聡狂とくしゃみ

2025/3/22 聡狂ワンドロ

 寒さに張り詰めた空気が緩み、陽の光が黄色くなりはじめ、電車内の構成メンバーが変化しつつある春の初めであった。バイト帰りの朝の空気がふわふわと心地よく、出かけるのにええ季節やなあとぼんやり考えてから、聡実はふと、これまで大人たちがそのような言葉を口にするたびに「出かけるのに季節もなんも関係ないやん」と思っていた自分、そして今ようやく、彼らの発言の理由をなんとなく理解できたのかもしれない自分に気づいた。大人や。僕。
 アハ体験に近い納得感はますます外に出たい気持ちを促す。しかしこの春を満喫するにあたり、聡実の前には三つの誤算があった。
 一つ目はこの春、狂児が花粉症デビューを果たしたことだ。
 彼はしょぼしょぼの目でずうっと鼻をかみ続け、「ぶェッッしゃ!!!!!! ッあ゛〜〜っ゛」みたいなくしゃみを連発していた。
「誰かにずっと噂されとる」
「この頻度と期間は噂ちゃうやろもう。日常会話に狂児が潜んでるレベルやろ」
「ほんなら出どっ、ヴァっっシャ!!!! 〜〜〜いッ……ころは、聡実くんかぁ」
「なんて?」
「出どころ……
 誤算その二は狂児の意固地な態度であった。
 花粉症であることを絶対に認めないのは発症初期によく見られる症状の一つであるとされている。しかも大人になればなるほどこの傾向が強いと聞く。そして立派な大人である狂児もまた、自らが花粉症患者であるという事実を頑なに認めず、花粉ではなく猫アレルギーだとかウサギアレルギーだなどと、無意味極まりない主張を繰り返していた。
「猫もウサギもおれへんし。外出たとたんこんなんなるの、100花粉やん」
 大体、何のアレルギーでもやることは一緒である。炎症を抑える薬を飲んで、できる限りアレルゲンを体内に入れないよう努めるべきだ。
「花粉かなぁ」
「なんで花粉症になったことを頑なに否定するんですか」
「春が辛い人生とか送りたないねん。聡実くんと出かけたいし。出かけませんか」
「出かけるなら薬飲んでください」
「ほんまに花粉かなぁ……
「狂児さんてもっと大人かとおもててんけど」
「おとア゛ーーっっシャあ〜〜〜ぃ……なやで」
「素直に飲めや薬を」
 ズビッと鼻を啜った狂児は、ゴマアザラシの赤ちゃんが潤んだ瞳でこちらを見ているティッシュ箱に手を伸ばした。これまでは街頭で配られているポケットティッシュ、でなければトイレットペーパーで全ての用事を済ませていた聡実宅にこのセレブなティッシュが導入される運びとなったのは、ひとえに彼の真っ赤な鼻の下がかわいそうだからである。チーンと鼻をかんだ狂児は、「止まらへん」としょぼしょぼの目でぼやき、痒いのであろう目をぱちぱち瞬かせた。上下する濃いまつ毛が生えている瞼も、なんだかいつも以上にくたびれている。
……
「なに〜?」
「なんでもないです」
 誤算その三の原因は、狂児ではなく聡実の方にある。
 実を言えば聡実は、狂児が──この”成田狂児”が! ──ちょっと弱っている無防備な姿を、もうどうしようもなく可愛いと思ってしまっている。
 二十五の年の差は、普段は概ね聡実が可愛がられることに発揮されている。彼が口に出さずとも目線や手つきから、たとえこちらを見ていなくても仕草から、もはや離れていてもその距離からすら滲み出るそれを、聡実は心地よく享受している。しかし同時に狂おしいほどもどかしい。もちろん聡実だって狂児が可愛いし可愛がっているつもりなのだが、可愛がりに質量があるとして、聡実が彼から受け取るそれを上回った大きさのものを返せているかと言えば、否なのである。だから今は、目に見えない小さい粒によってしおしお弱っている狂児のことを可愛がり倒すチャンスなのではないかと思う自分がいる。かわいそうな狂児。可愛い。かわいそう可愛い。なんやったっけこれ。あ。あれや。
 脳裏に稲妻のように到来した古語の意味を、聡実は言葉ではなく心で理解した。あはれ。「アハ体験や……
「聡実くん、楽しそやな」
「うん。しょぼしょぼの狂児さん可愛いです」
「ありがとう……?」
「くしゃみはうるさいですけど」
「ごめんね……
「それはいいです。けど」
「けど?」
 誤算その三の本題はここからである。
 これは本当に新発見なのだが、こういう時、つまり、大事な人間がしおしお弱っているときは、かわいそうも可愛いもあはれも超えて、『なんとかしてやりたい』が思考回路の大半を占めてしまうのである。
「辛そうなの見るとこっちも辛いんで」と言いながら、聡実は、これから自分が発しようとする言葉に既視感を覚えた。何やろ。
 あ。あれや。
 僕が熱出して寝てる時、母さんが言ってたやつ。「自分のことより辛い気がする」
…………
「やから観念して認めて。薬飲んで」
「はい……
 この春三度目のアハ体験に頷く聡実の肩に頭を乗せた狂児は、芝居がかった仕草で目頭を抑える。しかしその直前、芝居ではなさそうなくらいに小さく揺れた黒い瞳も聡実は目撃していて、これはもしかしたら狂児にとっても誤算やったのかも、と思った。