koto
11854文字
Public れめしし😈🦁
 

モラトリアムの行く末

昨年発行のれめしし合同誌『24/7-twentyfour seven-』に掲載していた作品のWeb再録です。合同誌は朝から晩まで四六時中なれめししをイメージし、こちらは「明け方~早朝」の話になります。

夜が明ける少し前の時間、不意に目が覚めてしまった🦁が眠れずにいると一本の連絡が入って...。無自覚🦁に😈がとある働きかけをし、二人の関係が動き出す話

※原稿自体は昨夏に書いたのでDCの二人は加味されてません

それは断りもなしにパチンッと突然スイッチを入れられたような目覚めだった。
夢うつつをうとうと微睡むなんて時間もなく、まるで控えていた舞台袖から眩いステージ上へと問答無用で蹴り出されたような感覚に近い。ついさっきまで眠っていたのが嘘のように、目を開いた瞬間から眠気は跡形もなく消え失せた。あまりにも冴え冴えとした頭で、獅子神は二度寝の選択肢をもう取れないことを察した。
両手で数えられる程ではあるが、過去にもこんな起き方をしたことがある。そんなときは決まって数秒後、見計らったように漠然とした心許なさが獅子神の身の内にひたひたと染み渡っていく。どうやらそれは今回も同じらしく、獅子神は小さくため息を零した。

枕元から手繰り寄せたスマートフォンは目に痛いくらいの眩しさで、早朝と言えなくもない時間を示していた。
昨夜いつもより早くに寝てしまったのもあるのだろう。健康的な身体は最適な睡眠時間をしっかりと刻み込み、律儀にリズムを遵守するらしい。そこはもう少し融通を効かせてくれてもいいのでは? と思うものの苦情先は自分の身体なので、どうにもできない。

獅子神はこんな時間にも起きているだろう顔も知らない誰かに思いを馳せる。例えば長距離トラックの運転手や市場の卸売業者、あとはパン職人といったところか。それこそ地球の裏側まで含めれば、今この瞬間も当たり前のように人や経済は動いている。そうやって頭では分かっているのに、それでも馬鹿馬鹿しいことは百も承知の上で、言いようのないぼんやりとした寂寥感に包まれているような心地がする。

しんと静まり返った寝室で獅子神は手の中のスマートフォンへと再び視線を落とす。ディスプレイに触れ、何件か表示された通知の中からそれを選んだのは考えなしだったのか、出来心だったのか。ほんの一〜二時間前、グループ宛に送られていた男のメッセージは他愛もない内容だった。それがどうでもいい話であればある程、今の獅子神にはなんだか心地良かった。
すぐそこで「ねえ、ちょっと聞いてよー」と話しかけられているのを片手間に聞いているような、気心の知れた距離感にふっと小さく口許を綻ばせる。もう一度だけ文面を目でなぞってから画面を暗くした。
強めの光源が残した残像に数回瞬きを繰り返しながらスマートフォンをサイドボードへ戻そうとして。獅子神の手から離れる数秒前に、それは控えめに、でもしっかりと震えてみせた。咄嗟のことに取り落としそうになりながらも、手から逃げかけた端末をキャッチする。見るとそこにはさっきのグループ宛ではなく、獅子神個人へ宛てたメッセージが届いていた。
わざわざ開かずとも通知欄で十分確認できるくらい短い一文を目にして、獅子神は思わず小さく声を上げそうになる。そうしてほんの少しの逡巡の後、ガシガシと頭を掻くとそれを既読にしてベッドから立ち上がった。

暗がりの寝室で目にした叶のメッセージはたった一言。
『今から行くね』
それだけだった。

ざわりと湧き上がりそうになった予感にすぐさま蓋をするように、獅子神は「都市伝説の怪談話かよ」と頭の中で茶化し突っ込みを入れる。あの風体の男がまだ日も昇らぬ時間に突如あんな予告だけ寄越すのは間違いなく都市伝説の類だなと一人頷いてみせた。
怪しげな都市伝説の類であれば現れるかどうかは眉唾だが、あの男が来ると言うなら、それは決定事項の通達でしかない。
数十分後の来訪が分かりきっている獅子神は、近所に出歩ける程度の軽装に着替え身支度を整えた。問答無用の予告のせいで一気に慌ただしくなる。ついさっきまでのぼんやりとした物寂しさは、忙しく準備をしている間に溶けてなくなったことに獅子神は気付いていなかった。



