ざわざわとした酒席は今日もつつがなく盛り上がり、酌に回っていた歌姫は、やっと自席に戻り人心地をついていた。高台の座敷二間を貸し切った呪術師による飲み会は、その業務の特殊性とは関係なく、歌姫が時々見るドラマによくあるような、ごく普通の盛り上がりを見せていた。赤ら顔の大人があちこちで顔を寄せ楽しそうに話したり、テーブルに並べられたおつまみに箸を伸ばしたり、飲み物の追加の手があちこちであがったりなどしている。
歌姫がこうした酒宴に参加するようになって少し経つ。やっと振る舞いがわかってきたところで、次は自分の酒量限度を把握する段階である。
どうもあまり強くはないらしく、ただうまいとは感じる。特にビールがお気に入りで、周りの大人たちにビールは喉で飲むんだとやんややんやと囃し立てられた。
まだそれほど種類を飲んだことのない歌姫は、隣の席の男性が自らのグラスに、からからと氷を入れたのに気付くと、そっと声をかけた。
「あの、私が」
「ん? そう? ありがとう」
さっとテーブルを見回しながら、割材の有無を聞くと、ロックで、と返ってくる。一升瓶を持ち上げた歌姫は、差し出されたグラスにそっとその酒を注ぎ入れた。ラベルは上に、両手で丁寧に、瓶はグラスに当てないなどの面倒なアドバイスをそれでも思い起こし、適量がわからないな、とちらりと伺うと、目で頷かれたので、瓶口を持ち上げた。
からからとグラスを回している様子を窺いながら、浮かせていた腰を戻す。テーブルに置いた一升瓶のラベルには月下美人と書かれている。
「これって、あの花の月下美人のことですか?」
「いや、どうかな。本物かは知らないけど、なんか甘い香りはするよ」
ほら、と再び差し出されたグラスにためらいがちに鼻を近づけると、確かに少し甘い、果物のような香りがした。
「ほんとだ。いい香りですね」
「飲んでみる?」
問われて、少し考えた歌姫は、じゃあ、少しだけ、と近くに伏せられていた空のグラスを持ち上げた。
「ほんとは割った方がいいと思うけど」
男性手ずから注がれた少量の酒の香りをグラスに鼻を入れ込むようにして嗅ぐと、先ほど嗅いだ甘い香りに、鼻を刺すアルコールが混ざる。
「はい、乾杯」
「あ、はい」
ちん、と合わせられたグラスを慌てて寄せるようにして、歌姫はその酒を、そっと口に含んだ。かっと口内が燃える。だが喉に流してしまえば、それは驚くほど清廉に口の中を攫っていった。
「おいしいです」
「お、酒飲みだねぇ」
嬉しそうに男性が笑って、歌姫もにこりと笑った。こうした席で飲みっぷりを褒められるのは嬉しいことだった。
「花の月下美人は一晩しか咲かない花なんだっけ」
「そうらしいですね。見たことはないですけど」
「俺もないな。なんかあの花食べられるらしいよ」
「え、そうなんですか?」
「うん。あと酒につけて保存もできるらしい。梅酒みたいに」
「詳しいですね」
「嫁がよく果実酒漬けるからさ」
「へー、いいですね」
そのあたりで、逆隣に話しかけられた男性は、そちらの話題へと関心を切り替えた。歌姫は手元のグラスに残った酒を飲み干すと、少しくらりとする頭を押さえる。まだこうした酒には体が慣れていないようだと己の状態を確認した。
ふらふらとした足取りの歌姫は、その顔が明かりに照らされたときに、帰宅場所を間違えたことに気が付いた。
「寮だ……」
呪術高等専門学校学生寮の明かりを浴びながら、歌姫はぼんやりと呟いた。それほど飲んだ自覚はなかったのだが、今日はいろんな種類の酒を味見と称して飲ませてもらったせいか、少し意識に霞がかかっているように感じる。ちゃんぽんは回るぞ、とげらげら笑っていた酔っ払いたちの顔が浮かび、歌姫はずきずきと痛むこめかみを押さえた。
高専を卒業し、呪術師として独り立ちしている歌姫の部屋は、当然ながらここにはない。引き払ったのがつい先日の事のように感じるが、今の歌姫の部屋は職員寮にあるのだ。
しかし酔いが回っている体はだるく、ここまで来れば休めると言い聞かせてやってきた身としては、戻る道が辛い。一瞬かわいい後輩の顔が頭を掠めるが、深夜といえるこの時間帯に押し掛けるのは申し訳ない、という判断はまだかろうじてついた。
