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おひつじ
2023-06-16 18:45:57
14118文字
Public
【創作】うちよそ
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- グレージュの錯視 -
ある内科医と精神科医の飲み会雑談回
→ツカサさん(@gachi_nabe)宅の秋山先生をお借りしました。
秋山 響輝(あきやま ひびき)先生
新宿にある秋山医院を開業している内科医
猪熊 羊(いのくま よう)
郊外の精神科病院の病棟医長をやっている、中堅精神科医
★この物語はフィクションです。
【錯視 ーサクシー】
人間の目は、世界をそのまま視ているわけではない。「脳の認識」によっては、ありえもしないものが見えたり、逆にあるはずのものが見えなくなってしまうことがある。
……
春の定期学会は慌ただしい。
論文発表の講演をし、パネルのコメンテーターをし、ポスター発表の展示を眺める。院内では割とベテランのナースにコテンパンに言われることもあるが、意外とこの世界ではそれなり立ち位置もある。いちいちそんなこと、仕事場では言わないが。
「素人質問で恐縮ですが」だなんて、研修医の鼻を折るような大人気ないことは最近はもうしないけど、医学の世界は日進月歩だ。昨日まで通説だったものが今日突然過去のものになる瞬間がある。精神科医になって数年が経過し、それなりにキャリアを積むと否が応でもそれを受け入れなければならない瞬間は幾度となくあった。
柔軟性が無いと、意外と生き残れない。
僕が学会になるべく欠かさず出るのはそういう理由だ。
この前の学会は勤務先から少し遠かったので、都内に宿を取った。2日間の内容は目白押しだが、今度出てくる新薬に話題が集約されていたので、ひと足先に治験に参加していた僕としては見知っていた事も多く、少し落ち着いて過ごせていたのだった。
2日目の夕方、あとひとつ講演でも聞いて帰ろうかなと思った時だった。
会場の片隅で見慣れた顔を見かけ思わず声をかけてしまう。
「すいません、あの
……
」
「はい、」
振り返ったその人は、秋山医院の若き院長、秋山先生だった。少し前に緊急搬送でうちの病院に何例か依頼があり、その後のフォローのために連絡をするうち、前回の学会で挨拶してくれたのだった。
「あ!これはこれは。猪熊先生」
「お久しぶりです、またいらしたんですね」
「ええ
……
」
秋山先生の専門は内科全般だが、自分の患者さんに精神関係や依存関係のケースを経験されてからは、度々精神医学会にも勉強のために顔を出すようにしていると言う。
「またお会いできて嬉しいです。昨日から?」
「ええ。新しい薬も出ると聞けば、ちょっとでも情報を聞いておかないとね」
真面目な先生だなと思う。
「どうでした?全体的に」
「や〜、なんか進歩めざましいというか。少し前まで2.3種類しかなかった薬剤が、あっという間に片手以上の数バリエーション出てきてますもんね」
「ですよねぇ」
「猪熊先生この後は?」
「僕の恩師が出る予定の講演があるので、それを聞いてから帰ろうかと」
「えっどれですか」
2人してラウンジに貼られたスケジュール表を眺める。
「『改訂版ICD-11の変更点並びにDSM-5との相違点の概要並びにトピックス』わぁ
……
確かに旬ですねこれ」
まもなく改訂が予定されている精神病の診断上の分類法なので、専門医らに向けた内容ではあるものの、知っておくことで専門家でなくとも病名の最新の取り扱いなどがやり取りとしてスムーズになる。また診断の背景なども基準が厳しいDSMに比較すると新ICDは診断に必須の特徴が列記されており、学問的な「ラベリング作業」よりも実態に近い余地のある診断ができるところもあり、慣れればとても使いやすそうな内容なので心してかかろうと思っていたのだった。
昔から定義というものは大きな前提を固定してしまうので、そこにメスが入る時は心してかからないと不勉強が即座に白日の元に晒される。とはいえそう頻繁に変わる分野では無い。実に四半世紀ぶりの改訂なので、僕もこの世界で仕事をし出してから初めての変更となる。
「でしょう
……
僕もまだ追いつけてなくて」
