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史加
2025-03-23 16:22:33
11657文字
Public
zzz(アキ悠)
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未完のフィルムでいいから
アキ悠/バウムクーヘンエンドを想うふたりの話
※秘話、信頼イベントの内容を含みます
悠真の空き時間や休日の過ごし方のひとつに映画が選択肢として加わり、選ばれる頻度が増えたのは、明らかにあのビデオ屋の店長であり優秀なプロキシである兄妹と出会ってからのことだ。
違法薬物の一件で協力を求めたあのときから、悠真の中でふたりの存在は特別なものとなっている。とりわけアキラに寄せる信頼は、今までの悠真の交友関係を振り返っても例を見ないほどに厚いものだ。今の今まで誰ひとりとして踏み込ませることのなかった境界線を、踏み越えてきてもいいよ、とまでは言ってあげられないが、すぐそばに一脚の椅子を置いてあげているくらいには心を開き、ゆるしている。
どれほど相手を信頼していても、自分と他人の境界を曖昧にして溶け合ってもいいと思えるほど悠真は強くない。永遠ほどではないけれど、不確かな未来を信じるのだって難しい。
それでもいつか境界線を引き直して踏み込める場所を広げてあげたり、ひとりだけ素知らぬ顔をして通れるだけの空白を作ってあげたりするかもしれない、と思ってしまえるだけの情がある。彼に向ける信頼と自らの裡に巣食ったままの臆病さとを擦り合わせて用意したのが、アキラのためだけの椅子だった。
別にずっとアキラがそこに座って悠真の心の変化を待っている必要もないけれど、お人好しな彼を立たせたままにしておくのは申し訳ないから作った特等席。そこに彼がやって来て腰を下ろし、静かに悠真へ語りかけたり、逆に悠真の言葉に耳を傾けたりする時間をかけがえのないものだと思っている。
そんなしおらしいことを考える一方で、人間というのは欲深く、かけがえのないものの重みと温かさを知るとつい、もう少し、あと少しと願ってしまう生きものでもある。自らに残された時間の短さをよく知る悠真であっても、欲を捨て去り、達観して
――
あるいは諦観に魂魄のすべてを浸して生きていくことは出来ない。むしろ今という一瞬を大切にしたいし、この世には悪いことだけではなくいいこともあると信じているからこそ、ささやかな願いを絶やさずに抱いている。叶えるための努力だって怠りはしない。自分がやらなくていいことは極力やらないけれど、自分がやらなければ得られないものに対しては貪欲なほうではないかと自覚している。
要するに、悠真はアキラと過ごす口実を得るために、映画を観るようになった。六分街のビデオ屋まで足を運ぶこともあれば、アキラに誘われてルミナスクエアにあるグラビティ・シアターで新作を観ることもある。悲劇や、それに寄った傾向の映画を選びがちな悠真に対して、アキラはすました顔で独特なコメディや穏やかなドキュメンタリーなどを勧めてくるので、自ら積極的に観る映画のジャンルもすっかり広がったように思う。
映画を観た後は時間の許す限り感想を語り合うのだが、そのときにアキラはビデオ屋の店長らしく映画に関する雑学を披露してくれるので、自然とそういったものへの関心も抱くようになった。そういう訳で、あるとき本当に暇つぶしに、何の気なしに眺めていたインターノットの投稿に目がいってしまったのも、無理のないことだった。
それは、数日前に公開開始となったばかりの映画のレビューを綴った、ごくありふれた平凡な投稿だ。
ただそこに、悠真にとって見慣れない単語が書かれていた。
『十年に渡る片想いを、自らだけのかけがえのない宝物として昇華した主人公の迎えるバウムクーヘンエンドが切なくもあたたかく、涙を誘うものだった』という一文。それを悠真は何度か目で追って読み返し、首を捻る。
バウムクーヘンエンドって何だろう?