「ちょっと、ちょっとだけ……」
明るい玄関口にしゃがみこみ、膝に頭を預けた歌姫は、少しだけ、と目を閉じる。目の奥がじんじんとして眠気にも似た酩酊感が回る。疲れているのに妙に昂った頭は冴えたままだ。それでも目を開けていることはできずに、歌姫はそこでしばらくしゃがみこんでいた。
「うおっ」
最初に感じたのは、甘い香りだった。香水のような、上質なアルコールのような、とろりとしたかぐわしい芳香だ。それがだんだんと覚えのある気配と呪力と共に近づいてきているのはわかって、だけど歌姫は動くどころか、顔すら上げられなかった。
それは酔いのせいだけではなく、その人物に心当たりがありすぎて、全然まったく顔を合わせたくなかったからだ。
「まじでいるじゃん」
げらげらとさもおかしそうに笑った人物の声が頭にがんがんと響く。目を開けることもしないままで、歌姫は低く、うう、と唸った。
「え、寝てんの? 寝言? まじで?」
尚も笑いながら近づいてくる気配にうんざりしながら、また唸る。
「なに? なに言ってんの?」
「……るせー……」
「声ちっさ!!」
ぎゃははという文字が宙に浮かぶような声で笑う五条に、歌姫の頭ががんがんと痛む。
「いや、あんた、ほんと、まじうるさい……時間考えなさいよ……」
「こんな時間まで飲んだくれてる歌姫に言われたくないでーす」
おちょくってくる男への苛立ちのせいかぐらぐらと頭が揺れるようだった眠気が引いてしまい、歌姫は頭痛に耐えながら、そっと目を開いた。
最初に目に入ったのは、夜空に輝く丸い満月だった。今まで目を閉じていた歌姫にとっては、目が焼かれるほどに眩しく感じられて、じんわりと痛む目をゆっくりと瞬いた。
そこにいたのはやはり五条悟で、白髪が月光に照らされ、その影の中でサングラスがぼんやりと浮かんでいる。満ちた月に、暗い深淵のような丸いグラス、そして短髪が淡い光に円く縁取られている。
「なんか、全体的に、丸い……」
「こんなシャープなイケメン捕まえて何言ってんだよ」
いつの間にかそばに寄ってきていた男から体温と、甘い香りが届いた。
「あんた、なに、この匂い……」
先ほどから辺りに充満している香りは濃厚で、脳が溶けてしまいそうな甘く芳醇な空気が漂っている。
「花……?」
加工品ではない、まとわりつくような生の香りに、歌姫は鼻をすんと鳴らした。
「お、せーかい」
朗らかな声を上げた五条をよく見ると、脇に何かを抱えている。五条はいまだ制服姿のままで、もしかして任務帰りだろうか、と今更思い至る。黒色の制服は夜の闇に溶け込んでいて、そのそばでぽってりと白い花が浮かんでいる。
蕩けるような白色の肉厚の花びらが幾重にも重なった丸い花は、それ自体が発光しているようだった。闇夜にぼんやりと浮かぶ幽玄の花だ。
「なに、買ったの……?」
五条の行動としてはそぐわないな、と思いながらもそう尋ねてみるが、案の定五条は、いんや、と否定し、脇に抱えていた束を両手に持ち直している。
「じゃあ……プレゼント」
その割にはラッピングも何もなく、どちらかといえば、草刈後の雑草を乱雑にまとめただけのように思える。何か揶揄されたらそんなこと気づいていたに決まっていると言い返そうと身構えていた歌姫は、五条が浮かべた薄い笑みに肩透かしを食らったような気分になった。
「あんたが静かだと不気味だわ……もしかして、呪物?」
少し慎重になった歌姫が、触れてしまわぬようにその花を指さしても、五条はただ笑みを浮かべたままだ。
長い緑の茎が何本か束になり、そのところどころで白い花が丸く咲いている。柔らかそうな花弁は透明感があって美しく、怪しげな色香をまとっている。
そのひとつを五条が手折った。
「ちょ、大丈夫なの……?」
呪物かどうかの回答が得られなかったため、歌姫は少し焦ったが、五条の落ち着き払った態度に変わりはない。だったら大丈夫なのだろうか、とそれでも歌姫は恐る恐る様子を窺った。
