千代里
2025-03-24 18:10:31
9438文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その53


 耳に捩じ込んであるリンクパールに指をかける。通信中を示す独特の柔らかな音。しかし、どれだけ待っても返答はない。
 普段なら余程の事情がない限りは、数秒で応答があるはずだ。しかし、ルーシャンのリンクパールは虚しく通信の音を響かせるばかりだった。
「そちらもつながらないのか」
「ああ。ゲルダのお嬢さん、まだ具合が悪いんだろ。せめて、ヒューイ先生がまだ外出中みたいだって連絡くらいはしておきたかったんだがな」
 物議を醸し出した令嬢の演説の後、ルーシャンたちは今一度ヒューイの家に足を向けていた。
 寝込んでしまったまま目を覚さないゲルダのためにも、彼の力を貸してほしいと言われたのは、昨晩のことだ。だが、昨日の来訪時点も、今日になっても肝心のヒューイは不在のままだった。それだけでなく、近隣の住民にそれとなく聞いたところ、彼の目撃情報は昨夕を最後にぱったりと途絶えていた。
「どこかで倒れてるんじゃないだろうな。彼は、連中のところにも顔を出しているんだろう」
 連中とぼかしているが、オランローが言っているのは異端者の関係者が潜む集落のことだ。
 異端者たちがヒューイを傷つけることはなくとも、行き帰りの雪原の途中で魔物に襲われる可能性はある。
「だとしたら、巡回に出ている騎士団にも、それらしい負傷者が出ていないか確かめたいんだが……だめだ、やっぱり繋がらない。サルヒ、そっちは?」
「それが、さっきから試してはいるけれど……
 歯切れの悪い物言いから察するに、サルヒもまた、通信の音だけを角に響かせているようだ。
「ノエにもヤルマルにもオデットにも……ゲルダにも連絡はとっているのだけれど、返事がない。ゲルダはともかくとして、ノエたちから応答がないのは不自然」
「向こうにも、何かがあったんだろうな。少なくとも。リンクパールを外さなくてはいけなくてならないような何かが」
 その『何か』が起きた原因は、間違いなくルーシャンが齎した情報によるものだろう。
 ノエがルグロ家の娘につかみかかる可能性は限りなく少ないが、ゼロとは言えない。
 そうでなかったとしても、外部と連絡を取ったことが露見して、連絡手段を取り上げられた可能性は高い。
 最悪のシナリオの場合、ノエたちは既に死亡しているとも考えられるが、流石にそこまで過激な行動は出ないだろうとルーシャンは予想していた。
「連中がノエたちに危害を加えた可能性は、どれぐらい高いと思う」
 楽観視する最年長の魔道士とは裏腹に、オランローの声音には剣呑なものが混じっている。
 腰に吊るした円月輪に指がかかっているのを、ルーシャンは見逃さなかった。
「危害を加えている可能性は、そこまで高くないはずだ。今回の変装がお嬢さんの独断からの行動なら、口封じなんていう派手な行動、流石にしたくないだろう。ピヌヌたちにも、無事に仕事が終わったって報告もしなきゃいけないだろうしな」
 ノエたちがただの旅人ならば、こっそり始末するという手法もとれたかもしれない。
 だが、四人はピヌヌたちの知り合いだ。ピヌヌたちはルグロ家から警備を委託されている立場ではあるが、人々の守護を信条とする神殿騎士団の一員であることには変わりない。
 ノエたちが不自然な失踪をすれば、間違いなく彼女は、神殿騎士団の上司にルグロ家の不穏な行動を報告するだろう。
「結果論ではあるけれど、騎士団の任務に参加しておいてよかった。イレーナやピヌヌと個人的な繋がりがあるから、互いの牽制にはなっているはず」
「人の縁は、何に繋がっているかわからないってことだな。あの忌々しく思えた神殿騎士団の連中に、助けられる日が来るなんてよ」