玄関の呼び鈴が子気味よく二回、立て続けに鳴らされる。無人のダイニングでやけに明るい音が響くのを耳にしながら、獅子神は急かされるようにしてドアを開けた。
「けーいいーち君、あーそーぼっ♪」
顔を合わせての第一声。ドアを開けてすぐに目に入ったのは、門扉の上から悠々と顔を覗かせている友人の姿だった。機嫌が良いのか謳うようにふざけたご挨拶をしてみせる。早朝なのを考慮して幾分か声量は抑えているが、叶のよく通る声は獅子神の耳まではっきりと届いた。
「っとに、小学生かよ」
「嬉しいくせに」
足早に駆け寄り目の前の門扉を開け放ってやれば、叶は獅子神の小言に動じることなく軽口で応じる。
日中の暑さはまだ当分続きそうだが、それでも近頃は少しずつ夏の気配も薄くなり、この時間だと汗ばむことはなさそうだった。叶は薄手のロングスリーブを着ていて、普段はフードで隠れがちな首筋も耳元も丸みを帯びた形のいい頭も無防備に晒されている。
「随分早いお出迎えだったね」
叶がニンマリと浮かべた笑みは、ピンクと紫の縞模様をした猫のキャラクターを彷彿とさせる。人をからかって面白がっている笑顔だ。
獅子神も阿呆ではないので、この男が全てお見通しの上でこんな風に笑っているのは分かっていた。だから余計に面白くないというか、悔しくもある。図星というやつだ。
叶もお察しのとおり、準備を終えた獅子神は手持ち無沙汰に玄関の上がり框に腰を下ろしてその到着を待っていた。静寂を破る呼び鈴の音に弾かれたように顔を上げ、立ち上がりドアノブを握った自分のほうがよっぽど小学生みたいだったなと気付かされる。

「で、どーすんだ? 中入るか、どっか行くのか」
叶がどういうつもりなのか全く見当がつかず、門扉に手をかけた獅子神は中途半端にスペースを取ったまま開けるか閉めるか決めあぐねている。
「んー、特に決めてないんだけど……あ、散歩でもする?」
おおよそこの男の口からは出てこないだろう単語が飛び出し、獅子神は思わず面食らう。むしろこちらから誘ったところで「朝っぱらから散歩だなんてジジくさっ」と一蹴して布団に潜ってしまいそうな奴なのに、と。獅子神はベッドの上に載った丸くて大きな布団の塊がありありと思い浮かび、思わず小さく吹き出してしまう。
「思い出し笑いなんて敬一君ってばやらしぃー」
「うっせぇ。オマエにしちゃあ随分早起きだなって思ったんだよ」
オマエにしちゃもなにも、たいがいの人間にとってはまだ起きる時間じゃないが叶の場合は輪をかけてだ。
「敬一君、本気で言ってる?」
獅子神の言葉に叶は不服そうな表情を浮かべる。ただし、それは早起きを珍しいとされたことに対してではないようだ。
「あ?」
「オレの寝起き知ってるだろ?」
……ってことは」
叶の言わんとしていることを察し、獅子神は隠すことなく呆れ返る。
「そ。オレにとって今は二十八時台ってわけ」
「残念ながらオレにとっても日本中の大半の人間にとっても今は四時台だけどな」
そんな獅子神の言葉なんて気にも留めずに叶はさっさと歩き出す。なんとなく思い付きで発しただろう散歩という提案が採用されたらしく、獅子神はしっかりと門扉を閉めると数歩先を行く叶の後を追った。

先導する叶はここいらの土地勘があるわけもなく、自由気ままにあてどなく進んでは止まりを繰り返す。普段の移動はほとんど車で、そうじゃなければ目的地めがけて最短距離を歩くことしかない。だから自宅から徒歩圏内ではあるものの普段は見かけない景色が新鮮に映る。寄り道をして道草を食いながら散策するなんて、それこそ子供の頃以来だなと獅子神はぼんやりと思い返した。
自宅周辺は住宅街なので似たり寄ったりな景色と言ってしまえばそれまでだが、よくよく注意を向ければ外壁や庭一つとっても、そこには家主の好みが窺える。色とりどりに季節の花が植えてある庭先があれば、雑草の一本も生えないよう前庭にタイルが敷き詰められた家もある。ふと視線を落とすとどこかの子供がイタズラでもしたのか、電柱の低い位置になにかのキャラクターらしいシールがくっついていた。
こんなありふれたなんの変哲もない景色も、人の気配の無さや日が昇る前の不明瞭な薄明るさに包まれているせいか、縁もゆかりもない見知らぬ街を散策しているような気分になる。