「猪熊先生が追いつかないなら俺なんてどうすれば良いんですか」
「秋山先生、焦りすぎです、まだ改定前だしここから最終審議もあるし」
「そうか
……
でもそれが世に出る頃じゃ遅い」
「それは確かにそう、特に僕らはね」
「難しいところは解説お願いするかもしれません、ご一緒しても、いいですか?」
「僕でよければ
……
」
秋山先生の専門は内科一般であるため、完全なるアウェイの中でのこの熱心さには脱帽する。僕としても、素朴な質問の中に本質が宿ると思うので、専門家同士のやり取りよりも頭を使うのにいい機会だなと思ったのだった。
講演会は恩師のわかりやすいが端的な説明と広がりのあるテーマだけに、活発な意見や質問も飛び交う。僕のできる範囲で秋山先生の小声質問にも答えていたら、五十分程度の時間があっという間に経過した。
秋山先生は一生懸命、ボールペンで色々とメモをとっていて、かなり集中しているようだった。
会場では軽食も出るようだったが、秋山先生からもしよかったらご飯行きませんか?とお誘いがあった。これには予想外で、帰路につくかどこか集まろうかと会場の出口で固まり出す雑踏の中で振り返って思わず「え?」と聞き返してしまったほどだ。
「でも秋山先生、ご予定とか」
「特に無いんです。こちらは知り合いも来ていませんし、猪熊先生さえよかったら
……
あ、同門の人とかと集まりますか?」
「いや、今回は同期会はパスしようと
……
なのでフリーでした。喜んで」
同門とはいつでも機会を作れるが、秋山先生とはなかなかこんな機会を持てない。二つ返事だった。
「そうと決まれば」
会場ホテル前の車寄せには大挙として黒塗りのハイヤーが待ち構えていた。適当な一台に声をかけると、慣れた感じで秋山先生はドライバーに行き先を告げる。
「赤坂からそう遠く無いエリアで、大丈夫そです?」
「お任せします、僕はこの近くに泊まりなので」
「それは良かった」
並んでハイヤーの後部座席に沈み込むと、秋山先生はシートベルトをしながらほうっと息をついた。
「
……
アウェイの環境では、疲れたんじゃ無いですか」
「内科学会だと逆に知り合いに会った時どうしようか毎回悩むんです。断り続けるのもなんだし、かといって帰りが遅くなるのも嫌だし、しかし適当なところで切り上げ辛い時もあるしで。だから知り合いの少ない科の学会は、むしろ気楽なもんですよ
……
猪熊先生に会えて心強かったです。ただ、流石に疲れますね、専門外の話題ってのは」
彼は大きくうーんと伸びをして、少し笑って頭をかいていた。
「ですよねえ」
僕もたまに内科学会には勉強に行くが、あまりの守備範囲の広さに毎回卒倒しそうになる。特に内科は幅広すぎるのだ。何せ体の内側のこと全般なのだから、その情報量は察して余りある。消化器とか内分泌とか循環器とか、細分化されてはいるけれど、来る患者さん達にその区別が初めからつくはずもないから彼らは守備範囲を少しでも広げようと苦心している。
その上僕ら互いに同じ医師と言えど、科が変わればど素人も良いところなのだ。患者さんから見たら同じく医師免許を持つ人たちと思われるが、医師免許を取るための努力と、その先の実際の臨床現場で人々にその努力を「わかるかたち」で還元するための努力は、それぞれが全くの別種なのだ。
「
……
専門性の時代とは言いますけど」
「ええ」
「俺の守れる範囲なんてたかが知れてる、とはしみじみ思うんです」
「ええ、それは僕もそう」
「
……
猪熊先生が居なかったら、最後の講演は難し過ぎて心折れていたかも知れない」
「とんでもない、」
そんなことないですよ、と言いかけたところで運転手が「どこにつけます?」と尋ねてきた。
気がつけば窓ガラス越しの煌びやかな夜景は流れ去り、閑静なエリアに差し掛かった様相だった。
「その先の角でいいです」
「ありがとうございました」
降り立った先に佇む店。普段自分では入らなさそうな小さな間口の、でも奥行きのある入り口を照らす行燈からはこじんまりとした「割烹」のオーラが漂っていた。
「あっ、和食とか大丈夫です?」
「なんでも大丈夫です、てゆか」
こんなお店よく知ってますねえ、とひたすらびっくりしながら暖簾をくぐる。
「行きつけなんです」
ふふ、と秋山先生は微笑むと片手を上げカウンター席の大将に会釈する。「奥、空いてますよ」と個室に通してもらった。
