ふん、ふ〜んふん。不規則で奇体なリズムの鼻歌が聞こえる。ご機嫌なロイが姿見に背中を向けて、首を限界まで鏡に向けているのだ。ばさり、とスカートを貫いた尾が揺れた。
「ふふ、似合っていますね」
マリィの言葉にロイはくるり、と向き直る。そして「ありがとうございます」とにこりと微笑して、尾を高く上げた。
予想したより控えめな喜び方だな、と書物机に頬杖をついて、わたしはそれを眺めていた。頭の中では直ぐにでも部屋のソファに座ったマリィに飛びつくと思っていた。
その表情は昨日の少女によく似ている。夕日の中に、影のない足元。原稿を読んだと宣った彼女。白髪が視界の隅にちらつく錯覚を覚える。
暫定ロイの同僚。そう結論付けたが、ロイの口から同僚の話は聞いた事はない。そもそも彼女の同僚と呼べる存在がいるのかも不明だった。結局無意味な推論でしかない。
こうして宿屋に居る今は無関係な話だと認識している。が、謎の少女が頭の中にこびり付いて離れなかった。ケントが碌でもない嘘を吐いた時とそっくりに、うなじがぴりぴりと痺れる。
小さく息を吐いて思考を隅に寄せで現実世界に焦点を合わせる傍ら、ロイは鏡を十分堪能したようでエナメル質のローファーの踵をコツ、コツと小さく鳴らしてマリィの隣に座った。
「で、どうですか? しおんのげんこう」
ロイがマリィに尋ねると、彼女は緩く微笑んだ。
***
昨日のロイの指摘を、つまり感情にフォーカスした草稿のために夜を明かしたが、結局懸念していた通りにマス目が空の原稿用紙が投げ出されていた。朝日が昇り、太陽が南中した頃になっても何の進展もなく、鉛筆を回していた所にドアがノックされた。もうそんな時間か。若干立て付けの悪い椅子を揺らして立ち上がって、そそくさドアを開く。廊下の薄緑の壁紙を背に、マリィがお邪魔します、と小さく頭を下げた。
今日は失われた旅に関して全部話す手筈だった。挨拶も程々に彼女をソファに座らせる。ロイはまだベッドに座っていた。つつがなく話し、時折ロイの細かい補足や茶々入れをいなす裏で、会議の時のハチとニアの忠告染みたそれを考えていた。
――ただ全員、足元に何か隠しているよってだけ。
何のためかは不明な秘密か嘘がある。でも、その輪郭は、今の所、中々立ち現れては来ない。
話の節目節目でマリィの顔を見やる。その度、彼女は動揺することなく、小さく顎を引いて話の続きを促した。
記憶がない彼女にとっては荒唐無稽な話であろうに。そう在るものはそう在るべき、と宣って、仮にそれが彼女の思考の底に根差しているにしたって、淡々としていた。
彼女が何れ統べる事になる学殖の国は、隣国とはかなり明確に対抗宣言を出しているらしい。魔法という現代の新発見と研究の妨害には黙ってはいられない、まさに一触即発、とは新聞が伝える所だった。
皇女たる彼女の立場は、想像以上に危なっかしいものだった。
知れば知る程、ハチの言う通り、彼女が書類不備のためだけに、よりによって今、ここに、来るとは思えなかった。
けれどそれっぽい論理を積み上げた所で、書類不備以外の目的が浮かぶ訳でもなく、結局山場のない物語を語って聞かせていた。人間の器官も臓物も綯交ぜにした肉を付けた怪物から始まり、大賢者との遭遇、各国国主とのやり取り、暢気なスケープゴートに元凶の呪いに至るまで。
足を組み替える折、椅子がカタカタ揺れた。
兎角、話さない理由もなかったのだ。失われたものを語っていけない規則も因果も何もない。何もないのなら、語った所でナンセンスではあるのだが。
……ナンセンスなら何処に、語る意味が在るのだろう。彼女は旅を忘れてしまった。思い出す見込みもない、と、言うのなら。
それが過った途端、喉が閊えて、仕事として話しているというのに閊えは取れなくて、時折言葉が止まった。その度にロイが茶々を入れたり、補足入れたりした。そのせい、いや、そのおかげで――確かにおかげで在るべきで――ちゃんと最後まで仕事はこなせた。
妙に苦戦しながら、わたしが語れる全てを語り終わった時、マリィはただ一回、深く頷いて、それから「どう加工したものですかね」とだけ呟いた。語ったこちらが肩透かしを食らう位には、あっけらかんとしていた。
そのままマリィを部屋に帰すのも味気なく、彼女も夜までは時間が空いているようだったから、ロイたっての希望で少し雑談をする事になった。
わたしは簡易的な台所まで向かって、電気ポットでお湯を沸かした。かちり、とポットのボタンが跳ね上がったからマグカップに湯を注ぐ。部屋に備え付けてあったティーバッグを棚から出して、カップに浸けていた。
じんわりと水色が紅く変わる様を、ぼんやり、何も考えずに眺めていた。
三分程経って、ティーバッグを三角コーナーに入れる。砂糖もレモンも、ミルクも言われてから出せば良いかと胸中で意味無く呟いて、カップを持って行った。その時には既に、原稿用紙はマリィの手に渡っていたし、ロイはぱたぱたくるくると辺りを左回転をしては所在なげに姿見の前に立っていた。
茶を入れている隙にロイが思い付きで、昨日までの草稿を渡していたのだろう。
わたしはわたしで書いた物を読まれる事には苦がない――正しくは余り関心がないので、マリィにカップを差し出して、ソファの前のテーブルに一つカップを置いたら、書物机に戻った。建付けの悪い椅子に座る。重心の位置でカタカタ揺れて相変わらず不安定だ。