コイツの目には今なにが映っていて、なにに興味をひかれているんだろう。数歩先を歩く男の後頭部を眺めると、不意にくるりと振り返り目が合った。
「敬一君はさ、今まだ日の出よりも前なのになんで真っ暗じゃないか知ってるか?」
「はあ?」
唐突な質問に促されるように、獅子神は思わず空を見上げる。たしかにまだ日は昇ってないようだが、それでも空は仄かに明るくなっている。言われてみれば何故だろうかと首を傾げる。
「光が強いから本体が出てくる前でも影響あるとか?」
なんとなくそういうものだと思って不思議にも思っていなかったが、改めて聞かれると確と答えられないものだなと気付く。たぶん意識してないだけで日々こんなことは山ほどあるに違いない。
「正解は地球に空気があるからでした」
叶の口から出てきた答えはなんだかなぞなぞのように獅子神には聞こえ、いまいち腑に落ちない。空気と光になんの関係があるというのか。
そんな心の内がありありと獅子神の顔に浮かんでいて、あまりの素直さに機嫌を良くしたのか叶は小さく口角を上げる。
「上空の大気が太陽の光をいろんな方向に散乱してんだって。だから日が昇る前でもちょっと明るい」
「へー」
たしかに宇宙の写真なんかは真っ暗で、もしかしたらそれも空気が関係しているのかもしれないなと獅子神は一人納得する。改めて今この時間が夜とも朝ともつかない曖昧なオマケみたいな時間のようにも思えてきた。
「ちなみにこれ薄明っていうんだ」
こういう話を聞いていると、思っているよりもこの男に博識な面があることに気付かされる。別に叶のことを学がないと思ったことはないが、普段の振る舞いを思い浮かべるとちょっとしたギャップを感じる。知らない一面を突きつけられるというか。
「で、またの名を黎明」
「なんだ、結局自分の話かよ」
「また一つ賢くなったな」
感心して損したと鼻白む獅子神相手に、叶はそう嘯いて笑った。

特に行く当てもなくぶらぶらと男二人で歩き回っている間にも、空は徐々に明るくなり周りの景色は輪郭をはっきりとさせていく。もしもこの散歩がもう少し暗い時間帯だったら職質にあっていた可能性も否定できない。この閑静な住宅街では不審人物に見えても文句は言えないだろう。


更にそのまま少し歩き、立ち並ぶ家々を抜けると大きな幹線道路に出くわした。こんな時間でもまばらに車は行き交っているが、時間帯もあってか走っているのは乗用車よりもトラックが多い。先程までの人気のなさとは打って変わり、自分たち以外の誰かの存在を感じながら道路沿いを歩いていく。
途中見かけたコンビニに立ち寄って、ミネラルウォーターとエナジードリンクを一つずつ買った。手からぶら下げた袋の中は確かな重みで、歩くたびに小さく前後に揺れ獅子神の手をキュッと締めていた。歩調と少しだけずれるリズムを手の中で感じながら、そういえばコンビニの店員もあの朝の少し手前の時間帯で働いている人間かと気付く。やっぱり案外居るものだなと、寝起きに感じたあの心許なさを思い返して獅子神は内心苦笑いせざるを得なかった。

特に目的地も無かったので、コンビニを折り返し地点にして来た道を引き返す。ちょっと明るくなってきたな、とか、寝ないでなにしてたんだよ? など当たり障りのない会話をぽつりぽつりと交わして、そうして暫くした頃。
「喉乾いたしちょっと休んでこうよ」
そんな叶の提案で立ち寄ったのは、行きしなに素通りした屋根付きのバス停だった。
こういった公共の設備は獅子神の身体には少しだけ窮屈で、一人分毎に境界線が定められているタイプのベンチなんかは余計にだ。傍らの男にとっては窮屈どころの話じゃないのだろう。現にベンチの端っこで少しはみ出して座る獅子神に対して、叶は最初からそこに収まるのを放棄したのかガードレールに腰を下ろす。その長い脚を捌くには、そちらのほうが都合は良さそうだった。