 町に入る際の一悶着を思い出して、ルーシャンは唇を歪めた。
「だが、あいつらの連絡があるまで、のんびり宿で待っているという気分にもならない。オレとしては、せめて安全だけでも確かめておきたいんだが」
「まさか、外から侵入するつもり?」
 サルヒとしては「そんなつもりはない」というオランローの回答を待っていたのだが、彼は瞬きの回数を数度増やすだけだった。
「気持ちは分かるけれど、少し無謀がすぎる。もし潜入が知られたら、私たちがお尋ね者になってしまう。ただでさえ、私とあなたの見た目は、イシュガルド人から警戒されやすい」
「だったら、あんたはルーシャンが貴族の家に幽閉されて連絡も取れないってなったら、大人しく知らせがあるまで待っていられるか」
……その時は、正面突破で押し入る」
「おいおいおい、待て待て待て! サルヒまで、オランローに言いくるめられているんじゃない! あと、俺がそんな風に連絡が取れなくなっても、どうせ上手く出し抜いてくるだろうと思って、お前は大人しく外で待っててくれ!!」
 放っておくと、今にもルグロ家に殴り込みに行きそうなアウラ族の二人を、ルーシャンは両肩を掴んで制止する。オランローだけでなく、サルヒまでやや不服そうな顔をこちらを睨んでいた。
「外部から近寄れるかどうか、確かめるとしてもせめて夜になるまで待ってからだ。あいつらの部屋の場所は、昨日連絡してもらったときに確認している。その部屋にノエたちがいたなら、問題なしとして引き下がる。もし、いなかったら、その時は騎士団を経由して掛け合ってもらおう。これでどうだ?」
 妥当な案を出されて、ひとまず二人も納得の首肯は返した。だが、それでもオランローのしかめ面は緩んでくれない。
「旦那様、それでは夜の行動の前に、先日のように使い魔を送ってはどうでしょうか。あれを用いて、先行して偵察を進めれば、より安全にノエたちに接触できるはず」
 サルヒの脳裏には、先だって目にした小鳥のような自動人形がノエたちの元に辿り着く様子が展開されていた。
 ノエやヤルマルならば、自分の元にやってきた見覚えのない生き物から、こちらの作戦を読み取ることもできるだろう。
「ついでに、あんたの使い魔を経由して、中の様子を伺えないのか」
「冗談はよしてくれ。流石に長々と別の生き物と五感を共有するなんて真似は、いくら俺だってできないぞ。できたとしても、視覚か聴覚のどちらかだ。しかも短い時間に限られる」
「だったら、あんたの手のものと分かるものを送るだけでもいい。こちらは情報が少なすぎる。夜になる前に、少しでも状況を知っておきたい」
 食らいつかんばかりのオランローの勢いに気圧され、ルーシャンは手近な石ころを拾い上げる。
 石や瓦礫の破片は、見た目こそ悪いものの、耐久性に関しては植物や布などと比較するとよほど信頼できる。その上で、最近は石を鳥に見せかける魔法を頻繁に使っているため、使い魔を作るルーシャンの手つきに迷いはなかった。
「念には念を入れて……っと。ったく、エーテルもただじゃないんだからな」
 オランローに対して、わざとらしいしかめ面を見せてから、ルーシャンは手の内に作り上げられた鳥を放す。怪しまれないように、入念な細工が施された小鳥は、一見するとただの無害な生き物にしか見えない。
(さて、薮をつついて出てくるのは魔物か鼠か……
 魔物ならば、相応の対応をこちらもしなくてはならない。
 小鳥が消えていく空を、サルヒたちだけでなく、作り手であるルーシャンも見上げ続ける。
 まるで、その空から別の何かが舞い降りてくるのを待っているかのように。
 
 ◇◇◇
 
 長い、長い夢の中を、『私』は彷徨い続けている。
 断片的に見える光景は、やっぱり『私』の知っているものではない。
