千代里
2025-03-18 08:28:54
11750文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その52


「終わらない冬が続くこの五年間、耐え難き苦難の時を我々と共に歩んできてくれたことに、まずは感謝を捧げたい。その上で、この苦境の中、竜と戦う人々のためにも、どうか今一度考えて欲しいと私は呼びかけねばならない」
 見るからに台本とわかる紙を広げ、アガテルは観衆の前で記された言葉を読み上げる。
「我々は槍を持たず、剣を振るうこともまずないだろう。しかし、前線にて悪しき竜たちと戦う者たちは、今なお忌々しい邪竜の炎や牙の前にその身を晒している。彼らの苦難に思いを馳せ、今しばらく苦渋の時を耐えてはくれないか――
 少女の声を邪魔するほどに、大きな声をあげるものはいない。まずは話を聞いてみようと考えているのだろうか。だが、激励の形こそとっているものの、具体的な内容に言及しない言葉たちに、不満の気配が大衆の中から湧き上がっているのは、部外者であるオランローたちにも伝わってきていた。
……詭弁だな」
「ああ。感じ入る奴もいるかもしらんが、だから何だと鼻で笑うやつもいるだろう」
 周りに聞こえないように、声を最小限に絞り、オランローが呟く。後を追って、ルーシャンも渋い顔でゆっくりと同意を示した。
 アガテルが渡された台本の言葉は、どれも苦難を強いられた領民を鼓舞するものだ。以前、ノエの父親であるベルナールも似たような演説を口にしていたことがあったと、ノエ本人からも聞いている。
 領主が領民を無視するよりかは、励ましの言葉を投げかけた方が心証は良くなるだろう。しかし、あの時と今では状況が大きく異なる。
 すでに限界まで忍耐を強いられており、怒りや不満を表面に出している人々に対して、美辞麗句で糊塗された「現状維持」など、火に油を注ぐようなものだ。
「あの娘も、自分が貧乏くじを引かされたことを分かっているのだろうな」
「だから、オデットの顔で民衆の前に出ている?」
 サルヒの問いかけに、ルーシャンが渋い顔で頷く。
「やや楽観的な見方ではあるが、今すぐどうこうとなるほど、町の連中も切羽詰まってはいなさそうだ。だが、この先、あのお嬢さんが、何かの拍子でシュガーグレイヴの住民に出会したとき、いつも十分な護衛がいるとは限らない。そんな時のための、いわば保険みたいなもんだ」
「そのようなあるかもわからない未来の保険のために、オデットを使ったということですか」
 サルヒの声には、明確な嫌悪が混じっていた。
 彼女だけではない。状況を知ったノエたちも、先ほどまで同じような困惑と忌避の声をあげていた。
 ノエたちは、まだ町に滞在する予定でいた。長期間ではないものの、依頼が終わってからも、数日は町に残って、旅立ちのための準備をするつもりだった。
 しかし、オデットの顔がこのような形で大衆の前に晒された今となっては、その予定も考え直す必要も出てくる。
「貴族が無断で顔を奪ったといっても、多分聞き入れてくれないだろうな」
「そもそも、顔を奪うといっても、あれはどうやってやったんだ」
「そりゃ、魔法と錬金薬の応用で何とかしたんだろ。そこまで珍しいもんじゃない。貴族の中には、髪の色や顔の細かい部分は薬でいじる連中もいる。それ専門の商人もいるってことは聞いたことがあるくらいだ」
 幻を見に纏う奇跡の薬――『幻想薬』などと呼ばれていることもあったかと、ルーシャンは古い記憶を掘り返す。
 ただ、恒久的なものは聞いたことがない、と彼は付け足す。つまり、どれだけよくできた変装であっても、一時的な変化に過ぎないということだ。
