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い
2025-03-19 11:08:34
2861文字
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朝に溶けるまで
バンユキ/大神結婚ネタ後
「
……
ギター出てる」
前の家ではひっそりと、息を潜めるようにして寝室の片隅にあったそれは、今は観葉植物の横でリラックスでもするかのようにのびのびと置かれている。出番をなくしたわけではなかったのかという喜びより、物珍しいものを見た驚きのほうが先にきた。
「ああ、最近たまに弾いてるんだ」
前に少し弾き語りみたいなことしてあげたらすごく喜んでくれたから、休みの日とかに触ってて、と顔を綻ばせて話す万理に、へえ、と返した声はまるで自分のものではないように耳に届いた。
無意識のうちにその横顔から目を逸らし、伸ばされて揺れる毛先や袖から覗く腕時計をぼんやりと眺める。左手の薬指に丁寧に嵌め込まれた指輪は細くシンプルなものなのに、窓から入る陽の光やライトの反射でおかしなほど輝いて見えた。
「僕にも何か弾いてよ。久しぶりに」
言ってから、僅かに怯む。
万理の演奏を聞きたいのは本当だったが、今の彼から出る音はもうかつてと同じものではないだろう。あの光る輪っかを乗せた指先が紡ぎ出すメロディーはきっと、僕の知らない柔らかさを伴っている。共に暮らしている彼女にとって最も美しいだろうその音色は、僕の心を細やかに切り刻む。
だから、嫌だよ、と返されてほっとした。
「ギターだってもう千のほうが上手いだろ」
まるで何か言い訳でもするように、もしくは僕を庇い立てるみたいにあれこれ言っている万理の顔をもう一度見て、確認できるのは断絶に限りなく近い変化でしかなかった。過去が喪われたわけでもなければ、糸が断ち切られたわけでもない。五年ぶりに再会したとは思えないほど冷たかった態度はマイルドになり、温かさを取り戻したやりとりの先で、またねと言い合える場所にいる。
それなのに、まるで違う層に立っているかのように万理の温度は遠かった。今はもう、あの頃と同じだけ魂を溶け合わせることはできないだろうという実感だけはすぐ触って確かめられる場所にあるというのに。
「珈琲でいいか?」
「うん、お任せで」
テレビ前に置かれたソファーと一瞬悩んでから食卓の椅子に腰掛けた。キッチンに立ってポットのお湯を沸かしている万理の姿に、ここにある生活を覗き見る。
彼女と過ごした時間の中で、どれだけのやりとりがあり、何がここまで万理を変えるに至ったのかを、僕は知り得ない。結婚すると告げられた日にそれらを聞かないままにしたのは、興味以上に悔恨から目を背けたからだ。そして先に変わったのは自分自身に他ならないことに、気付いてしまったからでもある。
僕に、一生懸命になることを教えてくれたのはモモだった。
どうしようもない人間だった僕を、優しい人間になりたいと奮い立たせてくれたのは、ユキさんと呼んでくれたあの真っ直ぐな声と眼差しだ。もしあのまま万理と過ごしていたとしても、僕は光の灯るボロボロのアパートを見上げたときと同じ気持ちを得られることはなかっただろう。笑顔の意味も、誰かが待つ家に帰れる奇跡も、知ることは恐らくなかった。
世話を焼かれることを当然に思い、それで満足していたはずで、どちらが良かったも正しかったも言うつもりはないけれど、万理のいない中で培われた僕自身がいることは否定しようのない事実だ。その成長と呼ぶべき変化は、与える喜びを知ったことによる変容は、今の万理の変質と一体何が違うと言うのだろう。
自分が一番、この男のことを理解しているのだと信じていた。一番近くにいるのも自分であるはずだという不遜さで。
多分、今でも心のどこかではそう思っていて、だからあっさりと聞いてしまいたくなるのだ。お前も知らなかったお前自身の幸福の形は、どんな形をしていたの、と。
「そういえば、またツアーやるんだって?」
「うん。新曲も今作ってる。まだ途中だけど、楽しみにしてて」
時間をかけて淹れられた珈琲が手元に置かれた。褐色の水面に、もてなす気のない透き通った水が懐かしくなる。
「忙しいかもしれないけど、千秋楽くらい来れるでしょう」
「そうだな。申し込んで、当たれば行くつもり」
「律儀だな。でも、今回くらい黙って僕に招待されてよ。彼女のぶんも用意するから」
そこまで言うと、万理は素直に頷いた。やんわりとした微笑みがカップから立ちのぼる白い湯気の向こうで幻のように揺れるのを見守って、再度、口を開く。
「ねえ。
……
おかえりって言われるの、嬉しい?」
「なんだよ、急に。そんなに惚気が聞きたい?」
「僕も、嬉しかったから。おかえりって言うのも、言われるのも。冬は寒くて、夏は暑くて、お前が東京で暮らしてた部屋とも比べものにならないくらい安っぽいアパートで
……
それでも、大事なものも、大切にしたいものも、全部があった」
万理は黙って僕の言葉を聞いていたけれど、苦いものを飲み下すように、一度だけ、そっか、と頷く。
思えば不思議な話だ。万理とだって、考えてみればほとんど一緒に暮らしてたようなものだったのに、あったはずのただいまやおかえりはあまり思い出せない。来るなら言えよ、来てたのか、またいる、千
……
そんな言葉ばかりだった気がするな、と振り返ってみて思う。
「
……
嬉しいよ。俺には、今までなかったものだから」
「うん」
「でも、俺はお前が勝手に家に上がり込んでたのも
……
、まあ、迷惑なときもあったけど、嫌じゃなかったよ」
顔を上げずに、机に置かれた万理の手をじっと見詰めた。僕とは違う、ネイルのされていない素のままの短く揃えられた爪。あの頃と変わらない皮膚の厚くなった指先。少しカサついて骨ばった甲。
「家に誰かがいるって、最初は慣れなかったけど」
珍しく言葉を選んでいる気配がするのが、少しおかしい。ひりついていた感情があたたかい液体に溶かされて、ふやけて形を変えていく。
「電気がついてて、あ、千が来てるな、とか、来てるかもしれないから早く帰ろうとか思うのが
……
新鮮だったな」
「
……
そう」
最後には、ふと溢れた、独り言のような言葉になっていた。頬を撫でる髪を耳にかけ、熱の落ち着いた珈琲を口に含む。それから万理の顔を見て、老けたね、お互い、と少し笑う。
ようやく、がむしゃらにギターを掻き鳴らしていた、あの海辺の町で過ごした日々の地続きにこの場所があるのだと、わかった気がして。
「楽しかったね」
浮かび上がった言葉をそのまま口にしただけだったが、郷愁が滲んだ。万理が何を思ったのかはわからない。同じものを見て、同じことを考えていると、全て理解し合えていると信じられたかつての全能感はここにはない。けれど、そうだな、楽しかった、という言葉には同じ想いが乗っているはずだった。
壁際に置かれたギターを見やる。その視線に気付いた万理が、少し目を伏せて頬杖をついた。「
……
お前には、もう聞かせないよ」と告げた万理の表情は手と髪に隠れて僕からは見えない。その意味と真意を問い質すことも、もうしないと決めている。
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