こんな奥ゆかしい雰囲気のある割烹が、都内にあったなんて。いや、あるのはあるんだけど、銀座とか六本木とか神楽坂とか、「いかにも」なエリアからは少し外れているところっぽいので驚いていたのだ。
「すごい穴場って感じですね。よくこういうところ、行くんです?」
「いや、そんなに頻繁では無いですよ。結構、家で済ませることも多いし」
「えっ、意外」
「猪熊先生は?当直も多そうですもんね」
「そうなんですよ
……
だから、家には本当『風呂と寝に帰る』って感じの生活で」
「じゃあ食事は普段どうされてるんです?」
「病院の食堂か、近隣の蕎麦屋か
……
」
申告したのはだいぶマシな方で、もっとひどい時はその時間すら惜しんでカップ麺かゼリー飲料のことも多い。一応は食べるけども自分の乱れた食生活を思い返すと、とてもじゃ無いが患者さんに「健康的な食生活を」と指導できた立場ではない。
「あはは
……
研修医時代を思い出す。勤務医の先生たちってほんと過酷ですよね」
「ね。よくやってんなと思いますよ自分でも」
話しながら、秋山先生は気を利かせて季節のものと思われるものを二、三品注文してくれた。その間、僕は通された半個室をゆっくり見回していた。
高級な料亭だと、だだっ広い部屋に大きな漆塗りの机を挟んで仰々しく差し向かい合って座るが、ここは程よいサイズの掘りごたつで90度型の位置関係に席が設けられているので互いの視線がそこまで重なり過ぎずに会話に集中しやすい。
壁には達筆で「臥薪嘗胆」と書かれた掛け軸がかけられていた。言葉の意味する勢いに反して少し暗めの室内は互いの顔よりも手元の方が照らされ、BGMには静かなジャズが流れていた。
この妙に落ち着く感じが、秋山先生行きつけのご贔屓であることに不思議と納得しながら酒のリストを眺める。
「とりあえず旬の軽めのアテを頼んどきました、他気になるものあれば」
「楽しみです、僕はとりあえず喉乾いちゃったな」
「ビールにしますか?それとも日本酒?」
「ん〜、ビール捨てがたいけどここは日本酒で」
「お、いけるクチです?ここ日本酒豊富なんですよ」
差し出されたリストの豊富さに驚きながら、北は東北から南は九州まで、津々浦々の銘酒が並ぶ。
「とはいえ、俺はそんなにたくさんは飲めないので猪熊先生気にせず選んで」
僕もそんなに強くは無いけど、珍しい酒は結構好きだ。いくつかおすすめの料理に合いそうなものを大将に見繕ってもらった。
互いのお猪口に静かに酒を注ぐ。
「ささ、秋山先生」
「わっありがとうございます、おっとと」
「それじゃ」「いただきます」
よく冷やされ、舌先でふわっと香る酒の香り。ただ、重たくはなくクリアな口当たりは、ちょうど頃合いよく運ばれてきた合鴨のローストやカラスミの和え物との相性が抜群に良い。
「うっわお酒も料理も美味しい
……
」
「はぁ、良かったです
……
喜んでいただけて」
「思わず進んでしまいますね。僕、白子ポン酢頼んでも良いですか?」
「ぜひぜひ」
「はぁ〜、久しぶりにまともな食事をしている気がする」
「あはは。もう少し、自分を労ってくださいよ」
「それはそう」
談笑しつつゆっくりと酒を注ぎながら秋山先生は言う。いえいえ、ここからはもう手酌でやりましょう、と言うと、幾分かガードを緩めたのか彼はすいません、お言葉に甘えて、と微笑む。
「猪熊先生に、一度ゆっくり御礼が言いたかったんです」
「え、なんで?お互い様じゃないですか
……
」
診療上他科の患者を助け合うのはこの世界の常だ。特に親しくも無いのにどんどん紹介という名の押し付けをしてくる輩も多い中で、面と向かっての御礼を言われるなんてのは結構久しぶりだ。
「そうだとしても。ちゃんとお礼が言いたくて」
「ははあ、」
「この前の薬物中毒の患者さんも、その前のメンタルの患者さんたちも」
「はい」
「もし猪熊先生が居なかったら、他の先生に同じように
……
相談できたかどうか」
「いやそんな」
「いえ、そうなんです」
ウチ、ちょっと、変わった人も多いでしょ?と、遠慮がちに多くは語らない。確かに、ちょっと様子のおかしい人
……
小指の先のない人、刺青の多い人、保健証すら持たない人もたまに見かける。大抵お金で解決されるので、僕らが何かを細かく言う筋合いも無いし、存外そういう人たちも普通に医療機関には来るものだ。