マリィはカップを摘み上げて、一口、音もなく飲み込んだ。
「書き物をしていたんですね」
意外そうな響きもなく、世間話をするみたいに彼女は尋ねた。
「そう、ロイに頼まれてね。旅の事には触れずに旅の事を書けって、変てこなお題で」
「ロイさんらしいですね」
ふわりとやわっこく目を細めたマリィの方へ、名前を聞きつけたロイの耳がぴるりと回る。分かりやすく気にしているな、と思いながら、私は続けた。
「読み終わったら感想聞かせてよ」
「良いんですか? 勝手に読んでしまっているのに」
「別にどうでも。それに、編集者には不評だからさ。後学のためにもなるかと思って」
お手上げだから、と肩をすくめれば、マリィはくすりと笑って、用紙を捲った。
***
まだ清書の前段階で大した文量はないから、一時間足らずで読み終えたらしい。
とんとん、と合図する様にマリィはテーブルの上で原稿をちょっと落として、紙と紙の端を揃えてから、束をぱさりと置いた。
それから彼女は顎に手を当てて、緩く首を傾げた。先に言いたい中身があって、それを表現する言葉を思案する時のマリィの癖だった。確かに空いている間を間延びしている、とは感じさせないのは、皇族の風格故か。
そんな大した余談を思考の流れに乗せて転がしている内に、マリィは顎に当てた手を下げた。言葉が決まったのだろう。
わたしでも人が感想を言う機会が貴重な事は理解しているからちょっとは姿勢を正す。彼女はそれを認めてから口を開いた。
「旅に触れなくても書くに事欠かない程、沢山の事があったと知れて、面白かったですよ。シオンさんみたいに端から端まで覚えているのを羨ましくなる位には」
ゆったりと、でも弾んでいた声。本当に羨ましがっている様に聞こえた。
「そこまで言う? あんまり良いもんでもないよ」
一方、わたしの声は喉に絡まってから放り出された。思ったより感傷的だった。
本心ではあった。旅自体もそうだが、今の不条理なギャップに通じた事から良くない、とは流石に言えなかった。言っても意味が無いと知っている。それが世界の仕組みであるのだから。
でも、そうやって取り立てて考えるのなら。
さっきから分裂していく思考がうるさい。目の前の、マリィとの対話に集中したい。
椅子の背の陰で、手の甲をつねったと同時に、マリィがくすり、と笑った。つねっている所を見られたのかと思ったが、彼女は目を伏せていた。胸に手を当てて、何かを大事そうにしながら。
「良くても悪くても良いんです。確かに在った事を、どれだけ時間が経ってもそのままの形で、ずっと維持できるなら。そんな、ないものねだりはみっともないですか?」
マリィの青い瞳が、背後の窓越しの光を反射して、輝いた。困ったように下がる眉とは裏腹に、視線は、示された感情はずっと真っ直ぐだった。
恐れのないそれは、旅の時とは全く違っていた。
つねった手の甲を擦る。
「そんな事はないよ。……話の腰を折っちゃったね」
「気になさらないでも良いのに」
「気にはするよ。一応、退室のデッドラインは決まっているんでしょ。続き、お願いするよ」
「……承知しました。記録としては過不足なく、繰り返しになるけれど、面白かったです。一部、こちらの報告書に持って行きたい部分もありました」
「そう? なら好きに持って行って良いよ」
「ふふ、それなら遠慮なく」
マリィの隣に座っていたロイが頬を少し膨らせて、床に着かない足をぶらぶらさせながら腕を組む。するすると衣擦れの音を立てて、テーブルの上の紙束を見下ろしていた。
「ただ」
続いた逆接にロイの耳がぴるりと動く。
「ロイさんのための本にする、と言うならば、全体的に淡々とし過ぎているかもしれませんね。モノローグや心情描写を徹底的に避けているから」
潔癖な位、と零して、マリィは言葉を切った。
わたしからは何も返す言葉はないから、マリィの目を見るしかない。
的確な論評だった。彼女の言う通り、感情については一切触れていない。
わざと、触れないようにした。
腹のあたりがすうすうしたから足を組む。温かくなる訳ではないと知った上で、そうする。
たっぷりと間が空いた。無言が苦になる間柄ではないし、気まずい訳ではない。が、それでも確かに圧迫感はあった。
暢気な雀がちゅんちゅん鳴いて漸く、マリィの方から沈黙を裂いた。
「少し、意外でした」
「感情の描写を避けたから?」
「読む相手の好みに合わせなかったから」
「そう来たか」
「書式を相手方に合わせる。前提知識も併せて、臨機応変に補足する。出す国によって報告書の端書きを変えていた事――律儀な所を知っていますから」
律儀か。何も分かってないと揶揄するのであれば間違ってはないのだけれど。
外面は良い言葉を胸の中で転がすと、昨日のニアの言葉と妙に調和して、からから笑ってしまう。視線は自然と床に落ちる。塵がきらきら舞っていた。
意外に面倒臭い所がある。意外に律儀な所がある。
わたしにとってはどちらも同じだった。どちらも構造と指針がなくては二進も三進も行かないという点で。言われればやる。潤滑油はふんだんに使う。でも、言われても理解できない、掴み得ないならやらない。心情描写を省いたように。これの何処が律儀だろう。
顔を上げれば、マリィの青い瞳が一等煌めいた。そうしてずっとわたしを射抜く。余り真っ直ぐな眼差しだったので、それに、わたしもそう鈍くはなかったから。