 話をしている間に、アガテルが語る当主の伝言が終わりを迎える。彼女の言葉は、最初から最後まで人々に忍耐を依頼するものであり、陳情として度々話題になっていた税収の緩和にはちらとも掠めなかった。
 優雅に一礼した後、背を向ける令嬢。彼女に人々がつかみ掛からなかったのは、重厚な装備の騎士たちが、令嬢を守るように囲んでいたからだろう。中には、これ見よがしに剣に手をかけているものもいる。
 けれども、そこまでの牽制をしていなければ、この煮えたぎる鍋のような嫌悪の感情の渦は、間違いなく些細なきっかけで爆発していたはずだ。隙間から見る限り、彼らは町を防衛する神殿騎士団ではなく、ルグロ家の私兵のようだ。
……最初から、こうするつもりだったんだろうか」
「って言うと?」
「最初から、ルグロ家の当主とやらは、自分の娘の隠れ蓑として同年代の傭兵を求めたのか?」
 オランローが繰り返す。暫しの沈黙を挟み、ルーシャンは言う。
……いや、それなら最初から自分のところの召使いなり何なりを使っていただろ」
 アガテルが立ち去り、その場にいる必要がなくなった人々が部屋を出ていく。人混みが消えるまで、オランローたちは部屋の隅に残ったまま、言葉を交わしていた。
 一緒に外に出たら、まず間違いなく、堰を切って溢れ出た不満の渦に飲み込まれると思ったからでもある。
「その場の思いつきであると、旦那様は考えているのですか」
「恐らくは。思いついたのはあのお姫様の周りの人間か、それとも本人か。どちらにせよ、当主本人が仕組んだとしたら爪が甘すぎる」
 たまたま、オデットやゲルダがピヌヌと知り合いだったからよかったようなものを、そうでなかったら同年代の傭兵――すなわち町で暮らしていた期間の短く、入れ替わりが容易に露見しなさそうな同年代の少女など、すぐに見つかるわけがない。
「待ってくれ。もしあんたの言うとおりなら、当主とやらは、自分の娘を殺気立っている民衆のもとに送り出したのか? 護衛はつけているようだが、万が一ということもあるだろうに」
「結局は、ルグロの当主様とやらにとっては、その程度の存在だったってことだろ。娘のことなど、どうでもいいと思ってるからそんなことができるんだよ」
 忌々しげに呟いてから、ルーシャンは周囲を見渡し、「そろそろ出よう」とオランローたちを促した。
 人だかりの気配は町長の家から離れ、町の中へと散っていったようだ。彼らは再び集まって貴族への不満を醸成しているのやもしれぬが、今のルーシャンたちには関わりのないことである。
 集会場でもあった部屋を出る途中、年嵩の声が一同の耳に届く。
「ルグロ家の方々も、我々を気遣ってくださっているようだが……
「気遣ってくれてるだけじゃ、何も変わらないだろうさ。あれじゃあ、若い連中がまた荒れるだけじゃないか。それで、町長としてあんたは何かしないのかい」
「私にできることなど、結局のところ何もない。若者たちにも、どこかで捌け口が必要なのだろう。好きにさせればいいさ。どうせ、そのうちほとぼりも冷めるだろう」
 入り口に溜まって話をしているのは、町長と思しき壮年の男性と、同年代の男女だった。血気盛んな若者たちとは対照的に、彼らはこのひりついた空気に既にうんざりしているらしい。
 年を経たものにとって、変化というのはそれだけで負担になる。現状を変えようと意気込む若者たちの姿すらも、彼らにとっては厄介な面倒ごとにすぎないというわけだ。
「それで、オレたちはどうする」
 建物の外に出て、オランローは二人に問いかける。サルヒもルーシャンも厳しい顔をしているが、自分たちがアガテル嬢を追いかけて掴み掛かったろうとまでは言わない。彼女を攻撃したところで、既に事は成されてしまった後だからだ。
「ノエたちに状況は伝えた。幸い、この町でやらねばならないことが残ってるわけじゃない。ノエたちと合流したら、ほとぼりが冷めるまで、別のところに移動すりゃいいだろ」
