おひつじ
2023-04-03 18:31:20
8246文字
Public 【創作】小説
 

memento mori

※注意喚起※
自死、希死念慮ネタが出てきます。

自殺幇助、死を美化する意図はありませんが、健康状態や精神衛生に不安のある方は読むのを避けてください。

★こころの健康相談

悩んでいる人は、ひとりで抱えないでください。
https://www.mhlw.go.jp/mamorouyokokoro/


とある精神科専門の病院に勤務する、若き精神科医のある夜の出来事。



 仕事帰りに海に行った。

 勤務先の病院から空いていれば車で二十分くらい、ラッシュ時は混みやすくて余裕で五十分近くかかる。仕事帰りと言っても残業に続く残務処理で、時刻は深夜を大きく回って丑三つ時。
 本当は一刻も早く帰って眠りたかった。でも、なぜかそれができなかった。
 致命的なミスと、不運と、取り返しのつかないことが重なっている気がして、このままなし崩しに日常に帰っちゃダメだと強く思ったからだ。

 患者さんを診ている時だけはかろうじて集中したものの、日中ずっと落ち着かず、空き時間にカルテを整理していると、「あれは言ってよかったんだろうか」「逆に言ってあげなきゃいけないことはこれだったんじゃないのか」と自分へのダメ出しがいつもにも増して延々と続く。

 他の先生や同僚にアドバイスもらうべきだったか。こんなに迷いだらけで一端、医療者の顔をして、誰かを救った気でいて、恥ずかしい。

 友人らのLINE、僕がメール不精だからと生存確認の意図で三週おきくらいに電話を寄越していた郷里の家族、僕が返信しようものならびっくりする大切な恋人からのそれすら、未読のまま溶けない雪のように降り積もっている。どれ一つとして開きかけてはやめ、何から手をつけていいか、何からどう反応していいのか、神様どうか僕にひとつずつ教えてください。僕も、人を導き支え続けることに疲れ切ってしまいました。
 僕の狭小な頭で考えるには、どうにもキャパシティが足りないのです。


 こんなにも混乱しきっているはずの頭に反して身体はすごいもので。
 車を運転し、赤信号では止まり、車線変更では指示器をきちんと出し、交差点では巻き込み確認をする。まるで、悩み事も迷い事も無く、システマチックに。行くと決めた場所に、いや、実は行くと決めてすらない、あてどなく運転を続け気付けば静かに海沿いの公営駐車場にたどり着いていた。
 既に一人なのに、とにかく独りになりたかったのだ。


 暗くても浜辺、夜は否が応でも海風が強く、そして冷たい。
 来たことを若干後悔しながら、浜辺に降り煙草に火をつけようとするも、風に煽られなかなかつかない。二、三回カチッとライターの火打ち石から火花が儚く出て、四回目にぽっと火がついた。そこに慌てて煙草の先をあてがうも、弱々しすぎて火を灯すほどの力は持たなかったのだろう、あっという間にふっと消えてしまった。
 まるで人の命みたいだ。希望のために努力を重ねても、何かに荒々しく邪魔されてその灯火を消してしまう。僕はあんまりにやるせない思いが一層込み上げてしまい、煙草を吸うのはそこで諦めた。

 容赦ない風当たりと、よく見えはしない漆黒の海からかろうじて至近距離に見える白い波飛沫は、お前のことなんか知らぬと言った無慈悲な顔をしているのか、はたまた僕のとこなど気にもかけずその名の通り「自然」に振舞ってくれているのか。リアクションの正否を気にせず受け容れてくれる場所そのものに、一周回って居心地が良くなってきた。
 丑三つ時にこんな場所に男ひとりぽつんと立ち尽くしている時点で、不審者極まりないのだけれど。

 指先が冷え切っている。強い悲しみに襲われた時、僕はいつもびっくりするくらい体温を失う。




 二日前、長年診ていた患者さんが亡くなった。



 四日前、僕のもとを訪れた時は、いつもと変わらないです、と言っていた。薬もそろそろ減らしたいと言っていたが、もう少し日が長くなって暖かくなったらにしよう、と約束してあった。
 一ヶ月前、良いことがあったんです、と嬉しそうだった。三ヶ月前は、読んで面白かった本を教えてくれていて、僕はそれを読みたいと思ってタイトルをカルテの隅っこに小さく書き込んでいた。