きっと本当に、揶揄も諧謔もなく、そう思っているらしい、と分かった。
目は口ほどに物を言う。良く言ったものだ。正しく律儀なのは彼女の方だった。
何だか仕方がなくて肩を竦めると、そこに被せる様にロイが口を開いた。
「どうじに、こだわりがつよいところもあるんですよ。このひと。みんなのせいかくなかんじょうが、わからないからって、はぶいちゃって!」
「……そこはロイも拘り強い方じゃん?」
「それはまちがいないです。でも」
ここまで言って、ロイは、あー、とか、うー、とか唸って、間を誤魔化すように両手をくるくる、糸を巻くように回し始めた。
珍しく言い淀んでいる。昨日も、作るべき本の理想を話す時、ロイは両手で見えない糸を巻いていた。
何が言えないのかまでは、分からなかった。
耳を伏せたり、立てたり、捻ったり。一頻り繰り返した後に、漸く彼女は続けた。
「でも、しおんじしんのかんじょうすらかかなかったのは、なんでですか」
子供らしく大きい目がきゅっと絞られる。
何故、と問われても。ロイを茫々見下ろす。
「わたしのは在ってもなくても、変わらないでしょ?」
感情が事実を変える事もないのだし。事件を起こす事は、あるけれど。
でも、それだけだった。
「……なぜ?」
さらに目を絞って、小首を傾げるロイに、淡々と語る。
「苦悩もなければ、何か変わった〜とかもないし。変化が無いものは書かない方が良いから」
「そういうものじゃないでしょう……。それに、かんじょうだってうつりかわるものですし」
「そう? 変わリ方が変わらないなら在るのもないのも同じじゃない?」
感情が遡及して事実を改変する事はない。でも感じ方が変わる事はある。それは、感情の外枠たる認識が変わったからに他ならない。
認識の変化には意味がある。それの現れである感情には意味がある。だからわたし以外の面子の感情には意味がある。可能性がある。だから書き留めたいというロイの気持ちが分からないでもなかった。
でも、どうやら根本的なズレがあったらしい。結論が同じなら、気にしなくても良いとは、思うのだが。
「それ。ほんきでいってます?」
うん、と頷けば、ロイは息を呑んで、更に更に瞼を下ろした。最早諦めたように目を瞑っているようにも見えて。
説得しないといけない、と思った。何故か、必要性に迫られていた。
ロイはちゃんとしているから、言葉を重ねても意味がないのに、と分裂した思考の合間で見下ろしながら、話している。
「だって、感情は移り変わるのが普通でしょ。だとしたら変わるパターンに着目しないと。書き留めた時にパターンが変わらないなら、物語としてはマンネリで面白くない。研究としても古臭い規則の再発見じゃ価値がない。そういうものじゃない?」
必死になって馬鹿みたいだった。話せば話すほど逆説に嵌って、全く、意味が――。
「そんなことない」
怜悧で、静かな声だった。被せる様に紡がれた言葉と共に、ロイの白いまぶたが持ち上がる。黒い瞳は、自ずから光っているように、見えた。きっと錯覚であった。
声の鋭さに目を見開き、ロイの顔を漸く直視する。
膨れっ面でもなく、頭に血が登っているでもなく。
ただただ真顔だった。淡々と、真っ直ぐにわたしを射抜く双眸は、細くなっていないのに鋭い。初めて見る表情だった。
何を、そんなに拘っているのだろう。分からなかった。
今度はわたしの方が首を傾げた。
物語るのなら、寧ろ無い方が望ましいに決まっている。世界の見方が変わる事。それが一番大事で、一番面白いのだから。物語と言うものは、そういうものじゃなかったか? とっくの昔に、わたしには縁が切れて、離れてしまったものだった。
だから、わたしは、こんなにも。
喉が閊えて、独話もつっかえた。
兎に角、ロイが求めるものがいまいち理解できなかった。目下の事実はそれだけだ。それ以外に大した意味はないと、思考の剃刀で裁断するように努める。
その間にも彼女の真っ直ぐな眼差しが、本当に小さな不機嫌さもなく一言呟いた切り、静かだったから、段々いたたまれなくなって、目を逸らした。
「……別に、他人の気持ちを軽視している訳じゃないよ。本当に」
不可解さと、マリィがいる手前の気まずさが上乗せされて呟いた弁明に、ロイは顎を小さく引いて頷いたのが視界の端に映る。
「いいんですよ」
理屈はちょっと違ったかもしれないけれど、とロイは付け足した。
「ちゃんといみはあるって、きのうきけたから! それが、いちばんだいじだから、いいです。いまのところは。おたがい、がんこなところ、あるのもわかってますし」
頑固と言う割にあっさりと、あっけらかんと引かれては、釈然としなかった。客人が居るという事情も相まって、尚更追いかける言葉を吐く猶予もなかった。
「……それで良いなら良いけど」
「もろもろおちついたら、ちゃんとはなしましょうね」
「ああ、それはやるのね」
「えへへ。しおんのこと、ちゃんとしりたいから」
ロイが良いと言うのなら、曖昧に笑んでそれで良い事にするしかなかった。
「それで、けっきょく! しおんも、わたしもほかのひとのきもちをどうかいたものか、わからなくて」
「勝手に解釈しても悪いし。って、こんな事マリィに言ってもアレだけど」
ロイとのやり取りを黙って聞いていたマリィは、至極穏やかな微笑を浮かべた。