映画に限らずこの世界の物語は様々な終わりを迎える。めでたしめでたしで終わるハッピーエンドに、救いのない終わりを迎えるバッドエンド、ハッピーエンドほどではないけれどそれなりに良い結末を迎えるグッドエンドに、可もなく不可もなくといったノーマルエンドなど。他にも終わり方には様々な種類があって、映画じゃ難しいけどルートを選べるゲームだとトゥルーエンドや、ベストエンドというものもある
……
なんてことを教えてくれたのもアキラだ。ストーリー性のあるゲームをやり込むだけの時間は残念ながら悠真にはないので、そういうものなのかと思いながら聞いていた記憶はあるが、バウムクーヘンエンド、という単語は彼の口からも聞いた覚えがない。
レビューを観るに、少なくともハッピーエンドやグッドエンドではなさそうだ。自分で調べてみてもよかったが餅は餅屋に聞けという。それに「口実」にもなるからと、悠真はアキラへ早速メッセージを送って尋ねることにした。
『今までずっと誰にも話せずにいたことがあるの』
巨大なスクリーンに映し出された金髪の女が深刻そうな面持ちで言葉を切り出すのを、悠真は何やら雲行きが怪しくなってきたなぁと思いながらぼんやりと眺める。
バウムクーヘンエンドについてアキラに尋ねてから数日。実際に観てみるのが一番早いだろう、という彼の一言により、悠真の休みの日に映画館の前で待ち合わせをして件の新作映画を共に観ることにした。上映時間二十分前に合流し、揃ってアイスコーヒーを注文してから席に着いたのはまだ記憶に新しい。恋愛もので感動系の映画となると、悠真は開始直後から眠気に襲われる可能性がある。なのでコーヒーの苦味と冷たさで睡魔と戦おうという魂胆だった。
穏やかな音楽とともに始まった映画の序盤は、よくある恋愛ものの物語の筋書きに沿って進んでいたと思う。十年前にホロウ災害をきっかけに出会い、ともに窮地を脱した後も交流を続けてきた主人公とヒロイン。傍目から見てもわかるほどに仲睦まじい様子のふたりは、十年の節目を記念して新たな一歩を踏み出そうとしているようだった。
しかし。
『あなたも「アディール家」の名前くらいは知っているでしょう。あの十年前のホロウ災害で没落した、貴族の一門。私はその生き残りなの』
ヒロインの告白に、主人公が驚愕の表情を浮かべる。
平民と貴族という身分の違い。なるほど、これも恋愛小説や映画でよくテーマのひとつとして掲げられるものだ。
主人公の動揺を前にしても、決意を固めたヒロインは言葉を止めない。自分の正体が貴族であることだけでなく、将来を誓い合っている許嫁が存在することも打ち明ける。泥沼の気配だ。三角関係ってやつか、と呑気に思いながら、悠真は欠伸を噛み殺した。
『十年前の災害で彼と離れ離れになって以来、ずっと手がかりを探し続けてきたわ。決して褒められることではないけれど、プロキシやホロウレイダーに金を積んで縋ったりもした。そのくらい私にとって彼は大切で、特別なひとだった。あの災害の中で生き延びているとは思えないし、エーテリアスになってとっくに誰かに殺されてしまったかもしれない。それでも、形見の品ひとつくらいはと
……
そう思うくらいに』
『だけど
……
だけど、聞いてちょうだい。一か月前に情報屋が彼の消息を突き止めて、郊外で暮らしているところを見つけてくれたの。私は彼と再会出来たのよ!』
頬を薔薇色に染めたヒロインに、主人公はすっかり言葉を失ってしまう。なんだか哀れな話だ。ショックを受けている主人公に早くも同情したのか、後ろの席から鼻を啜る音が聞こえる。まだ映画は半分といったところだが、失恋した経験のある一般人の胸を抉るにはもう十分なのかもしれない。
『何度も諦めそうになったし、くじけそうになったわ。それでも希望を捨てずにいられたのはあなたのおかげよ。あなたがあの日、生きていれば希望はあると言って私と一緒にホロウから脱出してくれなければ、彼と再会することは出来なかった。だからあなたにだけはすべてを伝えて、お礼を言わないとって思ったの。本当にありがとう
……
』
レースの手袋に包まれた左手をしきりに撫でながら涙ぐむヒロインを前に、主人公が曖昧に笑って「良かった」と答える。ここまでは三角関係を主題にしたありきたりな恋愛映画といった感じだが、はたしてここからどう話が進むのだろうか。いつもならとっくに夢の世界へ旅立っているところだが、生憎今日の悠真には「バウムクーヘンエンド」なるものについて知るという目的がある。隣に座っているアキラは退屈していないだろうかと少し気になったが、ひとまず物語の顛末を確かめようと映画に集中することにした。