しかし、彼の営む医院は新宿という場所柄もあるゆえか、色々気苦労は多いのだろう。
「まぁ、うちに限らずどんな科だとしても、病院側としては、満遍なくそういう人は居ますから」
フォローにもなっていない事を言いながら、細かくは話せなくとも、それでも恩義の気持ちは充分、伝わった。
「そう
……
なんですね。小さな医院だと、中々よその状況はわからないもので」
「そうですよ、どんな背景だろうが、求められれば助けるのが僕らの仕事、ですもんね」
「ええ。それでも」
ありがとう、ございます。と深々と秋山先生は頭を下げる。いやそんな、やめてくださいよ、僕だって教えてもらってることたくさんあるんだし、と慌てるのを、秋山先生は続ける。
「本当にね、社会の片隅で弱者が、強き者に理不尽に虐げられたりね」
「
……
ええ」
「その弱者が、生き残るためには強き者になる選択肢しかなかったりね。そういうのを見ていると」
「
………
ええ」
「『蜘蛛の糸』だなぁって」
「
……
」
秋山先生の言いたいことはわかる。その命が生かすも殺されるも、蜘蛛の糸一本のことなのに、それを巡って弱き者たちが愚かにもそれを奪い合うために醜くも蹴落としあうのだ。
「助けてもまた弱き人を虐めるような輩に、その価値があるかどうかなんてね」
本当は迷うこと自体、烏滸がましいことではあるんですけどね。小さな声で俯く秋山先生は、少しだけ酒が回っていて、箸を持つ指先が綺麗だなと僕はぼんやり思った。そうして初めて気づく。秋山先生、薬指に指輪してたんだ。
「
………
」
僕も黙ってそっと箸で鯛の刺身を口に運ぶ。よく身が引き締まっていて、ほんのり柚子塩が振られていて甘かった。
「
……
釈迦になるか、閻魔になるか」
と、ぽつり、秋山先生が言う。
「確かに。ここで見捨てたらこの人どうなるだろう、とは僕もたまに思うことありますよ」
「えっ猪熊先生でもあります?」
「ありますよ
……
もう、めちゃくちゃ」
「この前お願いした2人なんか、何度も俺もね
……
どうするか悩んだんですよ」
「ほう」
「このまま俺の所で見て見ぬ振りすることもできなくも無いけど
……
でも、依存症と気づいてしまってからはね」
アルコール中毒の顔の怖いおじさんのケースと、市販薬のドラッグパーティを繰り返す若者のケース。どちらも比較的最近こちらに紹介を受けたところだった。
依存者に共通するのは圧倒的な寂しさと生きづらさだ。慢性的に拠り所として何かに依存を続けてしまっていて、それを秋山先生にひた隠しにしていたのだろう。
最初はこちらに来てもなかなか心を開いてくれなかった事を思い出す。
「紹介するのにも勇気がいりますよね」
「なんだかんだでうちに通ってくれているとね、尚更」
どちらも、他の持病や怪我などで秋山先生がかかりつけだったようで、彼らにとってはよく知らない僕のところへ紹介されたものだから「見放された」と感じたのだろう。
秋山先生からの引き継ぎではどんなにか対話を試みても、なあなあになってしまうか、ついには喧嘩になってしまうかで、難渋していたという。そうこうするうちに持病よりも依存症の方が生活に支障をきたしそうだと判断しての紹介だった。
「俺らみたいな町医者が、曖昧にしてその場だけ口当たりいいこと言ったりして、彼らが真の意味で治るのを邪魔してしまうこともあるかもしれない。でも頼られて信頼されて来てくれている中でやれることと言ったら
……
」
特に秋山先生が気にかけていたのは若者の方だった。ドラッグパーティを繰り返す彼の口癖は「ビッグになってやる」だった。しかし願いに反してままならない現実に、市販薬を繰り返し乱用し、ついに大量に市販薬を万引きしてお縄になったりもした。
また彼は他の取り巻きらにも同じように市販薬の乱用を勧めていたらしく、ネットワークをつかむのに苦心しているとも言う。
「警察に捕まって、よかったじゃないですか。それで秋山先生も踏ん切りがついた」
「もっと早く気づいて紹介すればよかった。ほんの気晴らしに、一度や二度
…
だなんて嘘、もっと早く見抜くべきでした」
「閻魔になりたい?」
「いや、嘘をつかれていたとして、舌を引っこ抜くのは俺の役目じゃ無い」
「じゃあ、釈迦になるしか無い」
