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有栖川
2025-03-31 21:47:16
30833文字
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5月kiisオメガバ本サンプル
「きみは最低で××のアルファ」
B6/168p(予定)/R-18
このサンプルは全年齢パートのみですが、本そのものはR-18になります。
後天性オメガ(ベータ→オメガ)の41とアルファのkisのkiisです。
すれ違い両片想いから始まって、両想いのつがいになるまでの話。
後日pixivでサンプルを増量して公開予定で、その中には♡喘ぎや濁点喘ぎも含まれます。
01 運命は歩いてこない
「でも、ベータには運命の相手ってやつ、いないだろ?」
なんで、そんな話をしてたんだっけ。
そうだ、たまたまさ、オフシーズンに行われたPIFA主催の親善イベントがミュンヘンでの開催になって、普段はあちこちに散らばってる昔馴染みの連中が、このへんに集まってきていたから。
打ち上げがてら飲み会しよーぜって話になって、俺のお気に入りの
酒場
クナイペ
の個室を貸し切って、どーでもいい話を無限にしてたらそのうち恋愛とかそーいう流れになって、やがて話のタネ程度に、酔っ払った千切がそんなことを言い出したのだ。「運命の相手っていると思う?」と。
突然のワードに俺はぽかんとしてビールジョッキを持ったまま首を傾げてしまったのだが、みんなはそうでもなかったらしく、酒の力なのかいつもより饒舌だった玲王がまずそれに乗っかってきた。「都市伝説だろそれ〜。まあいるとこにはいると思うけど♪」ニヤニヤ笑ってるその表情からして、何か思い当たる節があるのかもしれない。知らんけど。そこに蜂楽が「玲王楽しそーな顔してんじゃん、何隠してんの〜?」と絡んでいって引っ掻き回し、間に挟まれた國神はすげー困ったような顔してチビチビとショットを飲んでいる。そのうち、それらをニコニコ眺めていた氷織がここぞというタイミングで極Sなツッコミをあちこちに入れはじめ、そして最後にお鉢が俺に回ってくる。
——
潔くんは運命の相手って信じる?
俺はその問いかけにやっぱりぽかんとしたまま、半分ぐらいしか残ってないビールジョッキを眺めてううんと首を捻り、ぼやいた。でもベータにはそもそも運命の相手っていないじゃん。
「だから信じるも信じないも、考えたことなかったかも。今までずっと他人事みたいに思ってたっていうか。『運命のつがい』の話自体、御伽話みたいな感じでそもそもピンときてないんだよな。クラスの女の子とかが話してるのを、シンデレラとか白雪姫の話題みたいな感覚で聞いてたっていうか
……
」
嘘無し、全部本音の真っ直ぐ返事だ。でもそんな俺の答えに、何故かみんなはぽかんとしたみたいに固まってしまう。それからワンテンポ遅れて、みんなは思い出したように首を振って、ああそっか潔ってベータだっけ、と生返事をする。その後ご丁寧に「ピッチ上での暴君ぶりを見てるとそんなこと忘れちゃうから」と補足を付けてきたのは千切だった。
「ま、こーしてふにゃふにゃ酒飲んでる潔は確かにベータって言われるとそうって感じするけど」
「千切それどーいう意味?」
「あー、そら試合中はねぇ、潔くんアルファって言われた方がしっくりくるぐらい暴れまわってるから」
「氷織まで何!?」
「潔ー自業自得だぞー、うちの凪のこと散々こき使っておいてお前さぁ」
「まさかライバルリーとかの話してる? 五年は前だぞ?」
「にゃはは、玲王は順当に根に持つタイプだから♪ とはいえ玲王の言いたいこともわかるよー、潔の
かいぶつ
・・・・
ぶりって確かに唯我独尊って感じだもんね。まー監獄の連中なんてみんな我が侭俺様エゴイストではあったんだけど〜
……
」
「今思い出してもあの空間異常にアルファまみれだったしな
……
下手するとプロリーグより比率偏ってたんじゃないか。ベータの俺は正直たまに肩身狭かったよ、今は割り切ったけどさ」
そうしてぎゃーぎゃー好き放題に言いまくる連中の茶々をいい感じにまとめて仕切り、國神が溜息を漏らす。サンキュー國神(闇堕ち終了バージョン)。U
―
20W杯後あたりで闇堕ち期が終わった國神は、紆余曲折あってなんだかんだ頼りになるいいヤツにジョブチェンジした。というか戻った。こういうしょーもない話をいつもいい感じにまとめようとしてくれるところに、俺はこの五年ほどかなり助けられている。
今度俺も何か國神に恩返しをしてやりたいな。まあそれはそれとしてチャンピオンズリーグでは優勝を争う宿敵でもあるので容赦しないけど。来季こそ見てろよ、
バスタード・ミュンヘン
俺ら
の前にクソ跪かせてやるからなマジで。
とにかく。
俺、潔世一はベータだ。中学生の時に受けた一斉
第二
バース
性診断で出たその判定を疑ったことはこれまでの人生で一度もない。アルファまみれの環境にいてもフェロモンみたいなの認識したことないし、オメガのフェロモンってやつもビタイチわからない。
監獄時代
——
新英雄大戦の終了直後に一度誰かオメガのやつが大変な事故を巻き起こしたことがあって、隔離されてたにもかかわらずアルファの連中は軒並み調子悪かったり機嫌最悪だったりしたもんだったけど、俺ときたらどこ吹く風でその日も調子よくカイザーの顔面めがけてボールを蹴りつけていた。アイツは当然のようにご機嫌なウルトラジャンピングシュートでそのボールを蹴り返してきやがったので戦争になった。ホント、それくらい他人事ってことだ、アルファだのオメガだのの話は。
「ロマンのねぇヤツだな潔は」
ワイングラスを揺らして画になる嘆息を漏らしながら玲王がぼやいた。いやべつに俺も、ロマンが一切ないわけじゃないからね。運命とか、そういうのに、憧れる気持ちはあるよ、人並に。かわいい彼女が欲しいとか、愛妻弁当で過ごしたいとか、そのぐらいの漠然とした夢と同列でさ。
でも事実として俺はベータだし、ベータには運命の相手なんていないんだ。
けどその代わり早急につがいを作らないと困るような不調もないし、好きでもない相手に無理矢理主導権を奪われるような怖れもない。それにベータだからっていい出会いがないわけじゃないってのを俺は仲睦まじい両親を見て知っている。
運命なんて、なくたって、生きていくには困らない。全世界の九割がたを占めるベータの総意は、きっとコレだと思う。
「でも好きなヤツが万が一アルファだったりすると大変らしいよベータって。もっと相性いいオメガ出てきたら取られちゃうみたいな? 親が見てた昼ドラがそんな話だったな〜」
「それは昼ドラだからだろ
……
」
「いや〜実際フェロモンノックアウトってシャレになんねーからなあ、アルファが故意にオメガにふっかけるのも、オメガがアルファに無理矢理噛ませようとやるやつも、等しく犯罪だと俺は思ってるよ。何故か社交の場になるほどそういう下世話な話が出てくるんだよな」
「あ〜、でもそっか、金持ちってアルファ多いし。本能でノックアウトして夢中にさせちゃったり、一発事故っただけでも慰謝料とかふんだくれればボロ儲け〜みたいな」
「そーいう感じ。逆もしかりだけど
……
とにかくお前らも十分気をつけろよ、みんなそこそこ顔売れてきてんだからさ」
なんて、俺のどーでもいい考え事なんて、みんなが慮ることはなく。
友人たちは素知らぬ調子で更なるお喋りにやかましく興じ、ああでもないこうでもないと意味の無い仮定論について盛り上がっている。
俺は溜息を吐き、天井を仰いだ。
思春期のバカなガキばっか集まってたうえにマウンティング気質の奴らも多かった
青い監獄
ブルーロック
内は例外として
——
世の中他人の
第二
バース
性についてどうこう語るのは下品だとされており、自分からさっさと白状しがちなベータ以外は、己の
第二
バース
性をあまり開示したがらない。
もちろんベータでもおおっぴらにしないヤツはいっぱいいる。そのうえ昨今は諸々の制度が整っており、ドーピング検査に引っかからず安全に使えるタイプの抑制剤も充実しているから、俺たちみたいなアスリートであろうと、意図的にフェロモンを放出しない限り
第二
バース
性が露見することはそうない、そんな世の中になってきている。
だからこの飲み仲間のうち何人がアルファで、オメガで、或いはベータなのかはわからないけれど(玲王も千切も氷織も
第二
バース
性でマウント取るタイプじゃなかったから聞いたことないし、蜂楽は謎にはぐらかしてくるからマジで知らない)。
……
これだけ盛り上がるってことは、きっと何人かは「運命の相手」が現れるかもしれない人間なんだろう。
なんだか遠い世界の出来事みたいだ。
ジョッキグラスの残りを飲み干しながら漠然とそう思う。無関係な外の世界の物語。今日も明日も明後日も、潔世一の日常は特に変わることなく、淡々と進んでいくだけ。白馬の王子様なんてもちろん夢見たことはないけれど、硝子の靴が似合うお姫様と巡り逢うこともないぞと宣言されるのは物寂しい。
「は〜あ、フェロモンがどんなもんかぐらい、俺も一回は嗅いでみたかったな〜」
そんなことを考えていると無性に寂しくなってしまって、テーブルに突っ伏して小声でぼやいた。
思えばこのとき既に、俺も相当酔っていたのかもしれない。あとになって、今更のようにそう思う。自分で言うのもなんだけど、俺ってあんまし、そーいうこと言うキャラじゃないし。