「あげる」
「えっ」
茎から離れてもその花は艶めいており、たったひとつでも濃厚な香りを放っている。
「月下美人だって」
「え」
今日何度も聞いたその花の名前が五条の口から零れ落ちて、歌姫は思わずその顔を見た。
「知ってる?」
「え、ええ……」
「ふーん……ま、さすが僕ってとこかな」
なぜか自画自賛をした五条は、はい、と更に手を突き出してくる。咄嗟に差し出した歌姫の両手に、花がぽとりと落とされた。しっとりと濡れたような質感の花びらに触れた瞬間、ぴりと肌に何かが刺さる感触があった。
「……っ、なに、やっぱり呪物なの?」
呪力のような気配に、歌姫の腰が引ける。
「そんなびびんなって」
「びびってなんか……!」
「でも、触っちゃったね」
「……! あんたが勝手に……!」
「へーき、へーき。害があるようなもんじゃないから……多分?」
「おい、断定しろ!」
「それ、酒につけておくとめっちゃ長持ちするらしいよ」
「……知ってる」
「へー? さすが飲んだくれ」
「誰がよ!」
「十年くらいかな。楽しみだね」
「あんた酒飲めるの?」
「さぁ? 僕まだ未成年だし~」
「寮で酒盛りしてたこと知ってんのよ」
「あー……なんか下戸っぽい」
ころりと掌で転がした花は、いまだ瑞々しく、匂い立つ芳香が目に見えるようだ。
「きれいでしょ」
美しさに見惚れていると、五条の嬉しそうな声がした。
「そうね。きれいだわ」
「大事にしてね」
花など大事にするような男だったろうか。むやみやたらと物を踏みにじるようなタイプではないが、それでもこんな些細なものに手をかけるようなイメージはない。
「あんた、花好きだったの?」
「物による」
「それはどうすんの」
五条が抱えている束には、まだいくつかの花が咲き残っている。
「燃やす」
「も……! え、どうして……」
「もう見たから」
「……ねぇ、ほんとさっきから何言ってんの?」
連続する不可解な言動に対して歌姫に苛立ちが生まれる。思わせぶりであったり、煽り立てるような物言いをすることはよくあったが、それでもいつも明らかな会話の目的は提示されてきたのだ。こんな迂遠な問答を、お互い嫌い合っていることなどとっくに知っているだろうに。
「歌姫鈍いから、きっと十年くらいかかるよ」
「……帰る」
応答するつもりがないことがわかり、歌姫は寮の玄関を離れた。苛立ちにより酔いは吹っ飛び、自分の歩みが激しくなっているのがわかる。
「月下美人って、一日しか咲かないんだってさ」
歩き去る歌姫の背に、平素と変わらない五条の声がかかる。振り返ってなんかやるか、と猛然と歩いていると、やがてぱきりと枝を踏むような音がして、背後の気配も消えた。
燃やすと言っていたあの花たちが炎に撒かれるのを想像すると、なぜかひどく胸が痛んだ。花があまりにも美しかったからかもしれない。
今度こそ自らの部屋へと帰り着いた歌姫は、少し迷ってから、白い花を瓶に入れ込んだ。どぷどぷと焼酎を注ぎ入れて、封をする。正しいやり方など知らない。ただ、十年後、きっと答えさせてやると、歌姫はひとりこぶしを握ったのだ。
ずしりと重い紙の束を持ち、歌姫ははぁと息をついた。日本中を巻き込んだ未曽有の騒動の報告書だ。十数名の手からなったその中身は微に入り細を穿たれており、当然ながら門外不出の第一級秘匿資料である。完成に半年もの時間を要したそれは、これから呪術的な処置を経て禁庫で保管される予定だ。
複数のクリップで留められている紙束には細かな文字と図解資料がびっしりと並んでおり、何度も確認した作成者のひとりである歌姫は、見るともなしにぱららとめくっていく。本文が終わり、別添に入ると、そこには死亡者一覧の題字があった。歌姫が知る者、知らない者、たくさんの名前がそこには羅列されていて、特に生徒や親しかった後輩の名前は見るたびに、そっと指で撫でてしまう。
そして、やはり、こんなところでも、五条悟の名前は異彩を放っていた。指で触れても、ただ紙に印字された文字というだけなのに、ここにあることに違和感を拭えない。