「この町の近くで、拠点となりそうな他に町があるのか? 確かあんた、前にこの辺りに来たことがあるんじゃなかったか」
 オランローの言葉に、ルーシャンは「ああ」と肯定を返す。
「この前寄った猟師の集落を経由した先に、もう一つ二つはあったはずだ。……まだ、残っていたら、だが」
 思わせぶりな発言になったのも無理もない。シュガーグレイヴを訪れる前に、オランローも廃墟となった村を目にしている。かつて訪れたルーシャンの記憶の通りに、町が残っているとも限らない。
「ノエたちに連絡を取るのは、少し待った方がいい。あちらも、あのお嬢さんが戻ってきた後に一悶着しているだろうからな」
 ノエは、たとえ相手が自分に悪意を向けてきたとしても、誠意ある応対を心がけるようなお人好しだ。
 しかし、彼は決して、何をされても黙って許してくれる聖人ではない。まして、今回はノエが何よりも大事に思っているオデットに関することだ。
「さすがに、貴族に対して正面切って喧嘩を売るような馬鹿はしないだろうが、次の連絡が『お尋ね者になった』なんて報告じゃないことを俺は祈っておくよ」
 
 ***
 
 ルーシャンの予想は、当たらずも遠からずだった。
「アガテル様。ご帰還の直後ではありますが、少しお時間をいただけますか」
「あら、随分と早く、あなたたちの元まで情報が伝わったのね」
 玄関に姿を見せたアガテルが目にしたもの――それは、自分を出迎える使用人ではなく、静かな怒りを目に宿した青年であった。ノエだけではない。彼の後ろには、ヤルマルやオデットも控えていた。
 アガテルが屋敷に到着して早々に姿を眩ます可能性を考えて、ノエは二人を伴って玄関で待ち伏せすることにしたのだ。使用人の数も少ないおかげで、明らかに不躾な振る舞いであっても、咎める者はいなかった。
 各部屋に繋がる玄関ホールの重たい木戸が開き、私兵と共に姿を見せたアガテル。彼女を前にして、オデットの顔をよく知るノエですら、一瞬奇妙な感覚に捉われた。
 顔を覆い隠していたベールは取り払われ、少女らしい愛らしさを残した面差しが外気にさらされている。それが、オデットと全く同じ顔でなければ――その口元に、オデットでは決してあり得ない形の冷笑を浮かべていなければ、ノエも幾らかは穏便に接することができたのだろうが。
「お嬢様」
「構わないわ。わたくしに質問があるという下々の者の声を聞くのも、雇用主であるわたくしの仕事ではあるのでしょうから」
 ちらりとノエを一瞥する執事を、やんわりと嗜めるアガテル。周囲にいた侍従の女性に外套や帽子を預けて、彼女は一歩、ノエへと近づいた。
「質問をすることを許しましょう。でも、あまり時間は取らないでくださる? わたくし、こう見えてそれなりに疲れていますの。今すぐにでも、自室に戻って休んでいたいと思っているところですのよ」
「お疲れのところ、手間をとらせる形になったことは謝罪します。あなたがそのようにオデットの風貌を装って大衆の眼前に立たなければ、僕たちは素直にあなたをお通しできたでしょう」
「わたくしのこの顔が気に入らないと、はっきりそう言えばいいでしょうに」
「気に入った、気に入らないの問題ではありません」
 ノエの迂遠な言い回しの意図を理解した上で、アガテルは切り返す。対するノエも、このまま黙って見過ごすつもりは毛筋ほどもなかった。
「なぜ、あなたは自身の素顔を人々の前に晒さず、オデットの姿を隠れ蓑にしたのか。僕が聞きたいのはそれだけです」
 貴族的な言い回しね、とアガテルは呟く。
 ノエとしては、特段『貴族的』な言い回しを意識したわけではない。ただ、正面切って「あなたは間違っている」と言えるほど、彼は目の前の姫君のことを知らない。ならば、先に理由を問わねばならないと考えたまでのことだ。