だからだろうか。テーブルに頭を乗っけたまま顔を上げると、その先で、友人達が奇妙な顔をしているのが見えた。特に玲王なんて、「お前何言ってんの?」なんて言わんばかりの表情をして何か言おうと口を開き掛け、でも
——
ひとりでに納得して何かの言葉を喉の奥へ仕舞い込んでしまう。
「お前、本当にベータなんだなぁ」
その代わり、玲王はやけに感慨深そうな声を漏らして苦笑すると、ぽつぽつと言葉を選んで俺の疑問に答えようとしてくれた。
「なんつーか簡単に言うとさ、すげーいい匂いがして、しかもそれがすごく濃くて無視できない
……
みたいな感じかな」
小首を捻りながら呟く玲王の眼差しは何故か妙に真面目な調子だった。
「そもそも
第二
バース
性に関わらず、遺伝子レベルで相性のいい相手からはいい匂いがするって言われてるんだけど。アルファとオメガの場合はそれが特に顕著なんだ、一説には、その人の一番好きな匂いがするって話もあるな」
「てことはもし俺に運命の相手がいるとしたらきんつばの匂いがするってこと?」
「お前どんだけきんつば好きよ。まーとにかく、もっと嗅いでたい、もっと欲しい、ってなるような匂いなんだってさ。匂いをどう感じるか自体には、人によって個人差あるらしいんだけど」
ただ統計的には、花の匂いみたいに感じる人が多いんだと。
そうして玲王がそう講釈を占めると、そのあたりでちょうど良いということになったのか、飲みの話題は自然と、
第二
バース
性のアレソレから別のものに移っていった。
やれ、今季の成績はどうだったとか、来季はどうだとか、最近お気に入りのスパイクはどこのメーカーだとか、ハマってる食い物は何かとか。そういった他愛の無い雑談に流され、『運命の相手』とかいう極めてファジーな題目も、どうでもいい雑事として俺の頭の中からスコンと消えていく。
飲み会は大いに盛り上がり、俺は気が大きくなって六杯も飲み、日付変更が見えてきた頃になってようやくお開きになった。多少ふらつく脚でなんとか身体を支え、酒場を後にする。キッチリ飲む量をセーブしていたらしくほどほどにしか酔っていない玲王が、遠征組がホテルに帰るためのタクシーをさっさと手配しているのを横目に見ながら、まあ俺は歩いて帰れないでもない距離に自宅があるしと思いじゃーなと手を振って、踵を返す。
「なぁ、そういや潔くん、今日何の香水使ってたん?」
その別れ際、何故か氷織がそんなことを訊いてきた。
それをいささかばかり不思議に思いながらも、気持ち良く酔っ払ってぽやぽやとしているせいで、まあいいかと流してしまう。「何にも使ってない! じゃあな!」そうして俺はご機嫌で帰路につき、鼻歌混じりに、寝静まって人気のないミュンヘンの路地を歩き始める。
まさかその後自分があんなことになるとは
——
つゆほども思わずに。
「ぐ
……
う
……
はぁッ
……
」
顔なじみ連中と別れて数分後、何かが鼻腔を掠めたように思った次の瞬間、俺はがくりと身体中の力が抜け落ちるような感覚と共に地べたへ倒れ伏していた。何かに押されたとか、殴られたとか、そういうわけじゃない。ただ突然、全身が燃えるように熱くなって、その場に立っていられないほどの気怠さに見舞われたのだ。
飲み過ぎたか? 一瞬そんな考えが脳裏を過ったけど、今自分が見舞われているこの症状は、過去に酒でやらかしたどんな教訓の記憶とも違うように思えた。吐き気もないし、胃がムカムカするようなこともない。ただ、漫然と、全身が重く、指先に至るまでが炎になってしまったかのように熱くて、首の裏が妙にズキズキして、
——
いい匂いがする。
「なんだこれ
……
」
俺は覚束ない意識の中懸命に身じろぎをし、うつ伏せの態勢のままゆっくりと顔を上げ、あたりを見回した。
繁華街から離れた誰もいない薄暗い路地、その一帯が、むせ返るような匂い(・・)に包まれている。不思議と不快感はないものの、その香りは鼻が馬鹿になりそうなほど濃密で
——
だから見渡せば何か、その匂いの原因になるものがわかるのではないかと考えたのである。けれどそれらしきオブジェクトは見当たらない。
だったらこの匂いは、いったいどこから。
切羽詰まる頭でそんな堂々巡りの疑問を抱え込んだところで
——
ザッ、と潜める素振りもない足音を立てて誰かが俺の前へと姿を現す。
「
——
Was machst du(何をしている)?」
そのいけすかないツラを見たとき、あぁこの匂いは薔薇の花のそれだったのか、と、何故か奇妙に納得してしまった。
「Willst du an so einem Ort hinfschmutzig machen(こんな場所でぶっ倒れやがって、身ぐるみでも剥がれたいのか)?」
さっきまで母国語で喋っていたうえ、体調不良で酔っ払いだ。投げ掛けられた言葉の意味を理解するのに一瞬手間取って、ワンテンポ遅れてから舌打ちが漏れる。「
……
どー考えても、は、不慮の事故で倒れてんだろーが、
……
もっと優しくしろ、クソカイザー
……
」当てつけのように日本語で悪口をかましてから、よろよろと右腕を伸ばす。
なんでこんなトコにコイツがいるんだよ、そう思わないでもなかったけど。この際コイツでもいい、ここから運び出してくれ、という切実な気持ちの方がずっと強い。
「
……
Alles, was Sie tun können, um (なんでもいいから助けてくれ)
……
」
やっとのことで再び口を開き、なんとかドイツ語をひねり出して、俺は致し方なく目の前の気が利かねぇクソ野郎にこう頼んだ。
するとクソ野郎は二度三度瞬きをし、ばかでかい溜息を吐くと、ゆっくりと俺の身体を抱き上げ、腰に右手を、首筋に左手を優しく添えながら、こう耳打ちしてくる。
「Es ist leicht, alles zu sagen,(なんでもいいなんてそう簡単に言うんじゃねーよアホ世一)」
……
なんかめちゃくちゃ悪口言い返されてるうえに、その態勢、お姫様抱っこってやつじゃね? 肩に抱えるとかでいいんだよなんなのお前?
元気な時なら間違いなくそう言ってやったんだけど、生憎その時の俺には、もはや悪態ひとつつく余力も残っておらず。
こうして俺は、何故か路地裏で倒れたうえに偶然通りがかったカイザーにお姫様抱っこで助けられるという屈辱的なシチュエーションに甘んじながら
——
当然のごとく、運ばれている途中で意識を失ったのだった。
◇ ◇ ◇
「う〜ん、フェロモンバランスが狂ってビッチングの兆候が出てますね。身近に近しいアルファの方はいますか?」
翌日。連れ帰られたらしいカイザーの自宅リビングで目を醒まし、朝食もそこそこにヤツの運転で病院にやってきた俺は、曖昧な証言を繰り返したせいで複数の科をたらい回しにされた末、やっと辿り着いたバース科の医者からそんな意味不明な宣告を受けるに至っていた。
「え、えーと先生、びっちんぐ、って、なんですか? 俺まだ専門用語とかだとときどきわかんない言葉があって
……
」
「日本語でも確か発音同じだよ。要するに何らかの要因で、生来の
第二
バース
性が別のそれに転換する症状のことです。君の場合、数値的にオメガ化の兆候が出てるので、アルファの影響を受けている可能性が高いと考えられるわけですね」
「てん、かん
……
? ベータが
……
オメガに
……
?」
やばい。単語自体はいちおう理解できてるはずなのに、全然話が頭に入ってこない。
つーかこれ日本語で説明されても同じ反応になってたと思う。その証拠に、医者は全然ちっともわかっちゃいませんという反応の俺を見ても、「まあそうだよね〜」みたいな顔をして頷くばかりだ。
「かなり珍しい症例だからね、上手く受け止められないのはまあ仕方ないかな。とりあえず、現状君が置かれている状況を簡単に説明するから良く聞いてね、分からないことがあったら最後にまとめて質問してください」
そうして医者はうんうんと頷くと、人差し指をピンと立てて、懇切丁寧に俺の身に降りかかっている災害について説明をしてくれた。
——
まず、
第二
バース
性は基本的に生まれついてのものとされているが、ごくまれに、外部要因で変化を起こすことがある。これが
第二性転換
ビッチング
。そしてこのビッチングを誘発する外部要因というのが、平たく言うと「他者のフェロモン」なのだという。
オメガのフェロモンは他者をアルファに転換させ、その逆にアルファのフェロモンは他者をオメガに転換させる。ただし、並大抵のアルファやオメガでは、ビッチング症状を引き起こすことはできない。彼らの中でもとりわけ強力なフェロモンを持つ、「オメガの中のオメガ」或いは「アルファの中のアルファ」が強力な志向性を持って特定の相手に働きかけた場合のみ、ビッチング症状の誘発に至る。
そしてこの症状のもっともタチが悪い部分は、ビッチングさせようとしている方も必ずしも意図してそれをやっているとは限らないことがある
——
という点であった。意識的にせよ無意識的にせよ、相手を支配したい、或いは縛り付けたいと強く思っている強力なアルファないしはオメガがいれば、ビッチングは進行しうるというのだ。
この現象は世界で年にひとりかふたり発見されるぐらいのもので、一般にはあまり知られていないしまあまあレアケースではあるのだが、症例自体は揃っており、メカニズムも大まかに解明されている。それらの知見からいって、潔世一は超強力なアルファに粘着されてビッチング症状を引き起こしはじめており、このまま放っておくと徐々にオメガに転換してしまうと思われる。
