを拾おうとするも顔を掴まれ強制的に目線を合わされる。ジュンはいつの間に起き上がっていたのか、寝起きにしてはぼんやりした様子もない。逸らすのは許さないとでも言わんばかりの手の力強さと感情の読めない凪いだ瞳がちぐはぐに感じられ、一瞬とも永遠ともつかない間見つめ合っていた。
その日は確か、日和が行ってみたいとせがんだファミレスに行ったのだと思う。
ぼくが泡になって消えちゃったらどうする?
卓上に置かれた紙製のナプキンに書かれたその言葉。思わずまた変なこと考えてんな、という顔を向けてしまうのも仕方ないことだろう。最近になって何度も聞いたその問いかけ。下らない仮定だと一蹴することも出来たが、それだと日和の機嫌を損ねることになって面倒臭い(既に何度かやらかしている)ので付き合ってやることにする。
泡、泡ねぇ。
人間は泡になんてならない。至極当然のことだろうが、このひとならもしかしたら、と何故だか思わせるような雰囲気が日和にはあった。同じ軸上に存在していないような、ふと高いところから見下ろされているような、そんなひと。
「……どうするって、」
目の前の彼の腕を掴む。とっくのとうにお互い
頼んだものは食べ終わり皿も下げられ、2人を遮るものは何もなかった。ジュンが強く力を込めれば込めるほど、日和の肌は白くなっていく。確かに血が通っていることを確認し、知らずのうちに詰めていた息を吐いて彼を解放した。
「あんたはちゃんと人間ですからねぇ。……どうするもこうするも……」
それが現実に則した返答だったのか、ただ事実を理解することを拒みたかったからなのかはもう思い出せない。ずっと前の話だ。
そんな日のことをジュンは思い出していた。
「なら……なら、オレも一緒に死にます。選んでください、どっちがいいか……」
日和が取り落とした短刀を拾い上げ、再び右手に握らせた。その上から包むようにジュンも手を重ねれば、微かに震えていることがよく分かる。その振動すら縁から朧気になっていく彼の実在性の証明になるのだと安堵してしまう辺り、まったくもって救えない。別に救ってほしい訳でもないのだが。
ジュンくん、と空気が揺れた。思わず目を向ければ、目の前の彼は「どうして」と言わんばかりの顔でこちらを見つめている。
「……どうして。……どうしてなんでしょうねぇ」
ひとりでふらっと出歩くくせに迎えに行かなかったら律儀に拗ねることを知っている。何者でもない自分の声に耳を傾けてくれたことを知っている。いつもジュンが日和から受け取るのは、ショウケースの中のホールケーキを眺めるような憧憬ばかりだった。それはもう────彼の瞳に映るだけで、まるで自分が世にもうつくしく価値のあるものなのではないかと錯覚してしまうほど。まあ、全部あんたは自覚してないんだろうけど。
自分は硝子越しの世界のいきものではないのだと信じてほしかった。凍えていたらあたためてやりたい。寂しがりな彼がもう声を飲み込むことのないよう、おなじ場所にいてやりたい。きっと日和は望まないだろうから、これらは全てジュンの我儘だった。物言わぬ彼から汲み取って繋ぎ合わせてみたそれを叶えてやりたいのは、どこまで行ってもジュンの勝手でしかない。だから、どれだけ拒絶されようと構わなかった。
「あんた、寂しいの駄目なひとでしょうがよ。これしか手が無いんだから……全部、オレのせいにしていいんです」
口にしてみれば案外単純で、つまりはこれだけなのだ。それでもきっと─────ああ、やっぱり。日和の瞳に膜が張る。うれしい、かなしい、人が常日頃抱くそういった感情全てをごちゃ混ぜにしたような、そんな顔。
視線が混じり合う。
目は口ほどに物を言うとは言うが、彼ほど当てはまるひとはいない。勝手だと、そんなこと出来るわけないとジュンを咎めていた。反抗するように重ねた手に力を込めてみるがびくともしない。
こういうところを垣間見るたび、どうしようも無いひとなのだと心の底から思う。秩序だか信仰だかなんだか知らないが、持ち主すら救ってくれない教義なんかとっとと棄ててしまえ、と。それでも、そういう執念が日和という存在を眩いものにしていることもまた事実だった。
空いている手に雫が落ちる。出処である目の前のひとの頬を拭ってやった。一度決壊してしまうと直ぐには治まらないようで、拭う手を止めえしまえば濡れていくばかりだ。
「……あぁもう、結局こうなるから嫌なんですよぉ!」
つまるところ、ジュンは日和に勝てた試しがなかった。なんだかんだと先に音を上げるのは自分の方なのだ。今回も同じことである。
きっとジュンが選ばれることはない。選択肢を提示してみたが、日和の信じている愛とやらの前に敗れるのだろう。歪で、純粋で、混じり気のない。正しく日和を置き去りにしないであろうジュンの信仰は受け取られなかったが、哀しくなることはなかった。それでいいのだと、あんたらしいと素直に思える。ジュンの捧げたい愛が勝手なものなら、日和の抱える愛だって身勝手極まりない。それでも、なんだかんだと叶えてやりたくなってしまう。自分が日和に捧げていたいのは、多分そういうかたちのものだった。
依然として日和の輪郭は揺らぎ続けていた。ふっと消えたかと思えば、また現れる。しかし段々と現れるまでの感覚が空き出していて、おそらく悠長にしている暇はないのだろう。首に腕を回され、日和の頭が肩に押し付けられる。癖のある髪が頬に突き刺さりむず痒いが、今となってはそんなこそばゆささえ彼の存在を確たるものにする縁だった。
すきだよ、すき。きみだけがすき...。
吐息が言葉をかたちづくる。彼の声は初めて聞いた。声と呼んでいいのか戸惑うほどにささやかな告白。意味を理解する前に波音にかき消されそうなそれを掴むのに必死になっていると、腕の中の日和は可笑しそうに震えた。その呑気さに苛立って腕に力を込めるがやはり感触はなく、あくまでも彼の内臓を貫通しないぐらいの穏やかさで抱き締める。輪郭をなぞるような、すぐに解けてしまうように囲うことしか出来ないことが嫌だった。どうしようもないのなら、どこまでも着いていく心積りはとっくにあったというのに。最期まで勝手なひとだった。
そうしてそのまま、右耳に唇を寄せて微かに口付けられる。
湿った感触と共に腕の中の質量が失われる。元から何も無かったかのように、泡が弾けて消えてしまった。カーテン越しに差し込む光が映し出すのは一人分の影のみで、中途半端な位置で腕を下ろせないままでいるジュンの姿だけがあった。
すきだよ─────
彼の言葉を反芻する。そう言った時の日和の声も表情も分からなかったが、それでも空気の振動だけは確かに存在していた。きっと一生忘れてはいけないから、ジュンは身投げなんて出来やしない。陸に縛りつけられたままこうして生きていくのだろう。
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