付き合い始めて初めてお邪魔した麗の部屋は、入った途端ふわりと甘い匂いがして胸がときめいた。綺麗に片付けられた部屋の中で麗に座ってろと言われてテーブルの前に座り、お茶を持って来てくれた麗は俺と向かい合わせになるように反対側に座る。思わずふっと笑うと玄関の扉を開けた時から変わらない照れを誤魔化すような不機嫌顔でキッと睨んでくるから余計に頬が緩んだ。
「こっち来なよ。そこじゃ遠いだろ?」
「遠くていい」
「俺は近いほうがいい。外じゃあんまりくっつけないんだし、お家デートでくらい手繋ぎたいなー」
「……チッ」
きっと今までなら通らなかったわがままが、付き合うことになってから思った以上に通りやすくなっている。麗、恋人には結構甘えるタイプだったりする? これまでも他の人たちより距離は近かった──というか俺が近づいていたけれど、今は麗の方からだって近づいてきてくれる。
舌打ちをひとつするだけで文句も言わず、麗は俺が手招くままに俺の隣へ腰を下ろした。どかっとあぐらをかくから麗の膝が俺の足に当たって、たったそれだけで好きの気持ちが体の内側で跳ね回る。
「何すんの」
「……え、なにが」
「おうちでーと、とかいうやつ」
「……、……えっと」
俺が急にめちゃくちゃ話下手になってしまったのにはワケがあって、麗が、麗から! 俺の手をぎゅっと握ってくれたからだった。確かに手を繋ぎたいと言ったのは俺だけど、まさか麗から手を繋いでくれるなんて。
ただでさえドキドキしてる心臓は、麗の口から出た「おうちでーと」という言葉で爆発するんじゃないかと思うくらいバクバクと鳴っていた。自分で言ったりしたりするのと、麗が言ったりしたりするのでは全く違うんだと思い知る。必死に頭を働かせようとしても体中に散らばってしまった心臓がそれを邪魔していた。
「……神家?」
「っ! ご、ごめん、なんだっけ?」
「……かお、あか」
「見ないで……」
「どこで照れたんだよ。意味わかんねー」
「麗がそばにいてくれるだけで俺はずっと照れてるよ」
「嘘つくな。……そんで? 手、繋ぐだけ?」
「……もうちょっと触ってもいい?」
「どこを」
「ど、どこ……ええと、とりあえず、腕……?」
「……ん」
だめだ、やっぱり全然頭回ってない。なんかずっと甘い匂いがして思考がぼやけるし、麗は可愛いし、俺も初めてのお家デートで緊張してるのかも。
差し出された腕は生地の柔らかいトレーナーを纏っていたから、手首から上るように手のひらを這わして服の中の白い肌へ触れた。麗はピクッと震えて唇を噛み、俺と目が合うと「なんだよ」と威嚇するような声で言った。
「……ほっぺた、触ってもいい?」
「……好きにしろ」
「ありがとう」
見るからに柔らかそうな頬へそっと手を添える。麗の顔は俺の片手で包み込めそうなほどに小さかった。まぁるい頬は俺の手のひらで簡単に覆い隠せてしまえる。すりっと親指の腹で目の下を撫でると麗は反射で瞬きをして、まつ毛が俺の指に触れた。細くなった瞳孔が俺を見上げ、俺はごくんと唾を飲み込んだ。
「……きす、してもいい?」
「……」
「嫌だったら全然、今すぐじゃなくても、……っ!」
ぱちんと、麗は大きな瞳を瞼の裏に隠した。眉間に皺が寄っているし唇を噛んでしまわないように顎に変に力が入っているけれど、それは間違いなく麗からのオーケーのサインだ。俺は麗に触れている自分の手が震えていないことを心から願った。
目を開けたまま顔を寄せて、麗との距離を詰める。への字に歪む唇が可愛らしくて、俺は麗と逆に口角を上げて残りの数センチを思い切って近付けた。
ふにっと柔らかく重なる唇。目を見開いた俺は一瞬で離れて口元を手で覆った。舌先で自分の唇をちろっと舐めて確信する。麗はゆっくり目を開けて何か不思議そうに首を傾げた。
「麗、もしかして」
「おまえなんか食ってきたか? なんか……甘い。ドーナツ?」
「……甘いのは、麗だよ」
「は?」
「麗、ケーキだろう。唇が甘い。この匂いもそうなのかも……ごめん、黙ってたこと話してもいい?」
「は……?」
意味がわからないと言うように怪訝な表情をする麗に、俺はもう一度口付けて、至近距離で視線がぶつかったまま唇の隙間から舌を伸ばした。麗の唇を舐めると、その甘さに脳が食欲を訴えてくうっとお腹が鳴った気がした。
「ごめん、俺、フォークなんだ」
「……フォーク、って……は。うそだろ。だっておまえ、いつもいろんなもん食ってるし、ドーナツだって」
「匂いは分かるから、なんとなく味を予想して食べてた。ドーナツは、……俺さ、昔のことは全然覚えてないのになんでかドーナツが美味しかったことだけ覚えてて、匂い嗅ぐだけで幸せな気持ちになるから今も好きなんだ。それで……麗、めちゃくちゃ甘い味がする。たぶん、ケーキだと思う」