その後、許嫁との結婚式にぜひ参加してほしいと、ヒロインは主人公に結婚式の招待状を手渡して去っていった。ひとり取り残された主人公の苦悩がしばらくの間巨大なスクリーンに流れ続ける。
十年もの間ひそかに想いを寄せ続けてきたひとから突如告げられた真相と儚く破れた恋の折り合いをつけるために、主人公は旅に出た。旅といっても大仰なものではない。ヒロインとの思い出の地を訪れて想いを整理する、小さな巡礼の旅だ。
彼は彼女の笑顔を幾度となく思い出す。自分が彼女のどこに惹かれていたのかを考える。彼女のどういうところが好きだったのかを振り返る。
彼女と食事をした料理店や、一緒にコーヒーを飲んだカフェ、他愛ない話をした公園などを巡って記憶を辿り、やがて主人公はヒロインと出会ったホロウの入口の前にたどり着いた。始まりの地が終着点となるのは、恋愛ものに限らず多くの物語で用いられる筋書きのひとつだ。そこで最後の回想が始まる。
――
初めて主人公がヒロインとホロウの中で出会った時、彼女は絶望に打ちひしがれた表情をしていた。
けれど彼女は五体満足で生きていて、幸いにもまだエーテルによる侵食もなく、十分に助かる見込みのある状態だった。だから彼は彼女を慰めて、どうにか共にホロウを脱出した。「生きていれば希望はある」なんて空々しい台詞を必死に伝えて。「こうしてホロウからも出られたのだから、今は辛くても日々を生きているうちにいいことに巡り逢える」と、自分にも言い聞かせるように言葉を紡いで。そうして会う回数を重ねていくうちに彼女が見せるようになった笑顔に惹かれていった。
あのとき彼女が失意に押し潰されていた理由も今なら分かる。愛する人とホロウの中で離れ離れになって生死不明ともなれば、人はそう簡単に前など向けやしない。そんな彼女にあるかもわからない希望の存在を真実のように語ったのが自分であるのなら、彼女の幸福を祈れずして、祝えずしてどうするというのか。
「恋」は「乞い」とも呼べる。この想いは彼女が幸福であることを世界に「乞い」、生まれたものである。だから希望を手にし、新たな一歩を踏み出す彼女の姿をきちんとこの目で見届けよう。
主人公はそう、結論を出した。自らの恋心に己の手で終止符を打つ決意と共に、記憶の巡礼を止めた。
……
そうだよね、と悠真は内心で頷く。前半は正直退屈だったが、気付くとすっかり主人公に感情移入している自分がいることに気付き、ここが暗くて隣の人間の表情すらよく見えない映画館でよかったとひそかに胸を撫で下ろした。
そうして、映画はクライマックスを迎える。
ヒロインの結婚式に参列した主人公は、そこで自分の知らない男の隣で幸せそうに笑う彼女を見つめた。十年前の悲劇の中で見た絶望の影がそこにはもう無いことを確かめて、主人公の口から安堵の息がこぼれ落ちる。そうして今度は心の底から「良かった」と呟き、微笑みを浮かべたのだった。
スクリーンいっぱいに映し出された主人公の幸福そうな笑みの後、エンドロールが静かに流れ始める。あちこちから観客たちのすすり泣く声が聞こえてきて、館内の空気は妙に痛ましかった。悠真の隣は物静かなままだったし、悠真自身も涙なんてものはひどい発作を起こしたときに生理的にあふれてくるものくらいしか持ち合わせていない。ただ、確かに一般人にとっては感動的な内容だろうなぁと冷静に思う。
これで映画は終わりのようだ。しかし肝心な問いの答えは見つかっていない。
結局バウムクーヘンエンドって何だろう。映画館を出たらやはりアキラに聞くしかないなと思っていると、主人公の姿が再びスクリーンに映し出される。
式場から帰宅した彼は、手に提げていた紙袋の中から四角い箱を取り出して蓋を開けた。中に収まっているのはやわらかな黄色の生地と茶色の焼き目が年輪を織り成す焼き菓子
――
バウムクーヘンだ。ナイフで菓子を四等分にし、そのうちのひとつを静かに口に運ぶ男の表情は、絶妙なカメラのアングルにより見えない。咀嚼し、飲み込んで、次のひと切れへと手を伸ばして黙々と食べる姿を映したまま、フェードアウトしていく。
……
いやいやいや、バウムクーヘンエンドってそんな文字通りのものなの!?
