千代里
2025-03-27 08:15:28
10679文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その54


 アガテルに連れられてたどり着いた一室で、オデットは今まで詰めていた息をようやく吐き出した。
 呼吸を止めていたわけではないというのに、まるで何時間も水の中に閉じ込められていたかのように、喉の奥につっかえを覚えていた。ノエたちとアガテルのやり取りは必要なことではあると分かっていても、あのような刺々しい空気は苦手だと感じてしまう。
 ふらふらと部屋に入ったオデットは、柔らかなクッションが乗った椅子へと腰を下ろす。目も覚めるような美しい花柄も、昨日見た時に比べると随分と色褪せて思えた。
 今、ここにアガテルはいない。過ごしやすい格好に着替えると言い残して、女中と共に出て行ってしまったのだ。
 視線を横にずらすと、寝台には依然として眠ったままのゲルダが横たわっている。部屋を出るときと変わらない姿に、安堵と一抹の寂寥を覚えてしまうのは否めない。
「ゲルダが起きて、先ほどのことを聞いたら、アガテルさんのことをどう思うのでしょう……
 いまだに喜怒哀楽の表現が不得手なゲルダではあるが、彼女がオデットという友人に特別な感情を抱いているのは間違いない――と思うのは、自惚れだろうか。
「だめですね。わたし、兄さんにあんなこと言ったのに、まだ動揺しているみたいです」
 眠っているゲルダが返事をしてくれないことが、今のオデットにとってはありがたかった。先だっての一件について、今は肯定も否定もしてほしくない気分だった。ただ黙って、オデットの感情の片鱗を受け流してほしかった。
「アガテルさんが、町の人に恨まれるのが怖いってことを、もっと早く教えてくれていたら、わたしは可哀想だって思っていたはずです。でも、きっと……それだけだったのでしょうね」
 身代わりとしてオデットの姿を貸してくれ、などと言われたら、まず間違いなく躊躇した。彼女のために全てを捧げるとは言い出せない。それは、今も同じだ。
 短い間であっても、彼女と話をすることでアガテルの友人になったつもりではいた。
 だが、結局のところ、当初の依頼にあったいっときの暇つぶし――アガテルの不安を一時的に緩和するだけの役割しかオデットは果たせなかった。オデットは、『責任など負ったことのない能天気な傭兵さん』にしかなれない。
 それを分かっていたから、アガテルもオデットを「信用していない」と線を引いた。自分に同情して、何もかもを捧げさせようなどとはしなかった。
 自分がオデットを利用する腹積りがあったから――だけではないのだろう。
 オデットでは、真の意味で友人になれないとわかっていたからこそ、彼女はオデットを利用する悪役の役割を手放さなかったのだ。
「わたしは、兄さんのように怒ることもできない。だけど、受け入れることもできない。……中途半端なんです」
 ゲルダのそばに顔を埋め、ぽそぽそと独り言を漏らす。
 ゲルダが異端者の仲間だと知ったときは、最初は困惑を覚えた。最終的に、ゲルダは他の異端者たちに騙されたような形だったのだから仕方ないと、オデットはゲルダの過去を受け入れることにした。
 だが、もしゲルダが異端者の活動を支援したいと本気で口にしたら、どうだろうか。
 自分はまた、掌を返していたのだろうか。
 友人になりたいと思った口で、友人の願いを聞いた瞬間に背を背けたのだろうか。
 そう思うと、まるで自分がとても醜い自分勝手な生き物に思えて、ますます気持ちが塞がっていく。
 かつてノエは自分の振る舞いが偽善者だと言っていたことがあった。あの時のノエも、今の自分と同じ気持ちだったのだろうか。だとしたら、当時のノエを励ましていた自分は、何も分かっていなかったのだと今になって思う。
(わたし、あの時は何て兄さんに言ったのでしたっけ……
 ズブズブと、沼に嵌るような重苦しい思考に沈んでいると、
「オデット。あなた、そんなところで何をしていますの」
 ふわっと、意識が浮上する。どうやら取り留めもない思考の堂々巡りをしている間に、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 敷布団に押し付けていた頬を上げると、見覚えのない面差しの少女がオデットを覗き込んでいた。