「……、……たぶんってか、そうだよ」
「え、知ってるの?」
「昔フォークに襲われたことある。……なんもされてねーよ。ぶちのめして逃げたし」
繋いだ手を反射的にギュッと握ると麗は俺を安心させるように軽く笑ってそう言い、あたたかい手で俺の頬を撫でた。フォークの俺が怖くないの?なんて聞けなかった。たぶん麗より俺の方がその事実を怖がっている。
「甘いの、好きなんだろ」
「え……うん……?」
「たまたま付き合ったやつがケーキでよかったじゃん。なんでそんな悲しそうな顔してんだよ」
「……別れない、の?」
「は? ……どういう思考回路だよ。フォークは全人類から嫌われてるとでも思ってんのか?」
「だ、だって、フォークだよ? 普通の人ならまだしも、ケーキからしたら食べられちゃうかもしれない相手で」
「普通なんて知らねえよ。男でもおまえならって、そう思ってようやく付き合い始めたのに、フォークだとかケーキだとかで手放すわけねーだろ。……つーか、なんだ、おまえはオレが別れたいって言ったら、簡単に別れられるわけか」
「違う! 別れたくない! ……別れたくないけど、……麗のこと、傷つけたくない」
「……舐めんなよ」
「え、……っ!? な、なに……!?」
頬から肩へ移動した麗の手が思いっきり俺の体を押して、床に転がった俺の上に麗が覆い被さった。部屋の照明を麗の頭が遮ってしまい表情がよく見えない。起き上がろうとしたけれど俺を押さえつける麗の力は強く、押し倒されたまま麗を見上げることしかできなかった。
「誰が誰に傷つけられるって? 自分のことくらい他のやつに心配されなくたって守れる。オレが簡単にやられるだなんて思ってんのかテメェは? あぁ?」
「まってまって、落ち着いてよ麗」
「オレはおまえに守られるために一緒にいんじゃねえよ! 一人で勝手に思い込んで離れようとしてんじゃねえ!」
麗が怒ってるんじゃなく悲しんでいるんだと気がついたのは噛み付くようなキスの途中で涙がぽたっと降ってきたからだった。甘いとか、そんなことより先に、心臓が締め付けられるように痛んで、俺は恐る恐る麗に手を伸ばした。濡れた頬に触れた手のひらに、麗がそっと甘えるように擦り寄ってくれる。
麗のことを大事に愛したい。フォークとしての食欲なんて、麗への思いに比べたら些細なことだった。現に今も、麗の唇も涙もとびきり甘くて美味しいけれど、それに夢中になって麗本人のことをおざなりにしようだなんて微塵も思わなかった。食欲と、好きな子と、どっちを優先するかなんて迷うわけがない。
「ごめん、麗。俺、自分のことばっかりで、ちゃんと麗のこと考えられてなかった。ごめんね」
「……いい。もう二度とくだらないこと言うな」
「うん。絶対別れない」
「……それとこれとは話が別だ」
「えっ。……ちょっと、本気で話してるんだからからかわないで。絶対別れないからね」
「振られないようにせいぜい頑張れ」
「俺のこと大好きなくせに」
「言ってろバーカ」
麗の瞳はまだ涙で潤んでいたけれど、俺のことをからかって笑えるくらいには余裕が出てきたみたいでホッとした。ごめんね、と何度目かわからない謝罪を口にすると麗は俺の唇をがぶっと噛んでくる。少しも痛くない甘噛みはただ好きだという気持ちを増幅させるだけだった。
俺は頭を浮かせて少し赤くなった麗の目元にキスをした。とびきり甘くて美味しい味に理性がぐらついて、でも麗が熱に浮かされたようにとろけた瞳で俺を見つめるから、ただ二人で気持ちよくなるためだけに優しく唇を重ねた。
おいしい、あまい、きもちいい、だいすき、って。頭をいっぱいにする感情全部が麗がくれたものだ。鼻先も額も甘えるようにくっつけて、全身で麗のことを抱きしめる。中毒になりそうなくらい甘いキスは、相手がケーキだからじゃない。麗だから、こんなに幸せなんだよ。絡んだ視線も、心臓の音も、二人の全部があまく溶けて混ざり合っていた。
俺、フォークの本能が薄いのかな。美味しさはわかるけれど食べたいだなんて全然思えない。だって食べたら麗が減っちゃうもん。そんなの絶対ダメだ。ほんのちょっと、爪先分でも、麗に欠けてほしくない。深くなったキスにぐーっとお腹が鳴ったけれど、俺は食欲じゃないただの性欲で舌を絡めて快感を求めた。
あとで麗に聞いてみようかな、食欲と性欲、どっちの方が良い?って。きっと顔を赤くして殴りかかってくるだろうけど、俺はそんな麗が食べちゃいたいくらい大好きだから、なんてね。
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