「まあ流石に、自分がお釈迦様だなんてのは烏滸がましいかな。でも、俺らには選択肢ってのがどうにも少なく感じる時がある」
「ははは」
笑いながら、お猪口に控えめに日本酒を注ぐ。先生は?と尋ねると、や、俺は飲みすぎると寝てしまうのでと秋山先生は笑いながら遠慮気味にゆっくりと首を振る。
よく見ると彼は既に首筋が真っ赤だった。
「釈迦か、閻魔かねえ
……
。彼らが本当の意味で救われる時というのは、治療のゴールじゃ無くて『その先』なんですよ」
「ふむ」
「僕ら専門施設では、人生の折り合いの付け方の定点的な、ほんの一部を手助けすることしかできない。だって、入院したきり、てわけにはいかないでしょう」
「それはそう。結局、退院後のケアは必要ですしね。そうして再び俺のところに戻ってくるか、まぁどこかにかかるか。治す気があればね」
退院後のケアも大変ですよなぁ、と相槌を打つ。
「『二度とやりません』つって、退院しても、習慣を変えきれず、あるいは負の連鎖を断ち切れず。数年おきに入院する人も、いますからね」
「ああ〜〜
……
軽犯罪を繰り返して刑務所に入ってしまう人も、そんな感じですもんね」
「それぐらい、僕らのやってることって難しいんですよ。秋山先生のやってることもね」
時折無力感を感じますね、と話す僕らの穏やかな悲しみを、『臥薪嘗胆』の掛け軸が見下ろしている。
秋山先生は静かに頷いていた。
「そもそも、僕らは皆、カンダタですよ。僕だっていつ、錯乱し切った患者さんに刺されるかわからない。精神鑑定をするまでもなく、そういう人たちが罪に問われることはないでしょうね。罪を憎んで病を憎まずとは皮肉なものですが、関わるというのは、つまりそういうことなんですよ」
生かすも殺すもなにも、僕ら自身がそういう危険の上に一人ひとりと向き合っている。極論、“生かされるか、殺されるか“だ。治療が仮にうまくいかなかったとしても、『僕だけの責任では無い』と果たしてどこまで言い切れるか、周り回って己に刃を向けることになるのかも知れない、地獄も極楽も一緒くたのこの世界で。
「
……
そうなんでしょうな」
秋山先生も静かに応じる。
「生きること自体が、本当は椅子取りゲームだ」
「ええ、恐ろしいことです。それでも、いつか本当に病院から出られなくなってしまったり、社会的な大きなトラブルを起こしたりすることをどれだけ防げるか」
「だからこそ、個人だけの問題には収束しない、というね」
「そう
……
きっといろんな問題は地続きなんですね」
蜘蛛の糸は、一本天国から垂れ落ちるだけじゃなくて、本当は有象無象の事象に結びついているのだろう。見えないだけで。
「一本に縋らずたくさんの蜘蛛の糸に気付けるよう、寄り添うことが俺らの仕事なんでしょうね」
「ええ、きっとそうです
……
きっと」
真面目なトーンで話をしていると、いつの間にか二合の酒が入った徳利が空いてしまった。休憩のつもりでウーロンハイを注文するが、特に急いで場を繋ぐ必要の酒でもないのでゆったりした時間が流れている。
ふとメニューを眺めていた秋山先生が切り出す。
「俺これ頼んで良いですか」
「どうぞどうぞ、何にします?」
「筍と里芋、絹さやと椎茸の煮物」
「あ〜〜いいですね。実家みがある」
「実家て」
「じゃあ僕はだし巻き玉子」
それも良いチョイスですね、と笑いながら秋山先生は水を酒みたいに味わってゆっくり飲む。
「うちの人がね、好きなんです、煮物。ここのはどんな味か、食べ比べてみたくて」
「おお。よく作ってもらうんです?」
うちのひと、という響きはここまでの文脈で到底登場するはずのないワードだったので僕は内心、少し色めきたつ。
「いえいえ、俺が」
「へぇ〜、お料理されるんですね!すごいです。僕なんて自宅に鍋すら無いですよ」
程なくして運ばれて来た煮物は、鰹と昆布の出汁がしっかりと芯まで染み込んでおり、これまた日本酒によく合った。
「煮物って久しぶりに食べたかも。遠慮がちに小鉢に添えられてるイメージが覆る美味しさ」
「うん、美味しい。あったかい煮物も好きですけど、冷えて味が染み込んでいるとまた格別ですね」
「秋山先生作のと、違います?」
「そりゃプロのはね
……
野菜の下処理とか丁寧なんでしょうね。筍や里芋なんて一から処理しようとすると大変だから、いつも水煮を買ってしまうけど」