あんなに特別であったのに、こうして皆と一緒にただの文字として記載されている。
風通しがよくなった上層部や、仲間と手を取り合って笑っている生徒たち、こうして後処理に追われている歌姫たちに、多大な影響を遺して、そして全部押し付けて、去っていってしまった。そんなことありえないと思っていた。この世に絶対はない。けれどかなりの確率でそんなことは起きえないと思っていた。年功序列を守るような人間ではなかったことを、歌姫はすっかり失念していたのだ。
そして、それは、信じていたのだともきっと言える、と歌姫はひとり唇を噛みしめる。
ぽっかりと空いた空白は大きくて、歌姫の周りはすっかり静かになってしまった。あの騒々しさをひとりで生み出していたのかと考えると空恐ろしい。
風を感じる日が増えたな、と思ったとき、するりと何かが頬を滑り落ちた。
手にしていた報告書の表紙に、丸く染みが落ちる。ぱたりぱたりと数を増していくその円を見ながら、ああ、印刷をし直さなくては、と考える。
こんなふうにしていたって、もう、泣いてる? などとからかわれることがないのだから、と歌姫はひどく安心した気持ちで、泣いた。寂しくて泣いた。思う存分言ってしまえると思ったら、するすると涙が音もなく流れていって、窓から入る風が心地よかった。
信じていたけれど、それが叶わない可能性があることを見据えてだっていた。
慟哭のように激しくはない、ただ流れ落ちていく涙はそれでも呼吸を圧迫したようで、歌姫はけほ、とひとつ咳をした。
「……っ、?!」
なんの苦痛も違和もなかった、のは、小さかったせいかもしれない。一口サイズというと菓子かなにかのようだが、今、歌姫の口から手に転がり落ちたのは、幾重にも重なった花弁が色鮮やかな、誰もが知る花だ。
「……たんぽぽ?」
濡れたままの顔で呟いた歌姫は、またひとつ咳をして、またひとつたんぽぽが増えた。
「花吐き病?」
ぱたりと分厚い本を閉じた硝子に歌姫が首を傾げる。
「病気なの?」
「そう呼んでいるだけで、呪いの一種ですね」
「そう」
硝子の回答に、病でないのならなんとかなるだろう、と歌姫は腰を落ち着けた。まだ解呪方法もわかっていないのに、随分と楽観的だなと自分でも思わなくもないが、呪いなら自分の領域だという自負がある。
「それにしてもどこでかけられたのかしら」
「文献だと術式というより、感染症に近い感じですね」
「インフルエンザみたいな?」
「まぁ、そうです。花吐き病は接触感染のみですが」
「接触……」
「罹患者、便宜上こう呼びますが、が、吐いた花に触れると感染します」
「えっ」
ぎょっとして、思わず足元のバケツを見た歌姫は、それを硝子から遠ざける。
「……触ってないわよね?」
「はい」
硝子の返答にほ、と胸をなでおろし、念には念を入れて自分が座っている椅子の下に隠し入れた。あれから、ぽつんぽつんと口から生み出されたたんぽぽはバケツに溢れんばかりになってしまった。
「出てくるタイミングもよくわからないのよね。時間毎ではなさそうだし」
「痛みはないんですよね?」
「ない。苦しくもないし」
先程、硝子の診察を受けた喉を触り、歌姫は頷く。
「その花、少し先輩の呪力を感じます。その辺りになにか異変はありますか?」
「今のところ別に。続くと呪力が削られるのかしら」
「可能性はあります。とはいえ、花の生成を制御できないんだったら、対処法がありませんね」
そうね、と視線を落とした歌姫に、硝子が息をついた。
「こういうとき、あいつの便利さを思い出します」
「……そう、ね……っ」
かすかな笑みを浮かべた歌姫の息が不自然に詰まり、硝子の視線が歌姫の口元を注視する。かはっ、と咳をした拍子にぽろりとこぼれ落ちたビタミンカラーを受けとめようと咄嗟に差し出した硝子の手を、歌姫が払いのける。
は、と歌姫は呼吸を落ち着けるように胸を叩いて、手のひらに生まれた花をまたバケツに落とした。
「だめよ、硝子。伝染るんでしょう?」
咎めるような歌姫の視線を受けて、硝子がぱちりぱちりと瞬いた。
「ほんとに、どういう法則……」
