丹羽燐
2025-05-03 10:00:00
26720文字
Public さよなら、白昼夢
 

有理のπ

2025-05-03~05こいきっさ4.5展示,2025-06-15発行予定の「さよなら、白昼夢」より,1章「有理のπ」
梓さんが容疑者として疑われる話.

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- とらのあな

有理のπはバターさんのツイートよりアイディアを頂いたお話になります.
三次創作のご許可いただきありがとうございました.
【バターさんのツイート】

注意書き

「さよなら、白昼夢」には以下の要素が含まれます.1章「有理のπ」に含まれるものは青字にしています.

  • 原作程度の事件描写

  • 梓さんが死体に遭遇する描写

  • モブとモブの死体の登場

  • 暴力表現

  • 薬物乱用

  • 軽度の性描写(実際の性行為はありません)

  • 原作キャラクターによる殺害描写

  • 読後感の悪さ

  • ハピエンではありません


ネタバレを含む詳細版

・1章有理のπ:
 - 原作程度の事件描写
 - 梓さんが死体に遭遇する描写
 - モブとモブの死体の登場
・2章:
 - モブとモブの死体の登場
 - 暴力表現
 - キャンティによるモブの殺害描写
・3章:
 - 誘拐
 - 薬物乱用
 - 軽度の性描写(幻覚及び妄想のため実際の性行為はありません)
 - 暴力表現
 - モブとモブの死体の登場
 - 安室さん/降谷さんによるモブの殺害描写
 - Law & Order SVUのような後味の悪さ
 - ハピエンではありません
・エピローグ:
 - モブ(部下)の登場