思わず悠真はツッコミを入れそうになったが、ここは映画館の中で、観客のほとんどは感動の余韻に浸っている。なのですっかり氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを啜ることでなんとか言葉を飲み込んだ。
紙カップの中身を空っぽにするのに専念しているうちに、館内の暗闇が薄れていく。鼻を啜ったり、目元にハンカチをあてがったりしている客たちがぱらぱらと席を立って出ていくのを眺めながら、これがバウムクーヘンエンドねえ、と改めて思案する。
悠真は世間一般の物事に対してやや疎いところがあることを自覚している。幼い頃に両親に置いていかれ、毎日苦い薬を飲まされたり、首から髄液を採られたりしながら病床の上で過ごしていたのだから無理もない。唯一家族とも呼べる存在であった師匠は悠真に弓と剣の扱い方、そしてこの病弱な身体でも生きていく方法を教えてくれたけれど、普通の人の普通の暮らしに関するいろはなんてものは教えてくれなかった。他の人にはあって悠真にはない「当然」について知ったのは師匠にも置いていかれた後のことである。なのでいわゆる「結婚」というものについて最低限の言葉の意味は理解していても、実際どうなのか、というところについては詳しくない。
「結婚式に招待されたお客さんは、引き出物というお土産をもらって帰るんだ」
映画が始まってから今まで沈黙を貫いていたアキラが不意に声を上げた。気付くと劇場の中にあふれていた人の姿は消えて、悠真たちだけが残っている。
空になったカップを手に立ち上がり、出口へ向かう間もアキラは足と口を一緒に動かした。
「引き出物に選ばれるのは焼き菓子が多くて、特にバウムクーヘンは定番の品として知られている。年輪のような見た目から、夫婦の長寿や繁栄を願う意味が込められているんだそうだ」
「へえ
……
」
「バウムクーヘンエンドというのはこの映画の主人公みたいに、いかにも作中で結ばれそうなふたりが他の人と結ばれる終わり方を指していてね。幸せな結婚式に呼ばれた片方が一人で帰宅した後、引き出物のバウムクーヘンを食べる
……
まさにこの映画のような結末からついた名前だと聞いたよ」
ここまで露骨な終わり方をするとは意外だったけど、と苦笑混じりに言う声に悠真は同意して、ふたり並んで映画館を出た。
昼前に待ち合わせをしてそこから二時間ほど拘束されていたので、頭の真上に昇った太陽の光がまぶしい。館内の暗闇にすっかり慣れてしまった目を繰り返し瞬かせて、外の光を馴染ませる。
「で、バウムクーヘンエンドは君のお気に召したかい?」
同じく瞬きを繰り返しながらもアキラが尋ねてくるのに、うーん、と悠真は考える素振りを見せた。
観客たちは泣いていた。おそらく彼らにとって主人公の辿った結末が悲しいもののように見えたからだろう。ぽっと出の許嫁と結ばれることを選んだヒロインに共感出来ず、憤りを覚えた人もいるに違いない。
だけど悠真にはあの男が不幸なようには見えなかった。むしろ幸せな結末を迎えたのではないかとすら思っている。好きなひとが幸せな未来を迎えられたのなら、それは喜ばしいことだからだ。
たとえば、そう。もしこの先アキラが素敵な女性と親しくなり、結婚して、こんな薬臭くて余命いくばくもない男のことでも披露宴に呼んでくれたのなら。白のスーツを身に纏い、髪もきっちりセットして、綺麗なお嫁さんと並んで幸せそうに笑っている姿をこの目で見ることが出来たのなら。
「賛否両論あるだろうけど、僕としては悪くないかな。幸せのかたちは人それぞれだし、好きなひとに幸せでいてほしいって願えるのもまた幸せなことでしょ?」
幸福を願えるくらいに誰かを大切に想えるのは貴重なことだと悠真は知っている。苦しみと幸福が共存出来るように、愛と憎しみも同時に存在出来るものだとも。
