千代里
2025-03-28 08:21:15
10943文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その55


 廃墟群の一つに案内された彼は、動けぬ我が身を呪うでもなく、ただ周囲の状況を見守り続けていた。
 ここは、町に住むことのできない人たちが慎ましく身を寄せ合って暮らしている集落だ。異端者の身内となってしまったが為に、隠れ住むことしかできなくなった人々。束の間の平穏を抱きしめるように暮らす彼らが、幻であろうと安寧に身を委ねることも彼は否定しようとは思っていない。
 だが、今日は違う。
 普段は見かけない若者たちの姿を、何度も目にした。集落の本来の住人は、女子供と年寄り、病人や怪我人だ。壮健な若者の姿など、この集落では殆ど見かけなかった。
 そんな若者たちも、病人たちの手伝いに来たわけではない。
 何せ、彼らの来訪と共に集落は刺々しい空気に包まれ、だというのにどこか熱狂的な空気も感じられる。
 ――良くない空気だ。
 直感で、彼――ヒューイはそう思った。
 その気配は、薬草を摘みに周辺に出かけようとしたときも感じた。
 外出を見咎められ、ヒューイは臨時の門番をしている男たちに捕まってしまった。どちらも、普段は集落では見かけない若者である。
 男の一人は、ヒューイの腕を乱暴に掴み、
「まさかとは思うが、お前、外に出て俺たちのことを密告しようってんじゃないだろうな……?!」
「おい、よせよ。先生にはお前も世話になっただろう」
 明らかに神経質になっているヒューラン族の若者を、エレゼン族の青年が宥めている。しかし、宥めている側の横顔にも、隠しきれない緊張が混じっていた。
 こわばった頬に、落ち着きなく何度も繰り返される瞬き。自身の感情すらも上手く掴めないヒューイは、その分、相手の感情を表情で読み取るのを得意としている。
(単なる休息のために訪れているわけではないとは分かっていましたが、ではなぜ彼らはこんなにも動揺しているのでしょう)
 訝しげに様子を伺うヒューイをよそに、男たちは会話を続けている。
「だけど、この大事な時によ……
「分かっているさ。作戦に失敗は許されない。一度でもしくじったら、あの頭でっかちの貴族は守りを固めてしまうだろうからな」
 緊張のためか、男たちは傍らにヒューイがいることも忘れてしまったらしい。話を横で聞いている限り、彼らは支配者層である貴族に対して攻めの一手を打つつもりのようだ。
「これが成功したら、町の連中も俺たちに感謝するに違いない。奴らの一部は、すでに俺たちに協力してくれているんだからな。ひょっとしたら、俺たちも町の中で暮らせるようになるかもしれない」
「ああ。しかも、それだけじゃない。ひょっとしたらイシュガルドで初めて、貴族に支配されない自由な場所を、俺たちの手で得られるかもしれないんだ!」
 熱に浮かされたように話す若者たちをよそに、ヒューイは掴まれたままの腕をじっと見つめていた。
 その様子に気がついたのか、若者は慌ててヒューイから手を離す。
「わ、悪い。とにかくだ、そんなわけだからよ、先生。頼むから、外には行かないでくれねえか」
「もし、巡回の騎士があんたを目にするようなことがあれば、それだけで作戦が台無しになってしまうかもしれない」
 最初こそ威圧的な態度ではあったが、最後は懇願のような姿勢で頼まれてしまった。
 その場合、通常の人間は余程の理由がない限り、態度を軟化させるものである――それが取るべき行動であると、ヒューイは客観的に観察してきた数々の経験をもとに結論づける。