 半年前は、今にも消えそうな声で「辛いんです」としか言わなかった。
 三年前はここに入院していて、毎日顔を合わせていた。
 そこからのスタートだから、退院する前は「出たくないなぁ」と言っていたことを思い出す。
 それでも、一番初めに診察した時は高校生くらいの時で、もっともっと危ない状態だった。それを彼自身が笑って話してくれる程度には、随分よくなったものだ、と彼も僕も喜んでいたくらいなのだ。


 社会とか、他人の思い描く一般的なテンプレという名の常識、あるべき姿とされるものに、ちょっとでもはまれないと思ったら、それを気にする人にとっては随分息苦しいのだろう。
 多くの人は、実はテンプレにはまったフリができて、それ自体を上手に解釈したり、話を合わせるためのツールくらいにしか思っておらず、我が道を行くことができる。みんながみんな、こんな風に器用か、或いは深く考え過ぎないタイプなら、僕みたいな仕事なんて不要だろう。

 思えば彼の思春期の半分くらいの時間を横で見守り、その時研修医に毛が生えた程度の若造だった僕は新米から見習い程度になり、彼は学生から社会人となり社会の中の立ち位置を模索する、テンプレっぽい人生に軌道修正されていった。


 「軌道修正」。なんと、烏滸がましいことか!


 僕は彼の孤独に寄り添いきれなかった後悔と、シンプルな無力さに打ちひしがれていた。気付けば静かに涙を流していた。もはや言語化はできない、考えもまとまらない。
 彼の喜び、不安、悩み、迷いに寄り添えていたと錯覚していたからだ。
 それは、部分的にはできていたかもしれない。しかし、僕は一体、彼の口から語られる以上の、どこまでをわかっていると言えたものだろうか。もっと他に頼れる人がいないのか、もっと聞いてもらいたい苦悩はなかったか、突っ込んで話を繰り返す必要は無かったのか。


 色々な手続きをして、ご家族の方に頭を下げる時、本当に情けないくらい言葉が出てこなかった。殴られてもなじられても仕方ない、だって僕は彼の主治医だったのだから。

 でも、ご家族は何も言わず静かに頭を下げるだけだった。

 「あの……、僕が言えたことでは無いのですが……、一生懸命、僕らは戦いました。彼は、本当によく、立ち向かっておられました」
 
 なけなし、絞り出した言葉の向こうでご家族が泣き崩れるのを、ぼうっとスローモーションのように流れてゆくのを見やりながら、そこから先のことはよく覚えていない。

 ぼんやりとその時のことを思い出しながら、冷え切って痛さすら感じる指先を同じように冷えているもう片方の手で触れ、少しずつ温めようと試みる。
 冷めた心身を上手に何かに縋って暖を取ることに不得手な僕は、こういう気持ちがわかるつもりでいたはずなのに。
 「どうして食い止められなかったのだろう」という自責の念が強い大波となって押し寄せ、一緒くたに混じり合った名前の付かない感情となって激しく思考を呑み込みはじめる。


 波の音が一段と、大きくなった。


 必死で心の中の荒れ狂う波を受け止めようと立ちすくむ間、思考停止のまま視覚情報だけが脳に刺激を伝え続ける。
 目が慣れてきたのだろうか、沖合の灯台が半島や堤防の輪郭をぼうっと浮かび上がらせていることに気づく。

 それぞれの燈は片方は緑色、もう片方は赤色だった。船に入港場所を知らせるゲートのような役割を持ちつつ、似た地形に惑わされる船が安心して入ってこれるように。
 また逆に、ここから先は波も風量も水深も一段と変わるから気をつけてね、と湾内のサーファーや海水浴客に知らせる意味もあるのだろう。
 灯台に挟まれた湾口は開かれたゲートであって、誰も追わないし拒まない。灯台も同じく地点や障害物の存在を示しながら変わらず「そこ」に居続けるという保証そのものが、僕たちが灯台を見た時に(例えそれが初めてのことだとしても)、さらに漆黒の浜辺ならば尚更、感覚的に安心してしまう理由なのかもしれない。