「で、この転換症状を堰き止める唯一にして根本的な解決が、君をビッチングさせようとしてるアルファと接触しないこと、なんだよね。まだそんなに変化も進んでないから、影響下から逃れられれば、ほぼ通常のベータと変わりない状態を維持出来ると思うよ。そういうわけで、さっきの質問に戻るわけです
——
誰か身近に親しいアルファの人はいますか?」
「わ、わかりません
……
」
医者の説明を一通り聞き終え、俺は力なく首を横へ振った。わからん。マジで。医者は微妙そうな顔で「まあそうだよねぇ、みんなおおっぴらに第二性を触れ回ったりしない世の中になっちゃったもんねぇ、昔ならすぐ特定できたんだけどねぇ」となにやら恐ろしいことを言っていたが、そういう問題ではない。単純に俺の身の回りにはアルファが多すぎるのだ。
「その、俺の所属チームだけかどうかはわかんないんですけど、たぶん周り、アルファまみれで
……
」
それで俺が項垂れて首を振ると、医者はそこでようやく得心したように「ああ
……
」と頷いた。
「あー、そう、そっかあ、潔選手バスタードだもんねぇ。そりゃそうか
……
一応投薬でビッチングを押さえるような手法もここ十年で確立されつつあるんだけど、これちょっとアレね、抑制剤とかと違ってホルモン系のお薬になっちゃうから、」
「思いっきりドーピング検査に引っかかりますねホルモン系は」
「そうなんだよねぇ。かといってその職業である限りアルファからは逃げられないだろうしなぁ」
まあ、君をビッチングさせようとしてる特定のアルファと距離を置ければいいわけだから、別のチームに移籍するとかで強引に解決できる可能性もあるけど、そんな簡単な話じゃないだろうしね。
医者が困り果てたような調子で唸る。もうオフも後半戦に入っており今更電撃移籍を打診出来るタイミングでもないし、そもそもまだ犯人がチームメイトだと決まったわけでもない状態でそんな行動を起こすのは、なんというか早計である。
それに粘着といっても、疑いのアルファが俺にしているのは、ベータ
——
つまりこの世の殆どの人間にはおおよそ知覚出来ないフェロモンを浴びせかけるだけの行為、なんだそうだ。
その程度なら、昨日会った連中の中にクロがいる可能性も否めないし、なんなら、週三で買いに行くお気に入りのパン屋の店主や大家さんにそれをやられていたとしてもこちらには気付く手段はない。
……
まぁ昨日の連中には複数人アルファかオメガがいそうだから、犯人が混じってる可能性は薄いかもだけど。
「とにかく、可能な限りアルファとの接触を減らしていくしかないね。流石に試合中や練習中に意図してフェロモン垂れ流すような人はいないと思うから
——
人が多い状況でそれやると、一発でフェロモンクライシス起こして最悪独房行きだからね
——
警戒すべきはやっぱり私生活だねぇ」
「う〜ん、もしかして選手寮ってまずいですか? 多分確実に何人かのアルファが住んでるだろうなって感じなんですけど」
「万全を期すなら出来れば引っ越した方がいいかもね。もちろん引っ越し先にアルファがいないとは限らないけど、少なくとも今君をビッチングさせようとしている人はそこにいないはずだし」
一度ビッチング兆候出しちゃうと、ピッチングさせようとしてる特定個人以外のアルファからも、影響受けやすくなっちゃうからね。医者が不穏なことを口走る。だからこれ以上症状を進行させたくない場合は、できる範囲でいいから原因と思われる相手との関わりを断つしかないです。また何か気になることがあればすぐ再診に来て下さい。以上。それらの言葉に俺は引き気味で頷くしかなかった。そっかあ、以上かぁ
……
。
「は、はぁ
……
わかりました、何かあったらまたよろしくお願いします」
結局、医者にはそれを言われたっきりで、俺はこれからどうすればいいのかもよくわからないまま診察室を後にするハメになった。
とぼとぼと院内を歩き、人でごった返している待合室まで戻ってくる。そして溜め息混じりに立ち止まり、あたりを見回すと、端っこの席に
——
目当ての、座ってペーパーバックを読んでいる無愛想な男の姿が目につく。
ふっと息を緩め、パタパタとそちらへ駆け寄った。そして読書家の肩にそっと手を置くと、気安い調子で、そいつに耳打ちをする。
「なあカイザー、このあと時間あるよな、ちょっと相談乗ってくんね? もー俺どうしたらいいかわかんないんだけど!」
するとそいつ
——
グラサンとキャップをして申し訳程度に変装をしたミヒャエル・カイザーは、フンと息を吐いてペーパーバックを閉じ、とりあえず飯でも食いにいくぞ、と、顎をしゃくった。
「
——
で、結果世一くんは万事休すの手詰まりに陥ったと。クソ哀れ」
「なに人の不幸でニヤついてんだテメー」
「いや? これは単に今日のレバーゲーゼは天文学的に美味いなと思って日常のささやかな幸福に感謝しているときの表情にすぎない」
「絶対嘘! 俺の不幸で蜜啜ってるだけだろこの性悪皇帝!」
行きつけの大衆食堂の、これまたお決まりの窓際のボックス席の片隅で、荒ぶる手つきでサラダボウルにフォークを突き刺す。すると対面のカイザーが眉をしかめて「Unhöflichkeit(お下品)」とムカつく感じで罵ってきた。うるせーな、ただでさえ混乱してるところに酒の肴みたいな扱い受けてキレずにいられるかこの野郎。お前だって俺と同じ状況になったら絶対キレるからな。賭けてもいい、えーと、そうだな、ネスの心労とかを。
「つーかお前はまず俺が付き合ってやってることにクソ感謝しろよ。俺の貴重な休日の午前が既に世一の世話で潰れてるんだが、それについて何か言うことは」
「だからそれについてはここのメシ俺が奢るからって言ってんじゃん
……
。でもまあ言われてみれば確かに、カイザーがここまで親身になってくれんの意外かも。どしたの? 天変地異の前触れ?」
「お前の頭には脳味噌の代わりにアンコでも詰まってんのか?」
「いやだってカイザーが俺のこと心配してくれるってなんか不思議な感じで
…………
」
「お前がこっちに来てからは俺たちそれなりに友好的にやってなかったか世一ぃ」
「あー言われてみればそうかも。でもお前初対面の印象がマジで最悪だったんだもん、もーあれこの先一生引き摺るから今からでも後悔しとけ」
だって言うに事欠いてコッチのこと滅茶苦茶バカにしながら「
憐れな道化
クソピエロ
」だぜ。その後も無限に煽って煽って煽り散らかしてくるし。あの態度を思い出すと、今それなりに仲良くやってるのがむしろ嘘みたいだ。なんかのバグか?
……
まあとはいえ、初対面の時はコイツの態度が終わり散らかしていたのもあるけど、俺の実力も、どうしようもなく低かったしな。
思えば一矢報いることに成功した
新英雄大戦
ネオ・エゴイストリーグ
イングランド戦、実力が拮抗してきたイタリア戦と、コッチが成果を示すごとにガチで俺のことをライバル視するようになっていってたし、カイザーって一度認めてしまえばわりと真っ当に向き合ってくれるタイプなのかもしれない(単純に意趣返しを成功させたあの時心を入れ替えたのかもしれないけど)。とにかく、今じゃ名実共にバスタード・ミュンヘンの双剣やってるわけだ。あの頃からはちょっと考えられないけど、俺たちも大人になったってコトなのかも。
「ともかく、俺は本気で困ってんの。これ以上茶化すんならもーここで相談終わり、介抱して病院まで連れてってくれたのには感謝してるけど、そもそもお前を巻き込んじゃったのは事故みたいなもんだしさ」
嫌々付き合わせるほどのことでもないし、無理に巻き込むようなことでもない。そもそも
第二
バース
性に纏わる話ってだけでデリケートなのに、ベータからオメガになるなんて話、ちょっと扱いを間違えばスキャンダルの火種にもなりかねない。不本意ながらコイツの口の堅さは信頼してるのでなし崩し的に話してしまったけど(だって助けてもらっておきながら嘘ついて誤魔化すのってなんか不誠実だろ!)、これで最低限の義理は果たしただろう。
「つーか、なんで昨日あそこ通ったの?」
てかそもそも、その最低限の義理が発生しちゃったのはなんでだったんだっけ?
それが気になって今更のようにそのことを問うと、カイザーはクソほど重たい溜息を当てつけがましく吐き、首を振る。
「近くのクラブでネスと飲んでたんだよ。それで気分良く帰るかと歩いてたら、たまたま道ばたにクソ見覚えのある日本人が転がってるときた」
「無視すりゃ良かったのに」
「チームメイトが死体になって発見されたという報せをもし翌日聞いたとして、無心で飯が食えるほど俺だって人でなしじゃない」
それから続けられたカイザーの言葉は、淡々としていたけれど、実感がこもっていて。
たぶん嘘じゃなくて本心なんだろうなってことが、否応なく伝わってきた。
「
……
ふーん、カイザーも俺が死んだら飯が喉通らなくなるんだ」
「他人と呼ぶのは流石にもう白々しいだろう、お前月イチ以上は俺んち来てテレビ見てるのご存じ?」
「だってカイザーんちのテレビでっかいんだもん! まーそうだな、俺たち、一応友達ぐらいの仲にはなったかもね。今日とかもそうだけど意外と親切だしお前」
「世一がウロチョロしたせいでチーム全体の評判が落ちると巡り巡って俺の不利益に繋がるからな」
「なにそれ、新手のツンデレ?」
「なんだその言葉?