「だれ、ですか……?」
「まあ、随分なご挨拶ですこと。居眠りをしているだけではなくて、依頼主の顔を忘れるなんて!」
「え。もしかして、アガテル、さん……?」
 寝起きでぼんやりとしていた頭が、ゆっくりと覚醒していく。
 少女の背を流れ落ちる、豊かに波打つ柔らかそうなアイスブルーの髪は、確かに見覚えのあるものだ。髪の色だけで気がつけなかったのは、顔を隠すベールの存在が強かったからもあるが、ベールの向こうから姿を見せたアガテルの素顔の印象の強さも原因だろう。
 気の強そうな凛としたエメラルドグリーンの瞳が、物怖じすることなくオデットを見つめている。自分がオデットの姿を隠れ蓑にした後ろめたさなど、まるで感じさせない――実際にどう思っているかはともかく、少なくとも表面には出さない凛とした風貌に、オデットは瞬時圧倒されてしまった。
「もしかしなくても、わたくしですわ。ああ、そういえばあなたの前に顔を晒すのは初めてでしたわね」
「は、はい。今初めて、わたしはアガテルさんと顔を合わせました」
「それは失礼しましたわね。改めまして、わたくしこそがアガテル・ド・ルグロですわ。どうぞよろしく」
 スカートを引き、簡素な礼をしてみせるアガテル。ベールも取り払われたおかげで、彼女の淑女然とした様子は、昨日会ったときよりもますます際立って感じられた。
 オデットが何を言おうか言葉に悩んでいる間にも、アガテルはすたすたと部屋に据え付けられた椅子に腰を下ろす。部屋の入り口には女中が一人控えているものの、オデットとアガテルだけがこの場での発言を許されているような、言い難い静けさに包まれていた。
「あの」
 口火を切ったのはオデットだ。しかし、先だって、アガテルがオデットの姿を借りた件について、すぐに触れる勇気も出ず、
……どうして、その姿に?」
 結局、質問できたのは、聞かなくとも答えのわかるような瑣末な疑問だった。
「薬と魔法の効果が切れましたの。だから、元の姿に戻っただけですわ」
 言いつつ、アガテルは手を伸ばしてみたり、指を閉じたり開いたりを繰り返して見せる。オデットとアガテルでは体格がわずかに違うので、肉体の感覚を取り戻すのに苦労しているようだ。
「でも、昨日はベールで顔を隠していましたよね」
「ええ。先んじてあなた方が外の者と連絡をとって、わたくしの風貌を吹聴するようなことがあったら困りますから」
「でも、それならリンクパールを昨日のうちに預かっておけばよかったのではありませんか」
 もっともな指摘を投げかけると、アガテルは不満げに唇を尖らせた。
「あなたの耳のそれが、外部と連絡を取ることができる道具だと、わたくしが気づかなかったが故の落ち度ですわ。もっと手に取れない形でやり取りをしているのかと思っていましたから」
 アガテルがリンクパールの存在を強く意識したのは、彼女が帰宅する前にオデットたちが変装に気がついていたことだ。それに加えて、アガテルは何とかして連絡手段を取り上げられないかと従者に訴えたと語る。
「そうしたら、そのようなやり取りのための道具があると教えていただきましたの。早く教えないと言いましたのに、あの男ったらなんと言ったと思います? 『賢いお嬢様のことですから、私が何も言わずとも全て承知の上と思っておりました』ですって! 白々しいったら!」
 憤慨した様子からも、アガテルが執事である男に対して、決して友好的な感情を持っていないことが分かった。玄関ホールでも言っていたように、彼はあくまでアガテルの父親から派遣された監視役のようだ。
「ともあれ、知った以上は無視できません。回収するように指示を出すのは当たり前でしょう?」
 リンクパールなど、冒険者の間では一般的な品ではあるはずなのだから、アガテルが知らずとも執事ならすぐに気づきそうなものである。彼はアガテルの弱みが外に露見する可能性を、わざと残しているようにも思えた。
(執事の人は、アガテルさんの変装を良く思っていないのでしょうか)
 ひょっとしたら、自身を偽ってまで身を守ろうと言い出したのはアガテルだけなのかもしれない。だとしたら、それもまたアガテルにとっては心細い話だっただろう。