 夢の私は竜の姿を持っていて、気ままに暮らしていた。空を飛んで地の果てを目指してみたり、岩棚に腰を下ろしてうたた寝をしたり、時には同じ竜の仲間にお小言をもらったり。
 それは、夢を見ている『私』が過ごしてきた日々と変わらない、仲間と共に過ごすささやかな平穏だった。
 そして、夢の中の私は、『私』にとっても懐かしいと思える竜のそばにいた。
『■■■■■』
 私の竜としての名を呼ぶ、青い鱗の竜。間違えるわけがない。
 私のお母さんだ。
『あなたは、またふらふらと出歩いていたのですか。私の目の届くところにいるようにと言ったのに』
『だって、あなたの行く場所って、本当にこの山の周辺だけじゃない。退屈してしまうわ』
『山を降りれば、目障りな人間たちがいる。万が一あなたまで失うようなことがあったら、私には耐えられません』
『はーい。心配性なんだから、もう』
 竜の私は不満げに言ったものの、内心で心配性な青い竜が大好きでたまらないことは、何を言わなくても伝わってきた。『私』がお母さんが好きなように、竜の私も自分に小言ばかりを言う彼女が大好きなんだろう。
 青い竜は、竜の私のことを『私の片翼』と呼んでいた。その呼び名は何だかくすぐったくて、むずむずして、でも――何だか、『私』までもが嬉しくなるような、すごく不思議な呼び名だった。
『ねえ、■■■■■。前に話した人間に、あなたも会ってみない? 他の人間と違って、ヒューイは私を追いかけ回したりしないし、それどころか、私に踏み潰されそうになってもキョトンとしているのよ』
『それは、あなたが前に話していた、随分と肩入れしている人間のことですか? 私はごめんです。人間は、私を追いかけ回して、鱗に傷をつけ、翼を?ごうとした。それに……
 彼女は何か言いかけたけれど、何か思い直したのか、口をつぐんでしまった。
『でも、ヒューイは私を傷つけないわ。ヒューイは、人間が持つ武器というものも上手に使えないんですって』
『たとえ、あなたが何と言おうと私は行きません。私たちに繋がる血脈の主のお声に、あなたは抗うつもりですか?』
 竜の私には、その遠い祖先の竜が誰を指しているか、すぐにわかったらしい。何だか申し訳なさそうに頭を下げて、翼もぺたりと体に押し付けている。
 きっと、『私』がノエやヤルマルの言いつけを破ったときと同じように、竜の私も気まずい気分になっているんだろう。
『でも、あの方は今は眠っている時期ではなかった?』
『以前、眠りについた時期を思えば、目覚めの時は近いでしょう。あの方のお声がかかれば、私も行動を共にしようかと思っています』
――! でも、そんなことをしたら……
 竜の私が批難めいた口調になったのをお母さんは聞き逃さなかった。
 竜の私は、大好きな友達同士が喧嘩するのを見たくなかったみたいだ。『私』も、オデットがノエと喧嘩しているところは見たくないもの。
 だけど、お母さんは竜の私の意見を感じて、とても不愉快そうな声を漏らしていた。
『あなた、まさか人間に肩入れするつもりではないでしょうね。忘れたの。私たちが見守ってきたあの子を殺したのは――人間よ』
 その言葉を皮切りに、私の脳裏にも一つの光景が蘇る。
 地面に転がっている、小さな竜。その小さな命は、もう死んでいると、『私』ですらすぐに気がついた。だって、こんなにも血を流しているから。
 チョコボよりもずっと小さな体の周りには、鎧を着た人たちが立っている。
 竜の私は、呆然とその亡骸を見ていることしかできなくかった。胸の中に生まれた感情が、あまりに激しくて、あまりに悲しくて、どんな風に形にしていいかも分からなかった。
 竜の私にとって、その小さな竜はとても大事な――まるで、『私』とオデットのような関係だということは、『私』にも分かった。