「皆さんが何をしているか、私は問わない方がいいと言われました。ですから、質問をするのは控えましょう」
「助かるよ、先生。薬草が欲しいなら、俺たちでちょっくら摘んでくるさ。どんなのが欲しいんだ?」
「いいえ、急ぎではないので無理に採取する必要はありませんよ。それよりも、皆さんのような健康な方々をこの場所で見かけるのは珍しいと思うのですが、集落を何かに使うつもりなのですか」
「いやあ……まあ、そんな感じだ。ここは、あの通り道の洞窟以外は入る手段もないんだろう?」
 言葉を濁しつつ、念押しをするかのように若者が問いかける。その口ぶりは、薬効を再確認したい患者のそれに似ていた。
 この薬はちゃんと効きますよね。毒じゃありませんよね。薬ってなんだか怖くって――そんな風に錬金薬に疑問を抱く者は一定数存在する。彼らの声音には、ヒューイに薬について問い合わせる者とそっくりだったのだ。
「見ての通り、隠蔽と偽装の魔紋がかけられていますからね」
「だよな。だったら、すぐには見つからないはずだ」
「皆さん、集落でかくれんぼでもするつもりですか?」
「そうだな。それに、いくら交渉の材料に必要だからって、野晒しの魔物に襲われるかわからない廃墟じゃ安心できないだろうってことで」
「馬鹿、それは言うなってば。先生、なんでもないんだ。悪いけど、しばらくはこの辺りを離れないでくれよ」
 何やら安心を得たらしい若者に別れを告げて、ヒューイは集落へと戻る。
「貴族に支配されない自由な場所……
 男たちが会話の中で断片的に口にした言葉をもとに、ヒューイは思考を巡らせる。
 決して、自ら率先して状況を動かそうなどとは考えていない。
 とはいえ、事態を正しく把握していなければ、自分にとって不利益な状況が訪れる場合もある。
(不利益を与えられたところで、嫌悪などは感じることは稀なのですが……私の目的の障害になるのは困りますからね)
 忌避感というには淡白が過ぎる。
 かといって、憎悪といえるほど激しい感情も覚えたことはない。
 ――だが、執着ならある。
 だからこそ、ヒューイは男たちが漏らした情報を手繰り寄せ、自身の置かれた状況を把握するために思考の歯車を回す。
(集落にわざわざ集まった若者たち……シュガーグレイヴの人を協力者として得たのは薄々察していましたが、彼らが手を組んで歯向かう相手は、やはり貴族でしょう。その上で、こうやって隠れひそむ必要がある理由は……
 暫しの思考の末に、集落を取り巻く人々の熱気の意味に一つの結論を出す。
 その上で、今まで通り静観することを選択したヒューイは、仮の住処でもある廃墟の近くにやってきた。
 ここで抵抗するよりも、静かに時が過ぎるのを待つ方が良い。おそらく、程なくしてこの騒動にも終わりが訪れるだろう。
 それがヒューイの出した結論だった。
 だが、そうして静寂と沈黙を選んだヒューイにも、無視できないものがある。
 ――オオオォォォ。
 強風が谷を通り抜ける音にも似た、竜の太い咆哮。しかも、かなり近くに聞こえている。
 ヒューイが住処に到着するより先に、一体の竜が集落のはずれに着地するところが見えた。
 異端者たちは歓喜に沸いているようだが、それも半数ほどにすぎない。残りの半数は、竜の来訪に困惑を示している。
 様子を伺ってみるかと、ヒューイはそちらに足を向ける。
 近づくと、異端者の面々から代表して、一人の男が竜の前に跪くのが見えた。
「竜よ。此度も我らの作戦に眷属の力を貸していただけるとのこと、我ら竜に仕える者として。一同感謝をしております!」