「どうして、アガテルさんはわたしの姿を模倣しようとしたのですか」
「あら、それはゲルダもいたのに、という意味? それとも、わたくしがあれほど懇切丁寧に説明したのに、あなたにはわたくしが町の人間に姿を晒した意味が分からなかったの?」
「前者のつもりでしたけれど、もし兄さんたちに話した以外の事情があったら、後者の部分も教えてほしいです」
 話題のきっかけを求めての発言だったが、望外にも核心に繋がる内容をアガテルは自ら口にしてくれた。
「ゲルダを選ばなかった理由は単純ですわ。あなたの方が、わたくしの元の体に近い体型をしていましたから。ゲルダは、あなたよりも背が高いようでしたし、ヒューラン族の見た目をしていましたでしょう」
 アガテルは自分の尖った耳――エレゼン族特有の耳を指さして続ける。
「お父様がエレゼン族であることは、町長のように一部の人間には既に知られていること。その娘がヒューラン族の見た目をしていたら、不自然でしょう。それに、あなたはどこか、わたくしと面差しが似ているところがありますもの」
 オデットは、内心でぎくりとする。面差しが似ているのは、ひょっとしたらオデットが前領主――エヴラール家の当主の血を引くからではないだろうか。
 エヴラール家とルグロ家は、本家と分家の関係にあったと聞いている。
 薄い繋がりであろうと縁戚関係であることが、二人の少女にわずかながら共通の雰囲気を纏わせているのかもしれない。
……そんなことは、もちろんアガテルさんには言えませんけれど)
 本家の当主の血を引く者がいるなどと分かれば、既に領地の統治が移行した今となっては、余計な火種にしかならないだろう。
「薬による肉体の変化は、幻惑魔術と異なって、本当に肉体そのものが変化したように感じますの。あなたのように、少しでも背格好が似ているものでなかったら、まともに歩くことすら難しかったでしょう」
「それだけを聞いていると、とても恐ろしい薬のように思えるのですが……アガテルさんの体は大丈夫なのですか」
「まあ、慈悲深いことですわね。自分の顔を奪った女の体の心配をしている場合なのかしら」
 そうは言うものの、治癒魔法を習ったオデットとしては、肉体の変化などという、そら恐ろしい単語を聞いただけで、あれこれ嫌な想像をしてしまうのだ。妖異に体を奪われたノエの肉体が変化する姿を目にしたとき、彼の体が二度と元に戻らないのではと不安に駆られたこともある。
 アガテルは無事に自分の顔に戻れたようだが、もしかしたら変化したまま戻れなくなった人もいるのでは――と嫌な想像も働いてしまうのである。
「体の方は問題ありませんわ。少々手指の感覚に誤差がありますけれど、直に収まるでしょう」
「それなら……よかったです」
「あなたって、変わっているって言われませんこと? それとも、わたくしの体の心配をする余裕があるほど、あなたは既にわたくしを許してくれたのかしら」
 眉を顰め、ふんと鼻を鳴らすアガテル。彼女は、オデットがもっと自分を責め立てるものと思っていたようだ。
「アガテルさんがわたしの顔で皆さんの前に立ったことを、許したわけじゃありません」
 己自身の心を噛み砕くように、オデットは一つずつ言葉を選ぶ。
「だけど、アガテルさんが不安だと感じた気持ちがあったことは、わたしが許しても許さなくても、そこにあるものですから。その気持ちまで間違っているとは……言いたくないんです」
 その不安を解消する手段に頷けなかったとしても、アガテルの動機まで否定するつもりはない。今のオデットが見つけられた答えは、それだけだった。
 真面目に返答をしたものの、アガテルはノエのように頷いてはくれなかった。ただ、半眼になってじっとりとした棘混じりの視線をオデットに向けるだけだった。
「そ、そういえば、先ほど答えてくれると言ったもう一つの質問の回答が、まだでしたね」
 刺々しい空気に耐えきれず、オデットは再び話題を切り戻した。
 アガテルはアイスブルーの髪の毛をいじりながら、ふんと鼻を鳴らした。
「概ねは、先ほど話した通りですわ。付け足すなら、きっと町の者はお父さんのお言葉を理解しないだろうと予想していたから、でもありますわね」
「そういえば、アガテルさんは皆さんの前でどんなお話をされたのですか?」