有理のπ

 午前……というよりも深夜から明け方にかけてバーボンとして取り付けた情報のやり取り。昼すぎまでは先週あった事件の精査、そしてそのまま夕方には合同捜査の打合わせ。要は事件の調査が早めに終わればどうにか仮眠をとれる、そんな計算だった。
 次のポアロの出勤は明日、それまでにまとまった睡眠を取りたいが、そうもいかなさそうだ。また梓さんの眉間にしわを寄らせてしまう。
 心地よい空調も加わってうつらうつらとしていると、スマホが鳴った。あまりの眠さに無視するか悩む。僕だってこの貴重な睡眠に忙しい。彼なら無視しておけば風見に連絡するだろうし、風見ならそのうちデスクまで来るだろう。
 三分の一も開いていない目で見た文字に、慌てて通話ボタンを押した。
「すみませんマスター、忘れて」
『え?』
「え?」
 勢いよく口から飛び出した言葉は、困惑したマスターの声に打ち消される。どうやら無断欠勤をしているわけではないらしい。
『いや、今日は安室くん休みのはずだけど』
 電話越しに人の喧騒が聞こえる。そういえば、今日は豆の買い出しに行くから、顔を出せそうにないと梓さんに謝っていた。曲がりなりにも喫茶店の名を冠するポアロにとって重要な、コーヒー豆の調達中にかけてくるほどの用事は生憎と思いつかなかった。
 確かにマスターも梓さんに似て……いや、梓さんがマスターに似たのかもしれない。そんなことはどうでもよくて、二人とも僕からしたら急用でも事件でもないことで連絡してくる。
 どうせ大した要件ではないだろう。そう高を括り、また目を瞑る。欠伸を噛み殺してばかりいるせいで、目元から涙が頬を伝った。
「ああ、そうでした。……で、どうしました?」
『落ち着いて聞いてほしいんだけど……って言っても僕より慣れてるか』
「はい?」
 言葉の意図が掴めない。酷い睡魔のせいかもしれない。マスターの言葉が思考を右往左往するだけでなく、どこかへ消えて忘れそうになるぐらいには頭が回っていない。
 眠たい僕がマスターよりも慣れているものと言われても、睡眠不足ぐらいしか思いつかない。この間だって梓さんにちゃんと眠るよう注意されたばかりだ。ポアロの勤務に支障が出るからって。
『ポアロで、殺人事件が起きたって。梓ちゃんが警察に通報してそのまま僕に電話くれたんだけど』
……は?」
 ポアロで殺人事件が起きた。そのまま書くことも読むこともできる文字列。よく知った文字の並びなのに、意味の理解を脳が拒む。
「ポアロで、殺人事件」
『それで、梓ちゃんが一番怪しいって』
 マスターの言う通り慣れているはずなのに、素人のように鸚鵡返ししかできない。スピーカー越しに、聞き慣れた声があまりにも身近で程遠い話を繰り広げている。
 喫茶ポアロで殺人事件、しかも梓さんが被疑者。事件なら今までに何度か起きていると聞いていたし、実際に居合わせたこともある。未遂で終わったものを除けば殺人事件は起きておらず、さらにはベルモットがポアロを含む毛利探偵事務所の建物では何も起こさせないと言っていたはずで。
 そんなポアロで殺人事件。組織による事件であれば、どこかで犯人がでっち上げられていて解き明かせなかった。それが除外できることは少なからず救いだろう。残るは一般人か、確保できていない連続犯によるもの。どちらにせよ、梓さんが犯人ではない限り僕の存在は役立つ。
 安室透の潜伏先確保のために、予定されている打合せを無視してポアロへ向かう。これは合理的な選択で、決して僕の私情によるものではない。そう結論付けた瞬間、体は勝手に動いていた。
 『……くん、聞こえてる? あれ、切れちゃったかなあ。安室くん、聞こえる?』
 通信環境が悪くなったと勘違いしたマスターが繰り返し僕の名前を呼ぶ。返事もせずに、一段飛ばしに階段を駆け下りた。
 気がついたら睡魔はどこかへ消えていた。最後の数段を飛び降りようとする足は建前を理解してくれない。廊下からやってきた職員が爆走する僕を慌てて避け、どうにか人にぶつからずに進む。途中の階で僕の名を呼ぶ風見の声が聞こえたような気がした。まさか階段で会うとは思いにくいと思考の片隅に追いやる。
 気のせいだろうが、後で連絡の一本でも入れておこう。
「今から向かいます」
 結局、数段飛び降りた着地音も、僕への指向性を持って安室以外の名を呼ぶ声も、マスターの戸惑いも全て無視して告げる。雀が何も落ちていないアスファルトの上を器用に飛び跳ね、僕の前を横切った。今朝はいなかった車の横を抜けて車に乗り込む。
 ポアロで起きた殺人事件の被疑者が梓さん。現場に何かを仕込んだり、証拠隠滅先に詳しいとなると梓さん、マスター、僕の名前が真っ先に上がるのは間違いない。何を仕込むにせよ、日常的に訪れ、ある程度自由のきく店主や店員が圧倒的に疑わしい。ただ、それだけで梓さんが一番に上がるだろうか。
 まだ何も情報が手元にない中、あれこれと考えたところで無駄だということぐらいわかっている。急かすような思考と共に、アクセルを踏んだ。
『いや、今警察が来ていて』
「十五分で着きます。走るので切りますね」
 制止の声を無視して切る。信号どころか人気もない道を飛ばし、ポアロまであと五分のところで惜しくも信号に捕まった。
 横断歩道を暢気に渡る子どもに見守る大人。本来なら平和な日常を送る人々を微笑ましく見守るべきだというのに、涙目で僕の名前を呼びながらパトカーに押し込まれる梓さんが頭をよぎって直視できない。
 舌打ちしそうになる口に別のことを与えようと、ポケットに手を伸ばす。そういえば、スマホはショートメッセージの受信を知らせる振動を一度しただけで、奇妙に思えるほど静かだった。会議室の変更通知を閉じ、通話履歴の上から二つ目にかける。三度目のコール音が鳴る直前で慌ただしい靴音がスピーカーから聞こえた。名乗る隙すら与えずに、用件だけを告げる。
「風見、十六時からの出れなかったら頼む」
『え、は、はい。あの、さっき階段ですれ違いませんでした?』
「とにかく頼んだぞ」
 一方的に言って切ると、ちょうど信号は青に切り替わった。急ブレーキを二度踏んで、普段使う駐車場に停める。ポアロからは少し離れているせいか、付近に警察車両はない。室外機の風を浴びながら駆け抜け、いろは寿司の前を一気に走る。運動量以外の理由も加わって息が上がり、いろは寿司の前に立つ男に挨拶を返す余裕すらなかった。
 梓さんが殺人事件の被疑者、それだけのことが頭を支配していた。
 ポアロのガラス越しに、被疑者として取り残された面々とスーツ姿の刑事の後ろ姿が見えた。それと、低い位置にある見覚えのある跳ねた髪。
「ちょっと、立ち入り禁止ですよ」
「上の毛利探偵の助手でして」
 言い訳にすらならない言葉と共に規制線をくぐる。ドアガラス越しに、うつむいたまま表情の見えない梓さんが見えた。吸ったはずの息が止まる。一瞬にして強く握りこんだ手を開き、わざと乱暴にドアを開けた。驚きか呆れか、ともかく僕を止めなかった刑事のため息をドアベルがかき消した。店内は嗅ぎ慣れたコーヒーの香りが鼻をくすぐる。一人を除いて全員の視線が一斉に刺さった。
 店の外から見ようと、ドアを開けて中に入ろうと、この距離から見ようと、広がる光景にあまり変わりはない。普段通りのポアロで人が倒れている。ただ、それだけだ。
 長い髪がテーブルに被さる様に流れ、重力に従って左腕と共に垂れ下がっている。他殺と安易に仮定しようとして、ようやく視線が突き刺さったままだったことを思い出した。こういうときに何と言えばいいんだっけ。
 短く息を吐き、どうにか探偵の皮を被る。思い出せ、僕は安室としての都合の良さを保持するためにここへ来た。
「えーと、こんにちは」
「あ……安室さん?」
「梓さんが困っていると聞いて、走って来ました」
 敵愾心を与えないよう穏やかな声で続けるも、効果があったのは梓さんだけらしい。縋るような声につい甘やかしそうになるが、その他の面々……刑事の眉間にはしわが寄り、残りの被疑者たちは口をぽかんと開けていて、そうもいかない。跳ねた髪が見えていた少年は呆れたような口元を隠す気すらないらしい。
 それにしてもマスター、彼がいるとは聞いていません。そう脳内でクレームをつける。まあまあ、僕だって梓ちゃんから聞いたことしか知らないわけだし、安室くんが途中で切ったじゃないか──。
 宥めるようなセリフまで再生できてしまうあたり、安室透の思考回路はすっかり僕に馴染んでいる。
「君、立ち入り禁止だと」
 また勢いよくドアが開き、腕が後ろに引かれる。どうやら鍵をかけ忘れていたらしい。
「あはは、すみません」
 足をねじ込まれる前にドアを閉じ、引っ張り出そうとした刑事を外に追いやる。ドアが閉じる音と共にあたりを見渡す。窓の外から見たときと変わらず、ポアロの中には被疑者の男女四人、通報でやってきた刑事が一人、それからほかの面々より随分と低いところに頭があるのは。
……コナンくん?」
「安室さん、こんにちは」
「え? ああ、こんにちは、コナンくん。どうしてここに?」
 わざとらしい困惑は呆気なく無視された。なんてことないかのように遺体の横から小さな手を振られる。彼の横にあるものと店内の人間の雰囲気さえなければ、あまりにも普段通りの光景。まあ、思い返してみればこの状況も彼にとっては日常的なもので、非日常にいるのは奥のテーブルに集められた四人の方かもしれない。
「学校から帰ってきたらポアロにパトカーが停まってて。刑事さんにお話を聞いてたんだ」
「じゃあおかえり、って言うのが正解かな。何か気がついたことはあるかい?」