 声を張り上げている男は、まさに意気揚々といった様子で、迸る激情を声に滲ませている。
 一方の竜は、熱気に酔ったような男とは対照的に、落ち着いた声音で男へと応じた。
『我が眷属は、お前たちの言葉に従うように命じている。好きに扱うといい』
「はい。ありがたきお言葉、感謝します!」
 さらに男は熱に浮かれたまま、自身を鼓舞する言葉と竜への感謝をつらつらと語っていた。
 竜から距離を置いていた人々も、男の様子を見て、恐る恐る竜に近づいている。
 その姿は、教会で戦神ハルオーネや教皇へと跪き、祈りを捧げる神殿騎士団の面々と大して変わらないように見えた。
 つまるところ、ヒューイにとっては『理解できない』存在だ。
(強大な何かに対して一心に畏敬を捧げる……そのような情動の動きがあること自体は知っていても、実際に自分がする姿は想像もできませんね)
 そんなことだから、不信心者に育つのではないかと両親に心配されたのだろう。
 実際、彼らの懸念は的中していた。だが、不信心者としての姿を表に出す前に、処世術として敬虔な信者の模倣を会得したので、大ごとにはならずに済んだ。
 過去に一瞬思いを馳せている間に、人の波が竜の元から去っていく。気がつけば、山の向こうに日が落ちる時間帯になってきていた。朝からちらちらと雪が散っていたため、さほど明るさに差があるようには思えないが、緩やかに訪れる濃紺の気配は夜だけのものだ。
「そろそろ時間だな」
「そろそろって、まだ何時間もあるだろ。木が早いんだよ」
「そんなこと言って、お前、声が震えてるじゃねえか」
「なあ、実行班の連中、うまくやるだろうか」
「ちゃんと人相は確かめたって言ってたからな。相手はガキ一人だ。しくじるような真似はしないだろ」
 通り過ぎていく人々の声を聞き流し、ヒューイは竜へと近づく。
 やはりというべきか、そこにいたのはヒューイにとって馴染み深い竜――蒼い鱗の有翼の竜であった。
「エレオノーラ。あなたが、異端者たちの協力者だったのですね」
『あなたですか、ヒューイ。あなたこそ、なぜこのような場所にいるのです? もしや、連中に触発されて、争いに身を投じるつもりではないでしょうね』
 剣呑な雰囲気を取り繕う様子すら見せず、エレオノーラと呼ばれた竜はヒューイを見下ろす。
 この竜は、『彼女』と大層親しくしていたと、ヒューイは『彼女』から聞いていた。
 だが、ヒューイが出会ったときからエレオノーラから感じるのは、大事なものを失ったが故に、全てを諦念で見守ってきた者だけが持つ、凍え切った感情の片鱗だけだった。
 そして、その断片だけはヒューイ自身と共有できるものだった。
「成り行き上、彼らと共にいるだけですよ。私は、ここで死ぬつもりはありません」
 松明を掲げて、まるで祭りでも始まるかのような勢いの若者たちを、ヒューイは遠目からじっと見つめる。
「どうやら、彼らはここを何らかの作戦の拠点とするようですね。あなたは何か聞いているのですか」
『詳しくは知りません。私にとっては、どうでもいいことですから』
「おや。あなたは、眷属を彼らに貸し与えているのではないのですか」
『所詮は、知恵を持たぬ魔物を私の魔力で染めただけのもの。眷属といえども、人が言うところの使い捨ての道具のようなものだ』
 その使い捨ての道具を嬉々として用いた結果、異端者は神殿騎士団への奇襲を成功させたわけだ。たかが魔物といえども、神殿騎士団の末端部隊が相手ならば十分に脅威となる。
「それでは、あなたも成り行き上行動を共にしているだけということですか」
 質問には、低い呻き声だけが響いた。当たらずも遠からずといったところか。