仮定の話に戻るが、もしもアキラが誰かと結婚して、こういう風にふたりで過ごす時間が減ってしまったら、悠真はとても寂しく感じるだろう。せっかく増えた「映画」という選択肢は、悠真にとって選び難いものに変わるかもしれない。だけどこうしてふたりで過ごした時に感じた楽しさや居心地の良さ、幸福が消えて失われてしまう訳ではないから、寂しいのと同じだけ「良かった」と思える自信がある。何より老い先短い自分がその場に居合わせられるくらい生きているだけで僥倖だ。
そう思うと、桜色を滲ませる唇に、自然とやわらかな笑みが浮かんだ。バウムクーヘンエンド。またひとつ良いことを知った気がする。
「さて相棒。もうランチの時間を過ぎてるんだけど、お腹すいたし続きはどこかで食べながら話さない?」
映画の感想を語り合うにも映画館の前で立ちっぱなしでというのは疲れるし、通行人の邪魔にもなる。軽く腹にものを入れた状態で昼の薬を飲まないといけないという色気のない理由はさておき、昼食を抜くのは一般的に褒められないことだ。昼のかきいれ時を少し過ぎたこの時間帯なら店の中でゆっくり過ごしていたって怒られないだろう。
悠真の提案にアキラは頷いた。ルミナスクエアにはとにかくたくさんの店があって、美味しい料理屋を開拓するのもふたりで過ごすときの楽しみのひとつになっている。あとは道中で悠真のファンに見つかりさえしなければ、今日は最高の一日となるはずだ。
「近くに最近オープンしたばかりの店があるとリンが言っていたな。せっかくだし行ってみようか」
「いいね。メニューや味を確かめてリンちゃんに感想を教えてあげないと」
「ああ。偵察は悠真の得意分野だろうから頼むよ」
「はいはい、ホロウから新しい料理店までどこでも本官にお任せあれ~。ああでも、リンちゃんの好きなものに詳しいのはあんたなんだから僕ひとりに任せないでよ? 偵察よりもサボりのほうが僕は得意なんだからさ」
他愛のない会話をしながら悠真はアキラと肩を並べて歩き出した。拳ひとつぶんほどしか空いていない距離感の中でも、互いの手はぶつかることなく春のぬくまった空気の中を泳いでいる。
……
そういえば映画の中の主人公もヒロインと手を繋ぐことはしていなかったな。
何となく思い出した指先が少しだけ冷たくなったけれど、悠真は気にしない。手が冷えているのはいつものことだから、気に留めるまでもなかった。
初めて訪れる料理店は、とにかくメニューが豊富で魅力的だった。ずらりと並ぶ料理名と美味しそうな写真は見ているだけで食欲をそそる一方で、選ぶのに頭を悩ませてくる。あれも美味しそう、これも美味しそう、こっちはリンが好きそう、なんて言い合って、最終的に悠真は水菜とベーコンのペペロンチーノを、アキラはデミグラスソースのオムライスを注文した。テーブルの上に運ばれてきた出来立ての料理の写真を撮り、ようやく昼食にありつける頃にはもう十四時になろうとしていた。
お互いに選んだものを一口ずつ味見するのももう慣れたもので、アキラがフォークでくるくるとパスタを器用に巻き取るのを眺めながら、悠真はふわふわとろとろの卵とデミグラスソースの味に頬を緩める。店員は皆愛想が良く、客のプライベートを丁重に扱ってくれるので、ファンが勝手に騒いで乱入してこないのも良い。ケーキや焼き菓子のテイクアウトもおこなっているようなので、情報提供者たるリンにお礼としていくつか買っていってあげたら喜ぶだろうか。そんなことを思いながら黙々とフォークと口を動かしていたからか、いつもはアキラよりも遅く食べ終えるのに、今日は悠真のほうが早く完食していた。
「さっきの映画だけどさ」
腹と心が満たされると、自然とひとの気は緩むという。
美味しい食事と、信頼を預けている相手の存在。そのふたつに絆された悠真も例外ではなく、ウェイターが空いた皿を下げて食後のドリンクを運んでくるのを眺めながら、何の気なしに口を開いた。
