電話口で彼女はいった。「腕のいい弁護士知ってるわよ」と。四月一日酔仙の人脈はかなり広いとみている。菊司はくすりと笑い、「そのときがきたらお願いしようかな」と伝えた。
「まだその時ではないってこと?」
「うん。ちょっと鼻を明かしてあげようかなと思ってね。今からきみが教えてくれた※※病院に行ってくる」
「あと、忘れてないわよね」
「対価はちゃーんと持ってくるよ。僕は約束は守る男だからね」
期待しているわよと彼女はいい、電話を切った。目の前に建っているのはごくごくふつうの病院。〝病院〟というカテゴリをぎりぎりクリアしたような、少々くたびれた病院だった。
305号室。階段で三階に向かい、開け放たれた病室のドアを通り過ぎる。カーテンでかこまれたベッドは一床しかなかった。ほかのベッドは留守なのか、そもそも患者がいないのか空いていた。
カーテンの前で「清陵院菊司と申します」というと、カーテンの向こうで衣ずれの音が聞こえた。
「だれ……?」
掠れた声だった。女性にしては少し低音の。
「なるほど、あなたのお母さんからはお聞きではない」
「母……? なにを仰ってるの」
「お邪魔してもよろしいですか」
沈黙が続く。ここには彼女――血が繋がった妹、そしておそらく菊司の存在を聞かされていない――女性ひとりしかいない。警戒するのも当たり前だ。
「都合が悪ければカーテン越しでも構いません」
「……清陵院……どこかで聞いたことがある……」
薄いピンク色のカーテンの向こうで、ぽつりとつぶやく声がこもる。
「こういう者です」
帯刀はしていないが、つねに帯刀許可証は持ち歩いている。カーテンの隙間からそれを差し入れた。
「……天照……!? そんな人が、なんで」
「佐々木香奈子さん。僕はあなたの兄です。DNA上、そうなっています」
息を呑む音。
そろそろと許可証をカーテンの隙間から返され、鞄の中に入れる。
「そう……。天照の人が、わざわざ許可証を持って嘘を吐くこともないわよね」
「ずいぶん天照を信頼してくださっているんですね」
「私ね、昔刀遣いになりたかった。正義の味方になりたかったの」
「……」
適性がなくて諦めたけど、と彼女はいった。
「どうぞ、入って」
カーテンを引いた香奈子の手首は細かった。菊司よりもずっと。
彼女の顔色はいいとは言えないが、思ったよりも色艶はいい。書類の文面を思い出す。子宮癌、ステージ2。まだ手術はしていないらしい。
「はじめまして」
目の色や、目つきの悪さが菊司とよく似ていた。菊司はできるだけ愛想良くして、ベッドのとなりに添えられていた椅子に座った。
「ええ。はじめまして。佐々木香奈子といいます」
それでいて、聡明な顔。くちびるは薄い。
「香奈子さん。率直に申し上げます」
「香奈子でいいわ。私の兄なんだから」
有無を言わせない声色で彼女は笑った。一瞬面食らうが、眼鏡のつるを押し上げて「じゃあ、香奈子」と続けた。
「……佐々木貴美子と……あ、いや失礼。母と父はあなたのお見舞いに来ていますか?」
彼女はうっすらと目を細めた。常人ならば肉っぽい粘膜が、白い。
「いいえ。一度も。父は仕事で忙しいみたいだし、母は、ああだから。まるで現実逃避ね」
「現実逃避」
そう繰り返す。
はたして、そうだろうか。現実を見たくないという殊勝な思いが、あの女にはたしてあるのか。
「……ああ。アハハ。まあ、そうであってほしいけどね」
肩までの髪がかすかに揺れて、彼女と目があう。鋭いまなざしを感じて、今度はこちらが目を細めた。
「僕はね、両親に捨てられたんだ。育てるお金がなかったから」
「……え」
「きみは27歳、僕は32歳。妊娠期間を合わせて5年間。その間にお金を工面して、どうにかきみと弟――甲を産んで、育てた」
彼女の表情が翳っていく。おそらく、心当たりがあるのだろう。
「でもそんなことはもう、いい。捨てたことは事実、きみたちを産み、育てたのも事実。苦労したよね。きみたちも」
「そう……そうね……。いつもうちは貧乏だった。お金が入っても、母はまっさきに装飾品に使っていた。それで嫌気が差して、私と甲は高校を卒業してからすぐ家を出た」
「なるほど。甲はどこに?」
「甲は……お見舞いに来てくれる。いつも。仕事が終わったら、きっと今日も来るわ。彼はこのあたりに勤めてるの」
「……いい弟なんだね」
ぼんやりとつぶやく。きょうだいふたり、助け合いながら生きてきたのだろう。
そんなことも知らずに、菊司はいままできてしまった。
香奈子はひとつ頷き、そして眉根を寄せた。
「お母さんに、私の入院費や手術費を援助してほしいって言われた?」
見透かすように問われる。ここで嘘を吐くこともない。
「うん。僕が刀遣いだから、給料をたくさんもらってると思っているんだろうね。……今日は本当にきみが存在しているのか、そして入院しているのかを確かめに来た」
「お母さんの言うことを聞いちゃだめよ」
細い指が布団をぎゅうっと握りしめる。清く白い布にひどくしわが寄った。
「どうせ、その費用も自分のものにしてしまうんだもの。一年ちょっと前に大金が入ったって聞いた。それも底をついて。ほとんどお母さんが使ったの。お父さんは働いているけど、毎月あんな生活していて、どうしてと思ってた」
赤銅色の目が菊司を見据える。確信なのか、否か。くちびるがかすかに泣きそうにゆがんだ。