 もとより、竜は人とは異なる世界を眺め、異なる時間の流れを生きる生き物だ。人の思想に共鳴して、力を貸そうなどと言い出す方が稀である。
 目の前の竜の目的も、異端者の掲げた理想に感銘を覚えて――などといったことではあるまい。
『それよりも、ヒューイ。あなたの言う『その時』はまだなのですか』
「頃合いがよければ、もうじきでしょう。あの人形が、私の命じた通りに薬を摂取していたならば――
 そのさきの言葉は、まだ口にできなかった。もし口にして希望を抱いたとき、叶わなかった瞬間の絶望が深くなってしまうだろうから。
『私は、一縷の望みしか抱いていません。私とあなたがあの子から目を取り出したとき、既にあの子は死んでいた。人間によって追い詰められ、人間の鉄の道具で体を穿たれ、苦しみ抜いて死んだのです』
 その瞬間だけ、竜の声に明確な憎悪が混じった。ヒューイの胸の内にも、苦い感情が通り過ぎる。
 だが、彼にはその感情に名前をつけるすべを知らない。心を教えてくれた赤い竜は、エレオノーラが語ったように、人間の手によって死んだのだから。
『さぞ辛かったでしょう。さぞ苦しかったでしょう。そんな形で命を終えたものが、瞳を閉じる刹那に留めた感情など、どれだけ引き出したところで、結局は憎悪と憤怒を煮詰めただけのものかもしれません』
 我が血脈に連なる祖のように。
 首をもたげて、竜は山脈の向こうを見据える。そのさきに、彼女の言う『祖』がいるのかもしれない。邪竜と人々が呼ぶ、長きにわたってイシュガルドが戦い続けてきた竜が。
 長らく、竜を敵とみなしてきた人々にとって、このようにして竜と言葉を語り合う自分は限りなく異端者に見えるだろうと、ヒューイは承知していた。だが、彼は巷の異端者のように竜の血を飲み、竜の力を得たいわけでも、竜に隷属したいわけでもない。
「私は、ただ会いたいのです」
 瞼の裏、目を閉じれば今でも蘇る。ほんの泡沫の夢のようなひとときのことを。
「影でもいいのです。残響であっても構わない。何も覚えていなくても、そこに今際の際の憎悪しか残っていなかったとしても」
 二度と叶わないと思っていた。だが、思いがけない形で過去の失敗と再会した瞬間、確かに自分の胸は躍ったのだ。
 今度こそしくじるものかと、少しずつ、慎重にことを進めることにした。それでも、これは無謀な賭けだと思っていた。
『あなたのやっていることを人間が知れば、竜の血を飲む以上におぞましいと言うのでしょう』
「どうでしょう、これでも一応人道には則ったつもりなのですが。ただ、私も柄にもなく……浮かれているようです」
 皮肉なことにも、最も『彼女』をよく知る者がこの場所に揃った。
 オデットという人間の娘と語り合う、ありし日の彼女に似た振る舞いをするアレを前にしたときから、諦念に塗れていた己の中に火がついた。
「これが、私の人生最大の過ちになっても構わない」
 冷え切った心に、初めて熱をくれた竜のために。
「私は、『ゲルトルーデ』に会いたいのです」
 
 ***
 
 昨日まで、招かれざる客とはいえども、ノエたちは屋敷の中を自由に見て回ってもいいという許しはもらっていた。
 だが、今は違う。滞在している部屋こそ同じであるものの、ノエたちの扱いは軟禁そのものだ。
 出入り口には騎兵が詰めており、無断の外出を禁じている。そのため、ノエはオデットに会うために部屋の外に行くことすらできなかった。
「ノエ。もう夜も遅い時間だ。眠らないと、体に響くよ」