「僕もあんたの結婚式に呼んでもらえたら幸せだろうなぁって思ったんだよね」
澱みなく言い切り、白く湯気の立つコーヒーを慎重に啜って、舌の根まで広がる苦味を味わう。
軽やかな声で紡いだそれは本音の欠片に過ぎない。ただ、アキラが重く受け止めるような内容でもないはずだ。
そう、思ったのに。
「
……
それは、本気かい?」
予想に反してアキラは固い表情を浮かべた。悠真はぎくりとして、背筋がピンと伸びるのを感じた。
恋愛の話題はNGだっただろうか。いや、恋愛ものの映画を観るのは別に今回が初めてではないし、必要とあれば苦手なホラーだって観る男だ。結婚に関わる話、というのは確かに少し踏み込みすぎたかもしれないけれど、先の短い悠真はともかく、まだまだこの先長い道のりを歩いていくアキラにとっては別に夢物語でもないだろう。彼の中の何のスイッチを押してしまったのか見当もつかない。
「あらら
……
もしかして相棒、結婚願望とかなかった? 確かに今はそんなことを考えている暇はないだろうし、それより先にやらないといけないことがあるんだろうなーっていうのも分かってるよ。ただもしもの話だけど、目の前の問題がぜーんぶ解決して、もう少しだけこの世界が優しくなって、素敵な出会いがあったら
……
アキラくんはきっと良いお婿さんになるだろうし、友人として招いてもらえたら僕も鼻が高いな〜、なんて
……
」
なるべく明るい口調で、まくし立ててしまわぬよう話す速度に気を遣って悠真は誤魔化そうと試みた。けれどアキラの碧いひとみは読めない感情を宿したままじっと悠真を見つめるばかりで、逃げを打つことを許そうとしない。膝の上に置いた手のひらがじっとりと汗ばむのを感じる。
人の地雷はどこにあるか分からないものだ。なるべく踏まないように、あるいは踏むのならきちんとした目的を持ってそうするようにしていたが、意図せず踏んでしまったそれへの対処はどうにも難しい。何せ普段の悠真は目の前の道にそういったものが存在しないかを確かめ、あれば適切に排除して、後ろに続く仲間が本命にたどり着くまでの危険の少ない道を確保する、そういった役割を担っている。雅のように地雷を飛び越えて本命へ向かうことも、柳のような周到さで地雷の爆風すら避けきってみせることも、蒼角のような真っ直ぐさで爆ぜる地雷をものともせず突き進むことも、悠真には出来ない。
内心でため息をつく。別に卑屈になっている訳ではない。自分の迂闊さで楽しい時間に水を差してしまったことに少し落ち込んではいるけれど、それだけだ。
冷えた指先でコーヒーカップの取っ手を掴み、ぬるくて苦いそれを上手く回らない舌の上に流し込む。たかが一口のコーヒーが潤滑油になんてなりはしないけど、悠真には必要なことだった。
「
……
僕は」
重たくなってしまった空気を、アキラの声が震わせる。
「君と一緒にリンの結婚式に参列したあと、引き出物のバウムクーヘンを持って帰ってふたりでいい結婚式だったねって言いながら食べる未来なら歓迎だな」
「
……
え?」
紡がれた言葉に、悠真はぽかんとしてしまった。
リンの結婚式。なるほどその可能性もあるし、そちらにも呼んでもらえたら嬉しいと素直に思う。誰かの隣でウェディングドレスを着て幸せそうに笑うリンの姿を見て、涙目になっているアキラをからかってやる未来。はたしてこの妹思いで心配性な兄が妹と結婚することを許せる相手などこの世界に存在するのかはさておき、幸せな光景に間違いはない。間違いはないのだが。
「僕としてはリンちゃんだけじゃなく、あんたの一生に一度の姿も見てみたいんだけどなぁ」
出来れば僕の隣で、という言葉は、境界線の内側で響かせるだけに留めた。
そんな未来を簡単に願える立場じゃないことを悠真は知っているから、あの主人公の決断と迎えた物語の結末を気に入っている。あの主人公が迎えたようなエンディングに辿り着けたら幸せだろうなと、裏側に張り付いた寂しさのことを認めながらも純粋に思っている。