 考え事から一旦距離を置くために他のことを考え出すのが僕の悪い癖だ。

 ぼうっと灯台に意識を逸らして感情の波から逃避を試みるも、其れらの存在の安心感には納得しつつも、結局診療環境において僕はその「灯台の如く」求められる役割が果たせなかった、という不甲斐なさに感情が再び押し流され始める。
 思考の逃避はこうして、見事に失敗した。

 いつのまにかざぶん、ざぶんと聞こえる波音が足首あたりから聞こえてくる。慌てて見下ろすと満ちた潮が随分と侵食していて、踝まで海水の中に水没していた。
 どうして気づかなかったのだろう、いくら思考が大渋滞していたとはいえ、これじゃまるで押し流される日常と同じじゃないか。

 あれだけ両手指先の冷えに震えていたのに、足元の革靴や靴下を濡らす海水の方が一層、冷たいはず。ところが不思議とそれを不快には感じず、反対に許容すらし始めていた。ああ、こうやって目先の小さな気がかりに囚われるうち大きな不合理には抗うこともなく許容し始める自分の無頓着さが、あらゆることをちょっとずつ擦り減らしてきたのだろう。


 それが患者のサインを見落とさせていたのだろうか。


 ざぶ、ざぶとゆっくり歩みを進める。靴を履いたままだから歩きにくい、多分この革靴はもう履けなくなるだろうな。無意識下、開き直り始める人間の行動は最も不可解だ。それよりも海に入るなんて何年ぶりだろうか。
 それまで暗くて気づかなかったが、空には雲が垂れ込めていたらしく切れ目から月がそっと顔を出し、海上に光を柔らかく反射し浮かび上がらせる。

 絶望を通り過ぎた先の感情はもはや琴線まるごと麻痺して、あらゆるものが感受性の暴走によって極端に高まりすぎたせいだろう、波の陰影ひとつひとつすらもまるで取り憑かれるかのような美しさを纏って見え出す。
 僕はその時海面が生んだ虚像の朧月に魅せられていてその方向へ向かおうとしていたのだろうけど、すぐ傍で小さな声が聴こえた気がして足を止める。


 「先生、先生」
 はい、調子はどうですか。


 「繰り返し、あらゆる形の死のイメージを毎日、毎時間、毎分毎秒見ているとね、段々、死ななきゃって思い始めて」
 そうなんだ。死について思うこと自体は、不自然でも悪いことでも無いと思うよ。そこまで具体的かどうかは、人によるだろうね。


 「はぁ。死について、普通はこんなにリアルに考えるもんじゃ、無いんですか?」
 まぁ……、普通ってのも、曖昧なもんよ。きっかけが無ければ考えない人が多いか、考えたとしてもあえて話題には選ばないか。
 「先生は?」
 そうねぇ、僕は……仕事柄全く考えないと言ったら嘘になるけど、毎分毎時間とかではないかな。


 「薬、よく眠れました。こっちの薬は、気持ちは落ち着くんだけど眠くなりすぎて。テスト勉強がしたくないだけなのかな……
 テスト勉強か……、それは困るね。ちょっと薬、減らしてみる?


 「聞いてよ先生。初めて、恋人が出来たんです」
 えっ……先越されちゃったな、大学生に……


 「親がね、山形なんですけど。毎年食べ切れないくらい送って来るんです、新米。余ると来年の新米食べそびれるから、先生、食べてよ」
 わ!ありがとう。嬉しい……でも、本当はもらっちゃダメだし、来年からはお金出させて。


 「クリスマスも仕事?先生も恋人くらい作ったら?……あ、余計なお世話か」
 もう……。ま、冗談が言えるくらい、良くなってくれて僕は嬉しいよ。


 「仕事、決まったんです」「転職、しようかなって」「最近、特に忙しくて……」「この本面白いんですよ、読んでみてください」
 気づけば彼との会話を、思い出せる限り反芻しては今ならどう答えられるだろうか、とひとつひとつ辿っていた。