 竜の私が動けないでいる代わりに、傍らにいたお母さん――青い竜は激昂して、激しく咆哮した。
 竜の私の心は、お母さんのように激しい怒りの形には燃え上がらなかった。
 でも、それは怒っていなかったからじゃない。竜の私は、燃え上がらせる方法を知らなかっただけだ。
 薪を前にして、最初の種火を作る方法が分からなくて狼狽えるのと同じように。
 私の心は、私の鱗そのものが引き裂かれたように痛んでいた。
 だから、私はその場から逃げることを選んだ。小さな竜が命を落としたその時も。
 そして、友達が「人間と戦う」と話をした、この瞬間からも。
 
――ゲルトルーデ?」
 青い鱗の友達――『私』のお母さんと話していて、居た堪れなくなった竜の私は、翼を広げて約束の場所に向かった。殊更に約定を口にしたわけではないけれど、いつもなら、ここに彼が待っているから。
 予想していた通り、そこには彼――ヒューイがいた。
 今日も薬草をとりにきたのか。それとも、私に会いに来たのだろうか。
『ヒューイ。今日もいたの?』
 素っ気ない話し方をしているけれど、私が喜んでいるのは明らかだ。だって、さっきまでぺったりと下がっていた翼が、今は生き生きと広がっている。塞いでいた心も、ゆっくりと浮き上がっていく。
「はい、今日もいましたよ。実は、朝早くからここに来ていたんです」
『朝早くから? 人間は、朝早い時間は眠るものではなかったの?』
「実は、あなたが来るのを待つことが、私の楽しみのようなのです。だから、朝早くから、あなたを待つということを楽しんではどうかと思ったのですよ」
『変なヒューイ。自分が楽しいかどうかを、そんな風に言うなんて』
 私としてはごく自然な質問だったが、ヒューイには思うところがあったらしい。
 彼の表面に浮かんでいた笑顔がゆっくりと薄れ、代わりに困惑とも悲しみとも取れる顔が露わになる。
「実際、よく言われるんです。どうして、そんなに他人事のように己のことを語るのか、と」
 竜の私にも、『私』にも、ヒューイの言っていることはよく分からなかった。
 私は私だ。私の心は私だけのもので、楽しいも嬉しいも悲しいも全部私のものなのに。
 ヒューイは、自分の心を語るとき、あたかも心を見る目だけがどこか遠く離れたところにあるかのように言う。
「私は、自分の感情を観測して自然に表すことが、人より少し苦手みたいなんです。だから、こうして他人事のように表現するしかないのですよ」
 竜の私は、小さな唸り声のような音を漏らしていた。人間の尺度で言うなら「うーん?」って感じの相槌だったのだろう。
「ただ、ゲルトルーデの側にいる私は、あなた曰く笑っているようですから。笑顔を浮かべるのは、好意的な感情が生まれたときの反射的な肉体表現です。だから、私はあなたと一緒にいるのが楽しいんだと確信を持てるんです」
『私』は楽しくなると笑うけれど、ヒューイはどうやら逆らしい。ヒューイの場合は、笑うから楽しいとわかる、ということなのだと、遅まきながら竜の私も、この『私』も納得した。
「それに、たとえ私が笑っていようといまいと、あなたは他の人間のように私を異物のように扱わないでしょう」
『だって、ヒューイは人間でしょう。それとも、人間ではないの?』
「人間ですよ。ただ、人間は人間同士であっても、少しだけ普通と違うということに敏感な生き物なんです」
『どれも似たような姿形をして、同じような言葉を話しているのに?』
 竜の私にとって、人間は類似した存在に見えているようだ。その中でも、ヒューイは少し特別みたいだけれど、それ以外の人間はやっぱり『そのほか大勢』に大別されるらしい。
 ヒューイは、竜の私の言葉を聞いて、どこかおかしげに眉を持ち上げている。