「それなら、話して貰いましょうか。皆さんに、覚えている事も、感じた事も、今感じる事も、全部。話したい事だけ話して、話したくないなら話さない、という形式なら問題ないでしょう」
え、と惚けた声と興奮した声が重なった。
「いいんですか! そんなことしちゃって。まりぃのようじもあるのに」
「良いですよ。わたしも、完成形が見たくなりました」
ぱん、と手を合わせて、名案とでも言うようににこり、とマリィは笑う。
「わたくしは皆さんが覚えている事、話をより詳細に知る事ができる。シオンさんはロイさんの要望に応えられる。お互いの仕事にとって有意義な話でしょう?」
不味い、と思った。何だか変な方向に話が進みそうだった。慌てて軌道を戻そうと、くるりと思考と口を回す。
「そもそも、皆、書類不備をどうにかするのが本題で集まったんじゃなかったっけ? わたしのために時間をもらうのも悪いよ」
「ふふ、余談があっても良いでしょう? この一ヶ月間、ずっと本題ばかりでは疲れてしまいますし」
煮え切らない。指で膝を繰り返し叩く。理論的には正しいが、茶目っ気たっぷりに提案した事を通そうする理由としては、芯を食っていない。
瞼を下ろし、息を一つ、大きく吐く。多分マリィ達にも聞こえていた。
もう一度視界を開いて、思考を切り替える。交渉や駆け引きは、余り得意ではないがやるしかない。
「……拘束期間は一ヶ月、追加の調査の時間もあるにせよ、ないにせよ、結果報告の準備が別にあるとすれば、書類不備の改訂の仕事に随分時間をかけるんだね? 態々略式で外国まで来ているから――護衛も少なすぎるし、急いでいるのかと思った」
「陛下から時間の猶予は頂きましたよ、それなりに。人は別件に割いているので少なかったですけれど、この国なら問題ないでしょう? こちらの王女様がお忍びで散歩していても何もない程度には治安が良いですから」
珍しく、くすくすと潜めた声を立てて笑いながら、マリィは口元を押さえた。
隣国の事は話しそうにもなかった。
一瞬テーブルの上の紙束を見下ろし、逡巡して、結局口を開く。素直に答えてもらえるかは完全にマリィ次第だった。
「隣国の脅威を除けば、そうだろうけど。その別件が隣国関連じゃないの? 半年前に対立って結構最近の事件だし、目下の脅威ではあるでしょ。それに暗殺未遂だって、インフラの破壊だって隣で起きてる。ここがその手の外国人に厳しいからって皇族が警戒をしないというのは、いくら何でも暢気が過ぎる」
「あら、対立までご存知でしたか。なるべく隠しておきたかったのですが、中々上手くはいきませんね」
「その割に全然驚いてないよね」
「一応、大々的に取り上げられていますから。これは想定内ですよ」
「じゃあ何で隠そうと?」
マリィはにこやかな笑みは絶やさないまま、腕を組み眉を下げた。
「調査期間を全部使いたかったから、ですね。リスクをあるとなれば、特にシオンさんは早めに帰そうとするでしょう? 仕事が早く終わるのも少々不都合がありまして」
「……腑に落ちない。書類を直すのに一月以上かけなければいけない理由は? コストとリスクと目的が見合っていない。マリィのお父さんの許可が下りるとは到底思えない」
良くも、ハチは久しぶりに会ったマリィを前にして、ここまで、そしてこれより先に推論を推し進めたものだ、と言葉を継ぎながら考えていた。情報のラグがあったから仕方ないのか、それとも、わたしが特別鈍いのが露呈しただけか。
結局ここまでハチの言葉の焼き直しであるのだから、どちらでも変わりない事だった。
「別件の調査でもあるの? マリィにとって、きみの学殖の国にとって、ここに赴いて長期間調べる価値があるものといえば。そうだな。例えば、対立の原因になった魔法と魔術、とか」
魔法と口にするなり、マリィの猫目がちょっと丸くなった。
これは、もしかしたら。空論が目の前で実体を持つような感覚に、内心身震いをした。
もしも、魔法が関わっていたら。
ざわめく思考に、小さく頭を振った。関わっていようが、関わっていなかろうが、核心まで話さなければ良いのだ。そうすれば、あんな忌々しくて、仕方ないものが目の前でのさばる事もない、筈である。
「魔法と魔術を区切った第一人者は、マリィの所の、しかも学生でしょ。論文読んだけど、あれ、元は学校に出す論文だったんだね。そっちだと学校も研究機関だから、さして変わりないんだろうけど。新聞曰く、第一人者はシャロン・オールディス、世紀の発見をして、魔法を証明した天才だって。だけど、隣国では出禁になっている。そっちでは相当な荒れ方をしたんじゃない? 想像でしかないけど。研究への熱の入れ方も凄いから、そういう束縛、一番嫌いな人ばっかりでしょ。性格の悪い事を言えば……国益の損失でもある訳だし」
「……ご想像にお任せしますね。拘束された結果をどう呼ぶかも、今は特に言及しません」
マリィは言葉を濁しながら、今は、と強調して念を押すように繰り返した。それでも、至極穏やかな様子だった。公明正大な声明が出るまでは、あるいは出てからも、胸の内を明かす事はないのだろう。理性的な声明自体が彼女の真意になる。それに慣れている。
些か思う所がある。同情ではなく共感に近い何かだったが、今は関係ない。振りほどいて推測を進める。
つまり、彼女だけが知っている前提事実に近づいてはいる筈だ。明言しない、非公式、不明瞭な領域に爪先を入れようとしている。