 まだ時刻は十四時半過ぎで、小学一年生の帰宅時間から大幅なずれはない。窓の採光によって、店内は殺人の痕跡を包み隠さず明かしていた。女の倒れている窓際から二つ目と四つ目、それから手前から四つ目のカウンター席に人がいた形跡が残されている。ランチタイムも過ぎ、お茶には少し早い時間のため、席を客に選ばせる……その結果この埋まり方になったのだろう。ポアロではよくあることだ。
「ううん、ボクもさっき来たばっかりだからまだ」
 そう言いながら、彼はしゃがみ込んだ。まだ反応のない四人をよそに、つられて窓際から二つ目のテーブルへ近づく。
 ソーサーの上に倒れたコーヒーカップ、テーブルから被害者の足元にかけて広がるコーヒーの水たまり、テーブルに落ちたままの眉間にしわが寄った顔、ソファーに置かれたままの鞄。それから残りのおそらく被疑者の面々が座っていた席に残されたカップや食べかけのケーキ。被害者の女が倒れてすぐに全員が居場所を離れたと考えるのが自然だろう。
「そもそもお前は」
 会話が途切れたのをいいことに、黙り込んでいた刑事が口を開いた。
「すみません、遅くなりました。探偵見習の安室透です。上の毛利先生の弟子でして」
「眠りの小五郎の」
 安室透としての肩書を述べる。僕の本当の名前を出せば早いとしてもそうはいかない。ここでは、あくまでも探偵見習い兼喫茶ポアロ店員の安室透の必要がある。まあ今回はポアロの店員であることは隠しておいた方が都合がよさそうだった。数秒考えたのちに、ピンときた表情に毛利小五郎の知名度の恩恵を感じる。
 彼はさておき、梓さんの前で僕の名がこの口から出ることはない。ここに来た理由の一端が僕自身にあるとしても。
「はい。それで、被……容疑者はこの四人ですか?」
「ああ」
「刑事さんとコナンくんは除くとして……ポアロの店員の榎本梓さんと」
「客の堤だ」
「同じく客の石神です。私は、私は助けようと」
 一人ずつ、小さく手を上げながら名乗っていく。面倒くさそうな様子が隠せない刑事はさておき、中肉中背に眼鏡をかけている堤、梓さんより十センチほど背の低い茶髪の石神、そして残るは。
「違う、お前が!」
……失礼、お名前をお伺いしても」
 突然の糾弾する声に場が静まり返る。身内の怨恨や恋愛沙汰でよく見る光景……と言えばそうだが、生憎とまだ何がどう関係しているのかが読めない。この四人という少ない被疑者たちの中で、被害者とこの男の知り合いがいるとしたら、もはやそいつが犯人だと言っても過言ではない。無差別沙汰を除けば、だが。
「花岡、花岡康。殺された知子の夫だ」
「花岡さん、ですね。先ほどのは?」
 尋ねるも返事はなく、花岡の視線は落ちたまま、力なくぶら下がる手は微動だにしない。車道を走り抜ける車のエンジン音だけが明瞭に聞こえた。疑ってくれと言わんばかりの様子を見せる自称夫に、訝しまざるを得ない。
「まあ、後でいいでしょう。まずは花岡知子さんが殺されたときに皆さんが何をしていたのか教えてください」
 並び立つ四人にゆっくりと視線をやる。うつむいたままの一人を除いて、誰もが目線を逸らした。
 単に事件現場に居合わせて巻き込まれただけで、よく覚えていないことは往々にしてある。ここは法廷でも取調室でもなく、まして宣誓もしていない、ただの質問だからさっさと話してほしいところだ。ほかの三人からコメントが入る今の方が、記憶違いの証言でもマシだと思うが。
「俺はそこでずっと仕事をしてた。俺はやってねえよ」
 まず口を割ったのは堤だった。おそらく一番疑われていないという認識があるのか、声は落ち着いている。話し始めてからの目線も泳いでいない。二の腕に添えられた指先がわずかに震える程度の動揺は、殺人現場の一般人には往々にあることだ。
「ポアロに来てから一度も席を立たずに?」
……いや、一回は立った。何時だったかは覚えてねえけど、そこの女……花岡さんだっけ? が来る前だ」
「ふむ、具体的には?」
「何かしたってわけじゃねえよ、トイレだトイレ」
「ああ、なるほど。堤さんが席を立ったところを、誰か見ていましたか?」
 残り三人、未だ動かない花岡を除いた女二人の表情は変わらない。それでも落ち着かないのか、体重を片足ずつに動かしたり、ちらちらと刑事や僕、窓の外……いや、被害者が倒れているテーブルを見ている。最初の堤に視線が戻っても誰も口を開こうとしない。堤は焦りからかボソボソと何かを呟き、しきりに右顎のほくろを触っている。埒があかないと踏んで、堤の隣に立つ石神へ尋ねることにした。
「石神さん、どうです?」
「え? ええ、確かに一度席を外してましたけど、どこに行ったかまでは」
「私、椅子の音を聞きました。そこの席、立ちあがるときに結構な音がするから」
 石神の言葉を引き継ぐように、梓さんが指さしながら言った。手前から四つ目のカウンター席といえば、軋む音がするから修理しようと思っていた椅子だ。証言を得た堤は安堵したかのように手が顔から離れた。
「それなら私も聞いたかも。ぎー、きって音よね」
「はい。それと、御手洗いのドアが閉じる音」
「なるほど。ありがとうございます」
 石神と梓さんは顔を見合わせながら頷いている。当人のはずの堤が蚊帳の外になっているのが、女性の社会性を表しているようで少し興味深い。……他の現場でもたまに見る現象への考察は一度置いておく。
 少なくとも、この離席以外は席で仕事をしていたことしか堤からは出てこないだろう。であればPCのログを提出してもらえばいいだけのこと。そう納得し、次へ移ることにした。次は誰が口を割るのか。三人の口元を注視していると、どこからともなく視線を感じた。持ち主を辿ると、梓さんだった。
「わ、私は片づけと洗い物を」
 刑事ではなく僕を真っすぐに見つめて、けれど言葉を絞り出すように言った。片づけと洗い物、どちらも店員として違和感のある動きではない。それに、どちらも物音が立ちやすい都合上、誰かが見聞きしている可能性は十分に高い。
 一方、事件が起きた現場に毎日いる人であり、何らかの仕込みをすることは容易だったと言われる可能性はある。僕だってここが見知らぬ飲食店だったり、梓さんと知り合いでなければ真っ先に疑っていた。そうなったときのために、どういった反証を用意するかはこの内容とはまた別問題だ。
「そのときに何か変な音や、動きは?」
 つとめて冷静な声で尋ねる。唯一店内を見渡せる立ち位置にいた梓さんが何かを見ていれば話は早い。それに基づく証拠を探せば……もしなくとも最悪作り上げれば、済む話だ。ちゃっかり僕の隣にある椅子に座って聞いている彼の前で偽証するのは面倒なので正直避けたいが。
 言い訳をしたくなる思考を追いやり、梓さんの返答を待つ。正面から向けられた視線には応えられなかった。
「特には。片づけ中に、堤さんが立てた音しか。あとはランチタイムの洗い物……包丁とか、食器を洗っていたので」
「水道の音と手元への注意で何も気がつかなかった、と」
 梓さんが大きく頷く。縋る藁を見つけたような、希望を見つけたような眼をしていた。生憎まだ梓さんが犯人ではないと断定できる証拠がない、そう思いながらも笑いかけるほかなかった。
「あっ!」
「どうしたんだい、コナンくん」
「よろけて、手にコーヒーがついちゃった。梓姉ちゃん、ティッシュちょうだい」
「おしぼりでもいい? 紙ナプキン切らしちゃって」
「うん!」
 梓さんがキッチンに、そしてカウンターの影に消える。被疑者の三人は揃って同じように視線で追っていて、誰か一人が怪しいわけではない。
 収納棚の扉が閉じられる音と共に梓さんが再び現れ、両手を上げたままのコナンくんに駆け寄った。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 堤と刑事は興味を失ったのか、まだ話していない花岡と石神に二人の視線が戻った。
「では、次はどちらが話されますか」
 石神と花岡を交互に見ながら待つ。石神は見るたびに組んだ腕へ指がめり込む一方、花岡はだらしなく手を下ろしたままで、焦点が合っているかも怪しい。対照的な二人にわざとらしく首をかしげる。
「私はやってない、斜め前で突然苦しみだしたから助けようとしただけで」
 釣れたのは石神だった。花岡はこちらを見向きもしないから、当然だが。
「ええと、石神さん? でしたっけ」
「出先の休憩で来ただけで」
「花岡知子さんが殺されたとき、あなたは何を?」
 わざとらしく尋ねた言葉は無視された。聞いてもいないことを話し始める石神を誘導しようと、質問を重ねる。突然苦しみだしたと言うからには……というか、消去法で席が残っているのがそこしかないのだが、被害者とテーブル一つ挟んで隣に座っていたのが石神らしい。被害者の席から察するに通路側で、梓さんに背を向けて座っていた。
 であれば、おそらく被害者が死んだ瞬間を最も間近に見ている。
「この席で、アイスカフェオレを」
 気温の下がるこの時間にアイスカフェオレを? と突っ込みを入れたくなるが、本質的ではないと飲み込む。寒い日に炬燵で食べるアイスは絶品だと梓さんからバニラアイスを貰ったこともあったから、まあそういう人なのだろう。そういえば、そろそろ買い足さないとストックがなくなる。
 僕の思い出し笑いに怪訝な顔をしながら、石神は続ける。
「飲み終わって出ようかなと思ったら、突然苦しみだして。喉が詰まったのかと思って背中を叩いたんだけどダメで」
 それで、の三文字を最後に石神は黙り込んでしまった。人の死を直接口に出せるタイプと、こうやって飲み込んでしまうタイプがいる。石神は後者、もしくは何かを隠していて発言を思いとどまったのか。どちらかはわからない。
 今までの人生の勘は石神が何かを隠していると警告を鳴らすが、生憎とここはポアロで正義の権力を振りかざせる場ではない。