「あなたも、薄々気づいているでしょうに。わざわざ、わたくしの口から言えと命じますの?」
「命じてはいません。これは、単なる質問であり、お願いです。僕は、憶測であなたを悪人はしたくない」
 だが、オデットを守る者として、知らぬふりはできない。だから、今こうしてノエはアガテルを糾弾する役を担っている。
「随分と誠実な傭兵様ですこと。あなたぐらい、わたくしのお父様もお人好しだったらよかったのですけれど」
 皮肉混じりではあったが、アガテルの呟きには微かな羨望が滲んでいた。心の底から、今の発言の通りの可能性があったら、と願うかのような。
「お父様は、シュガーグレイヴの住民を宥めすかすようにわたくしに命じましたわ。そのための原稿も、お父様が用意してくださった。でも、お父様自身がこの地に訪れることはない。それは、お父様の身を危険に晒すことになりますもの。町の者が貴族に不満を抱いているのは、既にお父様も承知のことでしたわ」
「でも、それはアガテルさんでも同じではありませんか」
 耐えきれなくなったのか、オデットがノエの後ろから顔を出し、彼女へと歩みを進める。
 まるで鏡をそこに置いたかのように、全く同じ顔がそこに並んでいた。
 だが、本物のオデットの顔には不安が色濃く残っているのに対して、アガテルのそれは先ほどから変わらず、皮肉混じりの冷めた笑みをはりつけていた。
「ええ、そうよ。お父様にとって、わたくしは民衆の恨みを買わせるためのスケープゴート。身代わりにすぎません」
……お嬢様、旦那様はそのようなことは」
「お前は黙っていなさい。あなたが、お父様がわたくしにつけた監視役であることは分かっています。その上で、わたくしの我儘を聞いて、姿を偽ることに協力してくれた。わたくしは、これでもあなたに感謝しているのですよ」
 再び言葉を挟んだ執事に、アガテルは視線すらやらず、労いと牽制を混ぜた言葉を叩きつけた。彼女の言葉の通りなら、同年代の少女を求める依頼は、この執事を経由して騎士団まで届いたのだろう。
「お父さまなのに、どうして娘のアガテルさんに、そんな危険な仕事を……
「お父様にとって、わたくしはその程度の価値しかないということですわ」
 アガテルの口元の笑みに、変化が訪れる。冷え切ったそれは、大層愚かな生き物を憐れむような歪み方へと変わった。泣き笑いにも似たその顔は、果たしてオデットだけに向けられたものなのだろうか。
「オデット、あなたには話しましたわよね。わたくしには、弟が二人おりますの。父にとって、そちらの二人の方が、自分の補佐としても、後継としても有力。それに、わたくしの母は、わたくしが生まれる前は、別の男と親密にしていたなどという噂が流れたこともありましたわ。そのせいで、父は今でも、わたくしが本当の娘かどうかすら疑っている節がありますのよ」
「そのような身内の醜聞を、ボクたちに話していいのかい?」
「この程度の噂、掃いて捨てるほどあることですもの。あなた方が少しばかり吹聴したところで、我が家名に傷はつきません」
 執事が何か物言いたげにしているところから、決して言葉通りではないのだろうとヤルマルは察する。だが、今は話の腰を折っている場合ではないと、彼女は口を噤んだ。
「だったら、わたくしだって、ただ父の言われるがままに、怒りを抱えた民衆の前に易々と顔を晒すような危険な真似はしたくありません。ですから、父に気づかれないように、屋敷から離れた場所を移動する頃に、先んじてわたくしの影武者になれそうな者を見繕うよう依頼を出したのですわ」
 裏を返せば、アガテルが父の目のつく場所で影武者を仕立てようとしたら、妨害されていた可能性があるということだ。不要な支出をすることになる故、金銭的な事情として許されないのか、それとも――