 隣の寝台から聞こえてきたヤルマルの声に、遅まきながらノエは自分が目を覚ましたまま何度も寝返りを打っていたことに気がつく。自分が起きていると言う感覚すら、考え事に耽るあまり、曖昧になっていたようだ。
……オデットが無事なのか、それが気になってしまうんです」
「アガテルの目論見は果たされた。この上、さらにオデットを亡き者にしてしまっては、悪目立ちが過ぎてしまう。あれほど他人の憎悪に敏感な彼女が、ボクらから余計な恨みを買うような真似をするとは思えないよ」
 ヤルマルのもっともな指摘を受けて、ノエは自分の中に滞留する不安を無理やり飲み込んだ。
 実際、オデットを傷つけるつもりがあるなら、同時にノエたちも始末した方が最も安全だ。軟禁などせず、玄関ホールで詰問した時点で取り押さえて、命を奪えばよかった。
 そのような策をとらないということは、逆説的に彼女の無事を示している。ノエとて、理屈では分かっているのだが、
「こういうことは、頭で納得しても気持ちが追いつかないものみたいです。ヤルマルさんの言う通りだって分かってるのに、それでも不安が拭いきれなくて」
 枕に顔を埋めて、喉の奥に詰まった形のない心配を吐き出すように彼は言う。
「この後も、まだ何か良くないことが待ち構えているような気がして……だから、せめて起きていたいと思うんです」
「心配性だね、と言えたものでもないか。ボクも、さっきから耳の先がピリピリしているから」
 ぱたぱたと軽く何かを叩くような音は、ヤルマルが自分の大きな耳を動かしているからだろうか。
「夕方に来たルーシャンの使い魔に預ける伝言、もう少し切羽詰まった内容にすればよかったと思ってる?」
……いいえ」
 ヤルマルの言うように、夕方ごろに一度、二人の元に使い魔と思しき小鳥がやってきた。おそらく魔法を得意としているルーシャンのものだろうとはすぐに分かった。
 ならば、この鳥にどんな伝言を託すかで、ヤルマルとノエは暫し悩み、結局自分たちは無事であること、軟禁されているようなものなので外と連絡が取れないことだけを伝えた。
「もし、僕たちが助けてくれと言ったなら、三人は玄関扉を破ってでも外に連れ出してくれたと思います。ただ、そんなことをしたら、それこそ余計な恨みを買ってしまいます」
「そのままルグロ家の騎兵と大立ち回りというのは、流石にボクも遠慮願いたいな」
 万が一、ノエたちが敗北した場合、どんな扱いを受けるか分かったものではない。アウラ族の二人は異端者として処刑されてしまうかもしれない。アガテルも、自分の秘密を――たとえそれが細やかなものであったとしても――知る者を排除できるのならば、庇いはしてくれないだろう。
「ルーシャンのことだ。おそらく、オデットにも同じような使い魔を送っているだろう。その上で彼らが静観を決めたのなら、オデットはきっと無事さ」
……そうですね。オデットが助けを求めてきたり、返事をしなかったなら、その場合でもやっぱり三人が押しかけてきたでしょうから」
「君もそう思うかい? ボクも、オランローがあの顰めっ面で玄関ホールに押しかけてくる姿が目に浮かぶようでね。蝶よ花よと育てられたご令嬢が荒くれ者の彼らを目にしたら、卒倒してしまうだろうさ」
 わざと冗談めかした言葉を口にしてくれているのは、考えるまでもない。ノエも、あの豪華絢爛な花畑の如き空間に、馴染みの友人の顔を合わせてみて、苦笑いをこぼしてしまう。
 今滞在している屋敷の内装は、自分ですら場違いに思うことがあるくらいなのだ。冒険者として荒事に対処できるように武装した三人の姿は、どう考えてもチグハグである。
 こんな状況ではあるものの、少し笑えたおかげだろうか。先ほどまで沈むばかりだった心が少し浮きあがっていく。