「ありがとうございます。では、最後に」
 うんともすんとも言わなくなってしまった以上、今聞きだすのは難しいだろう。そう結論付けて、次へと振る。必要になったり石神が話す気になったときにまた問い質せばいい。
 僕が今行っているのは黒の組織での尋問ではなく、探偵としての聞き取り調査だ。
 最後に残った花岡が、ついに僕の方を見た。まだ焦点は合っておらず、何を見ているのかわからない虚ろさが残っている。
「俺は知子に呼ばれて、注文した後……トイレから戻ったら知子が。いつもの過呼吸だと」
「以前も過呼吸に?」
「ああ。取り乱した時に、よく」
「それで違和感を持たなかった、と」
「いつものだと思ったんだ。怒ったりするとなるから」
 うつむいたまま話す花岡の話に違和感はない。慣れ切ってしまうほど繰り返していたのなら、苦しんでいても驚かず落ち着いていたのも納得がいく。ただ、普段と同じだと思っていたところから突然の死で取り乱していないのが引っかかる。
「なるほど。花岡さんと石神さん以外に、亡くなったときの状況を覚えている方は?」
 二人が首を振る。二人とも手元を見る必要のある作業をしていたから、音以外の情報がないのだろう。
 梓さんはもう少し周囲を見るように後で言っておこう。今後僕が辞めた後にこういう事件が起こっても、僕は助けには。……踏み込んではいけない線を跨ごうとしたことに気がついて、慌てて手を握りこむ。
 僕が今ここにいるのは、黒の組織への潜入捜査を円滑にするためで、梓さんのためではない。
 小さな背が被害者に近寄って何か調べているのが、視界の隅に見えた。今までの経験からも悪いことにはならないだろう。そっとしておくことにした。
「状況も何も、突然苦しみ始めてドサッと」
「ほぉ……
「俺は少し離れてたから、そこの二人の方が詳しいんじゃねえの」
 被疑者から外されたと思い込んでいる堤は、やる気なさげに答えた。実際に見ていないのもあるだろうが、その不用意さが少し引っかかる。指先の震えが演技に見えるような、妙に場慣れしている感覚がした。
「さっきも言ったけど。コーヒーを飲んでいた……知子さん、が突然藻掻き始めて」
 名前を思い出すように石神が右上を見ながら話した。まだ繰り返すのかと言わんばかりの目をしているが、直前にコーヒーを飲んでいたのは新情報だ。
 いくら過呼吸の傾向があるとはいえ、何かを飲食しているときに苦しみだすとしたら、真っ先に疑うものは一つ、いや二つ。
「花岡さん、知子さんにアレルギーは?」
「ない」
 先ほどのためらいはなんだと言いたくなるほどの即答だが、回答以外の言葉はない。会話を成立させる気があるのかないのかよくわからない。そもそも妻を殺害されているにもかかわらず、捜査への協力や関心が薄い。刑事の表情からしても、突然現れた自称探偵相手だからという問題ですらない。
 普段の関係が良くなかったのであれば十分殺人動機として成立するが、そう判断するにはまだ情報が足りない。少なくとも可能性の一つを潰せただけよしとするか。
「そういえば」
 静寂を切り裂くように口を開いた石神に視線が向く。
「どうかしましたか」
「花岡さんが」
 呼ばれた花岡がゆっくりと顔を上げる。さっきまでの態度と違い、どこか怯えるような眼を一瞬していた。
「その、花岡さんたちが揉めていたような」
「本当ですか? 花岡さん」
「話していただけだ」
「でも、声が大きくなったりして」
 ほら、と同意を求めるように石神が堤と梓さんの方を向く。梓さんは首をかしげ、堤の目線が宙をさまよう。
「あ、それ俺も気になってた。痴話喧嘩ならヨソでやってくんないかなって」
「花岡さん、そのときは何の話を?」
「ただの雑談だ」
「知子さんを責めるような、声で」
 石神の言及で花岡の眉間にしわが寄る。よほど突かれたくない内容なのか。
「何の話をされていたんですか?」
 何度目かわからない沈黙が訪れる。十秒、二十秒。二十九秒のところで、花岡が小さく舌打ちをした。
「離婚話だよ」
……失礼ですが、理由は」
「夫婦間の問題だ」
 これ以上話す気はない、といった顔に深追いする気にはなれなかった。離婚を切り出したことが原因で殺傷沙汰になった話は、ドラマにするまでもなく掃いて捨てるほどある。完全に怪しく見られるのを知った上で話さなかったのなら、テレビの視聴者は花岡にベットするだろう。
 それを悟った上で話す気がないのなら仕方がない。わざとらしく咳をし、話の区切りをつけた。
「ありがとうございます。ほかに、何かおかしな点があったら教えてください」
 何か言いたそうに梓さんの手が一瞬伸びて、すぐに戻った。首をかしげて言外に尋ねるも、今度はうつむいたまま何も言おうとしない。梓さんが被疑者として挙げられている空間に探偵だと名乗って入った以上、下手な肩入れをするのはほかの被疑者の神経を逆なでする。フォローする言葉を飲み込んで、被害者が倒れているテーブルまで近づいた。
 数歩先、被疑者四人が座るテーブルで刑事の事情聴取の説明が始まる。諸注意を先にするなど最近の一般警察官は丁寧なんだな、とどうでもいい感想を抱く。生憎とそういった丁寧なやり口は数年前に捨ててしまった。積み上げた証拠による圧迫。でっち上げた証拠から自白を引きずり出すことはもちろん、拷問に自白剤、なんでもありだ。
 刑事の話声の間に指先でテーブルを叩く音が聞こえる。振り返ると、音の主は石神のようだった。それが動揺や恐怖のせいなのか、ただの習慣なのかはわからない。保留にする情報として脳内の片隅に追いやった。
 被害者のスマホを好き勝手操作する彼の横にしゃがみ込む。
「何か見つかったかい」
「えーっと」
 小さな指先が写真フォルダを過去へ過去へと遡る。ポアロのケーキセット、なんてことのない夕焼け、友人らしき人との集合写真。いつか梓さんに見せてもらった写真フォルダによく似ていて、確かについさっきまで生きていた生々しさがあった。
 ちょうど一ヶ月前まできたところで、白地に赤の派手な一枚が現れた。さらにスライドすると親密そうな男女のショットが三枚連続する。
「ほぉ……。戻ってくれ、そう、二枚前、それと」
 刑事の説明は淡々と続いている。小声なのもあって僕たちの声は聞こえていないようだった。
「赤い口紅跡の写真と、二人……一人は、花岡さん?」
「ああ、花岡康だ。ただ、隣に映っている女は、一体」
 二人で顔を見合わせる。花岡から頭一つ分低い身長、痩せすぎでもない体形、茶髪で肩につかない長さ、左小指に光る赤の石のついたシルバーの指輪。座っている四人から正確な身長は推測できないが、少なくとも梓さんと堤ではない。まあ、この場にいるとも限らないが。
 この場にいるとも限らず、手掛かりになりそうにもない。そうすると、これ以上無意味に個人情報をあさるのは良くないだろう。視線を感じ取ったのか、小さな手は開いたままの鞄の横にスマホを戻した。出かけるには小さめの鞄に入っているのは、口紅と家の鍵、それと財布ぐらいだった。身元がわかっている以上財布に用はない。鍵もいたって普通のディンプルキー、真っ赤な使いかけの口紅。これまた手掛かりになりそうなものはない。
「石神さんも梓姉ちゃんも茶髪……いや、他人の可能性も」
「だから私はやってないって!」
 店内へ響き渡る声に思わず振り返る。石神がテーブルに手をついて取り乱している。唖然とした花岡、怯えを隠せない梓さん、興味の薄そうな堤。宥める刑事だけが平静で、囲まれた梓さんを不憫に思う。
「落ち着いてください。何があったかを整理するだけで、何も決めつけているわけではありません」
 少しもぶれない刑事の声に、口を挟む必要はなさそうだと判断して視線をテーブルにやる。
 カップの倒れたソーサー、テーブルを伝い滴り落ちるコーヒーの成れの果て。ただのテーブルとカップに過ぎないのに、違和感だけが残る。ただ何かまでははっきりとしない。触れるわけにいかないそれらを、一つずつ手に取るように角度を変えて見る。昨日と変わらぬ木目の上に広がるコーヒー。
 輪郭を宙でなぞっていると、不自然な角を描いた。それはまるで。
「何か物があったのか、あるいは」
 まともにコーヒーを浴びたものが消えているのは明らかにおかしいが、誰が何を何のために回収したのかがわからない。そもそも、物があったとするには薄っすらとコーヒーの乾いた跡があり、断定できない。滴ったような、若干色の濃い点は誰かが持ち上げたときに落ちた雫によるものだろうか。持ち去るとしたら、いったい何のために。
 テーブルの謎を一度保留して、カップと被害者の口元を交互に見る。鞄の中身から被害者の花岡知子は真っ赤な口紅をつけていたはずだ。そうすると、カップに残る跡があまりに薄い。クリームケーキを食べたことで、ある程度落ちた可能性はあるが、それにしても痕跡が乏しすぎる。
 あたりをさまよった視線がテーブルの上に放置されたフォークで止まる。微かに赤い汚れがフォークについていた。一口目を大きく食べるタイプならフォークの付け根までつくこともあるだろう。……いや、それだけではない。
「ケーキを食べると口元が汚れる。普通なら何かで拭くはず……だとすると」
 誰かが持ち去った、もしくは隠し持っている。しかし、なぜ? 被害者の鞄にはティッシュはおろかハンカチすら入っていなかった。にもかかわらず、拭きとったのであればポアロの紙ナプキンだろうか。そう考えるにはクリームケーキの皿もコーヒーカップも残っているテーブルから紙ナプキンだけが消える理由がわからない。トイレに立った際に捨てた可能性もあるが、花岡知子が席を立ったことは証言されていない。