人差し指で膝を軽く叩くのを止めて、慎重に言葉を選ぶ。恐らく巻き込まれはしない。第三者が出るとより面倒になるパターンだ。
第三者が暴くと面倒なパターンとも言える。だから、推理ではなく推測にしたかった。明白に証拠がない部分の輪郭を掠めるだけにしたい。
故に、そろそろ打ち止めだろう、と判断した。
「ここには共同研究者の大賢者、デウテさんが居る。出禁なり、研究内容なり、事実と詳細を知れば、和解でも打開でも使える可能性はある。リスクに見合ったリターンはある。……だとしても、皇女殿下が出る幕とは思えないけど」
一通り話し終わって、喉の力が抜ける。緩んだそこを通って息もしゅるりと出ていった。
ぱち、ぱちと疎らな拍手が起こる。マリィではなく、ロイの小さい手から鳴らされた。しかも膨れっ面で、皮肉るように。
「はなしがながい」
「あ〜……気になっている部分ではあったから」
「はなしをそらすつもりは、なかったと」
じとり、と冷めた視線を真っ向から向けられて、はは、と乾いた笑いしか出てこなかった。ロイの頬が更に膨れる。
それを宥めるようにマリィがロイの新品の、折り目正しいブラウスの肩に優しく手を置いた。
「シオンさんの仰る通り、別件があるのは正解です。この国自体に用があります」
「まりぃ……じゃあたびのこと、しりたいのってついでだったり?」
しおしお萎む馬の耳にマリィは笑いかけた。
「いいえ、どちらも本題ですよ。別件というのは、公務とは関係のない、いわば我儘のようなものです」
ロイの耳がぴこりと立ち上がるのを認めてから、彼女はわたしの顔に向き直った。「それに」と話が続く。
「シオンさんの仰る用件で一ヶ月は短すぎます。わたくしならもっと、無理をしてでも時間を貰って、正確な情報を集めますね。新発見と火種であるのだから。どれだけ慎重になっても慎重になりすぎることはないでしょう?」
真っ向から対立している以上、皇女殿下が対立国の側に直に現れる事が可能なデッドラインはある筈で、それが一ヶ月と言うのなら短すぎる事はないだろう。
静かに浮かんだこの反論は、これ以上話を広げるつもりはなかったから、胸の中で静かに溶かした。
それにしても、マリィは意地でも現場に出たがるようだった。それは何故かと思いはしたが、同様に聞く気はなかった。
兎も角、面倒な――魔法が関わり得る事態を避けようとしていた。
そういう訳で疑問は口にせず、正当な形をした反論に、「それはそうだね」と頷く。
「で、その我儘って何?」
「卒業論文を書かなければならないんですよ。学校にも通わせて貰っているもので」
「学校」
思いがけずオウム返しにした単語は間抜けっぽく、虚しく響いた。
マリィははにかみながら、ほんの少しだけ顔を誰もいない壁の方へ逸して、話し始めた。
「卒業する要件に、在籍中に論文を一つ以上書かなくてはいけない、というものがありまして。ただ、お恥ずかしい事に、公務に追われていて殆ど手を付けていないんです。特例もない事はないのですが、それも無責任というか。外聞というものがありますからね」
「……今年卒業だっけ?」
「いえ、来年です。ただ、成人の時期も重なって、より研究どころでなくなってしまうから、今奔走しよう、という訳です」
突然のプライベートな事情にどう返したものか考えあぐねて、結局、はあ、と息を吐くような相槌を打つだけになってしまった。
ロイはきょとんと首を傾げて、マリィの横顔を見上げている。
「まりぃ、ろんぶんをかくんですか? けんきゅうしゃになりたいとか、けんきゅうしゃになったとかじゃ、ないのに?」
「そうです。国の慣例で、高等学校に居ると書かなくてはいけなくて。……研究というものが一番苦手なので困っているのですが」
「へえ。なんかへんなかんじ。でもおわるように、おうえんしてます」
「有難うございます」
ロイがマリィの腕に手を回して、ぺったりとひっつく。さらさらとロイ自身の口元に垂れた黒髪を、マリィが白い指で掬い上げて耳に掛けてやった。
「向こうだけで完結する研究内容にしなかったんだ。あっちだって道具と情報には事欠かないだろうに」
「カテゴリが科学というよりは、魔術というか歴史というか……中々分類はしにくいのですが、ベクトルとしてはこちらの国が得意なものを選んでしまいましたから」
「成る程。……それで一ヶ月しかいられないのは、論文の方が危なさそうだけど」
「連続してこの国に滞在できる期間としては長い方でしょう?」
マリィは、気恥ずかしそうな何処へやら、くす、と冷静な目を細めた。ロイがしっかと絡ませていた腕をさらりと抜いて、その腕でぴこぴこ動く耳の間を縫うように、ロイの頭を撫でてやっていた。
含みのある台詞に予感が走る。
「もしかして、一ヶ月で帰る訳ではない?」
「時間に猶予はあります。一ヶ月経てば滞在先を変えるかもしれませんし、逆に、必要であれば滞在期間が延びるかもしれません。流石に皆さんの拘束期間は終わりますが。古典を読んでいたら、その前提にある古典を読まなければいけなくなるかもしれないみたいに、全ては調査の進捗と結果次第ですね。シオンさんは、分かるでしょう? この感覚」
「いや、まあ……分からないではないけど。良く仕事に抱き合わせられたね、手間のかかる事」
「逆ですよ。研究に仕事を合わせた、というより拝借したと言うべきですかね」