 現場から連絡をしてくれたルーシャンは、さすがに演説の全容までは説明してくれなかった。
 父親の名代として派遣されたのだから、子供のような世迷いごとは口にしていないはずだが、それならばルグロ家の当主は一体どんな言葉をアガテルに預けたのか。
「わたくしは、イシュガルドに生きる民なら皆分かりきっているはずのことを伝えただけですわ」
 ぱちくりと瞬きをするオデットに、アガテルは扇子をパンと広げて続ける。
「竜との戦いは、未だ激化している。だから、しばらく耐え忍んでほしい。わたくしが預かった言葉は、概ねこのような内容です。このようなこと、子供でも分かりそうなことだというのに、わざわざ口で言って聞かせないと伝わらないなんて。わたくしを派遣するお父様に思うところはいくつもありますけれど、それと同じくらいに彼らの愚かさには呆れてしまいますわ」
……愚か?」
 オデットの脳裏には、シュガーグレイヴの街並みで見かけた人々の姿が浮かんでは消えていった。
 終わらない冬に疲弊し、いつかは立ち行かなくなると分かっていても、今の生活を捨てられない人がいる。騎士団の遠征の途中で立ち寄った、羊飼いの人のように。
 あるいは、明日には飢えるかもしれない不安を抱えながら、凍りついた畑を耕している人たちがいる。
 孤児院の子供たちすら、自由に遊ぶ時間を削って、代わりに作物を収穫するために汗水を流していた。
 その日一日を生きるために積み重ねた労苦を、少しだけでも和らげたいと訴えた切なる願い。
 それを、目の前の少女は愚かと言うのか。
「ええ、だって愚かではありませんか」
 彼女の間に明確に存在する溝の存在に、オデットが打ちのめされかけた矢先。追い討ちをかけるように、アガテルは言う。
「彼らは、竜と戦うために税を納めているという感覚が抜け落ちているようなのですから」
「竜と……
「そうですわ。わたくしも、彼らの陳情についてはお父様の愚痴から漏れ聞いています。厳しい気候の変化についても、百も承知しています。ですけれど、竜の活動は、わたくしたちが寒冷化に慣れるのを待ってくれるわけではありません。特に、近頃は邪竜が再び活動し始めたという話も聞きますし……
 言いながらも、アガテルは指が白くなるほど強く扇子を握りしめていた。微かに扇子の先端が震えているのは、きっと気のせいではない。
「もし、これで民から納める税が減れば、教皇様や神殿騎士団への支援もできなくなってしまう。その先に待っているのは……竜の侵攻、なのですわよ」
 どれだけ屈強な護衛に守られていようと、竜の侵攻を止めることはできない。グリダニアにいるオデットの友人も、かつてイシュガルドの地にいた頃は、竜の咆哮に怯える夜を過ごしたと語っていた。
 煌びやかな内装に彩られた貴族の館も、豪奢なドレスも、竜の前では等しく塵芥も同然。だからこそ、領主は迂闊に減税や方針の転換を宣言できない。ひとたび、現状の均衡を崩せば、取り返しのつかない結果になることを恐れているから。
「今までの状況を維持して、ようやくわたくしたちは……イシュガルドという国は、今の形を維持できていますの。たった一つでも綻びがあれば、あっという間に瓦解してしまうかもしれない」
 武器を用意する資金が足りなくなって、竜の進軍を許してしまったら。
 砲のための弾が準備できず、飛竜に砦を焼かれてしまったら。
「わたくしたちが、その最初の綻びになるわけにはまいりません。ですから、わたくしは……間違った言葉をお父様から預けられたとは思っていません」
 そこでひと呼吸を置いてから、アガテルは扇子を広げて口元を隠す。この先、口にする言葉は表に出してはいけないと思っているかのようだ。
「ですけど、町の人間にとっては自分の主張が無視されたと感じるでしょう。己の意見が蔑ろにされたとき、人は敵意を持つものであるということは、わたくしも……お父様も、よく存じております」
「だから、わたしの見た目を借りた、ということなんですね」
「ええ。わたくしとて、己の身の安全を守っていたいのです」
「その代わり、わたしはアガテルさんと勘違いされて、町の人に嫌われてしまうのですけれど」
 ぽそりと呟いた言葉は、せめて自分が感じた気持ちを彼女にも分かって欲しいと思ってのことだった。