 そもそも、紙ナプキンを梓さんが提供していればそう証言するだろう。そもそも、ストックを切らしていると言っていたことから、梓さんが渡した可能性は低い。別の誰かが渡したとしても、後ろめたい理由がなければそう述べるだろうし、回収する理由もない。備え付けではない私物のティッシュであっても同様だ。私物のハンカチだったら、全員の手荷物を当たらないといけないが。
 要は、被害者が何らかの理由で、何者かからナプキンなり口元を拭えるものを受け取り、さらに被害者自身が捨てずに誰かが回収した。渡した人物と回収した人物が異なるとも考えられるが、渡された本人が死んでいる以上おそらく同一人物だろう。安直に、毒を仕込んだものを渡して回収した、とか。
 簡易検査すらできない状況において、何らかの証拠をもって毒殺と断定するのは難しい。まず、毒殺以外の可能性を一つずつ潰す必要がある。
 大きな窓のついたポアロは外からの視線を得やすく、さらに喫茶店である以上店内でも一定の相互監視がある。そうすると、殺人に用いられる手段は限られてくる。念のため髪をどかして被害者の首筋を見るも、傷跡一つない。一面に広がるコーヒーでの窒息とするには比較的早く表れる死斑もない、そもそも窒息死するにはある程度時間がかかる。突然死するような病歴を持っているならば、花岡がそう述べるだろう。念のため後で確かめておいたほうがいい。
 そうすると、自然死でなく、殺害されたとするならば、現実性の高い手段は結局一つ。
「毒殺、か」
 何をどうやって飲ませたのかが残る。経皮摂取なら必要時間から夫の花岡康が有力だが、この場合ポアロで証拠を見つけ出す難易度が高い。即効性のある経口摂取で経路として有力なのは、梓さんが淹れたであろうこのコーヒー。真犯人が誰であれ、梓さんがここで逮捕されると後が面倒だ。
 梓さんを守るのは本当に潜入捜査の円滑化のためだろうか。ただ僕がそうであって欲しいだけなんじゃないか。そう問いかける脳内の声は聞こえなかったふりをした。
「毒殺!?」
 遺体の反対側へ回ろうとしたところで、石神の大声が響き渡った。石神は肩を大きく揺らし、テーブルに手をついている。目は泳ぎ、声が震えていて明らかに動揺している。まさか無視して調べるわけにもいかず、大人しく口を開く。
「ああ、聞こえていましたか。まだ可能性の一つであって、特定したわけでは」
「毒殺ならこの店員じゃない! 私じゃない、私はやってない」
 石神の声の後に、わかりましたから、という刑事の声が続く。取り乱す石神とは対照的に、妙に冷静なままの花岡が気になる。妻を失ったばかりの夫とは思えないほど、表情が変わらない。突然の死にショックで思考が停止しているのか、それとも何かを隠しているのか。今までの事件での遺族はおよそ前者だった。後者はえてして共犯か、そもそも本人が殺したのかの二択。
 まだどちらと明らかになったわけでもない。きっと受け入れられず固まっているのだろう、初めて殺人を目の当たりにした人にはよくあることだ。
 石神は刑事に宥められてもなお騒ぎ立てている。わざとらしいため息をついてから、尋ねることにした。これだから面倒なんだ。
「花岡知子さんのコーヒーを淹れたのは、あず……榎本さんで間違いないですか」
「はい」
「ほかに何か注文されていましたか?」
「ブラックコーヒーと……クリームケーキを。旦那さんが好きだから気になっていたの、って」
 段々と声が震え、小さくなる。毒殺が疑われる状況で、最後に飲食物を提供したのが自分となれば疑われていると思うのも無理はない。実際、周囲の四人……いや、花岡を除いた三人からは冷たい視線が投げられいる。
 なにかほかから決定的な証拠が上がれば、などと考えたところで無駄で、また沈黙が訪れる。時刻はすっかり十五時を回っていた。
「ああ、そういえば」
 沈黙を破ったのは堤だった。
「なんですか、堤さん」
「石神? さんだっけ、そこの花岡さんと話してなかったか?」
「え、ええ。でも世間話程度で」
 突然会話を向けられた石神がたじろぐ。見知った関係であれば、別テーブルであろうと喫茶店で話しかけるのはさしておかしな行動でもない。ただ、気になるのはその前提条件だ。石神は外出の休憩に寄っただけだと言っていた。偶然知り合いに出会ったから話しかけたのならまだ説明がつくが、先ほどそのことを話さなかったのは引っかかる。
 どう尋ねるか悩んでいると、何かを飛び越えるような靴の音がした。コーヒーの上を飛び越えたらしい彼が僕の足元で立ち止まる。
「ボク、喉乾いちゃった。ジュース飲んでいい?」
「え? ええ、いいけど」
「梓姉ちゃんと安室兄ちゃんと……皆も飲む?」
 このわざとらしい振舞い、さては何か見つけたらしい。この茶番に乗ることにした。
 そうとは知らない被疑者プラス刑事の五人は渋い顔をしている。まあ、それもそうだろう。彼が一体何者で、今まで何をしていたのか、そして何をしようとしているのかを知らなければその反応にも無理はない。
「い、要らないわ。毒殺事件が起こったって言ってる店のものなんか怖くて飲めないじゃない」
「おじさんたちは?」
「俺も、要らない」
「俺はもらおうかな。いい加減飽きてきた」
 石神と花岡は不要、公務中の刑事もおそらく不要だろう。あくまで後からやってきた人間とはいえ、殺人現場の被疑者といる以上贈賄に引っ掛かる可能性がある。そもそも石神の反応が最も一般的だが。
「はあい」
「僕も手伝おうか」
 するりと足元を離れてカウンターから覗く顔に、どうせそれが目当てだろう、と言外に続ける。こどもらしい笑顔で大きく頷くあたり正解だ。遺体から得られた情報か、それとも。
「あ、私も」
「待った待った、毒を入れた可能性が一番高いヤツが近づくのはマズイだろ」
 僕がキッチンに入るのにつられて梓さんが声を上げるも、堤の制止の声が上がった。普段ならシフトがお休みの後輩に任せるわけには、だとか、お客様をキッチンに入れるわけには、と続きそうだがそうもいかない。何せここは殺人現場で、梓さんは被疑者……しかも状況的に真っ先に疑われる立場ともなれば制止の声が入るのも当然だろう。誰だってこれ以上死体を増やしたくはない。たとえ、梓さんが犯人ではないとしても。
「じゃあ、私が手伝うわ」
 代わりに立ちあがったのは、意外にも石神だった。まさか要らないとも言えない空気に、頷いて返す。
「コナンくん、冷蔵庫から飲みたいジュースを出してくれるかい? それとアイスコーヒー」
「わかった!」
 手袋をして戸棚を開ける。くいくいとズボンの膝下が引っ張られ、慌ててしゃがんだ。
「ねえ安室さん」
「なんだいコナンくん」
 すっかり慣れてしまった会話の切り出し。一番奥の席に座っていた石神が出るまでの間に終わらせるには無駄では? と言いたくなる感情は噛み砕いて飲み込んだ。
「安室さん、知子さんの周りの物に触った?」
「いや、触ってないけど」
「ならよかった」
 満足げに離した手を逆に捕まえた。澁谷夏子のときと違って、今の僕たちは目的が合っている。なら、わざわざ隠す必要はない。
……何を見つけた?」
「桃の種や生のアーモンドのにおい」
「まさか」
 特徴的なアーモンド臭、毒殺、これらから導き出されるものは一つ。普段よりもワントーン下がった子供らしからぬ声に、カウンターの向こうを睨むような探偵の目。もしかして花岡知子は、と考えたところで頭上に影が落ちる。
「何を手伝えばいいの」
「僕がグラスに注ぐので、運んでもらえれば」
 慌てて立ち上がり、戸棚からグラスを五つ取り出す。コナンくんと梓さん、堤、それから僕とおまけの一つの計算だ。五つを石神の目の前に並べると、左端のグラスが宙に浮いた。
「私、要らないんだけど」
「ああ、これは別件で」
「そう」
 興味なさそうな声は、正面ではなく斜めに聞こえた。テーブルに残った面々の会話が気になるらしい。冷蔵庫が閉まる音と共にテーブルでの会話が途切れ、また沈黙が降りた。
「はい、安室の兄ちゃん」
 アイスコーヒーの入ったボトルを受け取り、右端から一つずつ注ぐ。過剰にうるさくはなくとも、人の動きや会話で何らかの物音がし続けるポアロで、液体がグラスに注がれる音が明瞭に聞き取れる。はっきり言ってしまえば異常だった。
「ありがとう、コナンくん。今日はコーヒーじゃなくていいのかい」
「うん。明日は蘭姉ちゃんと朝からお出かけなんだ」
「それはよかった」
 この空間で話しているのは二人だけ。さらに普段のポアロと変わらない会話をしているのも二人だけ。その異常さの中で僕は普段と変わりなくコーヒーを順繰りに注いでいく。水面の揺らぎが動揺を表しているようで、わざとグラスを傾けて打ち消した。
 最後の一つ、つまり先ほど石神が一度手にしたグラスに注ぐ。薄っすらとした赤い跡はコーヒーの色に飲まれて消えた。
 服の裾が引かれ、反射的にしゃがみ込む。
「安室さん、大丈夫だよ。梓姉ちゃんは犯人じゃない」
……なぜそう言い切れる?」
「安室さんだって信じてるでしょ」
 まっすぐ見据えられた目から、いや、突きつけられた自分の感情から目を逸らせない。この状況で、何の証拠もなく僕は梓さんが犯人ではないと決め込んでいる。
 即答できなかった今、誤魔化しが効かないとわかっている。それでも認めるわけにはいかない。
「それだけじゃ外す理由にならない」
「じゃあ安室さんが証明してよ。梓姉ちゃんは犯人じゃないって」
 挑発するような目を振り切って立ち上がる。長々と隠れて話しているのは不自然だ。それに、言い返せない僕の都合も悪い。
 何事もないようにアイスコーヒーのボトルを冷蔵庫にしまい、ジュースの入ったグラスを渡す。