……
だいたい、世一がいなくなるとチームの攻撃速度が半分以下に落ちるだろーが。クソ忌々しいが俺は今お前がいる前提でプレーを組み立ててんだよ、勝手にくたばられちゃ困る」
一度や二度俺の人生に立ちはだかった程度で満足すんなよ世一くん? カイザーがふっと唇の端を釣り上げ、不敵に笑んで俺の額に指を伸ばしてくる。あっと思う間もなくデコピンをかまされ、コイツやりやがったな! と腕を伸ばして反撃のデコピンカウンターをかまそうとしたところで、パッとカイザーの手が俺の右手のひらを握りとった。
そうしてヤツはもう片方の指で俺の頬を撫でると、急にひどく真面目な顔をして
——
なんだか妙に緊張してそうな面持ちで唇を開く。
「世一。住む場所がないなら俺の家に来い」
カイザーが言った。
俺は言葉の意味をはかりかねてしまい、ぽかんと口を開けたまま固まってしまった。
「
……
え?」
「だから、俺の家に来い。アルファを避けるために選手寮から退避したいんだろう? しょうがないから可哀想な世一くんに俺の家の屋根を貸してやろうって言ってるんだよ。不本意ながら世一にとってはそこそこ慣れた場所だろうし、俺はあまり広めたくない類のデリケートな事情をもう知ってしまっていて、そのうえなんとベータだ。何かと都合がいいだろうが」
頬を右手で支えたまま、ぺらぺらとカイザーが喋くる。
え、何? コイツ初対面のとき俺にやってきたこと全部忘れちゃったのかな? えらくめでたい脳味噌してるな。
——
瞬間そんな考えが脳裏を過ったけど、いやでも言われてみると、コイツの言うことは理解できない
……
でもない。
俺の記憶が確かなら、カイザーは監獄内でオメガが暴走した例の事件の日も、まったく影響を受けずに俺とボールで殺りあっていたはずだ(ネスはへばってたけどコイツはピンピンしてたので余計によく覚えている)。少なくともアルファだったらああはいかない。その意味でコイツは安全な相手、と言えるはず。
オメガへのビッチングなんておおっぴらにしたい話じゃないから事情を知っている人間は少ない方がいいのも、カイザーの言う通り。それにカイザーの家は一軒家で、隣家ともほどよく距離が離れていて、ご近所付き合いもあまりない。今からどーにかこーにか引っ越し先を見繕ってあれこれ気を回す必要がないと考えると、色々な意味で気が楽なのも事実。
「そーだな、それもいいかも。平和に楽しくつつがなくサッカーを続けるための、一時的な同居契約ってわけだ」
悪くない。それで顔を上げてカイザーの目を覗き込むと、ヤツは何故かホッとしたように頬を緩めて息を吐く。
「五年ぶりの悪魔の契約ってか?」
それから飛び出してきた昔懐かしい単語に、俺はぷっと笑って首を横へ振った。
「お前あの時のことめちゃくちゃ引きずってるよな
……
ってかどっちかというと天使の契約じゃね? ミヒャエルって四大天使の名前なんだろ、前にネスからそう聞いたよーな」
「うるせーなショックだったんだよ、
……
まあなんでもいい。ならそれで決まりだ、食べ終わったらさっさと出るぞ、世一」
俺につられたかのようにカイザーも笑い、コーヒーカップを手に取る。なんだよ、用事? そんな午後急ぐことあったっけ? コーヒー飲んでるだけでも様になるカイザーの顔を眺めながら他人事みたいに訊ねる。
するとカイザーはコーヒーをソーサーに戻し、仰々しく肩を竦めてやれやれと息を吐いて、
「喜べ世一、今日という貴重な日の午後をお前の引っ越し準備に使ってやる。クソ拝んで今日の晩飯はお前が作れ、あの親子丼ってやつがまた食べたい」
そしてもの凄いドヤ顔でスーパー偉そうにそんなことを宣言された。
つーか、なんかすっげえ恩着せがましいこと言ってるけど、それ単にお前が日本食を食いたいってだけじゃね?
「まあいいや、親子丼は割と得意だし。ミュンヘンのやたらめったら高い日本食料理店代を浮かせる手伝いぐらいはしてやるよ、衣食住のお礼にさ」
残っていたサラダをボウルからかっこみ、うんとうなずく。フォークを置いて手を差し出すと、カイザーはやけに素直にその手を取り、ぎゅうぎゅうと握りしめながら頷いた。
指先がなんだかほんのちょっとだけ熱い、ような気がする。
だけどよくわからないうちにカイザーの手は離れていってしまって、その疑問の答えはどこにもなくなってしまう。
俺はゆっくりと首を振り、気を取り直すと、この五年ですっかり見慣れた相手になってしまった金髪碧眼の暴君を仰ぎ見た。
「とりあえず
——
落ち着くまで、これからよろしくな、カイザー」
「ああ、気が済むまでクソゆっくりしてけ、世一」
俺がはにかむと、やつもふふんと笑う。そういう笑い方をする時は、じつはあんまり裏がなくて本当に気分がいいだけなのだということを、俺はもう知っている。性格終わっててひねくれて見える割に、意外と根は素直で真面目なやつらしいな、ってことも。
——
とにかくそういうわけで、俺、潔世一は、ミヒャエル・カイザーと一緒に住むことになった。
家賃は言い値(選手寮と同額)で、食費は折半、家事分担も半々で。驚くほどスムーズに、一切揉めることなく、さっさと粗方の必需品をまとめ終えるとカイザーの車のトランクに放り込み、その日の夜にはあいつの自宅に転がり込むことに成功したのである。
後から思えば怖いほど都合良く、トントン拍子で。こうして俺とカイザーの奇妙な同居生活は
——
偶然の結果から幕を開けたのだった。
02 薔薇と蜂蜜とチョコレート
ドイツに渡ってきてもう五年、従って、ミヒャエル・カイザーとも、それなりの付き合いになる。
出会ったばかりの頃は、誰に聞いても疑う余地がないくらい最低最悪の関係だったけど
——
新英雄大戦フランス戦で共闘してから、なんとなくお互いに対する意識が変わった。向こうは俺の実力を認めて態度を改めてきたし、俺としては、やり返してスッキリしたので、向こうが気持ちを入れ替えるっていうんなら関係を改めてもいいかなーと思ったのだ。あの試合の中で、話の次元が同じだということはよく分かっていた。だったらお互い真っ当にやり合う分には、気も合うのかも〜みたいになったわけ。
青い監獄での、海外組帰国までの僅かな日々の中でもそうだったのだから
——
色々あって改めてプロとして一緒にやるようになってからは、言うまでもなく。こっちに来てからは何かとカイザーとつるんだり、ときには容赦なく世話になったりしつつ、この土地での暮らしを続けてきた。
実際、土地に根ざした暮らし方やクラブ内での振る舞い方、口と歳だけはデカくてムカつく冴えない先輩の穏便な潰し方、オーナーに怒られず我を通す方法、ノアにぎゃふんと言わせる作戦などなどなど、カイザーから学ぶべきことは意外にも多かった。そういうわけで、ろくでもないドイツ語の語彙の六割はカイザーから吸収し(残り四割はその他チームメイトからだ)、クラブの近所にある美味しいパン屋も、ランチにオススメの店ベストファイブも、ミュンヘンで人混みに揉まれず休日を過ごす方法も、なんだかんだ全部、カイザーに教えてもらったのである。
意外とあいつは生真面目なやつだったから
——
よほど不機嫌な時でなければ、困っているという顔で聞けば、大抵のことには答えてくれた。サッカーのプレーに関する悪巧みともなれば、向こうから話を持ちかけてくることすらあった。俺たちじゃないと出来ない連携も多かったしな。そうするとどうなるかというと、気がつけば俺にとってドイツで一番気安い相手はカイザーになり(次点でネス。ネスには「世一神経図太すぎますよね」とジト目をされたがあいつもあいつで親切なやつなので結局頼れば良くしてくれるのだ)、いつしか月イチ以上のペースでカイザーの家の巨大テレビ前に座り込み、カイザー秘蔵の酒とつまみを片手に試合の分析をするのが定例化するまでに至った。
とにかく、この五年間で俺とカイザーはほんのちょっとだけ仲良くなった。プロになって
青い監獄
ブルーロック
内とは従うべき哲学がちょっと変わり、必要とあらば気軽に手を結ぶようになった今では、まあまあ友達ぐらいの距離に落ち着いていると思う。
そんなカイザーとこれからハウスメイトになる。
わけのわからないビッチング症状だとか、そもそも俺コイツと同居生活してメンタルブッ壊れないですむのかという危惧とか、細かい不安は色々あるものの、この一見奇妙な生活に、なんだかワクワクしている自分がいるのも、また確かだった。
「部屋はここ使え、ハウスキーパーに任せてるから平気だとは思うが多少埃かぶってるかもしれないからそこは気をつけろ」
がらんとした空き部屋に通され、必要なモノがあれば買うから言え、とぶっきらぼうに言われる。棚がいくつかと机と椅子以外何もない部屋は、ドイツに渡ってきてはじめて一人暮らしを始めた頃の、昔懐かしい日を思い起こさせた。
なるほど、ここが今日から俺の城になるってわけね。