「あなたが援助していたのね。この一年。ずっと」
「そうしないと、天照に乗り込んできそうな勢いだったから」
肩をすくめ、「ついこの間、本当に乗り込んできたよ。きみの病気のことで」と伝えた。
「……そう。ごめんなさい。本当に。私も甲も仕送りをしているんだけど、それでも足りないみたいね」
「あんな女に……」
吐き気がする。
自分の子どもを金のなる木だとでも思っているらしい。
「あんな女に、きみたちが仕送りすることなんてない。来月……いや、今月から仕送りなんてしなくていいよ。今はきみの病気のことを考えなきゃいけないときだから」
「でもこの病院を知っているし、天照にきたみたいにここに来るかもしれないわ。甲も……仕事があるし」
「心配しなくていい。知り合いのつてでね。いい弁護士を紹介してくれる」
「知り合いって、天照の人?」
彼女はおそるおそる、といったように首をかたむけた。頷いて答え、「信用できる人だから」といった。
肩あたりまでの赤銅色の髪が、ちいさく揺れる。考え込むように。
「あなたに任せても、いいの?」
「もちろん。僕はね、頼られるのが大好きなんだ」
笑ってみせると、香奈子は肩をゆらしてくすくすと笑った。
変わった人ね、と彼女はいう。菊司はよく言われる、と答える。
「姉ちゃん?」
――そのとき、よく通る声が聞こえた。
菊司が顔をあげると、菊司と同じくらいの背の男が驚いたようにこちらを見つめている。椅子から立ち上がり、目礼した。
「甲。この人は……」
「に、兄ちゃん……?」
菊司の顔を知っているように、彼はか細い声で「兄ちゃん」と、確かにそういった。
こちらは知らない。はじめて見る顔だ。
「甲、知っていたの?」
「初めましてだと思っていたんだけどな」
「あ、いや、そのはずだよ。俺、このあたりの養護施設の職員なんだ。昔の名簿もよく見てるし、写真も確認してて」
彼も菊司や香奈子と同じ赤銅色の髪の毛をしていた。利発そうな顔だちをしている。母親似なのだろうか。
「それで、一年くらい前に大金がうちにきただろ? その時、俺もそこのファミレスにいて」
「……」
「あの近くに、ええっと……あなたが過ごした施設があったでしょ? そこに仕事の用事で行ったんだ。そのあと、あのファミレスで休んでたらあいつらがいて。俺のこと気付いてなかったみたいだけど」
「ずいぶんできた偶然だね」
ただ、それが嘘でも本当でもどちらでもいい。甲という弟は本当にいたという事実を確認できればよかった。
菊司が両親と会ったのは確かにファミリーレストランだ。その場にいなければ分からない情報を甲はいっていたし、口裏を合せている様子もない。
「名刺、ある?」
「あ! うん」
菊司も懐から財布を出して、よれよれの名刺を差し出した。彼は○○養護施設、佐々木甲と書かれた名刺を渡してきたので、じっと見つめる。
紙質も世間一般的に広まっている紙だ。おかしなところはなにもない。
「え! 兄ちゃん、天照の人なの」
「まあね。ところで兄ちゃんって、そんなお気軽に呼んじゃっていいの? 葛藤とか……こう、なかった?」
甲は名刺を名刺入れにていねいに入れてから、うーん、と腕を組む。難しそうな表情をして、「あったといえばあったけど」、そう呟く。
「もう一年も前のことだし。血が繋がっていれば、兄ちゃんだし。姉ちゃんも、姉ちゃんだし……」
難しいことはよくわかんないよ、と人懐っこい笑みを浮かべた。気を張ってへんに疑っていた自分の毒気が抜かれて、ふっ、と笑う。
「アッハハ、そっか。……そうか……。分かった。じゃあ、これ」
ひとしきり笑ってから、鞄の中から封筒を取り出す。この中に50万が入っている。香奈子に渡そうとして持ってきた金だ。
渡すも渡さないも、会ってから決めようと思った。
けれどもう、この金はこのきょうだいのためなら如何様に使われてもいい、とさえ単純に思ってしまった。
「もらえないよ、こんなに!」
と、香奈子は封筒をこちらに突き返してきた。菊司にとって予想外の対応だった。
「私だって甲だって、働いているの。保険だって入っているし、大丈夫。だからそのお金はあなた……ううん、兄さんのために使って」
「でも」
「兄ちゃん、刀遣いなんだろ? 命がけで貯めたお金なんだから、自分に使ってあげるべきだよ」
「……。本当に、きみたちあの女の子どもなの?」
ため息をつきながら封筒に手をかけ、鞄に入れた。
「兄さんだって」
「そうだよ兄ちゃん、こんな大金」
「僕は結構、性格悪いよ」
「そんなことないわ。病院つきとめてまでよくしてくれようとしたもの」
香奈子も甲も、あの両親に相応しくない、立派なきょうだいだ。
きょうだい、だった。
――苗字がちがっても、血だけのつながりだとしても、このふたりを信じようと思った。
なのにどうして、殺されなければならなかったのだろう。
「弁護士、紹介できるけれど」
ザー、ザー、と、砂嵐のような耳鳴りが聞こえてくる。
「……どうする?」
スマートフォンごしに、彼女が問いかけた。
「……」
パトカーのサイレンがわんわんと耳の奥で喚いている。透明な袋に入れられた血まみれでしわくちゃの名刺。
雨が降っている。
警察署内のリノリウムの廊下は、冷たい。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.