「はい、コナンくんは自分のを持って。すみません、石神さん。堤さんとあず……榎本さんの分を運んでもらえますか?」
「ええ」
 コナンくんは自分の一つ、石神は堤と梓さんの二つ、それから僕は自分のと、石神が持ち上げたものを持ってキッチンを離れる。跡のついた部分に触れないよう細心の注意を払いながら。……トレーに載せれば一度に運べたな、と今更ながらに思った。
 足元を軽やかな音が通り抜ける。目で追わなくても誰なのかはわかった。その意図がわからずとも。
「あれれー? お姉さん、コーヒー零しちゃったの? ボクのおしぼり使う?」
 え、と驚く声と共に石神の足が止まる。両手が塞がった石神はスカートを掴んで確認することも、隠すことも出来ない。小さな手が指さす先を見ると、確かに左腰……おそらくポケットのあたりが茶色く染まっていた。
「ああ、本当。知子さんが倒れたときにコーヒーが跳ねたのかも」
「染み抜き、されます? 時間が経っちゃうと落ちにくいから」
「大丈夫、白だし漂白すればいいから。ありがとう」
 グラスを置き、ポケットに手を入れながら石神は言う。漂白剤で落とすと色むらになることは梓さんが身をもって示してくれたわけだが。そんなことを石神が知るわけもない。教える義理も僕たちにはない。
 ふうん、と興味なさげにコナンくんがソファーに飛び乗った。
「ボク、こっちで飲むね!」
「ちょっと、カバンには零さないでよね、絶対」
「うん!」
「ああ、僕が隣で見ておきますよ。僕たちのことは気にせず」
 先ほどとは一転、子どもにかけるには随分と厳しい言葉のように聞こえた。単に子ども嫌いとするには、コナンくんの手伝いをしているあたりに矛盾を感じる。そうすると、貴重品以外で何か触られたくないものが入っている……と考えられる。例えば、証拠品とか。
「話を戻しますが、石神さんは花岡知子さんと何を?」
「世間話だって言ったじゃない」
 ようやく四人そろったテーブルで、刑事が話を戻した。質問に答える間も石神の視線が何度も席を離れて被害者のテーブルのカップへ向かう。気づかれていないつもりなのだろうが、その仕草は生憎と別テーブルの僕たちには丸わかりだった。
「いや、もっとこう、違うものだったはずだ」
「本当ですか、堤さん」
「俺も正確な事は」
「なら適当に言ってるのと同じじゃない」
 言い争いをBGMに、あたりを眺める。石神の座っていた席の付近にコーヒーの跳ねた跡は見当たらない。そもそも被害者に近い右側ならまだしも左側まで跳ねるとは考えにくい。しかも、座っているときはテーブルの下に隠れる腰に。
 駆け寄ったときについたと考えればまだわからなくもないが、それでも先に右側に着くはずだ。つじつまが合わないという点において、怪しい。
 一方、離婚を迫られていたという花岡も怪しい。動機に成り得る理由があり、毒物を仕込むとしたら他人である梓さんの次に容易。梓さんの知り得ない習慣に基づいて紛れ込ませることだってできる。
 動機も状況も、明らかに花岡の不利な方へ傾いているのに、妙に引っかかる。
 何だ。何がおかしい。
 花岡知子が離婚話をする途中で花岡康が席を立ち。その後、突如花岡知子は苦しみ始め、そのまま倒れた。
 いや、その前にもあったはずだ。クリームケーキを食べ、石神と世間話をしていた。……いや、それが何だというのか。話しただけで殺せるなら、あの組織はもう存在していない。
 もしかしたら。
 拾い集めてきた情報が一つに収束し始める。
「そういうことか」
 隣の、だいぶ低い視線とかち合った。その目が僕を試すように光る。
「安室さんに聞いておきたいんだけどさ」
「なんだい?」
「この事件を解決するのって、どっちの都合?」
……さあ、どっちだろうね」
 全く、この少年は痛いところをついてくる。彼に建前を言うにも、まさか本音を明かすわけにもいかない。誤魔化すように被疑者たちのテーブルから目を逸らし、続けた。
「僕は、僕の都合で動いているよ」
 余らせていたコーヒーを片手に立ちあがる。わざとらしく響かせた靴音が会話を止めた。
「石神さん」
 呼んでいない五人の視線も石神に突き刺さった。座って黙り込んでいた自称探偵が声をかけたとなれば、呼ばれた人が犯人ではないかと高確率で想像するだろう。
「あなたは世間話ではなく、拭くものを渡すために話しかけたんじゃないでしょうか。そう、例えばティッシュやハンカチ」
「どうしてそう思うの」
 さっぱりわからないというような声をしているが、声音とは裏腹に右の口角が痙攣するように引きつっていた。どちらか一方を取り繕うので精いっぱいらしい。
 アイスコーヒーのグラスの口元を指先でつつきながら続ける。
「被害者は……おっと。花岡知子さんは、真っ赤な口紅を付けていたにもかかわらず、カップには薄っすらとしかついていなかった」
「クリームケーキを食べていたから落ちたんでしょ」
 石神の主張を聞きながら、親指でふき取るようにグラスの縁を撫でる。まだ理解できる意見で、食後に口紅を塗りなおす様子はベルモットの隣で飽きるほど見た。ベルモットが特段見目にうるさいわけではなく、大半の女性の依頼者たちも同様だったから一般的だろう。
 これは色落ちしにくいリップなんです! といって本当に最後まで塗りなおさなかった梓さんという人もいるが。
 ……そんな例外は置いておくとして。
「いいえ、それだけではありません。……そうですね、榎本さん」
「は、はい」
「クリームケーキを食べるとき、何に気を付けますか?」
「え? ええと……
 この質問をできるのはこの場に二人しかいない。続く回答の内容的にも、この質問は梓さんにするほかなかった。意図がわからず困惑する梓さんへ、畳みかけるように続ける。
「特にポアロのクリームケーキを食べるときに」
「あ、クリーム」
「そう、クリームです。ポアロのクリームは比較的緩めに作られている。だから、掬い上げたときに口元につきやすい」
 上唇を一なめしてから続ける。
「クリームが口に付いたらどうする? コナンくん」
「ティッシュかハンカチで拭く!」
 得意げな声が返ってくる。梓さんだったら先ほどの僕のように行儀悪くなめとるとか、指で取って食べると答えかねないので、この順番になったというわけだ。
「中には指ですくって食べてしまうような食いしん坊もいるかもしれませんが、大体の人は何かで拭きとるでしょう。そして、コナンくんや僕なら、拭いたところでクリームしかつきません。でも、化粧をしている女性は口紅もつく」
 困惑する被疑者四人を前に、話を続ける。
「ところが、被害者の知子さんはハンカチもティッシュも持っていませんでした。さて、彼女は一体何で口を拭き、そしてそれはどこへ行ったのか」
 五人と視線を絡ませていると、梓さんが閃いたときのポーズをした。
「そういえば」
「何か思い出しましたか?」
「ええと、何かを探していた花岡さんに石神さんが何か渡していたような……渡してなかったような」
「ほぉ……。何を渡していたか覚えていますか?」
「そこまではっきりとは。手が滑って、フォークをシンクに落としちゃって……洗いなおさなきゃってすぐ下向いちゃったから。でも、白かったかも」
 そう言いながら、梓さんは首をかしげる。はっきりとしない記憶、何ら変わりない日常だと思って過ごしていたのだから当然だろう。納得できていない石神の視線で梓さんが少し肩をすくめた。
「それが何だって言うのよ。はっきりしないくせに」
「じゃあ何を渡したんですか?」
「え?」
「渡したあなたが覚えていないのは不自然でしょう」
 繰り返される日常を過ごしていた梓さんと違い、自発的に相手に話しかけたのであれば覚えているだろう。そう意図した問いかけに、石神は黙り込む。渡した当人がつい一時間前のことを覚えていないとは言いにくいだろう。まして、渡した後どこかへ出かけたわけでもなく、殺人事件の被疑者として拘束されていたのであればなおさらだ。
 バーボンのときの笑顔を張り付けたまま待つ。穏やかさのないポアロは、安室ではない方が息がしやすかった。
「思い出したわよ、ティッシュ。ポケットティッシュだからそれと同じ形の」
 投げやりな声だが、落ち着きなく動く目が雄弁に語る。
「では、それは今どこに?」
「ポケットじゃない? ほら、お姉さんのスカートポケットがあるし」
「失礼ですが、ポケットの中身を出してもらっても?」
 嫌そうな顔をしていたが、周囲の──僕たちを含めた六人の視線に耐えられなくなったのか、右ポケットの中身が順に並べられた。スマホにリップクリーム。布地が出され、空であることが示される。一方、左手はポケットに入ったまま出てこない。
「石神さん?」
……わかったわよ」
 ロボットのようなぎこちない動きで取り出されたのは、茶色に染まったティッシュだった。手を伸ばして裏返す。真っ赤なリップマークが現れた。
 驚いたかのように石神を見ると、気まずさからか誰もいないキッチンを見ていた。
「コーヒーの染みと、リップ? でもこれ、石神さんのと違う色」
 手に取ろうとする梓さんから慌てて遠ざける。触れた指先の滑りが悪い。何かが仕込まれている。蛍光灯にかざすと赤いリップの上に透明な反射があった。ガラス片が編み込まれているティッシュであればもう少し目が粗い。つまり、そういうことだ。
「これは、花岡知子さんに渡したものですね?」
「それが何だって言うの」
「なぜ、あなたが持っているんですか? 他人に渡し、使用済みのティッシュを」
 ここまで来ればもう少しだ。石神から自供を引きだし、それでこの事件は解決する。
「自分のと間違えたの」
「コーヒーで濡れているのに?」