 咄嗟の時にすぐ動けるよう、体を休めるの大事なことだ。ならば、今は眠ることに集中しよう。寝返りを打ち直し、ヤルマルに簡単な眠りの挨拶を告げてから目を閉じる。
 体を動かしていなくても、疲労は知らず知らずのうちに溜まっていたらしい。瞼を閉じると、程よい眠気がノエの内側を満たしていく。
 そうして十分か、あるいは二十分か。ひょっとしたら一時間は経っていたかもしれないし、五分にも満たない時間だったかもしれない。
 そんなささやかな時間を経た後。
 ノエの耳は、ノエに覚醒をもたらした。
……?」
 何か、静寂に似つかわしくない音がした気がする。
 その感覚はあるのに、では具体的にそれが何であるかがわからない。まだ覚醒し切っていない間に、音が遠ざかってしまったのだろうか。
 けれども、空気に伝わる気配には、寝入っている使用人や巡回の騎兵とは異なるものが混じっているという確信がある。明確な音や光ではなく、野生の獣が持つ直感にも似た感覚だ。
「ノエ」
「はい、起きています」
 ヤルマルに応答してから、ノエは慎重に体を起こす。
 カーテンが閉められた部屋は、月明かりが布の隙間からこぼれ落ちるだけで、存外に薄暗い。ざっと部屋を見渡してみても、見覚えのある調度品が並んでいるだけで、ノエが目覚めた理由になりそうなものはない。
……外かな」
「そうかもしれません」
 扉の向こう、あるいは窓の向こうか。ヤルマルの問いかけに、ノエは選択肢を狭めていく。
 武器が手元にないことが、これほどまでに心細いと思ったことはない。衣服の下にくくりつけていた、父から譲り受けた剣を加工して作ったナイフをそっと服越しに触って確認する。
 軽く一呼吸置いてから、ノエは寝台から滑り降りた。だが、
「おい、そこで何をしている。外に出るなと言われているだろう」
 入り口で門番よろしく立ち塞がった騎兵が、ノエを一喝した。
 まだ武器は抜いていないが、強引に外に出ようとすれば腰の剣はすぐに抜かれるだろう。
「外から物音がしたような気がしたのです。今日のアガテル様の言葉を聞いて、反感を覚えた町の人が侵入してきたのかもしれません」
「そうでなくとも、普段は人のいないこの屋敷も、今は君たちが持ち込んだものが置かれている。少数の護衛しかない状態で、価値のあるものが沢山運び込まれているとなれば、盗賊に目をつけられたかもしれないよ」
 無難な推測としてまず挙げられるのは、外からの侵入者だ。金目のものがあると踏んで押し入ってきた強盗など、その筆頭である。
「ならば、我々が確認してくる。おい、少し様子を見て来い」
 騎兵の一人が扉の向こうに消えるのを、ノエは内心苦い顔で見送った。
 できることなら、もう一人も送り出して、隙を見て自分たちも脱出したいところだが、どうやらそこまで騎兵たちも気を緩めていないようだ。
「ボクたちのことはいいから、君も仲間の様子を見に行ったらどうだい」
「そんなことを言って、私がいなくなった隙に部屋を出るつもりだろう」
「はっはっは、お察しの通り、いつもなら飛び出していたところなのだけれどね。君たちに武器を取り上げられてしまった今となっては、出たところで、強盗に本当に出会したらボクたちの方が危ない目に遭ってしまうよ」
 あくまで無害な忠告の体裁を装いながらも、ヤルマルが話している裏でノエは思考を回転させる。
 騎兵たちから見たら、ノエたちの「侵入者の予感」は外に出たいがための嘘のようにも聞こえるだろう。それでも、騎兵の一人は素直に様子を見に行ってくれた。
……ここが引き際か?)