彼女はロイに触れていない方の手を、まるで内緒話をするように顔に添えて「実は」とささめいた。
「表向き、要は陛下には、学業たる研究を完遂するための余暇、という体で通しているんです」
「それは、随分。大した口実を……」
「研究をしなくてはいけないのは嘘ではないですよ」
それに、と軽やかに、歌うように続ける。
「お父様は公務以外の用件だと、脇が甘い所がありますから」
そう言ってぱちりとウィンクをした。
……可哀想な陛下。殿下が珍しく仕事以外の我儘を言ったかと思えば、結局仕事にも使われているのだから。しかも、他の面々に対面するなんて、既にリスキーな事をしでかしているし。
添えた腕を下ろすのを眺めながら、真相を知ったらまた泣きそうだな、と妙に同情しては乾いた声が出てくる。
「さて、一通り疑問は解消した、という事で。話を戻しましょうか」
「あ~あ。戻ってきちゃった」
「もどってきてほしくなかったんですね」
「……はは。まあ、そう」
ロイから目を逸らして、大人げなかったか、と考えた。
でも、それでも。喉の奥の方で逆接が溜まっている。溜まっている癖に、肝心の中身は分裂して、無限に広がって、そして最後は一つの問いに組み込まれていく。その輪郭を捉えてはいたから。
それを口にする方が大人げない、と分かっている。だから、何も言えないか、喋れば言い訳がましくなる。
頭の中だけで声を重ねていたものだから、現実には沈黙が流れていた事に気が付かなかった。思考の中はずっとうるさかった。
その中に、ふと、ロイの声が差し込まれて、身を捩る。
「かきたいのか、かきたくないのか、わからないです」
彼女は拗ねている風でも、不機嫌に眉を潜めるでもなく、ただただ平坦な調子で。単なる真顔で、それでも私の顔を見て、ぽつりと呟いた。普段通りの自然体が、まっすぐで純粋な視線が。これが無邪気な、本当に純粋な疑問だったことを物語っていて。
酷く忌々しかった。瞬き。一瞬、視界が黒くなる。
次の瞬間には、ふ、とロイの眉も耳も下がっていた。
「いや、むりにかかせているてまえ、あまり、よくないですね」
「……大して気にしてないよ」
ごめんなさい、と萎む声に、もう一度「気にしてないから」と投げかける。瞼を閉じる。
――本当に?
自問は無視するに限る。深追いしても碌な事はない。物分かりは良いに限る。限られている。
なら、要望も受け入れるべきじゃないの。そういうロジックで動いているのなら、尚更。
別の方向で思考が裂けて、うまれてすぐに、その声がささめいて、さざめいて、さんざめく。
皆に話してもらって、それをただ書き写して、ロイに満足してもらえば、それでおしまいではないか。話して貰ったら、ありがとうと言って、別れて、記憶通りに書く。述べられた事を、正確に紙に書き留める。各々話したいだけの価値がある事を語るのだから、言葉の事を、感情の事を、意味も価値も、わたし自身が考える必要は何処にもない。
悪い話ではない。始めから。
そうして失われた旅の外観が整えられて、旅自体が在るかのように振舞いだす。当初の目的は達成されて、ロイの要望も満たせて、皆の苦悩も成長もないがしろにはされない。大団円。それで良い、それが良い。そうに決まっている。
まるで言い聞かせるようだな。
裏で揶揄する自分が居る。何時も居る。だから思考が纏まらなくなって、また、自問をしようとしている。
――本当に? 本当に、失われたものを語る意味があると思っているの? 既に失われて、世界に存在はしないのに。
瞼の裏、緑色の瞳が分厚い眼鏡の奥で眼差している、気がした。
「言葉、が」
目を開ける。窓から差し込む光はフローリングの床から黄色く反射している。穏やかな午後。穏やかであるべき午後。息を吸えば、想定より冷たかった空気が喉を刺す。それでも、うっかり漏れ出た声と単語の先を紡ぐ。思考から逃げるように。
「話して貰っても解釈が、微妙な部分を解釈しないといけない事はあると思っていて。ほら、皆が皆、話すのが得意って訳でもないし……逆説と反語を体現したような話し方をするのも何人か居るし。そういう、話して貰っても中々難しい所は、解釈せざるを得なくて。話して貰って正しくないんじゃ、皆からすれば徒労だし、申し訳ないなって」
「シオンさんは、ご自分の解釈が正しいかを一番気にしているんですね」
「まあ、そんな所」
一番はもっと根底的な事だよ、なんて口が裂けても言えないから、マリィに頷いた切り押し黙る。
「でも、気にしないと思いますよ。話せば、口にすれば、その時から言葉が自分のものでなくなる事を、皆さん、知っているでしょうから」
楽天的なようで、悲観的でもある解釈に、何も浮かばなくて手を揉む。マリィは、そんなわたしを見て、微笑んだ。青くて綺麗な瞳が輝いていた。
「後はシオンさんが好きなように解釈すれば良い。解釈ができないと思うなら淡々と記述するだけでも良い。仮に解釈が間違っていれば何か言うでしょうし、そもそも解釈されたくないなら、その旨の注文を付けるか、そもそも話さないでしょうし。……皆さん、きっぱりしている方ですから」
「それは。……確かに、そんな気はするね」
「それに。皆さん、話したがっていましたよ。シオンさんと。ずっと部屋に籠っているか、話せても必要最低限に近いとか、色々聞いています」