「先輩」
「ん?」
「多分、私は触っても大丈夫です」
「どういうこと? なにかわかったの?」
「いえ。そもそもこれが呪いでありながら、病と呼称されていることにも関わるのですが」
居住まいを正した硝子につられるように、歌姫の背筋も伸びる。知らずこくりと喉が鳴った。
「花吐き病は感染こそ外因的なものですが、その発症原因は内因的な理由によるものです」
「内因的……」
「花粉症などがそれに該当しますかね」
「花粉症……」
「ま、あれは免疫回路のバグだからちょっと違うかな……でも感染した者が必ず発症する訳ではないということは言えます」
「つまり……?」
硝子も考えながら話しているのだろう、要領が掴めない歌姫が答えを促すと、硝子の目が伏せられる。長いまつ毛が痩せた頬に影を落とした。巨大な呪力量を誇る存在が二体も消え、一時的に呪霊の数が減少しているおかげで、そこにあった隈が薄くなっている。今頃、僕のおかげじゃん、などと笑っているだろうか。
「……っ、はっ……ぐっ……」
前触れもなくぽこぽこぽこと連続してたんぽぽが生み出されて歌姫の息が詰まる。
「先輩っ」
立ち上がった硝子が歌姫の背後に回り、背中を殴打する。歌姫は口のなかに指を突っ込み、次から次へと湧き出るたんぽぽを抜き出しながら、鼻で呼吸することに努めた。
「はっ……はっ……はっ、はっ、はぁ、ん、んん、大丈夫……」
発生のリズムをつかめば呼吸自体は取り戻せたが、口の中を細かい花弁が撫でていく感触は、何度経験しても慣れそうにない。花が大量に発生したり、逆流したりなどしたら、あっという間に窒息する危険もあるため、せめて法則くらいは知りたいところだ。
背中を優しく撫でている硝子に感謝のまなざしを送ると、手のぬくもりが離れていく。はぁ、と深く呼吸をして、差し出してくれた水を受け取った。
「さっきの続きですが」
歌姫が落ち着いた頃合いを見て、硝子が口を開く。言われて歌姫も少し記憶を辿った。
「ええ。私は発症して、硝子が発症しないって話ね」
「はい。花吐き病の発症条件は、片思いです」
「は……」
「それも、拗らせた片思い、です」
「え、と……」
「呪いの一種ですが、祓っただけで解呪されないのは、そこに原因があります。発症理由が内因性というのも」
「解呪条件は」
「両思いになることです。それが叶えば、白銀の百合を吐き出して完治します」
くらりとした眩暈が歌姫を襲って、思わず眉間を押さえた。
「さっき、いえ、花が発生するとき、誰のことを考えましたか」
静かな、淡々とした問いだった。
「先輩、誰か、好きな人がいますか?」
いつもの、冷静な後輩の、医師の声で発せられたのは、ひどくかわいらしい問いだった。
「歌姫せんせ、風邪長いね?」
頭上からの声に、歌姫は顔を上げた。
「あら、虎杖お疲れ」
「お疲れ様でーす」
「報告書?」
「うん。さっき出してきた」
言われて、歌姫は教員室と続き部屋になっている事務室へ続く扉を見た。補助監督が詰めているその部屋では、ざわざわとせわしない空気があったが、教員室は歌姫ひとりだ。
「風邪、だいじょーぶなん? 硝子さんに治してもらわなくていいの?」
「もうほとんど治ってるからいいのよ。マスクは念の為ね」
そう言って、歌姫は少し下がっていたマスクを鼻の上へとずり上げた。
「あ、そっか。やっぱり喉大事にしてるんだ」
「そうね。術式の要だし」
「カラオケめっちゃうまいって聞いた! 今度行こ!」
「いいわよ。私の美声に酔わせてやるわ」
「何系が得意なん?」
「なんでも」
「え、ラップも?」
「もちろん」
「まじ! やばいね!」
はしゃいだ声を上げる虎杖に、歌姫は目を細める。
「あんたたちも任務ばっかりじゃなくて、ちゃんと遊びなさいね」
「あ、うん。この前釘崎と伏黒と遊び行ったよ」
「そう。青春なんて短いんだから、きっちり楽しみなさい」
「あ、それ、五条先生も言ってた」
「……」
「青春と任務だったら、青春の方が大事に決まってるでしょとか言って、夜蛾先生に怒られてたな」