なかなかいいじゃないですか
……
なんて思ったところで、ふと目下一番の問題に気がついて振り返る。
「ベッドなくね? 俺今日からどこで寝泊まりすんの?」
そういえば昨日の夜もリビングのソファで寝かされてたな、コイツ友達いないから客間に布団とか置いてなかったのか、と勝手に納得しながら訊ねるとカイザーが目を泳がせた。
あ、これ、ちゃんとそのへん考えてなかったな。
まあ急な話だったししょうがないはしょうがないけど、毎日ソファで寝ろって言われるのは流石に困るぞ。ベッドを今から買うにしても、すぐには届かないだろうし。俺もいちおう身体が資本の職業なわけで
……
。
そう思っていると、カイザーが泳がせた目をどうにか俺の方に戻してきてこう口走る。
「
……
俺のベッド」
「は?」
「俺のベッドが、その、キングサイズだから。
……
新しいベッド買うまではそこかソファで寝ろ」
お前それ二択みたいな言い方してるけど実質一択だよね。
まあいいんだけど、俺は修学旅行の相部屋とかでも割とすぐ爆睡出来るタイプだし。
「しょーがないなー、カイザーがそれでいいんなら、しばらくお邪魔させてもらうよ。寝相悪くて蹴飛ばすとかはナシな」
軽く頷いて荷物を床に置くと、言い出しっぺのはずのカイザーが、「え」とか間抜けな声を漏らしているのが聞こえたような気がしたけど、まあ些細なことなので気にせず荷ほどきを進めた。
元の家から持ち込んだのは貴重品と着替えぐらいで、家財道具はほとんど寮室のほうに置いてきた。何かあって戻ることもあるかもしれないし、カイザーの家にはあらゆる便利家電が揃っているのを知っていたからでもある。何を隠そうこの家の食洗機とルンバは俺が電気屋で見繕って買わせたものだ。ちなみに掃除機と洗濯機、そして乾燥機はネスが選んだやつらしい。ミヒャエル・カイザーというやつは物質的なものへの執着が極端に薄く、哲学書と最低限必要なもの以外は、人任せにする悪癖があるのだった。
ガラガラの収納家具に数少ない私物をブチ込んで整頓を終わらせると、バタバタとキッチンへ向かう。勝手知ったる足取りで所定位置にしまってあるエプロンを手に取り、雑に身に付けていると、帰宅してすぐにシャワーを浴びる習性がある見た目通りに綺麗好きのカイザーが、湯上がりで戻ってくるところと鉢合わせした。
「夕飯もう作る?」
訊ねるとほかほか湯気まみれの金髪モフモフ大型犬がこくりと頷く。俺は上機嫌で冷蔵庫を開け、帰りにスーパーで買い足した材料を手に取ると、さっそく夕飯の準備に取りかかった。
男の一人暮らしとはいえ、五年も自炊してれば多少の料理は出来るようになる。異国の地で故郷の料理を食べたいと思ったら尚更己が精進するしかないわけで、二十一歳の潔世一は、己の料理の腕を、まあ人に振る舞える程度のものだとは自負していた。手際良く食材を切り、火を通し、調味料を振りかける。買ってきたばかりの醤油とめんつゆで味を付ける。そうして十数分ほど火元で格闘していると、軽く髪を乾かしたらしい
——
しかしどうもまだ髪がべちょっと湿っているのでマジで洗われたばっかの大型犬っぽさが拭えない
——
カイザーがとてとてと寄ってきて、後ろから、ふっと指を伸ばしてくる。
「よいち、何か手伝うことあるか」
そうして殊勝なことを口にしながらつまみ食いしようとしてきた指先をパッと手のひらで払いのけると、俺はキッパリと首を横へ振った。
「ない。さっさと食卓に座ってフォークでも握り締めてクソソワソワして待ってろ」
「家主に対してもっとマシな口の利き方は出来ないのか世一ぃ?」
「俺は完成する前の料理をつまみ食いされるのが嫌いなんだよ
……
」
「アー、そうか、それは
……
悪い。もうつまみ食いはしない、代わりに、横で見ててもいいか」
しっしとつまみ食い犯を追い払う仕草をすると、カイザーは途端にしゅんとして、菜箸を持っている俺の仕事を邪魔しないように、手も出さずにじっとこっちを眺めてくるばかりになった。
過去にも何回かカイザーにご飯を作ってあげたことはあるけど、こんなにまじまじと近くで見つめられたのは初めてだ。今回から急にやり方を変えたってこともないんだけど、どうしたんだろう。不思議に思って横目でチラリと見遣ると、やたらソワソワしながら、フライパンの中身をかき混ぜる俺を凝視している姿が目に入る。
え、なんか、今日のカイザー無性に可愛いんだけどなにこれ。
動物園で大型のクマがのっそり起き上がって来て餌を食べている時みたいな可愛げがあるんだけどマジでなんで?
答えの出ない疑問に首を傾げながらも予め溶いてあった卵を流し入れていると、カイザーがその手つきをじーっと眺めてきた挙げ句、どこか拗ねたように唇をすぼめてこう呟く。
「
……
明日からは俺も一緒に作る」
ぼそりと零された声音は、目の前にいるのが俺よりタッパのある大男の声変わり後のモノだという事実を差し引いても、やたらめったらに可愛くて、不覚にもキュンとしてしまい、俺は菜箸の手を止めあんぐりと口を開けたまま固まってしまった。
どーしたんだよお前、いったいぜんたいどーいう風の吹き回しだ? 風邪引いて熱でも出た?
「なに? カイザー頭でもおかしくなった?」
などと思っていると口から頭の中の思考を数段すっ飛ばして煮詰めたような暴言が反射で出てきて、やっちまったなーと思う。けれどカイザーの方は今更俺の瞬発レスバ力如きでは特に驚くこともなかったらしく、「んなわけねーだろ」と軽く鼻で笑い、こう言うばかりだ。
「曲がりなりにもこれから一緒に暮らそうって言うんだ、歩み寄りってヤツだよアホの世一くん」
告げられた言葉は、言い方こそからかうふうであとついでに格好つけぽくはあったものの、その眼差しはやっぱり、俺を同居に誘った時と同じように真剣で、真面目で、真っ直ぐで。
「
……
そーだな、俺たち一緒に暮らすんだもんなぁ。お互いを理解し尊重し合わなきゃだよな、
……
ふは、いつかネットで書かれてたコメントのパクリだけど」
だからそんなに悪い気もしなくてさ、ぱんと肩を叩いて頷いてやると、「何ソレ」とか言ってカイザーが毒気のない笑みを浮かべた。
なんだかんだ、サッカーのコトに限れば、言葉要らずの以心伝心になって長いし。そのうえお互いに歩み寄るつもりまであるんなら、まあ、大体のことはきっとどうにかなるだろう。
監獄での大部屋生活を除けばはじめての共同生活で多少は心配してたんだけど、この調子なら意外と余裕かもなー。そんな直感を胸に俺は新生活をスタートさせ、そして予感通り、日々はつつがなく過ぎていった。
朝は、窓からの木漏れ日を浴びて起き出すカイザーの身じろぎでなんとなく目を醒まし、一緒に着替えてロードワーク。それが済んだら各々適当に朝食の準備をして、腹ごなしをしてからカイザーの車で出掛ける。クラブで練習を終えたら、その日の気分でマーケットや公園に行ったりして余暇を過ごし、夜は、一緒にご飯を作り、食べ、あとは試合の分析とか映画鑑賞とかをして布団に入る。
ぶっちゃけたところ、月イチでの遊びが、そのまま拡張されたみたいな感じだ。言うなれば毎日お泊まり会開いてるぐらいの感覚。
とにかくそのぐらいカイザーとの生活は過ごしやすくて、最高だった。あいつが日本食にハマった関係で食の好みもなんだか似てきてたし、素で距離感近いぶんスポンと孤独感を埋めてくれるし、それでいてパーソナルスペースの測り方とかはサッカーでのソレと同じぐらい言葉にしなくとも通じ合えていたから、もう本当に言うこととかなくて、恐ろしいぐらいに順風満帆だ。
結局寝相も問題なかったしなんとなく居心地良かったからって理由で、ベッドは買わなかった。いざカタログを眺めながらベッドを選んでいたら、なんだか胸がザワザワしてしまい、気づけば通販サイトの画面を閉じてしまっていたのである。
さみしい、なんて、自分でもらしくない感情だなーとは思うけど。
今までずっと一人でやってきたはずなのに
——
いやだからこそだろうか、人と一緒に暮らすというのは暖かく、こそばゆくて、
……
心地が良いなと、思ってしまったのである。
「なあカイザー、ドイツでも寝る前に羊って数えるの?」
「
……
それは英語圏の文化だ、
Schaf
ヒツジ
なんて繰り返してもさほど入眠効果はない。それよりチョコレート食ってた方がいい」
「あー、ナイトチョコレートね
……
。俺いまだにあの習慣あんま慣れないんだよなー、歯磨きしたら甘いもの食べちゃダメって母さんに躾けられてきたから」
「別にンなもん、クソ好きにすりゃいいだろ。俺もあんまり食わないし」
「えそうなんだ。そーいや引っ越してきてから一回も見たことないかも
……
」