 言い訳が苦しいと自分でも理解しているのか、眉間にしわが寄っている。証拠品へ伸ばそうとした石神の手が寸でのところで堤に止められる。今更どう触ったところで隠滅など出来ないのに酷い足掻きだ。
「別にあなたのでも置いておいてもらえれば店で処分しますよ。そのくらいどこの喫茶店でも同じでしょう。ねえ、梓さん」
「え? ええ、はい、どこもそうだと思います」
 突然会話を向けられ、困惑しながらも梓さんは回答した。堤は何かに気がついたのか、興味深げに証拠品を眺めている。
「でも、石神さん、最初からティッシュを持ち去るつもりだったんじゃない? だって毒がついてるってバレたら大変だもん」
「ええ、コナンくんの言う通りです。なぜなら、これこそが犯行に使われた重要な証拠だから」
 三人の視線は石神と僕、それからハンカチの上に置かれたティッシュへと忙しく動く。首の角度すらそのままの石神と花岡は、いっそ疑ってくれと言わんばかりに見えた。
 石神はこれを所持していたことを、被害者が亡くなった後に回収したことを認めた。そうなれば、あとはこの証拠品と殺害方法を紐づけ、物証と共に石神の自白を引き出せばいい。
「先ほどあなたはクリームケーキを食べていたから口紅が落ちたのではないか、そう言いましたね」
「だから?」
「例えば、そう。このティッシュに毒物が仕込まれており、口を拭いたことで口紅が落ちた代わりに唇へ毒が付着。その後もクリームケーキを食べ、コーヒーを飲んだとしたら? もちろんその毒は体内へ入るでしょう」
「く、口紅を落とさないように食べるのが普通でしょ」
 恐怖ではなく怒りで震え始めた石神の指先と対照的に、堤はすっかり落ち着きを取り戻していた。梓さんと刑事は僕と石神の会話に頷き、時折何か思考をしている。花岡は、まるで他人事のように自分の手元を見つめている。最初に声を荒げて以降のふるまいの理由も、大方察してはいるが。
 五人の動向など一切気にせずに続ける。
「それでも体内に入るから口紅が落ちた、そういう意味だったのではないですか?」
 口元を指で叩こうとして、寸でのところでやめる。そういえば手袋をしたままあのティシュを触ったんだった。これで僕が死んでしまっては一体何のためにポアロへ来たのかわからない。
「つまり、被害者の花岡知子さんはクリームケーキを食べていたところをあなたに話しかけられ、渡されたティッシュで口を拭いた」
「ただのティッシュでしょ、毒なんてついてるわけないじゃない。私の鞄に使ってないティッシュがあるんだから」
 必死の弁明に思えるが、考えれば至極当然のことだ。自分で必要になったときに毒入りしかないのでは、自宅ならまだしも外出時こそ困る。そうすると、毒を仕込んだのはこの一枚だけだとしても違和感はない。
「見えますか? この口紅がついた部分。傾けることで、何か光を反射するものがついていることがわかります」
 テーブルから回収して、五人に見えるように傾けて動かす。ライト真下の明るい場所では見えにくいかもしれないが、それでも誰かが気づくようにと。
「何かついてるぞ、ほら」
「ええ、何らかの化合物がついている。……そして、コナンくん」
 証拠品をテーブルに戻し、後ろに座っているコナンくんへ声をかける。
「お姉さんの口から、焼いてないアーモンドみたいなにおいがしたんだ。ポアロのクリームケーキにはないのに、変だなあって」
「遺体の口元からアーモンド臭、白色結晶の毒物といえばシアン化合物。いわゆる青酸カリが含まれる系統の化合物です。口元に猛毒がついていることを知らない知子さんは、そのまま飲食を続けるうちに体内へ取り込み、亡くなった。花岡知子さんの体内とそこのティッシュの薬物反応が一致すれば、の話ですが」
「そんなのわからないじゃない。私は殺してない。突然死ぬことだって。だって殺す理由が」
 石神の声に、まるで何かを後悔するように花岡の指先が左薬指にのびる。無意識のそれに気がついたのか、すぐに手を引っ込めた。
「そう、あなたが殺す動機がなければ僕も自然死を疑っていました。ねえ、花岡さん」
「え、花岡さん?」
 花岡の肩が揺れ、梓さんの驚きの声が漏れる。展開を察したのか堤はわざとらしく肩をすくめた。仮にもまだ被疑者扱いのはずだが、当事者意識が薄く奇妙さが残る。
「コナンくん、ちょっと取ってくれるかい」
「えー……
「ほら、あのこと秘密にしておいてあげるから」
「はあい」
 どのことだと言わんばかりの顔を一瞬した後、するりとソファーから降りた。小さい足音と共に被害者の右側に置かれたスマホを持って戻って来る。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。ところで花岡さん、今日は何のためにポアロへ?」
「待ち合わせだ。知子と。……いや、離婚話だったが」
「ええ、そうでしたね」
「それがなんだって」
「その離婚話、原因に心当たりは?」
「いや、そこまでは話してない」
「本当にないですか?」
 花岡の視線が逸らされる。
「例えば、浮気とか」
「い、言いがかりだ。それに犯人はそこの女なんだろ、知子との話は関係ないはずだ」
「いいえ、大いに関係あります。ほら、石神さんでしょう。あなたの浮気相手」
「えっ」
 スマホに表示された写真に、今度は梓さんだけでなく刑事も同時に声を上げた。おいおい、しっかりしてくれ。それでも刑事か。
「すみません、ロックが外れていたのでつい見てしまったんです。花岡さんと、石神さんらしき女性の写真」
 石神と花岡は口を開けたまま声すら出ない。意味もなく写真をスクロールしながら続ける。今見せた三枚以外には、二人の関係を証拠づけるようなものはなかった。どこか別の場所に重要な証拠を残して揺さぶりをかけるつもりだったのかもしれないし、これだけしかなく話し合いで済ませる気だったのかもしれない。今となっては真偽は不明だ。
「その様子だと証拠を握られていたことすら知らなかったようですけど。バレていたみたいですよ」
「そんな、まさか」
「この話のために知子さんはポアロで待ち合わせという回りくどい方法を取った。こういった話はある程度人目につくところで、というのが鉄則ですから」
 二人の後ろ姿が映ったスマホの画面を四人に見せながら続ける。堤は見向きもせずに証拠品を眺め、刑事の背後で何か呟いた。聞き取れなかったが、その目は冷たかった。
「まあそんなことはどうでもいいんですが。……ところでこの茶髪の女性、石神さんにそっくりですね」
「そ、それが何だって言うのよ。そこの店員だってヘアメイクすれば」
 突然矛先が返ってきた石神の声が裏返り、目が泳ぐ。額には汗が浮かび、手はテーブルの上で震えている。その手には、写真と同じ指輪がついていた。
「生憎、梓さんはあなたより背が高いので。花岡さんと頭一つ分の差はできないんですよ」
 石神が一瞬言葉を失った間にゴンっと硬いものを叩く音が響く。花岡が真っすぐと石神を見据える表情は、憎悪というより虚無に満ちていた。いっそ何も視界に映っていないかのようだ。
「なあ、なんで殺したんだ。殺す必要はなかっただろ」
「殺した理由なんか一つしかないじゃない」
 地を這うような花岡の冷たい声に耐えられなくなったのか、暴露されていく恐怖に負けたのか。どちらにせよ、先ほどまでのヒステリックさは消え、小さな声がポアロに落ちた。石神はゆっくりと瞬きをし、息を吸う。
「あなたが全然私との」
 出てきたのは反省の言葉でも自白でもなく、花岡を責める言葉だった。
 拍手を一つ、といっても両手に布手袋をした状態ではたいして音も鳴らなかったが。それでも、ヒートアップしそうな二人を止めるには効果的だった。
「つまり、石神さん。あなたが花岡知子さんを殺した」
「そう、 私がやった! 康に送られてきたメールを見てすぐにわかった。バレたんだって。でも鈍いあの女はまだ私の顔を知らないみたいだった。笑えるわよ、旦那の不倫を問い詰めようってときに隣にその不倫相手が座ってるのにも気がつかないんだもの!」
 誰の言葉も挟ませず、声高らかに、いっそ歌うように自白が続いた。
「まんまと嘘に騙されて、警戒心もなく渡されたティッシュを使って毒を飲んでしまうんだから。あんまりにもあっさり死んでびっくりしたぐらい」
「そして、梓さんをはじめほかの、ただの居合わせただけの人にその罪を押し付けようとした」
「ええ、だってカフェで飲食しながら毒殺されたら真っ先に疑われるのは店員でしょう!」
 論理も成り立っていない言葉を続ける石神が後ろ手に抑えられる。カチャンという金属音と共に、刑事から逮捕が告げられた。正式な書類の送検は被害者の薬物検査や店内に残された指紋、花岡との関係性の精査の後だろう。それでも、この場にいる面々からすれば事件の幕引きがされたことに等しい。
 まだ何やら続ける石神が僕の前で足を止めるも、刑事に引っ張られ次第に離れていく。
「あなたたちが来なければこの店員が私の代わりに捕まって、私は」
 この店員が身代わりになる、その言葉を聞いたときには石神の胸ぐらを掴み上げていた。石神のヒステリックさが一瞬で消え、恐怖に染まる。横で刑事が何か言っている気がするが、脳が処理を拒んでいた。逃れようとバタつく石神をどこか他人事のように眺める。
 梓さんは潜伏先でうまくやるために必要な人間にすぎず、これ以上庇う必要などない。それに、黒の組織への潜入やそもそもの公安での調査で手を汚してきた僕が一般人の正義を語るのは烏滸がましいことぐらいわかっている。それでも、言わずにはいられなかった。
「理性もなく人を殺し、あまつさえその罪を見ず知らずの……赤の他人に擦り付ける」
 最低だな、の一言だけが喉につっかえて、呟くような小さな声だった。