言われてみなくてもその通りだと認識していた。久しぶりに顔を合わせた会議以来、余り話さなかった。他国に住むか住所不定の面子は同じ宿屋に泊まっていて、自宅がこの国にある面子は定期的にこっちに来ていて、すぐ側にいるのに会おうともしなかった。無理に連行されたり、こちらから押し掛ける用事がある時を除いて。
「特にマコトさんとカキさんが気にしていましたよ」
二人の名前に、つい毒気を抜かれる。そして、何となくわたしが出すであろう結論を悟った。全然顔を合わせていない、と自覚したら当然の帰結だった。仕事の意味でも必要だったし、それ以外の部分でも不要ではない、と思う。
それでもなお、口を衝いて出るのは見苦しい逆接だった。
「でも、今じゃなくてマリィの用事を優先した方が」
「今しかないですよ」
わたしの言葉を遮ってマリィは矢継ぎ早に言った。彼女が言葉を遮るとは珍しかったから、少し驚く。
「一ヶ月しか皆さん揃っていませんし、記憶だって薄れるものですよ。完全な状態、何を完全な状態とするかはお任せしますが、それに限りなく近い状態なのは今だけです。動けるのも、話せるのも今しかないなら、やるだけやらないと。消化不良に取り込まれてしまいますよ」
「赤の女王の台詞からかな」
「ふふ、そうです。……わたしの好きな仮説です。正しいか正しくないかはともかく、信念の問題になってきますが」
信念。馴染みが薄くなったそれを口の中で転がす。わたしのそれは、どんなものだったか。どんな意味があったのか。
良く分からなくなった時期だけは把握している。
マリィは話の節目を示すように、こほん、と一つ咳ばらいをした。
「一ヶ月とは言っていますけど、自由な日はあります。わたくし自身、ロイさんと観劇する日がありますしね。それに今の段階だと、実際に調べる対象は少人数でやろうと思っています。十人全員、同時に調査は基本しないと思います。仮に、やるとしたら普通に会議になりますね。となると、寧ろ自由時間の方が多いです」
「つまり、空いている人の暇潰し相手になればって事?」
「いいかた……」
ロイが呆れたように呟く。それでもマリィは顎だけ引いて頷いた。
そろそろ結論を出すつもりだった。が、その前に一つ、確認したい事があった。
「マリィもそうだけど、カキ…………と、ケントみたいに、来てもらうにしろ、旅の事を全く覚えていない人達はどうするの?」
「お好きに雑談とか、募る事を話せば良いと思います。要は、皆さん、旅以外の事もゆっくり話したいとの事でしたので。わたくしだったら、そうですね。調査の進捗や……研究で何かあれば聞くかもしれないです」
旅以外の事、と胸の中で繰り返しては、失われた旅路を思い返していた。道中、休むときは、なるべく旅自体の事、現在直面している事情には触れないように、覆い隠すように、日常のとりとめもない事を話していた。町の花壇が綺麗だったとか、人気のない海を見つけたとか、野菜が高くなっていたとか。そういう詰まらない話を人の部屋に乗り込んだり、逆に自分の部屋に乗り込まれたりしては、沢山していた。
旅それ自体でなくとも、旅の事を考えてしまう。そうなれば、最早どちらでも同じ事だった。
「あはは。良いね」
同時に少しだけ懐かしくて、本当に、言葉通りに感じていた。その先は考えないようにして、感じるだけに留める。
「空き時間なら後ろめたくないし、実際ロイの要望に応えられそうな方法として最善だし。話したいって言われて話さないのは、それはそれで誠意がないから」
「じゃあ、やる、というかやってもらうんですね?」
「うん。会話をする機会になるからね。……ニアは何となく、誰かに付いてきて茶々入れるだけ入れて帰りそうだけど」
「たしかに。けんとも、どうるいでしょうね」
ケントの名前にぴくりと頬が跳ねる。
彼奴は、きっと。掠めた推測と彼奴に成り切ったシミュレーションが一致して、喉の閊えを無理やりこじ開けながらつぶやいた。
「多分、彼奴は来ないよ」
「えー! なんで? よこやりいれるの、すきそうなのに」
「……好き嫌いで動けるような奴じゃないからね~」
はて、と首を傾げるロイの隣で、マリィも同じように思案顔だった。「マリィはどうしたの」と尋ねれば、余程考え事に集中していたらしく、猫目が一瞬大きくなって、それから縮んだ。
「ああ、その。……シオンさんの見立てでは、ケントさんは嘘を吐いているんですよね」
「うん。そうだよ。急にどうしたの?」
「会話した時に何かあれば、聞こうと思っていたんです。ただ、来ないとは想定していなくて。シオンさんが断言したのに驚いたというのもありますし」
「はは、割と、何だろう。腹立つけど、遺憾だけど。同類みたいな所、あるから」
お互いに魔法を知っているせいだと、思っている。
重ねる言葉が大体同じで、感性もある程度までは一致していて、ある一点で正反対になる。だから、シミュレーションはやりやすい。
返事に納得したのか、マリィは「成る程」と呟いて、テーブルのカップに手を付けた。それを見て、自分の分のお茶の存在を思い出し、口に付ける。
予想通り、紅茶はすっかり冷めて、渋くなっていた。
牛乳でも、と尋ねようと振り返ったその時、「ぎゅうにゅう! ください!」と顔のパーツを全部中央に寄せたようなしわしわの顔をしたロイから、元気の良い声がした。