「それに、あなたは私のことを他人に歪んだ形で伝えたりしないでしょう」
 ヒューイが信頼を込めてそう言ってくれたのは、竜の私にも伝わったのだろう。
 だけど、そう言われると今度は何だか気まずくなってしまう。何せ、竜の私は青い鱗の友達にヒューイのことをよく話している。それが、歪んだ形なのかどうかは、竜の私には分からない。
 観念した竜の私が、自分の友達についてヒューイに話すと、ヒューイは少しだけ驚いたような顔をしていた。
「そうでしたか。いえ、責めるつもりはありません。きっとあなたのことですから、私のことも悪いようには伝えなかったのでしょう」
『ごめんなさい。嫌な気持ちになってしまった?』
「いいえ。もとより、私は『嫌な気持ち』も上手く分からない人間です。きっと、私はどこか欠けたまま生まれてしまったのでしょう。生き物の中には、そのように生まれながらに欠点を抱えて生まれてしまう者もいるようですから」
 竜の私も、たまにそのような竜を目にしたことがあったと思い出していた。
 いつまで経っても火が吐けない鈍重な竜や、翼が伸びてきたのに次の成長になかなか至れない竜もいる。竜の私は、成長に伸び悩む竜について、ヒューイに伝えた。
『だけど、彼らも以前会ったときは、他の同胞と同じような姿になっていた。だから、ヒューイも、他の人間と同じになる日が来るんじゃないかしら』
「ですが、もし私が他の人間と同じ感覚を持つようになってしまったら、私はあなたを恐れ、あなたに近づかなくなってしまいます。それは、私にはとても惜しい」
 それもそうだ、と竜の私は頷く。
 ヒューイは、他の人間とは違う欠けた部分があるという。でも、その欠けた部分があるおかげで、ヒューイは竜を恐れない。
 彼は『怖がる』という人間が持っている臆病さも、生まれたときから欠けていたのだろう。夢を見ているこの『私』も、ヒューイのように竜を『怖い』と思うことはない。それは、お母さんのそばでずっと暮らしてきたからだって、異端者の人たちは言っていたっけ。
「私は、あなたという友人を失うことを考えると少しだけ……妙な気持ちになるんです。悲しい、苦しい、嫌だ……どんな言葉で表すのが正しいのかは分からないのですが、ともかく、そのような否定的な感情を抱くのです」
『それは、きっと私がいなくなることを嫌がる気持ちよ』
 竜の私は弾んだ声で言う。
 だって、楽しいということすらよく分からない人が、竜の私と一緒にいられないことは、そんなにも忌避感を覚えてくれるのだ。嬉しくないわけがない。
『私も、■■■■■にお前と一緒にいるのをやめるようにと言われたとき、すごく嫌な気持ちになったもの。ヒューイと私は、同じ気持ちを持てたのね』
「そういうものなのでしょうか。……誰かに、同じ気持ちを持っているなんて言われたことは、初めてです」
 ヒューイは、竜の私の言葉に躊躇っているようだった。だけど、彼の顔は、私にはどこか嬉しそうに見えた。
 私へと手を伸ばすヒューイに、竜の私は鼻息を荒くしないように最大限気をつけながら、顔を寄せる。
 ぱくりと、一口で食べてしまえそうな小さな体。なのに、その奥には私よりもずっと複雑な気持ちが渦巻いているのだ。
 小さな竜を傷つけた人間のことは嫌いだけれど、ヒューイは別だ。彼は、武器を持って私を傷つけるような真似はしない。ひどい言葉で私の心を打ちのめすような真似もしない。
 鱗も毛皮も生えていないヒューイの手が、私の鱗のひとかけらに触れる。おそるおそる撫でる手つきは、自分の気持ちが正しく伝わっているか、恐れているかのようにも思えた。
「ありがとう、ゲルトルーデ。私にとって、あなたは良き理解者です」
『そのような大層なものじゃないわ。私は、ただ』
 ――ヒューイが好きなだけ。