 だが、アガテルが町の者に語った言葉が、聞くに耐えないような酷い内容でなくてよかったと、オデットは内心でわずかに安堵してもいた。もしそうだったら、自分は大層いたたまれない気持ちになっただろう。
 オデットの小さな反駁を聞いて、アガテルは細い眉を顰める。
「あなたには、戦う力があるではありませんの。それに、わたくしと違って、どこかに行くのにお父様の許可をとる必要もないでしょう」
…………
「それに、あなたにはノエやヤルマルがいる。外には、他にも仲間がいるという話でしたでしょう。だったら……それで良いではありませんか」
 当て擦りではなく、単なる事実確認としてアガテルは言う。先だって彼女が叫んでいたように、目の前の姫君には自由にならないものがあまりに多いようだ。
 対して、オデットはどの町に行こうが自由の身だ。
 イシュガルドに残るのが嫌になったら、グリダニアにあるヤルマルたちの家に身を寄せるという選択肢もある。貴族として、この先顔も知らない男に嫁がなければならない使命を持つアガテルと違って、オデットには自由を束縛するものはあまりに少ない。
 だったら、少しぐらい迷惑を被らせてもいいだろう。アガテルは、自分の中でそのように結論を出していたようだ。
……リンクパールを取り上げたのは、外にいる人にこの件を伝えないため、という話でしたね」
 これ以上、町民とオデットを謀った件について話したところで、平行線を辿るばかりである。オデットはそのように結論を出して、話題をずらす。
「ええ。あなたが、外の者と連携をとって脱出した挙句、町民の前で真実を暴露でもされたら、大変ですもの。邸に連中が押しかけてきたら、流石にわたくしの護衛たちでも守りきれないかもしれませんから」
「では、アガテルさんがいなくなってからなら、暴露しても構わないと思ってるのですか?」
「それはご自由に。ただ、その前に――……その前に、あなたの話に人々が聞く耳を持ってくれれば、ですけれど」
 一瞬言い淀み、アガテルは何か別のことを言おうとしたようにも見えた。だが、結局彼女が口にしたのは、オデットにも想像ができていた内容だけだった。
(そういえば、アガテルさんが町の人の意見を無視するような演説をしたわけですから、そうなると町の人がもっと怒って、この邸に押しかけてきたりは……しないのでしょうか)
 アガテルは、自分の偽装がバレなければ安全であるかのように言っていた。
 しかし、広場で気炎をあげていた彼らの様子を知るオデットとしては、たとえ彼女の偽装がばれなかったとしても、演説の内容だけで怒りのままに押しかけてくるのではないか、と思えてならなかった。
 アガテルが女中と話をしている隙をついて、オデットは恐る恐るカーテンへと近寄り、その分厚い布地をどけてみる。
 透明度の高い窓ガラスの向こうには、いつもと変わらない静かな雪景色が見えるばかりだった。すでに日が暮れかけ、ぽつぽつと街の灯りが灯っていく様子が伺える。幸い、松明を掲げて集まる暴徒の影などは見当たらない。
 大きな生き物がそっと息を殺しているような、言葉にし難い緊迫した空気はある。だが、目に見えた脅威はない。
(このまま何事もなく、これまで通りの生活に戻っていくのでしょうか)
 だが、これまで通りとは何を指すのだろうか。人々が拳を振り上げ、貴族への不満を爆発させる日々のことか。
 それとも、さらに前の状態――行き交う人々が暗い顔で互いを見やり、ため息をつきあう日々のことか。竜に怯え、竜と戦う人のために己自身を削り、磨耗していく日々か。
 一体何があるべき姿なのか。そんなことすら容易に想像できない現状に、オデットの胸が疼く。
 これ以上町を見ている気持ちにもなれず、視線を逸らそうとした時だった。
 ――こんこんこん、と。
 ひどくささやかな音が、窓辺から響いた。
……?」
 振り返れば、窓辺には小さな影が一つ。小さく羽ばたくその姿は町でもたまに見かける小鳥だ。だが、すでに日が暮れつつあるというのに、小鳥がこんな所まで何故顔を出したのか。しかも、まるで扉を叩くような――
(扉を叩く? いえ、この小鳥はもしかして)
 夜が近づいているせいで、小鳥の姿形ははっきりとはわからない。だが、小鳥からどこか馴染みのあるエーテルの気配を直感的に受け取り、オデットはそっと窓の鍵を開いた。
