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おひつじ
2018-11-22 09:32:28
2421文字
Public
【創作】小説
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深海8km
虎馬病院C病棟
主治医Yと、患者A
主治医Y:猪熊 羊
とある病院の精神科医
患者A:鰆ヱイスケ
とある病院に入院中の患者。日中は延々と手紙を書き続け、夜は別人格が現れて自分が演じていた役を延々と繰り返す。かつてとある劇団の役者だったとか、サラリーマンだったとか、話は二転三転する。
深海8km
「ヤァヤァお日柄もよくこちらは某病院の一番奥にある閉鎖病棟ダヨ。君は今日もおれのことを偲んで2人分の朝食を用意しているのか。おれのことは忘れてくれと言っているのに、かくいうおれの方こそこうして未練たらしく手紙を書き散らかしている。ナァにどうせ、お天道様からも見捨てられた身、今日も鉄格子のはまった隔離部屋で腕も足も拘束されて口蓋から大量の催眠鎮静薬をごぼり、ごぼりと流し込まれる。飲み込めず吐き戻した蛍光緑の錠剤の色が視神経に突き刺さってチカチカ星になってもう離れない。何を見ても蛍光緑の星だ、オヤ、センセイが来た。二つ光る瞳がおれをじいっと心の中まで見透かすかのようにみている、おれはなにも悪事を働いちゃいない、充分罰を受けているのでこれ以上」
…
病室の入り口のドア下からちらりと覗くクリーム色の紙切れ。拾い上げると、それはどうやら便箋で、びっしり書き詰められた文字が並ぶ。それらは細長く大小さまざまで、所々震えたり、インクがかすれたり、豪快な達筆だったりのアンバランスな筆致で綴られている。文面はおそらく2枚目以降も続くのだろう。
手足の拘束
…
?大量の催眠鎮静薬を押し込む
…
?一部、事実と異なる脚色があるな
…
と、思いながら病室の主を尋ねる。
「Aさん、入りますよ。」
「ああ、センセイ」
手元の便箋に目を落としていたA氏が顔を上げ、僕の後ろあたりに目線を投げる。
「
…
これ、入り口に落ちてたから」
言いながら、裏面に向けたクリーム色の便箋をそっと差し出す。
「
…
センセイ、読んだ?」
「
…
ごめん、落とし主が誰かわからなくてちょっとだけ」
嘘だ。本当は思わず結構しっかり読んでしまったけれども。
「あれはね、おれがいないとダメなやつでね
…
」
僕の返事をよそに、誰もいない空間に向けてぼうっと視線を這わせながらA氏は続ける。
「しかしねセンセイ。あいつの元へは届けなくていいんだよ」
「
……
いいんだね?」
「ああ、いいんだ。」
A氏の心の中にはある女性がいる。二ヶ月程前、錯乱状態が酷く、緊急搬送されてここに来た。その時、必死で「あいつはどうなる」等まくし立て、「お腹に子供が」「こんなとこには居られない、早く出してくれ、お願いだ」「おれは嫌がらせでここに連れてこられたんだ、何かの間違いだ」とスタッフに泣きつき、事情を知らない新人スタッフが慌てて家族に連絡を取ろうとしたりして大騒ぎになった。
A氏の左手の薬指には銀色の輪が光っているが、ではその相手はというと今は新しい人生を歩んでいるらしい。A氏本人が主張するだけで、実際は結婚していたのかどうかすらもわからない。搬送時、固く握りしめられていた紙切れに書かれていた連絡先に思い切って連絡をしてみたケースワーカーによれば、幾度かかけ続けた結果ようやく相手は電話には出たものの、よそよそしい態度で今後連絡を取ることはないと、新しい人生を歩んでいるから邪魔をしないで欲しいと、固く断りを入れられ、早々に切られてしまったらしい。
ちなみに、この事実はまだA氏には伝えられないでいる。正確には、伝えようとしたが、スタッフが伝えようとした瞬間敏感に察知したA氏がものすごい勢いで暴れ出し「誰が連絡をとっていいと言った!!!!」と激昂したため、慌てて取り押さえ、以降その事については当面禁句となった。
「手紙、書くと落ち着きますか」
「
………
」
彼は虚空を見ていたが、僕の言葉には特に反応せず、再び手元の紙に目線を落とし、ぶつぶつ、と何かを呟きながら傍らの鉛筆を走らせる。
傍らには無造作に山積みになった手紙の束。1日に何通も書いているから既に何十通、いや、100通は超えているかもしれない。一つ一つが分厚めの束で、それらは読まれることもなく日々思いの形として吐き出されたモノへと変容していくのだろうか。
深海6kmから先の、最深溝までの領域を超深海と呼ぶらしい。そして、深海8.4kmから先は、生物は生存できないエリアになるらしい。
月に行った人間より、その世界に足を踏み入れた人間は少ないと聞く。水圧が高すぎて機材もかなり強固なものでないと壊れてしまうのだそうだ。
普通に生きていても、圧死しかけることは多い。プレッシャー、人の目、己の許容範囲、やむを得ない外部環境。自滅することも、他人に潰されることも、俗に言う「社会」とやらで生きていると簡単に許してはくれない。わざわざ深海に行かなくたって、社会やコミュニティからふとしたはずみでこぼれ落ちかけた人たちにとって、生きるのに適した世界じゃないのはどこもおんなじかも知れない。
まじめに生きなければ良いだけの話なのだが、そんな芸当ができれば、誰だって自我を失ったりはしない。
「Aさん、少しは眠れてますか」
「あと、お薬は飲めてますか」
「
…
座ってるだけではなく、少し、運動もしてみてくださいね、」
尋ねても、言葉をかけても、瞳の奥は深海を覗くように光がない。深海の魚のように、そこにある僅かな生き物やプランクトンなどの、選択肢の狭められた「何か」が口元にやってくれば、栄養として摂取し、息を吸い、ただ静かにじっと息を潜めて潜っている。しかしそれでも、生命活動と同じように、深海の奥底から、誰に届くかもわからない瓶に詰めた手紙を、時には執拗に、宛てなく大海原に出し続ける姿を見続ける限り、僕はきっと彼は回復する、と信じている。彼は、今は海底面にいるけれど、海表面から差し込む陽光を忘れてはいないのだ。
「
…
あれはね、おれがいないとダメな奴でね
…
」
彼は再びそう言うと、寂しそうに手紙の束には目もくれず、追憶にあるのであろう、遠い遠い水面からの陽光を眺めるかのように眩しそうに目を細める。
いつかほんとうの陽光が彼の瞳に優しく映ることを切に願って、僕は部屋を後にするのだった。
(深海8km/了)
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