獅子神にとっては大した運動量でもない散歩だが、叶は少し気怠そうに見える。先程の二十八時台云々の発言を思い返せば、一概に運動不足が原因と断じることもできない。
自分よりも少し高い位置にある顔を見上げると、叶は無言で手を差し出してきた。なにを要求しているのかは分かりきっていて、獅子神は袋の中から細身の缶を掴み出す。そこから叶目掛けてゆっくりと大振りに放ったのは、うっかり取り落とさないようタイミングを測りやすくしようとの配慮だったが。
「もー、吹き出ちゃうじゃん」
叶はと言えば片手でキャッチしつつも文句を言う。
「なら、この距離横着しないで取りに来い」
相変わらずの身勝手さを横目にペットボトルを取り出す。さっき買ったばかりの水はまだ冷たくて、蓋を開けようとボトルを握りこんだほうの手のひらがひんやりと気持ちいい。一口、二口と口にしてみると案外喉が渇いていたらしく身体に染み渡るように感じられた。
はたしてエナドリは水分補給になりえるのか。チラリと様子を窺えば、叶は不服そうな顔から一転、ニヤリと笑みを浮かべると長い腕を最大限に活かし両手で持った缶を獅子神へ向けてプルトップに指をかけていた。なにをしようとしているかなんて明白だ。
「っざけんな!」
「因果応報ってやつだな」
どの口が言いやがる。そもそもは横着したオマエが要因だろう。獅子神は心の中で悪態をつき吹き出してくる液体に身構える。
次の瞬間プシュッという音と一緒に溢れた液体はそこまでの勢いもなく、缶を持つ叶の手指を少し汚す程度に留まった。地味な結果を見届けると、獅子神は思わず声を上げて笑ってしまう。
「オメーの言ったとおり、因果応報だったな!」
ぶすっと不貞腐れた叶がおかしくて涙が滲むくらいに腹を抱えたが、ベタベタになった手の不快感が少しかわいそうにも思えてきて、袋に入っていた使い捨てのおしぼりを差し出してやる。
叶は素直に受け取り、汚れた缶や手を拭うと改めてゴクゴクと中身を煽る。このあと就寝を控えている人間が飲むのにここまで適さない飲料もないだろう。常飲しているせいで良くも悪くも眠気に影響を及ぼすこともないのかもしれない。
叶の座っていた位置が少しずれて、さっきまで遮られていた陽光が眩しい。バカをやっている間に既に日は昇っていたようだ。

それにしても朝っぱらからなにをやっているんだかと改めて我が身を振り返る。大した用もなくこんな名前も知らないバス停で二人、休憩がてら喉を潤している状況が今更ながらおかしくて。
おかしいと言えば、そもそもなぜこの男はここにいるのか。場所どうこう以前に、こんな時間に二人きりでいることがまずおかしかった。缶を煽る叶の喉が動くのを眺めながら、そもそもの疑問に立ち返る。
「にしてもよ、オマエ気まぐれにしてもほどがあるだろ」
「んー? なにが? 散歩?」
「散歩もまあ、そうだけど。いくらオレが起きてるの分かったからって遊びに来る時間でもないだろって」
叶にとってはこれから寝る時間だったはずだ。たとえ既読に気付いたところで普通なら寝てしまうだろう。暇つぶしとするには無理がある。というか、グループ内で着いた既読がなぜ自分のものだと判断したのか獅子神には理解ができなかった。
「なに? 言って欲しいの?」
獅子神はペットボトルに口をつけながら、なにを? と視線で問いかける。
「敬一君に会いたくて来ちゃったって」
「っっ⁈ ガハッ、ゲホッ……‼」
飲み始めた水がうっかり気管に入り込みそうになり、身体がそれを防ごうと噎せ返る。
「大丈夫かー?」
さして心配もしてなさそうな暢気な声が頭上から降ってくる。地面に向かって咳き込み、どうにか息が整ったところで獅子神は恨めしそうに顔を上げた。
どうせ出がけのときのように、さぞ楽しそうにからかいじみた笑顔を向けているのだろうと。ただ、予想に反して叶は笑ってはいるものの、そこから意地の悪い感情は見て取れなかった。
「オマエが面白くねぇ冗談言うからだろ」
必要以上に動揺したことが気恥ずかしくて獅子神はむっとして応じる。
「冗談なんか言ってないけど?」
「じゃあ、なんだってんだよ」