 普通の小鳥は、ここまでエーテルを強く纏っていない。ならば、これは。
(魔法で作った小鳥……。それに、このエーテルの感じは……この鳥を作ったのは、ルーシャンさんかもしれません)
 考えてもみれば、先だっての騒動があった後だ。ノエたちの様子が気になって、外にいるルーシャンたちも連絡を取ろうとするだろう。
 だが、肝心の三人はリンクパールを回収されてしまって、彼らの着信を受け取ることがノエたちにはできない。そうなれば、何か身に危険が迫っているのではと心配されるのは当然だ。
「わたしたちは大丈夫ですって、伝えられればいいのですけれど」
 ちらりと、アガテルの方を見やる。彼女は、女中との話を終えて、オデットの元へと近づいてきた所だった。
「何をしていますの?」
「ええっと……
 外にいるルーシャンたちと連絡を取ろうとしているのは、アガテルにとっては望ましくない展開ではないか。小鳥が握りつぶされそうになったら、即座に逃がそうと決めてから、
「実は、外にいる仲間が連絡が取れないから心配して、こうやって魔法でできた生き物を使いに出したようなのです。わたしたちは無事ということを、伝えてもいいでしょうか」
 アガテルたちにとっては、自分たちの行動が外で大々的に喧伝されなければ問題ないはずだ。オデットとて、今となっては、ルーシャンたちに真相を言いふらしてほしい気分にはなれない。
……いいですわよ。なら、手紙をくくりつけてはどうかしら。わたくしも、あなたが書くところを見ていますわ。インクとペンと紙も貸してあげましょう」
「ありがとうございます、アガテルさん」
 普段と使い勝手の違う、細身の細工が施されたペンのペン先をインク壺に浸して、小さな紙に最低限の返事を記す。アガテルが横から覗き込んでいるのは、単なる好奇心だけではなく、監視の意味もあるに違いない。
……ルーシャン・ミストへ?」
 もし、無関係な人間の使い魔が迷い込んできた時も考えて、オデットは宛先も記していた。
「聞いたことがある名前なのですか?」
「いいえ。ただ、ミストというのは平民の中でも皇都の下層民が名乗る名字ですわ。オデットは、そんな者と行動を共にしていますの?」
 そこには、僅かではあるが嫌悪の念が混じっていた。
 町の人間について話題にしたときとも異なる、さながら醜悪な犯罪を犯した者について話すかのような、無意識な侮蔑と嫌悪の感情。
「ルーシャンさんは……良い人ですよ」
 ノエの話によると、彼はかつてこの地を治めた貴族の養子にあたる。少なからずアガテルにも縁のある人物だが、敢えて話題に出す必要はあるまい。
「下層民にも善人がいると?」
「わたしは、皇都の下層に暮らしている人たちのことはよく知りません。だけど、ルーシャンさんのことはよく知っています」
 顔も見たこともないのに、生まれだけで悪し様に言われるのは良い気持ちになれない。
 オデットの考えに納得したわけではないだろうが、言い合いをしても仕方ないと考えたのか。アガテルは舌の矛先を収めた。
 したためた小さな手紙を折りたたみ、小鳥の足にくくりつける。細くて今にも折れそうな足は、まるで石でできているかのように、少し力を加えてもびくともしなかった。
「オデットは、随分と顔が広いのですわね。見たこともない種族の傭兵だけでなく、皇都の下層民とも行動を共にしているなんて」
「わたしにとっては、どの人もわたしに親切してくれた人に変わりはありませんから。それに、少しわたしと違う姿をしていても、魔物のように話ができない相手ではありませんし」
「そう。……ノエたちはともかく、わたくしにとっては異端者や下層民は、魔物と同じようなものだと思いますけれど。武器を取り、問答無用で人々に襲いかかる。それが魔物や竜と何が違いますの?」
 問われて、オデットは言葉に詰まり、無言で視線を伏せる。反論できなかったのは、アガテルが見てきた世界にも、ある一面では彼女なりに真実と思えるものなのだろうと分かってしまったからだ。
 それでも、思わずオデットはゲルダの眠る寝台へと視線をずらした。
 竜を母と慕い、言葉を交わした彼女なら、何と言ったのだろうか。
 異端者と寝食を共にしたことがある彼女は、彼らを魔物ではなく何と表すのだろうか。
 尋ねたくとも、友人の瞳は未だ硬く閉ざされたままだった。