「でもきっと、秋山先生のも美味しいんですよ」
「だと良いな」
ふふふ、と微笑む表情の向こうには、きっと彼の大切な人が映っているのだろう。
再び秋山先生の薬指の指輪が目に入る。ご結婚、されて長いんですか?と尋ねようとして、野暮な質問の連続になりそうだなと思った僕は黙って煮物に箸を伸ばす。
もぐもぐと筍を口の中で味わっていると、秋山先生がクスッと笑っている。
「猪熊先生って、正直ですね」
「はひ、?」
筍を飲み込み損ねて僕は思わずむせそうになる。
ごほごほ、咳き込むのをくすくすと愉快そうに眺めながら秋山先生は水を差し出してくれる。そうして笑いながら、僕が尋ねようと思ったことをまるで見透かしたように「もう長いんです、一緒に暮らして」と言った。
「いつからだったかなぁ
…
もう数年にはなります」
「そうなんですね」
良いものですね、帰る場所、待つ人があるというのは。と言いながら、次に尋ねたいことを水と一緒にぐっと飲み込んで別の感想を正直に伝える。
「正直
……
、こう言うと、誤解されてしまうかも知れないのですが、失礼を承知で言うと秋山先生って生活感がなくて」
「あっはははは
……
そんなことないですよ
……
猪熊先生とは仕事の話ばっかりしてるからですかね?全然、してますよ、生活」
「なんだろう
……
芸能人感?いや違うなぁ
……
ミステリアスなんだよなぁ」
「こんなに庶民的なのに?」
「いや、庶民的なとこを見る機会がないでしょ?!煮物作るとかも意外すぎて」
「そう、そこで俺は思ったんですよ
……
猪熊先生、今絶対質問しようと思ってやめたなって」
「うわっ、もう
……
バレてたんですか〜秋山先生、勘弁してくださいよ」
ふふ、と静かに笑い、ひと呼吸置くように彼はお猪口に手を伸ばす。僕はそれを静かに見守った。
「
……
珍しいです、深く尋ねられないのは。色々と聞きたがるのが『人』だから」
そうですよね、と頷く。
「聞くことは簡単なんですけど。『興味があって質問する』ことと、『心理的安全性の構築』とは、また別の話じゃないですかぁ」
「おっ、専門用語だ。聞かせて聞かせて」
「いや大した話じゃないです、単純に。初回に一度に色々尋ねすぎると、患者さんって最初こそ頑張って答えてくれるけど、ニ回目以降は逆に緊張しちゃったり、取り繕って本質を話してくれなくなったりね
……
あくまでも僕の経験上であり、職業病ですが」
「つまり、一度で心理的安全性を築くのは中々困難であり、興味本意で立ち入ることが関係構築とイコールではない、と」
「さすが秋山先生」
「それは
……
身に覚えがありますからね、俺も。うちの人も最初はそうでしたよ。質問ではなく、対話を繰り返すしかなかった。互いを知るために、とにかくね」
「うんうん」
追加で頼んだとうもころしの天ぷらが甘くて香ばしい。だし巻き卵と、東北の冷酒もよく合う。舌鼓を打ちながら彼の語らいに耳を傾ける。
「お互いのことを知るって、単純に趣味嗜好や生活上のことだけでは無いじゃないですか。こういう時俺ならこうするけど、うちの人ならどうするか。結局どこまで行っても他人ですから。
……
推測の域を出ないことは多いけど、だからこそ色んなことを通じて『知ろうとする』というか、そうするしかないっていうか」
「そう、『知る』ということはエネルギーが要ることだし、すぐ『知ったつもり』にもなっちゃいますよね」
「そこなんですよ。本当に、かけ離れた生活環境に居た人間どうし『知る』とか『知るために何を観察するか』って、並大抵のことじゃないっていうか。一日やそこらでは到底無理というか」
それでも、俺の思う最善が他者にとってベストじゃない時もあるし、中々ねえ。と彼は笑う。
「本当は、相当に相手に興味ないと『他人を知る』なんてできなくないですか。それも仕事か、あとはプライベートの小さな範囲で。それこそ猪熊先生なんて特に、相手のアイデンティティに立ち入ったりもするわけでしょう?仕事上でどこまで興味を持つべきなのか、てのは死活問題ですよね」
ああ〜そうですよねえ
……
と大きく頷くしかない。
ずっと聞いてみたかったんですけど、と彼は言葉を繋ぎながら僕にゆっくりと視線を向け、頬杖をつきつつ言葉を探している。
少しだけ間を置くと、彼はこう言った。
「
……
猪熊先生は、診察中の対話とかで、気にしてることってあります?」