「あんな時間に二度寝もしないでスマホ眺めてる敬一君のこと考えたらさ、会いに行かなきゃなって思ったんだよ」

その声音が今まで聞いたことないくらいに柔らかくて、鼓膜から全身にむけてぶわりと粟立つような感覚に襲われる。
獅子神は困惑の色を隠せない。分からないからだ。叶がこんなことを言うのも、自分がこんなにも過剰に反応してしまうのも。
戸惑う獅子神に、叶はいつもの声色で話を続ける。
「しょぼくれた顔でも見ようかなって」
「テメー」
「嘘。そんなあからさまにほっとした顔すんなよ」
なにかの言葉遊びなのか。なにが本当でなにが嘘なのか。叶の言葉はひらりひらりと翻って舞う紙吹雪みたいで、なかなか真意を掴むことができない。
「なあ、いつまで分かんないフリしてんの?」
叶は呆れたような、それでいて少し困ったような表情を浮かべている。その言葉も表情も獅子神をザワザワと落ち着かない心地にさせる。
叶はなんの話をしているのか。
「分かんないフリ」とは本当は分かっている、もしくは分かっていておかしくない、少し考えたら分かることを指しているのだろう。
叶黎明という男が明け方近くに自分の元へ訪れた理由を今一度考える。
望まぬこと、意に沿わぬことはしない人間だ。先程の会話からもからかい目的という線は薄いと窺える。それはそうだろう。一睡もしてない人間が、そんなことのためにわざわざ足を運んだりはしない。
難しいことは一切なく、獅子神に会いに来た理由が言葉どおりの意味だったとしたら。
「これはこれで楽しいけどさ。でも、そろそろ限界じゃない?」
答えまであと一歩を踏み出せずブレーキをかけてしまう獅子神に急かし背を押すように叶は言い放つ。
そのとおりなのだろう。
目を瞑っているフリをして薄目を開けているような状態を今の今まで続けてきた。なんだかんだ居心地が良くて、だから足踏みをしていた。それこそ停滞だ。不変なものなんてこの世に何一つないのだから、自分だけが停まっていても周囲は目まぐるしく変わっていってしまう。

保証は何一つないのに。
叶が、明日も好意を向けてくれるなんて。
思い当たったのは時折見せる満足げな顔だった。獅子神が心から楽しんでいるとき、いっしょに馬鹿をやっているとき。心が動いたときに叶が何故だか嬉しそうに笑うものだから。何故だか、の何故をもしかしたらと薄々勘付きながらも見ないようにしていた。

叶は自分に好意を持っている。それはずっとなんとなく肌で感じていたことだ。ただ、問題はその正体だった。単なる気まぐれからなのか、もっと違う、特別なものなのかまでは分からなかったし分かろうともしなかった。
分からないながらも叶から向けられる好意は手放すには居心地が良く、だから獅子神はそう感じてしまう自分の気持ちごと蓋をしようとした。はっきりと確信した次の瞬間から失うことが怖くなりそうだったから。向けられる好意を「自分のモノ」と認識した瞬間にダメになりそうで。
神様とかそういうよくわけの分からないもののせいにしてペンディングしていた。信仰心なんてないくせに、日本人特有の八百万の神信仰とでもいうのだろうか。名前も何の神様かさえも分からないそういう存在に、欲しいものを知られてしまったら取り上げられるんじゃないかって。
素知らぬ顔で、それが欲しいなんておくびにも出さずにいないとうっかり手を伸ばした瞬間に霧散してしまう気がして。そんな不安がいつでも心の底の方に漂っていた。

「敬一君、知ってた? 時間は有限なんだよ」
「分かってる」
「本当に? 今、この瞬間にオレか敬一君がなんらかのアクシデントでこっち側にはみ出たら、もう終わっちゃうのに」
そう言ってガードレールに座る叶が背後を指させば、おあつらえのタイミングでトラックが走り去っていく。

あらためて叶を見る。高度を少し上げた朝日が背後から照らしていて、眩しさに目を眇めてしまうが、それでも懸命に見つめる。
叶はそんな獅子神をただじっと見据えていた。射抜くような視線があまりにも鋭くて、まるで虫ピンで刺し止められ標本にでもなった気にさせられる。きっと一挙手一投足どころか心の些細な動きも含め、全てを余すことなく観られている。