しぶとく生きてやるつもりでいるけれど、他の人よりも早く訪れる死から逃れることの出来ない身の上だ。アキラとリンが追い求めるものに辿り着くところを見届けられるかどうかすら怪しい。自分は見届けてもらったのだからふたりのことも見届けてやりたいと思っているが、気持ちだけで解決出来る問題ではないことくらい、他の誰でもない悠真自身がよく理解している。
そんな人間だから、美しい年輪を描くなんてことも出来っこない。一層目を綺麗に焼き上げることすら危うい。菓子を作るために用意した生地はそれ以外の用途でなんて使えないから捨てるしかなくなるし、生焼けの焼き菓子なんて口にすれば腹を壊す。アキラの優しさも、人生も、そんなふうになってしまってはいけない。
だから寂しいのと同じだけ幸せな夢を悠真は見てみたかった。それだけだった。
「悠真には悪いけど、こればかりは譲ってあげられないな」
なのにアキラはどうやら、それを許してはくれないらしい。
困ったなと思いながら、そっか、と悠真は曖昧に受け流すことで今は難を逃れることにした。
――
境界線は、線でしかない。壁にはならない。
だからその線の内側で響く声は、そのすぐ近くに置かれた椅子に座る男には筒抜けだということに、悠真は気付いていない。
「お兄ちゃんさあ」
美味しいお店を教えてくれてありがとう、これお土産ね、と言って紙袋に入った焼き菓子を差し出してきた青年の、どこか気まずそうな笑顔を思い出しながら、リンは項垂れている兄をじとりと睨む。
「いつになったら悠真にきちんと告白して、ふたりで結婚して、私に美味しいバウムクーヘンを食べさせてくれるの?」
「
……
」
「言っておくけど、雅さんも柳さんも蒼角もみんな首を長くして待ってるんだからね!」
「すまない
……
」
今日も見事攻め方を間違えて惨敗した兄の恋路は前途多難だ。バウムクーヘンエンドという単語に興味を持った悠真と映画を観に行ってくる、なんて言い出すものだから、せっかくのデートを楽しめるよう料理屋のことを教えてあげたというのにこれである。
だいたい、悠真がアキラの結婚式にお呼ばれしたいと言い出した時点で、本当の意味で家族になろうとか、一緒に主役になってほしいとか、直球で攻めておけばよかったのだ。なのに悠真の立場を気遣って回りくどい言い方をしたせいで誤った方向に追い込んでしまったようなので、リンは呆れることしか出来ない。ゲームよりもハッピーエンド確約の恋愛映画のビデオに課金させた方がいいのではないだろうかと真剣に思ってしまう。
もうこうなってしまっては、やはり悠真にも頑張ってもらうしかないだろう。
不甲斐ないお兄ちゃんでごめんね、と心の中で思いながら、お土産のマドレーヌを頬張る。
――
悠真のことだからきっとアキラのことを想って難しく考えているのだろう。
その身に抱える事情と期限を思えば、彼のほうからは安易に踏み出せないのもわかる。それくらい彼はアキラのことを大切に想ってくれているのだということも。
だけどふたりで用意した生地をいざ焼いていこうとしたときに、片割れがいなくなってしまったって何だ。アキラにはリンがついているから、無駄になんてさせやしない。
生焼けの菓子が出来上がったとしても、アキラがそれを自棄になって食べてしまわないようにリンが見張ってやれる。
だから悠真はもっと欲張りになればいいのだ。
欲しいのはあの美しい円形と年輪の模様が完成する未来ではない。
綺麗なエンディングに行き着くことでもない。
他の誰でもないふたりで歩むその過程こそが兄の求めるものであり、悠真なら誰よりも大事にしてくれると信じているものだから。
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