***
茶を飲み干して、ロイがマリィに観劇の日の具体的な予定や準備を決めている内に、十六時の鐘が鳴った。教会がそこそこ近いからか、玄関先でも、振動が床越しに、靴越しに伝わってくる。
「そろそろお暇しますね。次の準備をしないといけなくて」
「えー……またきてください」
「勿論。次は来週の木曜の十時頃に参りますね」
マリィは決めた予定を確認しながら、俯くロイの頭を撫でて、しょんぼりとした耳をちゃんと元通りにしてやる。それから、顔を上げてわたしを見る。
「シオンさんも。本が完成するの、楽しみにしていますね」
「期待も程々でよろしく。……皆にマリィも読むって言っておかないと、かな~」
「あら、秘密にして下さらないんですね」
「覗きがしたい訳じゃないでしょ?」
「それはそうですね。ちゃんと伝えますよ。発案者が誰かも、読む事も、ちゃんと全部」
「本当は自分がやるべきなんだけど、悪いね。よろしく」
「仕事にくっつけたのはわたくしですから。気にしないで下さい」
マリィはふわりと微笑んで、「では」と片足を後ろに引いた。綺麗な姿勢のままお辞儀をする。その様は何時も惚れ惚れする。
そして扉が開いて、廊下のランプの光が玄関のタイルに差し込んだかと思えば、徐々に細くなり、最後には完全に何もなくなった。
ぱさぱさと隣から音がして、そこに居るロイを見下ろすと、尻尾を高く上げて身体を横にゆらゆら揺らしている。
「よかったです」
「マリィとの観劇が?」
世間話の要領で、思い付いた手近な事を聞けば、彼女は首を横に振った。
「しおんが、みんなとはなすから。ずっときにしていたんですよ。むりにたのんだのは、じじつだし。げんこうやっているから、ぜんぜんなかまとあわないし」
「いじらしい事を言うね」
ロイの目線に合わせようと、わたしが片膝をつけば、今度はロイがわたしを見下ろす事になる。黒い瞳がまっすぐにわたしの目、その奥にある何かしらを刺す錯覚を覚える。
「ロイもきみの上司、もとい神様もこれを仕事にしているから仕方がないよ」
「でも……。……しごとでわりきれるものなんですか。ほんとうに、そういうものなんですか」
念押しの問いは掠れた息と共に投げ出された。純粋な視線はそのままだから、切実さが更に増す。
あ、と思うなり、急いで瞼を下ろす。真っ暗闇にロイの瞳が紛れて、忌々しさが多少マシになった、気がする。
「割り切らないといけない事の一つだからね。それを気にしていたって仕方がないよ」
「むう……。むずかしいです」
うー、と唸るのを聞いて、そろそろ良いかと目を開ける。エナメル質の靴がピカピカと光っていた。顔を上げれば、ロイは文字通り頭を抱えて、首を傾げて、悩んでいた。
「まあ、大人の事情みたいなものだし。子供が知らなくても良いよ」
「こどもあつかいしてます?」
「事実子馬でしょ」
「それは、そうですけど……」
よいしょ、と立ち上がって、「カップとか片付けようか」といえば、ロイは自分がやると言って、部屋にすっ飛んで行った。
一人、玄関に残り、伸びをする。肩がぽきぽき、小気味良く鳴る。音が出た後の関節を馴染ませるように、肩をぐるぐる回せば気持ちが良かった。
皆に話して貰いましょうと言った時のマリィの顔が、ふと浮かぶ。
彼女の言う通り、皆が話してくれるのなら、原稿も楽ではあった。わたしの感情には触れず、皆の感情には触れられる。微細な部分の解釈は必要かもしれないが、労力は少ない。マリィの仕事と結びつけられれば、ロイの依頼の本当の依頼主には中々触れられない。
会話の中で渋った事項は大体全てクリアされていた。一体、彼女は何処まで意図していたのだろう。
彼女が立ち去った今、確認する術も機会も失われた。失われたのなら、仕方がない。
――そんな風に扱うのなら、失われた旅だって同じように扱えば良いのに。
自分の声が脳裏に響いて、ため息を吐く。
今日何度目かも分からない自問だった。自答は考えない。言わせたいだけ言わせておけば、勝手に消えている。いつもそうだったから、今回もそうであるべきだ。
――でも、そうしないのは。つまるところ。
分裂した思考は勝手に思考するから嫌だった。
ここには、もっと根本的な問題がある。そんな事は分かっている。分かった上で目を瞑っているのだ。だから、邪魔しないでほしい。
どす、と膝裏に衝撃を感じてよろめく。幸い近くの壁に手を付けたから、転ばないで済んだ。
昨日のデジャヴュを感じる。
反射に任せて振り返れば、黒い毛艶の良い髪が二つに結ばれた、確かにロイが居た。
「びっ……くりした」
「えへへ、ずっともどってこないから、たいあたりしようとおもって。やりました」
「思考が蛮族過ぎない?」
にこにこ、ご満悦なロイに思わず突っ込めば、彼女はすぐに膨れっ面になってつん、とそっぽを向く。
「けんととけんかすると、すぐににんじょうざたをおこすしおんにいわれたくないです」
「…………何も否定できないです。はい」
「すなおでよろしい、です」
ロイは膨れっ面の表情も嘘のように取り消して、軽やかに笑っては、わたしの手を引いた。もしかしたら彼女にとって難しい事ばかり言った意趣返しがしたかったのかもしれない。
見事に意趣返しが成功したロイは、ふん、ふ〜んふん、とまた不規則で奇体なリズムの鼻歌を歌い出した。
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