けほ、と歌姫がひとつ咳をして、虎杖から顔をそむける。そのままこんこんと俯くから、虎杖が少し慌てた。
「わ、大丈夫? やっぱりまだ治ってないんじゃない?」
心配そうな虎杖に、歌姫は軽く首を振ってみせる。大丈夫よ、と目だけで微笑むと、虎杖はお大事に、と教員室を退出していった。
顔を伏せた歌姫は、マスクの隙間から、するりとたんぽぽを抜き出して、机の下に置いてある袋へと放る。
現在の歌姫の拠点は東京校となっているため、こうして教員室の主よろしく仕事をしているわけだが、その分やはりこうして、ふとしたときに遭遇する確率は高い。それでなくても、ここは歌姫が学生として過ごした場所でもあり、いたる所に思い出が刻まれている。
花が生まれる理由はわかったものの、だからといってタイミングを完璧に読めるわけでもない。誰かの前で吐き出すことを避けているため、マスクで隠している。
かさりと足元の袋が音を立てた。ここにあるものは半分ほどが埋まっている状態だが、仮宿にしている職員寮の歌姫の部屋には、既にきっちりと上まで詰められた袋が鎮座している。何度か燃やしているものの、人目を避けなければならないため、そうしょっちゅう持ち出せもしない代物だ。
生まれた花は何日経とうとも枯れず、その瑞々しさを保っていた。うっすらと歌姫の呪力をまとっており、それに比例するように、歌姫は自分の呪力と体力が少しずつ減っていることに気がついていた。術式の行使に影響が出るほどではないが、それでも常に少し疲れているような状態だ。
日々溜まっていく明るい色の花は目に楽しいはずのものだったが、歌姫にしてみれば、重苦しい心が可視化されているようで落ち着かない。
口から花が生まれ、数が増えるたび、その数分だけ、あの男を想ったという証を目の前に突き付けられているようで、その数分だけ、不在を実感しているようで、自分がひどく弱くなったような気がする。
ああ、ほら、また。
ぺっと慣れたしぐさで、歌姫は花を吐き出す。
増えていく花が、恋への、男への執着の表れのようで、気恥ずかしくて、煩わしい。きっとあの男がここにいたら、こんなことにはならなかった。
「ああ、確かに拗らせてる……」
ひとりきりの教員室で歌姫はぼんやりと呟いた。いないからこそ、こんなに安心して、好きだと思える。叶わないからこそ、これを恋と呼んでもいいと思える。
臆病ゆえだろうか。弱いからだろうか。
不在がひどく寂しくて、だからこそその空白に残されたものが愛しい。そこには確かに、五条悟が残した心があるからだ。
誰もいない教員室で、歌姫はひとり涙をこぼし、小さな花を生んだ。
「え、一日だけ?」
「しゃけ」
「夕方に咲いて朝にはしぼむんだろ?」
「なんでんなこと知ってんだよ」
「昔、正道に聞いた」
「すごいいい匂いがするらしいね」
乙骨たちが花壇に集まっているのを見て、歌姫は足を止めた。狗巻の手元にじょうろがあるところをみると、花の水やりだろうか。顔を寄せ合ってかわいらしいことだ、と歌姫はくすりと微笑んだ。
「あ、歌姫だ」
乙骨の肩に乗っていた小さなパンダが歌姫に気づいたので、手を上げて近寄った。
「水やり? 精が出るわね」
「歌姫先生、お疲れ様です」
ぺこりと頭を下げた乙骨にお疲れ様と笑みを返し、歌姫は花壇を覗き込んだ。
「何が咲くの?」
「なんかいろいろ」
「この前まではチューリップとかパンジーが咲いていました。きれいでしたよ」
「そうなの。余裕がなくてあんまりちゃんと見れなかったわ」
どことなく申し訳ない気持ちになって、主に世話をしている狗巻の顔を見やった。当の彼は気にしていないようで、鼻歌を歌いながら、また草木への水やりを再開している。
「そうだ、知ってますか、歌姫先生」
「ん?」
トーンが上がった声で乙骨がにこにこと笑っている。なにかいいことでもあったような、わくわくとした顔つきだ。
「なぁに、楽しそうね」
「なんと、一日しか咲かない花があるそうですよ」
びし、と指を立てた乙骨はとっておきの秘密を教えるように、ずいと身を乗り出した。