獅子神が考える答えもその先の先くらいまできっと分かっているだろうに、叶はそれでも何も言わずに黙っていた。自分で最後まで考えてみろ、ということなのだろうか。
仮に、叶が好意を持っているとして。それがどういった類でも、その嬉しそうに笑う顔が、叶の感情の起伏が自分に由来しているのだとしたら。
――そんなの、喜ぶに決まってんだろう。

意識しないようにしていたことがある。自分もただ世話を焼く為だけじゃなく、なんだかんだと理由を付けて機会を見つけては、それとなく傍に居た。このままこれが当たり前になればいいのになんて、無意識に無欲さを装って素知らぬ顔をしながら、そんなことを望んでいた。
思っている以上に欲張りだ、そんなの。



叶がガードレールから腰を上げる。感情を読み取れない表情のまま、ベンチに座る獅子神の真正面まで来ると、閉ざしていた口が開く。
「タイムリミット」
「ギャッッ!」
思わず唇の動きに目を奪われていると、ぬっと腕が伸ばされ、叶の両手が獅子神の首に纏わりつく。大きな掌全面がピタリと密着し、その手の冷たさと不穏さに思わず声を上げた。
「別にそんな倒錯した趣味ないよ」
あんまりな反応をする獅子神に、叶は心外さを顕にして物言いするものの、首を覆う手は依然としてそのままだ。
「テラリウム持ちがよく言う」
「アレは愛や害の外側の世界のモノだから。単なる観測対象ってやつ」
そうだとしても、やっていることの不穏さは変わらない。
首に添えられていた手が離れたかと思えば、そのまま滑るように耳裏を通過して側頭部を包み込まれる。
「さて回答のお時間です。オレは敬一君のことをどう思っているでしょう?」
……悪くねぇなって思ってる」
「ブー! 目逸らしてんなよ?」
顔面がぐいっと近くなり、お見通しだと言わんばかりにその目が頭の中まで覗き込む。驚き反射的に仰け反りそうになったが、頭を固定している叶の両手がそれを許さない。
「っくしょー……オメーは! オレのこと普通のダチ以上になんか好きだって思ってる!」
半ばヤケクソで間違えていたら単なる自意識過剰でしかない回答を差し出す。
「及第点ってとこかな」
そう呟いた叶の顔が更にぐんっと近づいて、鼻先が触れるくらい近づいて。近過ぎて浮かべた表情もピンぼけでろくに見えやしないなと明後日なことを思ったところで口を塞がれた。
しっかりと頭を固定されているため逃げ出せず、そもそも避ける気すらなかったことは叶の両手越しに伝わってしまっているのだろう。唇に叶の感触を覚えながら、マジかよ、と思わず心の中で零す。もしかしたらと思ってはいたが、こういうのも含めて好きってことなのだと叶は分かりやすく示してみせた。獅子神が驚いたのは、叶から向けられた好意の質もさることながら、自分が想像以上にそれを喜んで受け入れていることだった。
唇の感触を確かめるみたいにゆっくりと角度を変え、数回押し付けられる。口内に舌を捩じ込まれるまではなかったが、最後に上唇と下唇の境目を辿るようにチロリと舌が這い、そっと離れていった。