 どの答えも、正解か、不正解か、もはや確かめる術なんて何処にも無いのに。
 この期に及んで、僕は未だに彼の死を受け容れられていなかった。

 かつてのことをぐるぐる思い返すのに、何も考えがまとまらないまま随分と時間が経っている気がする。
 過去を思い出しては自分の落ち度を粗探ししだすことはあんまり意味がないよと、折に触れ患者さんたちに語っているくせに、今の自分はそういう矛盾をみすみす犯している。
 心の目が視野狭窄していると何も見えなくなるのだ。深い悲しみと絶望だけが、心を埋め尽くしてしまう。
 わかっていて、それでもなお感情が思考を支配して暴走する時、何も客観視できない現象に初めて背筋が凍る。
 満ち潮が膝下近くまで来ていて、時折立っているのがやっとだった。


 このまま暗闇に呑み込まれて一体となってゆく感覚、更に時間が経てば潮が満ちて、意図せずとも入水してしまうのだろうか。
 自分の意思が見えず何もかもあやふやなまま、運命と状況に身を委ね過ぎて命の灯をうっかり消してしまう人は案外多いんじゃ無いだろうか?まるで、さっきの僕が強風に煽られライターの火を諦めたように。
 それを一体、誰が責めることが出来ようか。僕はたまたま「偶然」生き永らえているだけなのに。


 ざぶざぶと無意識のうち沖合へ向けて歩みを強める。
 海面の月は何度も波に砕かれてはゆらゆら、光り続けていて、優しく受け入れてくれるのはその泡沫の月だけだと思い始めていた。ただただそれに吸い込まれにゆく時の意識なんて、思考なんて。


 刹那、「先生!」と彼の声が、再び強く聴こえた気がした。今度は随分、はっきりと。

 咄嗟に胸ポケットに入れっぱなしにしていた仕事用のPHSが激しく振動している気がして、急変か?と思わず立ち止まりそれを手に取る。今この瞬間まで、暗闇に溶け込むことばかり考えていたのに、現実とは不思議なものだ。
 振動は気のせいで、誰からの連絡も無かった。ただ、画面のカーソルを回すと「録音メッセージがあります」の文字が無機質に浮かび上がる。
 着歴に埋もれていた見慣れぬ番号、2日前の院内が忙しかった夜だったから、聞こうと思って後回しにしてしまっていたのだ。
 2日前、そう、彼が去った日。
 波に足を取られながら、恐る恐る、再生ボタンを押すと、彼の快活な声が飛び込んで来た。

 「あー。先生、……ゴメンね。俺、先生のおかげで、ずいぶん良くなったと思う。もう、高校からの付き合いだしさ。病気の話なんて、最近一年くらいはしていなくて。俺いつも、診察楽しみだったんよ。先生に会うと、ホッとしたし、大丈夫だって思えた。うん。これ本当ね。マジよ?信じて?……だから……えっと、あのー……ね。でも、これだけは言っておきたくて」


 僕は思わず息を呑む。


 「先生、俺がもう会えなくなることと、先生が診てくれてたことには、なんの関係もないの。先生、絶対自分責めるっしょ?何なら3日?一週間くらい、寝込みそうじゃん。ほんと、優しすぎなの。だからお願い、俺の最後のワガママ聞いて。

……先生は、絶対、死んじゃダメだかんね!じゃ」

 ガチャ、ツーツー……

 耳奥に残ったプッシュ音と、彼のお別れの言葉が残響する。


 僕は慟哭した。







 どうやって浜辺に引き返したか、覚えていない。
 気づけば波打ち際で、膝を抱えて座り込んでいた。
 東の地平線から真紅の太陽が顔を覗かせている。
 どうやら、闇夜をどうにか生き延びたらしい。光を知った時余りの眩しさに、それまでどれだけ暗いところに居たのか思い知らされる。同時に足先から凍えそうになっていることにもやっと自覚する。がたがたと震えながら、これが冬じゃなくてよかった、と。
 さっきまで茫然自失で入水しかけていた人が、よかった、なんて思うくらいだから、僕は相当ぐらぐらとした心境でなんとかこの二日間を生きていたのだろう。