「なんでも夕方に開花して、次の日の朝にはしぼんでしまうそうです」
「めちゃくちゃいい匂いがするらしいぞ」
「レアだよな。その辺に咲いてないのか?」
「咲いてないんじゃないかな。だってすごく珍しそうだし」
「ここなんでもあるからな。棘、見たことあるか?」
「おかか~」
じり、と地を踏みしめる音が鳴って、会話が止まる。
「歌姫?」
足に力を込め、少し踏ん張るような姿勢になっていた歌姫が、咳とともにその身を折った。
「先生っ」
ぐらりと傾いだ体を乙骨が支える。止まらない咳に、歌姫の目には涙が滲み、呼吸が苦しそうだ。その背を叩いている真希がパンダと狗巻に、硝子さんを呼んでこい、と告げる。その腕を歌姫がぎゅっと掴んだ。もう片方の手で押さえた口元がマスクごと盛り上がっている。
「なんだっ? 呪いか?」
上ずった真希の声に、歌姫が首を横に振る。大丈夫だと目で告げて、マスクの中へ指を入れ込んだ。
「はっ……ぐっ……」
歌姫の手がマスクをむしり取ると、その唇から緑の茎が生えていた。
「は……?」
大した長さではないようだったが、歌姫は苦しそうにあえぎながらそれをずるりと口から引きずり出していく。その手に収まった茎には、いくつか花のつぼみがついていた。赤い筋に覆われた中身は恐らく白だと思われる。美しい純白だ。
「花……?」
真希の手が伸びる。ぐらぐらと揺れている歌姫の体を乙骨に任せ、検分するためにその花を取ろうとした。
「触らないで!」
その手を、歌姫がぱんっと払いのける。
「だめよ、触っちゃだめ」
花を取り出す際に傷ついたのか、唇から出血している。
「憂太」
「うん」
乙骨の手から反転術式が発動して、歌姫の傷があっさりと塞がっていく。けれど、歌姫は、その傷にも治ったことにも気づいていないような素振りで、自らが吐き出した花を見つめて荒い息をついている。
「月下美人……」
「え、これが?」
「一日しか咲かない花だろ?」
歌姫のつぶやきに、乙骨と真希が花を凝視する。
「っていうか、それより歌姫は大丈夫なのか? 口から花吐いたぞ」
パンダの疑問に、三人がそうだったと歌姫を取り囲んだ。
「とりあえず硝子さんのところか?」
「しゃけ」
「今のところ、おかしな気配は感じないけど、行きましょう、先生」
「悟がいれば、一発でわかったろうになぁ」
けほ、と咳の音がする。こほこほ、と咽るようにして歌姫がまた口元を押さえている。
「歌姫っ」
真希がその肩を抱くようにして支えるが、それを当の歌姫が拒否した。触れるな、と首を横に振って後ずさる。指の隙間からは、また白い花が覗いていた。
ほろほろと際限なく生まれ、零れ落ちる花は、今度は開花しており、辺り一面に濃厚な香りが漂う。
「……強烈だな」
腕で口を覆った真希が唸る。
「やっぱり変な呪力は感じない。ただの花だ」
「それ、燃やしなさい!」
乙骨が周りを探るように視線を巡らせていると、歌姫が急に叫び、身を翻した。
「あ、おい!」
「いいわね! それには触れないで、処分して!」
遠ざかっていく歌姫を見送り、四人は顔を見合わせた。
「これ、どうする」
「燃やせって言ってた」
「なんかの呪物か?」
「歌姫先生の呪力しか感じないけど」
「しゃけ」
「一回、硝子さんに相談すっか」
「触っちゃだめなんだよね。どうやって持ってく?」
「あたしらがだめなら、リカは?」
「リカでいいなら、パンダでもいいだろ」
「どういう理屈だよ」
「こんぶ、こんぶ」
「お、ごみ袋」
「でかした、棘」
「どっかにほうきあったろ。あれで集めるか」
「悟がいたら、術式で集められたのにな」
「便利だったな、あいつ」
花には触れないよう慎重に、丁寧に集めた花は、ごみ袋いっぱいになってしまい、それを真希がサンタクロースよろしく肩に担いだ。
「それにしてもすげぇ匂いだな」
「いい匂いだけど、量がすごいね。真希さん、重くない?」
「余裕」
そのまま四人は医務室へと足を向ける。走り去った歌姫の姿はもう見えなくなっていた。
はっはっと息が上がる。呼吸を整える間もなく、歌姫の口からは白い花が溢れて、それを逐一受け止めては、また走る。