『私』には、その時の私が何を言おうとしたのか、すぐに分かった。
 だけど、私は言えなかった。なぜなら。
 ――鱗全体に響くほどの、太く激しい咆哮が轟いたから。
 それは、この大地全てを揺るがすかのような大きな声だった。
 怨嗟を音という形で凝縮し、何よりも心に強く訴える哀しさが混じった絶叫だった。
 その音に突き動かされるかのように、私の胸にも慟哭の音が響く。
 それは、ありし日の思い出だ。
 私と■■■■■が見出した、小さな同胞。卵の殻がまだついていそうなほどに幼かった竜。
 私たちは、保護者を失った小さな友を、新たな仲間として大事に育てていた。
 私たちはただ静かに暮らしていただけだったのに。少し遠方に出かけていた隙をついて、人間たちが私たちの住処に足を踏み入れた。
 好奇心旺盛ではあったものの、まだ人間の姿すら知らなかった柔い翼は、あっという間に命を散らした。
「今の咆哮は、まさか……
 私は俯いたまま、ヒューイを見つめる。
 あの咆哮が何かを、この地に生きる竜は皆知っている。古き時代から生き続け、人間に裏切られた黒き翼を持つ竜。人間は、あの人を邪竜と呼んでいる。
 かの方と古く縁を持つ私は、あの竜の咆哮を聞くと、否応なしに心がざわついてしまう。
 とはいえ、あの咆哮を聞いただけで、私の心がどうにかなってしまうわけではない。
 けれども、あの声を聞くと、どうしようもなく思い出してしまうのだ。
 ――人間への憎悪を、私は知っているということを。
 長い時の中を竜は生きる、と人間は言う。けれども、人間の尺度では『大昔』であっても、私にとってはついこの間のことなのだ。
 その瞬きのような瞬間に起きた出来事は、私にとっては永遠でもある。
 だけど、ヒューイと過ごした時間も私にとっては思い出深いものだ。
 幼い同胞を奪ったのが人間なら、私にいっときの笑いを与えたのもまた――人間。
 私はヒューイの襟首をそっと咥えて、できる限り細心の注意とともに、彼を少し離れたところに放り出した。
 突然放り出されて驚いた様子のヒューイは、立ち上がる暇すら惜しんで、私へと呼びかける。
――ゲルトルーデ?」
『言ったでしょう。かの竜の声が聞こえたら、私に近づいてはいけないと。私は――あの声を聞いてしまうと、思い出してしまうの』
 人間に対して抱いていた、激しい憎しみの感情。長らく心の淵に眠らせていたものを、力強い咆哮は揺り動かしてしまった。
 呆気に取られたようにしていたヒューイは、やがて私の言葉を理解して、何やらとても残念そうな顔をした。私はそれを見ることができるけれど、彼は今、自分がどんな顔をしているのか、気がついているのだろうか。
「それでも、私は――またあなたの元に行きます」
 なぜ、私がヒューイと距離を置こうとしているのか。知ってか知らずか、ヒューイは声を張り上げる。
『私は、お前を感情に任せて傷つけてしまうかもしれない』
「構いません。もしあなたがそれを望むのなら、私はあなたに命を差し出してもいい」
『どうして、そこまでお前は私に拘る?』
 急に降って湧いた感情の渦に翻弄されながら、私はヒューイに尋ねる。
 ヒューイは目を細めて、おそらく人が笑顔と感じるような表情を見せてから言った。
「決まっています。私にとって、あなたは初めてできた友達、ですから」
 おそらく、とも多分、とも言わなかった。
 自分の気持ちが分からない、などと奇妙なことを言っていた人間は、この瞬間、初めて自分の感情を断定した。
 己が見つけた唯一の気持ちを抱えて、彼は私に笑ったのだ。
(だったら、もし……もし、私がこの男の前から消えてしまうようなことがあったら)
 ヒューイは、再び自分が見つけた唯一の心を見失ってしまうのだろうか。
 私は――『私』と私は、そう思った。
 
 ◇◇◇