朝日に照らされた叶の顔は心做しかほんの少し紅潮しているようにも見える。さっきまでの無表情とは打って変わって、その瞳が獅子神の様子を窺っているのが分かった。
……なあ、もしかしたら、だけどよ」
「ん?」
「実はオマエ、ちょっと緊張してた?」
「はあ?」
感じたままを口に出したところ、叶からは盛大に不服そうな声が上がる。
「あれ? 違ったか」
触れた唇は少しだけ乾燥していて、ひんやりとした掌も冷えたドリンク缶が原因なら、もうとっくに戻っていていいはずだった。己が見当違いな方向に都合よく解釈してしまったのかと反省しそうになった瞬間。
「もーっ、そうだよ。してたよ、してました!」
どさりと隣の席に勢いよく腰を下ろし、獅子神が余計な考えを進める前に叶は渋々白状する。前方に長い脚を投げ出して両サイドのベンチの背もたれに腕を掛ければ、たちまちそこは叶の縄張りとなる。
「敬一君のくせに生意気」
ガラの悪いチンピラのように間近で睨め付けながら暴言を吐かれるものの、獅子神が動じることはない。
「バカにしてんじゃねーよ」
「口塞いで黙らせてあげようか?」
片腕を背もたれから引き上げると、芝居じみたセリフと一緒に獅子神の口元をつついてくる。
獅子神がしっしとその手を払い除け立ち上がると、同じように隣でも立ち上がる気配がする。それを察した時には既に背後を取られていた。
背中からぎゅうっと締め上げるくらいに少しきつく拘束される。すぐ横にある叶の髪の毛が頬を掠める。
「おい、叶。離せよー」
軽く体を左右に振ってみるが離れる気はないらしく、身体はしっかりとホールドされたままだ。
「緊張はさぁ……
「ん?」
「そりゃ多少はするでしょ。いくら敬一君がオレのことまんざらじゃないって丸分かりでもさー」
「オイ、コラ」
「それでも、なんかしてみたら生理的に受け付けなかったーとかあるかもだろ? 理屈じゃなくて」
人を小馬鹿にしたセリフが続くのかと思いきや、意外にも殊勝な言葉が出てきて、なんだ、かわいい所もあるんじゃないかとうっかり絆されそうになる。
「ま、嫌じゃなかったのはすぐに分かったけどね」
「オマエは……
今度こそ力ずくで振り切ってやろうと身体に力を込めた瞬間、急に拘束を解かれる。バランスを崩して危うく転びそうなところをどうにか持ち直し、ベンチの上へと尻もちをつき着地した。
視界がすぐに暗くなり顔を上げれば、叶が覆い被さるみたいにベンチの背もたれに両手を付いて囲っていた。
「またしてもいい?」
「どうせなら初回に断りを入れろよ」
「ヤダよ。選択肢与えたら敬一君逃げちゃうもん」
叶はニンマリとあの少し意地の悪い笑みを浮かべ、随分と身勝手な言い分を出してくる。なんだか都合のいい解釈かもしれないが、眼前の男がどこか浮かれているようにも見えてしまい獅子神はソワソワと落ち着かない気持ちにさせられる。
「ほら、遊んでねーでそろそろ帰んぞ!」
ぐいと叶の片腕を持ち上げて隙間を作ると、檻の中から抜け出すように囲いから逃れる。立ち上がって軽く伸びをして空っぽの袋に軽くなった缶とペットボトルを回収した。
「質問に答えてないぞ」
「どうせイエスかハイしか答えの選択肢ねーだろうが」
「人聞きが悪いなぁ。敬一君の意思は尊重するよ? まあ、その結果がイエスかハイだと思うけど」
立て板に水とばかりに淀みなく話し続ける叶をマジマジと見つめる。すっかり明るくなった空の下で見る叶はお世辞にも顔色が良いとは言えず、目の下のクマも濃くなっている。獅子神は寝不足の脳は酔っ払っている時と似ているとどこかで聞いたことを思い出した。
「オマエが寝て起きたら考えてやるよ。だから家着いたらとっととシャワー浴びて寝とけ」
そう言い聞かせると獅子神は来た道を戻り始める。
「待ってよ、敬一君」
叶は数歩で追いつくと獅子神の真横に並んで歩いた。
ついさっきのやり取りが嘘みたいに、来た時と同じような顔をして歩くものの、やっぱりどこか興奮が醒めやらない。多少の高揚は仕方ないだろう。勘違いでもなんでもなく、本当にこの男は自分を好いているというのだから。いわゆる恋愛感情を含んだものだとまでは考えが及んでいなかったが、それでも叶の言うとおりまんざらでもないことを自覚する。

それもこれもどれも全部この男の術中なのかもしれない。この少し浮かれた素振りすら演技だったとしても、叶がそうまでして手に入れたいと思うこと自体が嬉しく思えてしまうのだから、多分もう手遅れだ。ここから先はきっとどんどんと苦しいくらいに手放し難くなってしまう予感はしている。
猶予期間は終わってしまったから。ここから先はどんな未来に行き着くにしても、もう進むしかない。
この感情の行く末が天国か地獄かなんて分からない。煌びやかな場所でも、荒れ果てた場所でも、進んでしまったからにはエンドロールの覚悟は必要だ。
それでも、と獅子神は思う。
それでも、どんな結末が待っていようとも、そこに行き着くまでの道中をこの男と歩けることに小さく胸が躍っていた。今はそれで十分だ。
隣のえらくご機嫌な男が当たり前のように手を繋いできて、帰り道を歩いている。仮初めだろうと勘違いだろうと、このくすぐったくなる様な幸福感は本物だから。






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マシュマロ
読後の一言などいただけたら大喜びです

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