歌姫が仮宿にしている職員寮の部屋は、歌姫が卒業してからずっと使用している部屋だった。京都を拠点にするようになっても、そこは出張の際に使用するために残してあった。教職員が少ないからこそできたことだ。荷物は整理し、ほとんどを京都に持って行ったが、それでも、まだここに残しているものがある。ずっと忘れていたそれを、歌姫は思い出した。
白い花、月下美人、あのまとわりつくような生の香りと円環を描く月明かり。十年、十年だ。あのとき言われたままの年月が経っていることに歌姫は歯嚙みをした。ひどく悔しかった。
たどり着いた古びた扉を力任せに開ける。奇跡的に壊滅を免れた職員寮はもうずっと建付けが悪い。ブーツを引っこ抜いて、抱えていた花たちを放り投げて、歌姫は台所に走った。シンク下の両扉を開ける。がらんどうの中に瓶が何本か並んでおり、その中に埋もれるようにしてある背が低い瓶を取り出した。ばね式の密封容器のなかには、歌姫が吐き出したものと同じ白い花が液体に浮かんでいる。年月が経った焼酎は少し黄色みを帯びて、けれど中の花はあのときと変わらないまま瑞々しく白く、咲いていた。
焦る手でばちんと掛け金を開ける。途端に漏れ出したのは甘ったるい芳醇な花の香りと、まろやかになったアルコールだ。
洗って伏せていたグラスを手に取り、焼酎を注ぐ。少しとろりとした液体が空のグラスを埋める。
手が震えていた。唇に硬く冷えたガラスが当たる。かちかちと音が鳴るのにも構わず、歌姫はその酒を口へと流し入れた。ぴりと唇を刺したのは、懐かしい呪力だ。
「ひ……あ……はっ……」
なんの痛みも苦しみも、違和もなく、歌姫は口からするりと最後の花を吐き出して、声を上げて泣いた。
月光に照らされたかつての短髪のような色の、美しい白銀の百合だった。
「お、季節外れのサンタがいる~」
ぱんぱんに膨らんだ白い袋を肩に担いでいる真希の姿に、虎杖が笑いながら近寄った。
「おい、触るなよ」
「なにが入ってんの?」
「花だよ」
虎杖の疑問にパンダが答えると、狗巻が袋の口をそっと開いた。
「うわ、すごい匂い。どうしたの、これ」
「わからん」
「なにそれ」
パンダの回答に虎杖が笑い、そのまままじまじと袋を覗き込んでいる。
「おい、まじでなにがあるかわかんねーから、触るなよ」
「はーい。これなんの花?」
「月下美人だって」
「へー。なんか、この花見たことあるかも」
「珍しい花らしいよ。一日しか咲かないんだって」
「え、じゃあなんでここにこんなあんの……って、俺、前もこんくらいの量を見たことある気がする」
「群生するようなもんじゃねーだろ」
「どこで見たんだっけ……なんか室内……あ!」
腕を組み、首を傾げていた虎杖が、閃いた! というように声を上げた。
「思い出したのか?」
「うん! これ五条先生の部屋で見た!」
「悟の?」
「そう。少し前釘崎と伏黒とで、先生の部屋の片づけしたんだけど」
「ああ。バカ広かったろ」
「すごかった。めっちゃ改造されてた」
「勝手なことしてって正道が呆れてたな」
「そうそう、で、ベッドとかもすげぇでかくて、クローゼットも広くてさ、そのなかにこの花があったんだ」
「おい、まさか触ったんじゃねーだろうな」
「ないない。なんか透明なケースにぎっちり入れられててさ。なんかの作品みたいだったよ」
「悟にそんな趣味あったか?」
「花なんか育てるようなやつじゃねーだろ」
「しゃけ」
「でも、優しかったから、五条先生」
「優しいねぇ……」
「歌姫あたりが聞いたら、絶句しそうな発言だな」
「ぜっっっっったいない! って頭心配されると思うぜ」
「え~そこまでかなぁ」
「でもパンダは悟好きだぜ」
「僕も尊敬してるよ。ずっと大好きな僕たちの先生だ」
乙骨の言葉には、誰も反論せず、ただ笑いあって、そのまま五人は、甘く、優しく、濃い香りを放つ白い花を抱えて医務室へと向かって行った。
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