 一瞬、譲歩が生み出した結論に、頷きそうになる。だが、すぐにノエは首を横に振った。
 聞き分けの良い自分を押し除けたのは、仮に賊が侵入した場合、オデットは騎兵たちに守ってもらえるだろうかという疑いだ。
「本当に暴徒と化した人々が押し寄せてきたら、一人の騎兵ではどうにもなりません。外には決して出ませんし、あなた方の仕事の邪魔もしません。せめて、オデットやアガテル様の無事を確かめに行きませんか」
 アガテルは、ノエにとっては依頼主でもある。不愉快な真似はされたものの、依頼主を守りたいと傭兵が名乗り出るのは不自然な申し出ではないはずだ。
 そして、それは騎兵も同じのはずだ。できれば利害の一致を受け入れて、頷いてくれればと願った――その矢先。
「奴らが何をしていようと、ここを通すことはできない。貴様らは、大人しく寝ていればいいのだ」
 単なる居丈高な威圧にも思える一言。
 だが、そこにわずかによぎる違和感が、ノエの胸をざわつかせる。
 一体何が引っかかったのか――その答えはすぐに弾き出せた。
「あなたは、侵入者がすでに館に忍び込んでいる前提で話をしているように聞こえます。なぜ、誰かが忍びこんだと確信できているんですか」
 こんなものは、単なる言葉尻を捉えた揚げ足取りだ。だが、見過ごすわけにはいかない違和感でもあった。
……そ、それは」
 そして、この揚げ足取りに、騎兵は動揺を見せた。ノエは更に疑いを濃くする。
「僕たちは、物音がしたと言っただけです。一人は様子を見に行ってくれましたが、それはあくまで状況確認だと思っていました。……今、この瞬間までは」
「奴ら、と言ったね。君は侵入してきた者のことを知っているのかい」
 先ほどまで談笑していたとは思えない鋭い気配に、相手は徒手空拳と分かっていても、騎兵は一瞬たじろいだ。
「知っているなら、尚更聞かせてもらおうか。相手は誰なのか。それに、どうしてボクたちを足止めしているのか」
「き、貴様らに話すことなど何もない! 俺も貴様らも何も聞いていなかった! それで納得しなければ――
「アガテル様も、その侵入者のことを知っているのかい」
 騎兵の顔に動揺と迷いが走る。直情的な性格らしい彼は、咄嗟に何か言いそうになっていた。つまり、当たらずも遠からずか。
「質問を変えようか。その侵入者は、アガテル様に危害を加えるために来たのかな」
「そ、そんなこと、お前らに話すわけがないだろう! 第一、お嬢様はご自分の策で難を逃れたのだから――
 そこまで言いかけた瞬間、ノエの眉が吊り上がる。
……もしかして、オデットが……アガテル様と一緒にいた彼女が、あなたたちや侵入者の狙いなのですか」
 騎兵に今まで以上の激しい動揺が走ったのは、がちゃがちゃとけたたましく響いた甲冑の音から明らかだ。
 なぜ、侵入者とオデットに結びつきを与えることが、騎兵たちの狙いとなるかまではわからない。だが、このまま黙って見過ごすわけにもいかない。
「そこを退いてください」
「断る! お前らは大人しく部屋に戻っていろ」
「お願いします。僕は、オデットを守りたいだけなんです!」
 懐に忍ばせたナイフに、手を伸ばす。
 ここで騎兵を斬りつけたら、取り返しのつかない結果を招くかもしれない。そのほんの僅かな躊躇の隙間を縫うように、騎兵が守っていた出入り口の扉がゆっくりと開いた。
 ランタンを片手に部屋に入ってきた人物は、アガテルの執事である男だ。
 男はノエとヤルマルを一瞥すると、やれやれと首を横に振り、
「騒動になっているかと思って、様子を見に来ましたが……やはり、大人しくはしてくれませんでしたか」
「あなたはアガテル様の従者ですよね。屋敷に賊が侵入したかもしれないんです。今すぐ様子を見に行きたいのですが、同道していただけますか」
 賊と裏で繋がりがありそうな騎兵がいたのなら、ひょっとしてこの従者も、と懸念がよぎる。
 そして、嫌な予想とは得てして当たってしまうものらしい。
「ご安心ください。アガテル様は、私の方で保護をしています」
 喜ばしい知らせを語る執事の笑みには、ノエたちの背筋に冷たいものを感じさせる何かがあった。
「オデットさんのご協力に、私どもも大変感謝しているのですよ。おかげで、ようやく全ての準備が整いました」
 言葉とは裏腹に走る嫌な気配に、ノエは既に自分の手の届かない所で歯車が動いていることを確信する。
……それは、どういう意味ですか」
 事態を正しく理解するためにも、彼は問いかけをやめなかった。
 一刻も早く、オデットの元に向かいたい。逸る気持ちとは裏腹に、ある種の予感が告げている。
 自分は一手、遅かったのだと。