 今度は、ズボンのポケットに入っていた私用の携帯が振動している。気のせいではなく、本当にブーッ、ブーッと音を立ていた。また誰かからの連絡だろうか?こんな所で何をしているのと尋ねられて答えられる自信がない、そう思いながら恐る恐る手に取ると、目覚ましがわりにかけていたアラームだった。もう、そんな時刻なのか。もし帰宅していたら今頃呻きながらベッドから出て、渋々歯磨きし始める頃合いだ。


 何かしらの境界を彷徨った時、引き戻しに来るのはいつだって日常。日常というのは最小単位に因数分解した時に自分自身の身の回りのことを最低限こなす、とした場合としようか。
 それは旅行に行っても、お笑い番組を見て笑っていても、落ち込んでいても、仕事をしていても、映画を観て感動して涙を流していても、人に会って話をしていても、天変地異があっても、誰かを亡くしてさえも。日々は続く、何があっても、どんな時も。

 自分自身にとっての日常を続けることが、なんとかやり過ごすための術なのだろうか。

 ひとまず、僕にとっての日常の一部を取り戻さなくてはならないのだろう。
 未読山積していた、(申し訳ない)大量の受信メールの中から見慣れた恋人の名前を探し当て、文面を作るために画面を立ち上げる。

 「おはよう。返事遅くなってしまってそれに、朝からごめんね。今日どっかで会えないかな?」

 この文章だと、なんだか切羽詰まった感じがして、別れ話か?と不安を与えかねない気もする。
 どうやら少しずつ思考が戻ってきたようだ。
 慌てて文面を書き直す。

 「おはよう。返事遅くなってしまってそれに、朝からごめんね。仕事がひと段落ついて、連絡してみたよ。今週末、どうしてる?」

 週末どころが、僕は今すぐにでも会いたいのだけど。いつも待たせてばかりなのに、都合が良すぎる気がして、どうしたものかと思いあぐねる。

 とりあえず送信しようとボタンを押しかけたその時、相手から着信が入り、僕は心底驚いた。

 「ヨウくん?おはよ!……そろそろ起きてるかな?って思って……

 動揺しながら受電すると、快活な恋人からの、なんだか随分久しぶりに聴いたような声に、懐かしさすら感じる。ちょうど感受性が夜半からオーバードーズ気味なので、狼狽えているのを押し隠すので必死だった。

 「ちょうど今メールしようとしてたから、めちゃくちゃびっくりしちゃった。おはよう」
 「えへへ。びっくりさせちゃった!あれ……?もう、出勤中だった?」
 「んや……、でも、外にいる」
 「外……?どこ……?」
 彼女は受話器の向こうから僅かに届く、潮騒の音を聞き取ったようだった。
 「海……?」
 「そう、海」
 「どうしたの?今日は、お休み?」
 「うーん……休みじゃないんだけど……、休んじゃおうかなって。それより、今、会いたい」

 会いたい、の部分が震えてまともに声にならない。

 「……泣いてるの?大丈夫……?」
 「泣いてないよ」
 「そう?」
 「うん」
 答えながら、涙声を押し隠しても鼻水混じりのくぐもった話し方しかできず、とうに彼女は気付いていると思う。

 「よし、探しに行くよ。そこで待ってて」
 「いや、僕から行く、君だと……迷子になっちゃ、困る」
 電話の向こうで彼女は「もうー!」と怒っていたが、僕はようやく安堵した。
 迷子なのは僕だけで沢山だ、それに、なんとか日常を取り戻せた。君が見つけてくれたおかげだ。



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 あれから一年が経った。
 彼の一周忌にも、顔を出させてもらった。
 随分迷ったが、PHSに録音してあった彼からのメッセージについて、親御さんにも聞いて頂いた。
 ご家族は「まだ、ふらっと帰ってくる気がして」と、寂しそうに笑っていた。



 今でもふと、落ち込みそうになった時には、彼との会話を振り返るようにしている。或いは、あの録音メッセージをお守りのようにして。

 何かのはずみで心に死神を飼い始めてしまうことは、不可抗力でも、不本意だとしても、誰しもあり得る事だ。

 今日も、死神が来たな、と思ったら、僕は静かに彼のことを思う。カルテの保管期限は5年だが、僕は生涯、彼からのメッセージと、あの夜の海での出来事を忘れないだろう。


〈memento mori /了〉