 
     ♤      ♤
 
 
 鑑識や検査の結果次第だが、という前置きと共に石神は留置場へ移送されていった。ほかの面々も要請がなければ普段通りの生活でよいと解放される。念のためやってきた鑑識に証拠を渡し、後片づけをするからと追い出されたころには、とうに十七時を回っていた。
 鞄とエプロンを抱える梓さんと手ぶらのままポアロを追い出された僕の二人は、言葉を交わすことも出来ずにポアロの前に立ち竦んでいた。吹き抜ける三月の風はまだ冷たく、このまま長居すれば風邪をひく。それでも、僕には掛ける言葉が見つけられなかった。
「あの。ありがとうございます」
 風に髪を揺らしながら梓さんが短く口を開いた。少し斜め上を向いていて、視線が絡むことはない。逸らすように向いた正面では、ポアロで事件が起きたと知らぬ人々が何事もないように通り過ぎていく。
「当たり前のことをしたまでです。ほら、僕は毛利探偵の見習いで」
「ううん、そうじゃなくって。安室さん、最初っから信じてくれたでしょ。私はやってないって」
 頬を伝う涙を拭おうと伸ばした手が止まった。涙目で僕を見る梓さんに、本当のことなど言えるわけもなかった。梓さんが犯人かどうかはどうでもいいバーボンと安室透の都合も、ひた隠しにし続けている僕自身の感情も。
 だから、せめて梓さんに耳障りのいい言葉を、表情を選ぶ。
「ええ、信じてましたよ。梓さんは絶対に犯人じゃないって」



幕間1

【注意事項】
  • モブの登場


 細い裏路地は夕日も差し込まず、夜のように暗い。鞄を振り回しながら一人の男が歩いていた。
「全くついてないよなあ。素人の殺しに巻き込まれるなんざ」
 ひと一人いない路地で誰にも聞こえるわけがないのに、男の声は次第に小声になった。殺し、の一言に思わず立ち止まってあたりを見回す。
 誰もいないことに安心したのか、男はまた歩き始めた。
「にしてもあの男、店員と知り合いか? 必死すぎだろ」
 足元をネズミが横切るのも気にせずに男は呟く。暗い路地では地面と壁の境界が曖昧だった。
「金髪に日焼けした長身の男。あの目つき、なんか覚えがあるんだよなあ」
 巻き込まれた殺人事件を見事推理した、安室と呼ばれていた男。しかも組織の面々と同じにおいが、人を人だと思っていない人間のにおいがした。
 一度見たら忘れなさそうな特徴に男の足が止まる。あれでもない、これでもないと言いながら、指先が腕を叩く。
 数分立ち止まった男は、ついに考えるのが面倒になったのかスマホを開いた。暗闇に光る画面をスクロールし、名前の登録されていない番号を呼び出す。
「ああ、――さん? 俺だけど」
『何の用だ』
 二コールの後に男は話し始めた。路地にたたずむ男よりもしゃがれた、年を取った男の声が電話口から響く。
「誰だか思い出せないんだけどよ。金髪に日焼けした男に心当たりねえか」
 電話口の男は黙り込んだのか、静寂が訪れた。男は壁にもたれかかって返事を待つ。
『ほかに特徴は?』
「長身、一八〇後半ぐらい。青目」
『一般人じゃないのか』
「あの目つきはこっち側だ」
 黙り込んだ相手に、男は思わずため息をついた。女店員に容疑がかかった時の反応、犯人が女店員を犯人とでっち上げようとしたと話した時の目つき、どれも並大抵の人間ではない。
 それに加えてあの顔だ。サツから解放された後に戻ってみれば、店の前であの店員と金髪の男が話していた。それこそ、いい仲のやつに向けるような顔で。あれは絶対何かがある。
 喧騒から離れた路地に、壁を蹴る足音だけが響く。
「知ってるんだろ」
『知ったところでどうする』
「何もしねえよ。気になった、それだけだ」
 言いながら男の口角が上がる。何もしない、気になっただけ、全て嘘だった。あの男の正体がもしただの一般人であれば、本当だが。
「時間は金だってあのおっさんも言ってるだろ」
 電話相手のさらに上、コードネーム持ちの男の口癖をまねる。年老いたせいか元来の性格からか、男の命を握る人間の口癖はタイムイズマネーと急かす言葉だった。
『バーボン。コードネーム持ちの一人』
 聞こえてきた単語に思わず男の息が止まった。酒の名前といえば、男が身を寄せる組織の幹部だ。使い捨てにされることの多い男のような駒と違い、ある程度自由がきき、どれだけの駒を犠牲にしても平気な顔で帰ってくる異常者たち。
 それの喉元を見せつけられたとなっては、男も冷静ではいられなかった。
「会ったことあったっけなあ」
『知らん』
「まあいいや、助かった」
『それでどう』
 話し続ける相手を無視して男は電話を切った。路地に入った時とは打って変わって浮かれた足取りで男は歩く。
 コードネーム持ちのバーボンが必死になる女を見つけた。うまく扱えばNOCとして仕立て、その立ち場を奪うことだってできる。皮算用をしながら、男は笑った。


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