寝る前のどうでもいいおしゃべりに興じていると、カイザーの手が、ゆっくりと俺の首筋に伸ばされる。カイザーは何故か知らないけど、ウトウトしてくると、俺の身体をぺたぺたと撫でてくる習性があった。特にお気に入りなのは首元とほっぺた。子供の頃抱きしめてたお気に入りのぬいぐるみか何かと間違えられてるんじゃねーかなという感じがするけど、まあ別に実害もないし好きにさせている。
「んぅ
……
よ、いち
……
」
俺を撫でてるうちにあっという間におねむになったらしいカイザーが、舌ったらずに名前を呼んでくる。首に回された指先がぱたりと枕に落っこちて、代わりに、頭がふっと落ちてきてくっついた。モフモフの髪の毛が揺らいでふわりと何かの香りが漂ってくる。スポンサーに貰ったとかいう話で大量にストックがあるシャンプーと、それから、仄かに甘く馨しい、花びらのような匂い。
(
……
いい匂いがする)
カイザーとの暮らしの中で、ときどき、この匂いを感じることがある。西洋人は日本人に比べて体臭が濃く、日常的に香水を使うという話だから、これもたぶんコイツのお気に入りの香水の匂いなんだろう。どこのメーカーのなのかは知らない。あんまり香水に興味はないので、どこそこのブランドの何て名前の商品だと言われても多分気後れしてしまうと思うし、「世一くんはお子ちゃまだから香水のひとつもわからないのねぇ」なんて言われた日には顔面をぶん殴ってしまわない自信がない。そんなバイオレンスなアクシデントを引き起こすぐらいなら、「よくわからないけどカイザーはいい匂いがする」で処理しておいたほうがよほどマシだ。
「よいちぃ
……
」
……
それにしても、なんでコイツ、こんなに寝言で俺の名前呼んでくるんだろ。
いつの間にか意識を失っていたらしく穏やかな寝息を立て始めたカイザーの頭をそっとなぞって、ふと小首を傾げる。まあ、いい匂いのおかげで機嫌がいいし、悪意があるって感じの声でもないから、いいんだけど。もしかしたら夢の中でも俺とサッカーしてるのかもしれない。そう思うとちょっと気分が良かった。この男の頭の中を、俺という存在を喰らうことでいっぱいにさせているとしたら満足感があって愉快だ。
「
……
なぁ、カイザー、俺たちちょっとは、仲良くなれたのかな」
一緒に暮らすようになったのは成り行きだったけど、お前との毎日は楽しいよ。
過度に気を遣われるより、軽口を叩き合えるぐらいの距離感の方が過ごしやすい。同じ家で過ごしているうちに、ピッチの上じゃなくても、言葉にせずとも通じ合える場面も増えてきた。目玉焼き食べてたら醤油取ってくれるみたいな些細な通じ合いがなんだかこそばゆくて心地いい。もしもこうやって気を許したような寝顔を晒しているのが、お前もそう感じているからだとしたら、それはすごく嬉しいことだな、とも思う。
だからこの家はなんだかすごく居心地がいい。
ビッチングの兆候があるとかアルファと距離を置かなきゃいけないとか、致し方なくコイツの家に居候させてもらっているんだとか、そういった諸々をウッカリ忘れそうになるぐらいに。
(ほんとに、
……
落ち着くなー、この匂い)
眠りこけるカイザーの胸元にそっと顔を埋めて目を瞑る。
変わらない毎日。穏やかな日々。こんな一日が、これから先ずっと永遠に続いていけばいいな、と、不意に思った。俺もお前も同じベータだ、特別じゃない代わりに普遍的な幸せを享受することが出来るどこにでもいる人類なんだから、そういった未来を思い描くのだって、夢物語なんかじゃないはずだって
……
。
……
けど、世の中どうも、そうそううまくいくようには出来ていないらしく。
(甘い
……
この匂いは、なんなんだろう
……
)
そうやって俺の心が過ごしやすい日々を満喫している一方で、肉体はどうしようもなく
第二
バース
性に纏わる問題を熟成させていき
——
(薔薇
……
いや蜂蜜
……
?)
一緒に暮らすようになって十日が過ぎた頃、この身体に巣食った大きな問題が、再び、その顔を出し始めた。
◇ ◇ ◇
その日はごく普通に朝を迎え、ごく普通にふたりでランニングに出掛けて、ごく普通に朝食を用意して、そしてごく普通にクラブの練習場へと出掛けた。
ランニングのルートは至っていつも通り。角のパン屋の店員さんに声を掛けられてカイザーがちょっと不機嫌になってた気もするけど、店員さんの用事がパンの耳のお裾分けだと分かった途端機嫌が戻っていてわかりやすかった。
戻ったらカイザーが入れたコーヒーを飲みながら買ったばかりのサンドイッチを頬張って、いつも通り助手席に乗って見慣れたクラブ棟へ顔を出す。同居を始めてから一緒に顔を出すことが増えたので最初のうちは驚かれたけど、この頃になるとみんな慣れ切ったもので、当たり前にはよっすと気さくな返事を寄越してくる。俺も気さくに手を振って返事を返していると、カイザーが「事務局に用事がある」と耳打ちをして、ひとり輪の中から抜けて行ってしまった。
用事? このタイミングでクラブと打ち合わせるようなこと、なんかあったっけ?
うまく思い当たることがなくぼーっと首を捻っていると、輪の向こうから見慣れたヤツがにゅっと顔を出してきて、トントン、と肩を叩いてくる。
「世一キミ、目のあたり腫れぼったくないですか?」
いきなりそう訊ねてきたのはネスだ。ネスの表情はかなり怪訝そうな感じだったけど、どうやら心配してくれているようだ、というのは、顔を見ればすぐにわかった。ていうか、コイツが俺にそういうことを聞いてくる時点で、いくらかは心を許してくれているって証拠だしな。新英雄大戦の最初の頃なんて、絶対こんなこと聞いてこなかったし。
まあネスとも色々あったのだ、例のフランス戦の最中からあとにかけてカイザーとネスの間で様々な事故が起きて
——
ちょうどフランス戦の中でノアへの憧れを粉みじんに打ち砕かれて棄てたあとだった俺はいささかネスに感情移入してしまい。そうはいってもネスから見たら俺ってある意味恋敵
……
というか間男のようなモノだったらしいので(この表現に俺自身は引っかかるものがあるけどあの形相で言われると何故か否定できなかった)わかり合えるまでには多少の年月を要したんだけど、乗り越えた後は、なんだかんだ普通の友達ぐらいにはなれたんじゃないかと思う。
とにかく、そんな意外と気のつく親切なアレクシス・ネスが言うんだから、そこに嘘やからかいの気持ちはないだろう。「そう? むくんでる?」それで俺がなんとはなしに訊ね返すと、ネスはこくりと頷き、「なんか熱っぽい感じもありますよ」と首を振った。
「夜ちゃんと眠れてます? まさか夜更かししてるんじゃないでしょうね。日本人ってどうしてこう夜行型なんでしょう、この前羊も新作ゲームだかにハマって睡眠削ってましたよ」
「氷織は新作ゲームにどっぷりいくのが仕事みたいなとこもあるからなぁ」
氷織はプロサッカー選手でありながらプロゲーマーとしても活動しているのである。だからだろ、練習もゲームもしなきゃいけないしと軽口を叩くと、ネスはじっとりした目つきになって、「何話題逸らしてやがるんですか世一の分際で」と唇を尖らせた。
「今は世一の話をしてるんですよ。万が一世一が倒れたら大変なんですからね」
オフシーズンだからって自己管理が出来ないやつはプロ失格ですよ。
そうぼやくネスの語調は妙にシリアスで本気の感じがした。そりゃ俺だって、今やこのチームの要の選手になっているという自覚はあるけど、それにしたってネスがここまで言ってくるのも変な感じだなというぐらい、その言葉には熱が篭もっているように思えた。
「
……
お前そんなに俺のこと心配するようなヤツだっけ」
友達にはなったけど、そんな、家族や恋人にするほどの熱心さを向けられるほどの親友ではないような。
そう思ってそのまんま訊くと、ネスが困ったように言葉を濁す。
「それは
——
」
そうしてネスは唇をもごもごとさせながら「だってカイザーが、」みたいなことをぼやいたのだけど、その続きをハッキリと聞きとることは、残念ながら叶わなかった。
「おお? おはよーヨイチ、今日は皇帝サマは一緒じゃないんだ?」
ネスの言葉を遮るようにして、ひどく陽気な声がして、大柄な男が割り込んでくる。前季から1部に昇格してきた新人のヒューゴだ。ガタイは俺より一回り以上大きいけど、年下ってこともあってか俺のことは慕ってくれている。ものすごく人なつこい大型動物って感じで、俺はわりかし嫌いじゃないんだけど
……
ネスは何故かヒューゴの顔を見た途端全身をピリつかせ、チッと舌打ちをした。昔俺がよくされてたタイプのガチの舌打ちだった。
「ちょっとヒューゴ、世一から離れなさい。近いんですよ、色々と」
「えぇ、なんで? せっかくカイザーがいなくてヨイチとお喋りできそーなのにヤだよ」
ネスがピリつき全開で突っかかっていくと、ヒューゴが顔を顰める。その態度にネスは更に舌打ちを加速させた。
いや、コイツ確かに態度デカいけど、そこまでガチ舌打ちするほどかよ?
