天文学者になればよかった
炊きしめてでもいるかのような煙草とお世辞にも旨くない茶葉が給湯室でうすら腐敗する臭いの吹き溜まり、つまりは教職員室で、早乙女達人は時々そう思う。
戦前から中央には馳せ参じず地方大学とそれ由来の機関に身を寄せ、やがて浅間山の麓に居を構えた父に並び立ち支えたいと彼が思ったのは、幼い頃から自然な事だった。だが地方の秀才は育つにつれ器用貧乏を自他ともに認めることになり、時代のベトナム戦争、学園紛争は気立ては良いが安請け合いなところもある、大柄な良家の長男を一人関東に起居させるに喜ばしいものではなかった。
結果、学生運動
―――「アカ」との関わりは一切ない学生生活のために彼は北陸で工学と先進工学を修めるとともに教員免許を取って家に帰り、現在は父の研究を手伝いつつ地元の私学、浅間学園に在職する。
父親の研究所の名は県下知れ渡っていたがそれは関係なしに全教員に部活顧問が割り振られ、男で若くて家が近い彼には週末のみ放課後のみの部活など割り当てられず、つまりはそれは県大会優勝歴も輝かしいサッカー部で、平日早朝の拘束も当然視されるものだった。「なんということはない」生活にはならなかった。
「どちらか一本に絞りたければ自分で決めなさい」とだけ父には言われた。
「いいえ大丈夫です」と応えたのは自分の人生で何度目になるだろうと、彼は時々思う。
「遠からず」しかし「いつか」宇宙に臨むための研究所のあくまで「一隅」「一端」に過ぎず、時に難しい苦渋の判断を迫られるでもない、そういう話が決定以前に来るでもない自分なら、と。
天文学者にでもなればよかった。
蝋紙と手動輪転機で藁半紙のプリントを印刷し、小さな放送ブースの鉄琴を叩いて学生を呼び出す
『二年A組の流くん二年A組の流くん、サッカー部の年間計画書を取りに来てください』
8枚16ページのプリントに裁断して一枚ずつ順番に取ってホチキスで綴じるのは生徒たち自身にやらせることだ、誰に頼まれたでもない表紙絵まで自分で描いた達人はそれで大人の厳しさをアピールした気になる。一年時からの部のキャプテンは、すぐにやってきた、校舎内のよく冷えた廊下からではなく学級花壇とグラウンドに続く三和土側から。
「裁断機だけ今借ります、綴じるのは持って行ってみんなで」
そう言う流竜馬は職員室の空気と大人の匂いに物怖じせず、明朗で活き活きとしている、何か良い事でもあったみたいに。
振り向いて風が明るく輝く雲を吹き流す晴れた空を見上げ、ふっと笑ってからタール臭い空気が石油ストーブで温まった部屋に入って来るので
「御機嫌だな流、空は
―――春の空が好きかい?」
「そら?」
言えば彼は凛々しい眉の下の大きな目をぱちぱちとさせたあと、いえ空ではなく今あそこの土手の上に、と言いかけて止めた。
いえ、言いたいことはあるわけなんですが、まだ気が早いとも思って
隣りのクラスにさいきん体育の授業で学年新をいくつも出した転校生がいるじゃないですか、俺と同じ私服通学の「長髪にしてる」え、ああ、ちょっと前髪が長いですね、目が悪くなってしまうんじゃないかと、はは「通学車両として許可されたのが、物凄いバイクなんだって?」俺のも負けませんよ!
いつになく多弁になっている学生相手に達人が顎をしゃくり促せば、ええと、あ、と。竜馬はようやくはっとした様子で目元を赤らめ言い淀んだ。が、この一年クラス担任でもあり気心知れた達人相手にはそうそうもたない。
「うちに来てもらいたいと、強く思っています。あああ、うちの部に、です!」
「うん」
「体育以外の成績もよいそうで補習の必要もなさそうで、寮生なので通学時間での拘束もすくないんです」
「うん」
「それであの」
「実は彼」
「いま、俺と一緒の部屋で暮しています」
生じる、謎の沈黙。竜馬は箒の毛か束子(たわし)でも作れそうな、棕櫚のような茶色い頑丈そうな睫毛を伏せて背をぴんと伸ばしている。
大事な告白であったかのような調子だった。その重要性の在所は達人にはわからなかったが。
「まだ当人には伝えてないという事か?」
「そんなこと
―――いや違った、まだですそうです!」
何なのだろうこの、なんだ、自分には縁遠い種類の熱量じみたきしみ、であるのに微笑みがはみ出かけた。これは何だろう、若き熱情か情熱か。いずれにせよ当人には決して悪い負荷ではなさそうであるので「じゃあ今度一緒にいる時見かけたらこっそり教えてくれ」とだけ言えば、少年は眩いような目をしたままこくこくと頷いた。
チャンスの女神には前髪しかないという、流竜馬はそれに似たなにかをその熱っぽさで捕まえるのだろう。あるいはそれに振り向かせさえしてしまいそうな。
「ああそうだ、今度の合体実験の日には来られそうかい?来てくれるなら皆には練習を休むと言っておいてやってくれよ」
校内の歯科検診で一本の虫歯もなかった少年を達人は「すごいな君も宇宙パイロットになれるぞ」と言った事があり、彼をいたく喜ばせた、それ以来の達人家族込みでの付き合いである。白い洋風の早乙女邸も古風な九州の家に育った少年には物珍しくも嬉しいらしかった。
ああそういえば聞くところによれば妹ミチルが「虫歯のある人はわたしムリね」などとも言った事があるらしく、他に柔道部かどこかの主将が快哉を叫んでいたとも聞くが、別にそういう事ではしゃいだわけではないだろう。流竜馬の総身には好ましい若い推進力がある、きっと目標へと進む勇気だろうか。
「はい、達人さんのゲットマシンお披露目ですね。始まるんですね」
「
―――」
父の作ったロボットが、大型作業用構造物が詰み込めるほどの宇宙船ができた頃、それに携わる人材が集まってきた頃、自分はそのパイロット候補のトップには到底いないだろう、そのことだけは分かる、悲しいとか悔しいとかは思わない。だが思う、これは情熱か熱情の枯渇ではあるまいかと、火勢の足りなさかもしれないと達人は。
「ああ、いなくなってる。さっきまであそこに、土手の高いところ、花の咲いている辺りにいたんです、神隼人が」
言いつつ窓の外を見上げ、眩しい光線をそこだけ切り取りつつ、竜馬は大事に育てられた男子ならではの、あかぎれ等のない肌がまだ子供のあどけなさを感じさせつつも、既に男らしい厚みのある手を翳し、みはるかす。春の光にゆるゆると燃え上がるような地熱を感じつつ、そんなものかけらも知らぬ風な空の青を見れば、遥か上空を鳥が舞う、涼しげに、孤独にか強い翼がたった一羽。
先週、達人は、口の奥の、生まれて初めての虫歯に気が付いた。
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