これまた核心をつく質問だな、と思う。
そうですねぇ
…
と、思いを巡らせながら、僕はゆっくりと言語化を試みる。
「対話ってできてるつもりで中々出来てないなぁって僕はいつも反省します。相手にもその気がないと難しかったりもして、そもそも心を開いてもらうまでのプロセスに苦心してるというのが率直なところです。
精神科だと特に目に見える症状ではなくて患者さんの心の中で思ってることベースの話になっちゃうので、正しく掴みきれているかどうか。短い診察時間では本当に限界がありますし。その代わりに繰り返し
……
数ヶ月スパンで受診し続けてもらって、コンディションとしては色々だとしても、大体僕に見せる『面』というのは固定化してゆくので、それを通じて判断するしかないというか。
それは、友達や家族に見せてる『面』とも違うんだろうなとは思いますけど」
「それは確かに。お友達に連れられて受診、てのも頻度としては結構、あるんです?」
「いや、やはり抱え込む人が多いのでしょうね。友人よりは親御さんやパートナーのケースの方が多い、かな。
それでも、個別に患者さんについて話してみると彼らの間でも結構、認識はズレてたりするんですよ。
だからどれが本当の姿なのかなって、常に思いを巡らせたり、なるだけ多くの面からその人を捉えようと、努力はしてみます。周りの人の支え無くしては、というところもあるし。あとは、いきなり体調のこととか尋ねたりせずに些細な雑談なんかでなるだけリラックスしてもらったりとかね
……
月並みですけど」
なるほどねぇ
……
と秋山先生は頷いている。
「いやしかしね、対話って患者さんとするのって相当難しいよなって僕は思うんですよ、時間的なものもそうだし、心理的なハードルもあって。なんなら身内同士とかでも結構おざなりな人も多い気がする。
だからさっき秋山先生が、おうちの方と『質問じゃなくて対話を繰り返してる』って聞いた時素直にすごいと思いました。素晴らしいです」
「や、それは
……
そうせざるを得なかった、みたいなとこもあるんでしょうけどね」
ちょっと照れたような、困ったような顔で秋山先生は笑う。
「俺たちは全然違う世界から来たのに、なぜだか所々が良く似ていて、だから知ろうとすることに抵抗がなかったんじゃないかな
……
たぶんね」
「わ
……
いいですねそういうのって。なんだか」
すごくいいなぁ、と心からつぶやくと酒が回ってきて心地よさに口をついて出る。
「僕多分彼女のこととかまだまだ知らない事は多いなぁと思いますもん」
「おっ、かのじょ」
「へあっ」
うっかり自分の話をしてしまいそれを突っ込まれて変な声が出てしまい、なんだか恥ずかしくなって傍のウーロンハイをぐいと飲み干す。
「なかなかゆっくり会う時間を持てなくて。寂しい思いをさせていないかと気がかりにはなります」
「ああ〜〜
……
それはね
……
理解してもらうまでが大変ですよね」
「理解してもらうというよりやむを得ないって感じじゃないですか。そもそも医者だから理解してくれ、なんてのも傲慢な話ですし。そのうち愛想尽かされてしまいそうで」
「仕事柄ね
……
なんか、モテるようでいて全然、去られるみたいな」
「いや全然モテない上に、去られるどころかリソースを私生活に割けないというか」
「猪熊先生、それダメですって。仕事人間すぎる」
「ダメですよねえ」
そこそこ深い話をしていたはずなのに、なんで僕の悩み相談してんだろ?と、笑いそうになる。
「家族になってもおんなじで、それはそれで努力は必要な話です。むしろ、家族だからこそ、自分一人で生きてる訳じゃないんだよなって感じさせられるというか」
「うわっ、リアリティある進言。そうですよね
……
」
「まあ逆に、一緒に暮らしてるからこそ近過ぎると、色々見えすぎて細かいこと立ち入っちゃったりとかもありますからね。互いにどっぷりになり過ぎるのも、良し悪しですよ」
「フォローしてくれてる
……
?」
「ちょっとは」
あはは、と笑う声が重なる。
「お付き合い段階では気づかなかったこととかあります?」
気になってつい尋ねてしまった。
「そこまでは
……
。色んな話をしていたからかな。大きなギャップは無かったというか。でも、人間無くて七癖、なんてよく言うもんじゃないですか」
「言いますねえ」