そんな俺の思いをよそに、ネスは冷や汗でも見えそうなぐらいガチな感じでヒューゴに向かってジェスチャーをする。
「お前の身の安全のためですが? いいですかヒューゴ、キミは気付いていないのかもしれませんが、いま、世一からは
——
」
いいから、世一から、手を離せ。命が惜しくはないのか。
そう言わんばかりの手つきに俺もヒューゴも可笑しくなってしまって、思わず顔を見合わせ合おうとした、その時。
「
——
そこで何をしている?」
北極の氷より分厚く凍えきった地を這うような声がして、俺の腰を誰かの手が掴んだ。
いや、〝誰なのか〟なんて、考えるまでもない。この触れ慣れた指先の感触は間違いなくカイザーのもの。そんでもって、この温度はマジでキレてる時のそれだ。大昔にマウントよろしく顎やら肩やら掴まれた時と大体同じ温度だから多分そう。
それでびっくりして振り返ると、そこには、完全に顔から色が抜け落ちた氷の彫像みたいな表情をしたカイザーが立っていて
——
その視線はまっすぐにヒューゴを射抜いていた。
そのことに気付いた瞬間、ヒューゴの喉が怯えたように鳴る。そりゃそうだ、チームメイトに話し掛けただけで突然こんなにキレられたら意味わかんないだろ。俺がヒューゴの立場だったらカイザーのこと理解不能すぎて生涯お触り禁止物件にすると思う。理不尽にキレられるのは誰だって嫌だ。
だからいくら友人とはいっても、こんなキレ方されたら普通に嫌気が差す、そのはずなのに、腰を撫でるその体温を、どうしても振り払う気になれない。
——
むしろ。心地が良くて、嬉しくて。胸がどくりと高鳴るようなそんな気までしてくるのは
……
いったいどうしてなんだろう。
「
……
あ、」
そう思った瞬間、心臓が跳ね上がって、俺は咄嗟に己の左胸を押さえた。
不意に、ぶわりと甘ったるく馨しい花の香りが拡がって、全身に燃えるような熱を送り込んでくる。それと同時に立っていられないほどの気怠さに見舞われ、身体中からがくりと力が抜け落ちた。俺は覚束ない意識でああまたか、と思う。
この症状には覚えがある。
第二
バース
性の暴走、ビッチング兆候。ならこのあたりに強力なフェロモンをまき散らすアルファがいるのだろうか?
——
もしかしてヒューゴが?
「世一!」
「ヨイチ!」
突然力を失った俺を見て、ネスとヒューゴが引っ繰り返ったような声を出した。けれど完全に崩れ落ちる前に、カイザーの腕が俺の身体を抱き留める。そうしてカイザーは裏路地で俺を拾った時みたいにお姫様抱っこの態勢で俺を抱え直すと(マジでなんで?)、ぴしりと踵を返す。
「世一は体調不良だ。連れて帰って寝かしつける」
それだけを言うと、カイザーは外へ向かってスタスタと歩きはじめた。
ぼうっとしてもやがかかり、曖昧な視界の中でそれでも目をこらすと、ヒューゴが何かを言おうとして、けれどガクガクと怯えるように震えてその言葉を噤んだのが目に入る。そうして、そんなヒューゴや俺たちの様子を、居合わせた他の連中は凍り付いたように見守っていた。
中には、調子が悪そうに胸を押さえている人もいる。首にカッコいい黒レザーのチョーカーを付けたアヒムは、隣のランドルフに背をさすられていた。その様子をちらりと横目で見て、ネスがぱたぱたと飛び出してくると
……
立ち去ろうとするカイザーに何かを耳打ちしてくる。
「やりすぎです、ヒューゴは
……
ですよ」
最後に聞こえた小さな呟き声は、ところどころが掠れているせいもあって、俺にはその意味がうまく理解出来なかった。
◇ ◇ ◇
「
……
あ」
目が醒めたらカイザーの家のベッドに寝かされていた。ぼんやりと目元を拭い、寝返りを打つ。すると鼻腔を爽やかないい匂いにくすぐられ、ベッドサイドに青い薔薇が十数本も詰め込まれた花瓶が置かれていることに気がつく。
「気がついたか」
ああ、ベッドでときどき感じるいい匂いの正体って、香水だけじゃなくてコレもか。
ぼんやりした脳味噌でそんなことを考えて頭を振ると、その花々の向こうに、椅子に腰掛け丸眼鏡を掛けて本を読んでいるカイザーの姿が目に入った。俺はゆっくりと息を吐くと、両手でベッドを押さえて起き上がる。
「
……
うん、ごめん、なんかまた匂いがするなって思ったら、一気に来て
……
」
「そうか。
……
あの場にはアルファがそれなりにいたはずだからな、どうしても多少の影響はあったのかもしれない」
「今まではクラブに行っても特に何も起こらなかったのに、なんで?」
「学術的に、そう感情が昂ぶらなければフェロモンは出ない
——
と言われている。そういう意味ではあの場の空気を緊張させた俺のせいかもな」
茶化すふうもなくそう言って、カイザーは俺の頬を撫でた。
薔薇の匂いとカイザーの匂いが混じり合って、あたりをふわりと漂う。そのいい香りにホッと息を吐き、けれどすぐに、それほど安心出来る状況でもないかもしれないと気がつき肩を落とす。
クラブハウスで起こったのがビッチング兆候に違いないとすれば、俺のオメガ化は変わらず進行し続けているということに変わりないからだ。
「俺このままオメガになっちゃうのかな
……
」
そのことを思うとたまらなく不安になって、俯いたままぎゅうと布団を握り締めた。
カイザーの指先の動きがぴたりと止まる。それからすこし躊躇うように、カイザーがゆっくりと唇を開く。
「オメガになるのが嫌なのか? サッカーに影響が出るから?」
その言葉に俺は静かに首を横へ振った。
——
アスリートとして生きていくうえで、
第二
バース
性がどういった影響を及ぼすか。そのあたりの説明はプロになる前一通り講習を受けたし(これに関してはカリキュラムを組み込んでいた絵心さんに今更ちょっと感謝している)、ビッチング兆候の診断を貰ってから改めて自分でも調べた。結論から言うと、近年に入ってからはオメガであるためにプロアスリートでいられなくなる、ということはない。
一昔前と違って抑制剤の類が発達してるから、きちんと管理し、ヒートの時期をコントロールしさえすれば問題なく試合に出られる。ヒートほど頻度は高くないが、ラットを抱えているアルファもこれは同様。ただしそれは、一般的な抑制剤を服用したそのうえで、「つがい」を持っていることが最低条件となる。
抑制剤は万能じゃない。周期をある程度コントロールし症状を軽減する効能こそあるが、症状をまったく無くすことは出来ない。ピッチ上へ影響を一切持ち込まず、自チームにも相手チームにも迷惑を掛けないようにするためには、欲求を適切に処理する以外方法が無いのだ。それゆえ、サッカーやバスケット、野球なんかのプロアスリート選手たちは、定められた処方薬を服用しヒート期間を短縮したうえで、つがいと安全にその時期を過ごすことが求められる。
つがいさえいれば、さほど反動もなく短期で発情期を終えられる。これは翻って言えば、つがいがいなければ、アスリートとして求められるスケジュールに体調を合わせることが出来ないという意味でもある。
そのため、プロであり続けたいならば、四の五の言わずつがいを見つける必要があり
——
各スポーツ業界の団体が結束して、迅速につがいを見つけるためのシステムまで構築・運用している。
もし完全にオメガに転化するのであれば、遠からず俺もその団体の世話になることになるだろう。そうしなければ契約を切られる。
——
バスタード・ミュンヘンだけじゃなくって、どこのプロチームだって、つがいのいないアルファやオメガとは契約してくれない。
俺をオメガにしようとしてるアルファが誰かにもよるけど。まあ、現状じゃ相手が誰かも分かってない、こっちからしてみれば知らない他人かもしれないから、正体不明の他人よりは、身元が保証されている他人のほうが僅かにマシだ。
俺の感情は全部置いてけぼりだけど、それでも。
「多分俺が嫌なのは、オメガになるかもしれないこと自体じゃなくて、サッカーを続けるために誰かとつがいになんなきゃいけないかもしれないことの方なんだと思う」
そういった諸々を呑み込んでぽそりと呟くと、カイザーがあ、と息を呑み、目を見開いた。
わかるよ。そういう反応になるよな。ベータだと、そこらへんの制約一切無いから、考えることもないし忘れてるよな。俺だって自分がこんなことになるまでは完全に忘れきってたもん。
でも、たまたま、世界で一割にも満たないベータ以外に生まれてしまえば、その事実が一生ついてまわるのだ。
アルファですらつがいがいなければ職種によっては制約を受けるし、オメガの場合はもっと悲惨。状況に急かされて致し方なく見つけたつがいと、もし相性が合わなかったとしても
……
自分からその契約を破棄する方法は無いわけで。
つがい契約は婚姻より重い、とは、いつの時代の偉人の言葉だったか。
アルファの方は好き勝手破棄できるらしいっていうのもなんだかなって感じだし。当事者になってみてはじめて、この
第二
バース
性のままならなさを嫌というほど痛感させられていて
——
同時に、諦念めいた感情が浮かび上がってくる。
ああ、今なら、どうしてあいつらが酒の肴に『運命のつがい』なんて話を持ちだしたのか、少しは分かるような気がするよ。
それぐらいあってくれないと困るよな、オメガも、アルファもさ。本当に出逢えるかどうかはわからないけど、この人がもしかしたら自分の運命なのかもしれないっていう希望ぐらいはないと、やってらんないもんな、正直。
「
……
本で読んだんだけどさ、『運命のつがい』って、生まれた時に決まる、って言われてるんだってさ」
ゆっくりと顔を上げると、カイザーの手のひらが、俺の頬から離れていく。美しい相貌が僅かに歪んで、カイザーが眉を顰めた。どう返していいのかわからないとでも言いたげな顔で、ひどく気まずそうにしている。
べつにいいのに。お前に共感なんて求めてないし。
俺たちそんなに甘っちょろい関係じゃないだろ、だから同情なんか求めてないし、これは単に、事実を並べ立てているだけの確認行為に過ぎないんだよ、
……
なんて、きっとこいつは、そんなこと言わなくたってわかってるんだろうな。
「アルファが生まれたときに、世界中のどこかにいるこれから生まれるオメガを、運命に選ぶんだって。だから実は運命のつがいってそんなに年離れてることないらしい。最長で十ヶ月未満? 先に生まれた方がまだ母親のお腹の中にいる胎児を見つけ出すとかなんとか、正直ちょっとオカルトっぽいと思うけど」
「
…………
」
「つまり何が言いたいかっていうとさ、この理屈の関係上、後天的に
第二
バース
性が変わった場合って、そういうのいないらしいんだよ。俺はハナから運命の相手なんていやしませんって言われた状態で、サッカーのためにクラブが用意したよく知らないやつと生涯を一緒にしなくちゃいけなくなるんだ」
「
………………
そうか」
俺が言い終わると、カイザーは同情も憐れみもなく、ただ静かにそれだけを言った。
ソレが嫌ならサッカーを諦めろなんてことは、口が裂けても、言いはしなかった。
その状況を強いられても俺はサッカーを取る、そういう生き物なのだと、多分コイツはちゃんと分かっていた。
「運命のつがいなんかに憧れてるのかよ世一」
だからその代わりに、カイザーはふっと鼻で笑うような仕草をして、そんなつっけんどんな物言いをする。御伽話に縋る余地すらないなんてと嘲笑う代わりに、そんなもんハナから信じない方がいくらも気が楽だぜと、暗に諭してくる。
「そーだよ、悪い?」
でも、でもさ、つがいって、一生モノなんだぜ。
本当にオメガになるんなら、この先どうしてもそれに向き合わなくちゃいけないんだ、今のいままで俺が向き合えてなかったみたいに、ベータのお前にはわからないかもしれないけどさ。
俺、基本的には誰とでも上手くやれる方だと思ってるけど(例外、それこそ最初の頃のカイザーとか凜ぐらいだよ)、それでも〝もしも〟を考えると、怖くないなんてちっとも言える気しないよ。
「運命の相手なんて御伽話だよ、きょうびそんなモン見つかる方が珍しいし、みんななんとなく相手を決めて、つがってる。それでうまくいく人たちもいっぱいいる、ベータだけど、うちの両親とかも多分そんな感じだったんだと思う。でも
……
それでもやっぱ、憧れぐらいはあるよ
……
」
唇から、心の中身が、ぽろぽろと零れ落ちていく。抱えきれなかったぶんが溢れ出るように漏れ出して、思いの丈を吐き出すように脳味噌直結で垂れ流して。そうして言葉にしてみてやっと、腑に落ちていくような感覚がして
——
自分でもなんだか、驚いてしまう。
ああ、そっか、俺、人並にそういう憧れがあったんだ。
この人と出逢えてよかったと思えるような、心を許しあえる相手と一緒になりたいなんていう、フワフワして浮ついた夢が、あったんだ、俺の中にもずっと。
「だって俺まだ誰とも付き合ったことすらなかったのに。デートのひとつだってしたことない、
……
恋人出来るまえに
青い監獄
ブルーロック
に入って、そのあとずーっとサッカー漬けだったんだもん」
それが叶う余地すらないんだとしたら、こんなに悲しいこともそうないじゃん。
そんな言葉の代わりにボソボソと漏らすと、カイザーがぱちぱちと目をしばたかせた。いつも斜に構えたような表情ばかりしているせいもあってか、瞬きをしている姿は、妙に子供っぽく見えて、そのぶん、なんていうか飾らない素の姿なんだろうなと思える。
まあ、どれだけカワイイ顔してたところで、内心で考えてるのは、「ハタチ過ぎて恋人のひとりもいなかったなんて世一は可哀想ねぇ」「俺? この美貌とサッカー選手としての実力に年俸億だぞ。世一と違って恋人なんぞ選り取り見取りに決まってるだろうが」とか、そんな感じの煽りなんだろうけど
——
「なら調子が良くなったら、俺とデートの練習でもするか」
——
などと思っていたのだが。
「え?」
直後、思いも寄らなすぎる方向からデッドボールが飛んできたので、俺は受け身のひとつも取ることが出来ず思いっきりすっ転んだような声を出してしまったのだった。
「なに? 今なんつったの? 幻聴?」
「だから、デートの練習するかっつったんだよ。今度の日曜、確か俺もお前もあいてただろーが」
トントンと俺の頬を突いて、カイザーが唇を尖らせる。いや、確かに、俺もお前もオフだけど。いきなり住人が二倍になったせいで消費速度が読めなくなって爆速で無くなっていく日用品の買い足しを次の週末あたりでしなくちゃ、みたいな話をしていたから、あけてあるけども。だからっていきなり何? え
……
?
「買い出しは
……
?」
それでぽかんとした間抜けな顔のままそう訊ねると、カイザーはチッと露骨に舌打ちをして「ンなもんはクソ後日でいいに決まってるだろ」と首を振った。
「買い出しは平日でもいいが、デートの真似事となれば丸一日あった方がいいに決まってる。クソ喜んで感謝しろよ? この俺が協力してやろうって言うんだ、ロマンチストの世一くんがそーゆーのを心残りに思わないようにさぁ」
「なんでカイザーがわざわざ付き合ってくれんの? 天変地異の前触れとか? あ、もしかして明日世界って滅ぶ感じ? じゃあ美味しいお茶ときんつば買ってこないと
……
」
「オイ気持ちは分からないでもないが流石に言い過ぎだろ。世一は俺のことをなんだとお思いで?」
「えーっと、気は合うしサッカーの実力は最高だけど性悪で口が終わってる」
「その俺と気が合う時点でお前の性格と口の悪さも終わってることになるだろーが」
露骨な舌打ちのあとは露骨な不機嫌顔になり、カイザーがぱちんと俺の額を弾いた。とはいっても、そこまで痛くはないので、ちゃんと加減はされているんだと思う。てか俺試合中は口悪くなるの自覚あるけど性格はそんな悪くねーから! お前と一緒にすんな!
などとギャンギャン吠えていると、「ンなことよりも返事は」と反睨みで急かされた。俺は首を傾げ、すこしばかり考えに耽る。
う〜ん、カイザーとデート、カイザーとね。
デートっていう単語はともかく、コイツと一日、楽しい想い出を作ろうってだけの話だろ? 今まで全然、考えてみたこともなかったけど(たぶん第一印象が最悪すぎたせい)
……
月イチで遊びに行って、二週間弱一緒に過ごしてみた印象から言えば、
……
うん、意外と、悪くないかもしれない、コイツと出掛けるのも。
「行く。面白そうだし」
だからまあ、カイザーが乗り気だっていうんなら、練習ぐらいなら行ってもいいかもな。
そう思って素直に返事をすると、カイザーは「そうか」と目を細め、安堵するように胸を撫で下ろす。
「ならいい。クソ楽しみにしておけ、行き先は内緒」
そうしてヤツはフッと笑うと、おもむろに俺の肩へ手を置いた。
そのウェットな手つきにん? と首を傾げていると、すっと首筋に顔を近づけて
——
なんだなんだと思ってるうちにちゅっとキスをしてきやがるではないか。
「
……
は!? なに!? 今何したのお前!?」
再び訪れた、そのうえさっきのに輪をかけて理解不能な展開に、咄嗟にバカでかい声が飛び出る。
けどカイザーは俺の疑問には一切答えず、やけに白々しい爽やかすぎる笑顔と共に「少しは自分の頭で考えろよ」なんて嘯くばっかりだ。
あのさそれ、宣材写真とか撮るときの笑顔だよな? なんでそれをわざわざ金ももらえないのに俺に向けてんの?
「なに、デートごっこはこの瞬間からもう始まってるってことだよ。じゃ、世一の夕飯作ってくるからクソいい子でねんねしてな」
「はぁ!? その顔反則じゃね!?」
叫び声は虚しく室内に響き、カイザーは今度こそ何にも言わず、上機嫌で部屋を出て行ってしまう。
……
ってか、あのミヒャエル・カイザーが鼻歌までしてるんですけど!?
いや何。
マジで何。
「なるほどね、これが恋人を想定したミヒャエル・カイザーってわけかか
……
」
いやノリで呟いてみたけど全然なるほどじゃねーわ、いきなり何しやがるんだ馬鹿野郎。
これまでに恋愛経験がミリもなかったせいで全然何もわからん。これではカイザーにバカにされたとしても何も言い返せない。アイツ顔はいいから元カノ百人ぐらいいてもおかしくねーしな
……
。
まあいいのはツラだけなので、終わってる性格がバレ次第破局してもいそうだけど。一緒に暮らし始めてから彼女の影が見えたことないから、今フリーっぽいし、俺に同居を言い出したのも、他人と暮らすのに慣れてるから、なのかもしれない。
……
そのことを考えると何故か胸がちょっとズキリとした気がするんだけどこれは多分何かの間違い。
「ったく、なんなんだよもー
……
」
俺はぶるぶると水しぶきを飛ばす柴犬よろしく頭を振った。ホントなんか、ものの数分でとんでもないことになってしまった気がする。よくよく考えたらこれ、ある日突然身体がオメガ化するのと同じぐらいの急展開のような気がしてきたんだけど。
勢いで了承しちゃったけど
……
ホントにあのカイザーとデートなんか出来るのか、俺!?
「俺は本当に初めてなんだからな。いい思い出にしてくれなかったら絶対許さねーぞ」
首元を後ろ手になぞると、キスされた場所がまだ熱を持っているかのような錯覚を覚え、何故か、ずぐりとお腹が疼いた。溜息を吐いてカイザーが腰掛けていたほうを振り返ると、花瓶に生けられた青い薔薇たちがふたたび目に入る。
薔薇は相変わらずいい匂いを放っていたけれど、その馨しい香りたちを嗅いでも、何故か今日ばかりは
——
心のざわめきが止む気配はなかった。
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