「いまだにありますよ、うちの人、風邪引いてるなら休めと言ってるのに、風邪薬を飲んで楽になったから大丈夫と思い込んで動き回っているのね」
「あははははは」
それは、風邪薬あるあるのやつですね、と思わず笑ってしまう。
「とり急ぎの不快な状態が消えたからと言って、治ったわけじゃないんだから休んでろって」
「布団に押し込むわけだ」
「そうそう。何回か繰り返すうち、最近やっと学んでくれたみたいだけれど」
薬を飲ませるも、熱や頭痛が落ち着いたからと動き回る相手をお説教して甲斐甲斐しく寝かしつける秋山先生。
想像しただけでなんだか笑えてしまう。
「でも俺が真面目なトーンで話すと、結構素直に聞いてくれるんですよ」
「あれ、温厚そうなのに、意外と恐れられてる?」
「そう、叱られた子供みたいな顔して、しゅんとして大人しくしていました。いつもは強気なのに」
「ふふふ、素直で可愛いじゃないですか」
「うん、素直。素直なひとは良いですね」
ふむふむ、秋山先生。温厚で穏やかな人柄と見せかけ、意外と亭主関白?と思いながら耳を傾けていると、思いもよらぬ話が飛び出してきた。
「うちの人、具合が悪い時は寝起きに決まって雑炊を食べたがるんです。だから、頃合いを見て作ってあげておくんですけどね」
なにその気遣い。すごくない?思わず言いかけて言葉を選び直す。
「え、雑炊も作っちゃうんですか!?」
病み上がりに漂う雑炊の香りほど安心感を与えられるものはない。海より深い包容力と思いやりは、感覚的に言ってしまうと亭主というよりはオカンの包容力ではないか。
他愛ない会話で思わぬ片鱗を覗いてしまったなと思いながら、料理の皿もウーロンハイも手元の酒もすっかり空いてしまっていた。
秋山先生がお手洗いに行っている間、デザートに運ばれてきたほうじ茶アイスをつつきながら、ぼんやり思いを巡らす。
プロファイリングでは、ふわふわとした小柄で少し天然な歳下の相手かなと思っていたが、所々がうまく合致しない。少なくとも、秋山先生が料理を振る舞う時点で彼が「亭主」関白ではなさそうだ。いや料理の役割なんて最近の風潮ではあってないようなものだけど、僕の周りの医者ではなんとなくこう、『珍しい』と思ったのだ。
かと言って相手が強気な姫タイプでもなさそうだ。むしろ秋山先生の方が意志は強い。ゆえに、相手は甘えん坊の歳下だが、ちょっと聞かん坊な所もありつつ秋山先生の言うことには従順な大型犬タイプと思った方がしっくり来る。まぁ、会ったこともないわけだが
……
あれ?大型犬タイプって何?
しかし、この疑問を抱きつつ秋山先生は亭主関白というより相手を尻に敷いていると考察した方がしっくりくるのも不思議だ。
まぁ最近の夫婦は一昔前に比べると型にはまってないから、色んな形があるよな、と考え直す。
戻ってきた秋山先生はだいぶお酒が回ってきたのかすっかり上気した顔で腕時計を眺めながら「や、もうこんな時間」と驚く。気づけば二十二時を少し回ったところだった。
「あっ、そろそろ出ましょうか」
「ですねえ。あ、迎えが来ています」
お会計を
……
と思ったが彼の計らいですっかり奢ってもらってしまったようだ。
「わ、ご馳走様です。美味しかったです
……
!また今度、僕からもご馳走させてください」
「お気になさらず
……
今日は楽しかったです。また患者さんのやりとりもあると思うので、なにとぞ」
では、と彼は爽やかに会釈をすると少し離れた所に後ろ向きに停まっている黒塗りの高級車に滑り込んで行った。
ぼんやり煙草に火をつけて夜のしじまに消えてゆく高級車を眺める。
左折する時にふと見えた助手席の彼の横顔が、さっきまで僕と談笑していた其れとはまた違った雰囲気だった。あの車は秋山先生のだろうか。チョイスとして選ばなさそうな気がする。
僕はそれを遠目に見送りながら、「ちょっとだけ仲良くなれた気もするけど、相変わらずミステリアスな先生だなぁ」と思ったのだった。
ふと、数ヶ月前に電話で秋山先生と患者さんのことで話をした時に、電話越しにふと聞こえた若い男の声を思い出す。
まさかな、と頭を振ると、僕は表通りのタクシーを捕まえて、ホテルに戻ったのだった。
〈グレージュの錯視/了〉
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