(今回の、父の名代としてのシュガーグレイヴ派遣を、ともすればアガテルさん自身の命を奪うための策として利用するつもりだった、と考えるのは飛躍が過ぎるだろうか……
 そこには、ノエやオデットには到底理解できない親子の関係があった。
 まるで、互いが互いの喉元にナイフを突きつけているかのような、ひりついた関係。父に一度は見捨てられたノエですら、親に対してそこまで凍てついた懐疑と敵対の意識を向けたことはない。
 ノエの父に対する感情は、いっときは激しく燃え上がったものの、ルグロの親子のように、腹の探り合いをするような関係ではない。彼らのそれは、まるで触れれば凍傷を負うほどの極低温の世界そのものだ。
「オデットの顔をなんらかの方法で模倣して、人々の前に姿を見せた。それなら、あなた自身の本来の姿を知る者は、この町にはいない」
「名代の役割を果たせた上、君自身の安全も守られるということだね」
「ええ。これなら、誰も傷つくことはない。素晴らしい作戦でしょう?」
 ノエとヤルマルの言葉を受けて、話はこれでおしまいと言わんばかりに、アガテルは扇子を閉じる。
――そして、あなたが立ち去った後、何も知らずに町に出たオデットは、町の人から恨まれる」
 だが、機先を制するかの如く、ノエの言葉が割って入った。声音に混じる怒気を必死に抑えるためにも、常よりも低い声が部屋の中に響く。
「誰も傷つかないなんてことはない。あなたの行動は、この先も続くオデットの未来を脅かし続けるものです」
……だったら、わたくしにどうしろと?」
 これまで意気揚々とした様子で、まるで演説をするかのように自身の調子を崩さなかったアガテルの声に、微かな震えが走る。
「殺気立った民衆の前に顔を出して、黙って石を投げられろと言うの? わたくしは、この町の人間のことなど、どうでもいい。課せられた役割を果たすのに精一杯だというのに、その挙句、父様に代わって人々に恨まれるのが、わたくしの生まれてきた役割だとでも!?」
――――
 ぱしん、と扇子が手のひらを打つ音がその場の空気を割る。
 それはまるで、彼女自身を打ち据えてきたありとあらゆるものの存在そのもののようでもあった、
「わたくしが、人々に罵られたら、あなたは満足だったの!? わたくしがオデットに頭を下げて、みっともなく地べたに這いつくばって懇願すれば、あなたは許してくれたのかしら!? ねえ、あなたに聞いていますのよ! 何の責任も背負ったことのない、能天気な傭兵風情が!!」
 言葉を一つ一つ区切るごとに、扇子の音が響く。自身の手が赤くなるのも厭わずに、彼女は己の感情を吐き出し尽くした。
 自らを切り裂くような激しい感情に、ノエも言葉に詰まる。
 アガテルの言葉には、ある側面で同情すべき部分もある。父親の失態を、全て娘が背負うなど、歪んだ責任転嫁でしかない。
(だけど、それでも――それが、貴族の責任ってやつじゃないのかな)
 言葉の勢いに押されたらしいノエに代わり、ヤルマルは心の中で返答する。
 アガテルの身に纏う上等なドレスも、朝昼晩と供される暖かな食事も、この建物ですら、彼女が汗水流して手に入れたものではない。課せられた役割が石を投げられることなら、それもまた甘んじて受け入れるべきだと告げるのは、年端もいかぬ娘に対して辛辣に過ぎるだろうか。
……やめよう。これ以上は、不毛なことしか考えられない)
 自身もまた、形は違えど、同様に不遇な環境を押し付けられたのだから――ヤルマルの瞼の裏には、幼い頃に自身を閉じ込めていた土室が蘇っていた。
 何もせずに、ただそこにいればいい。狩りに出なくとも食事が与えられ、屋根のある空間で眠ることができる。その代わり、自由など一切なく、誰と友誼を深めることもなく、一人朽ち果てる。それが、ヤルマルの役割だった。
 生まれたときに課せられた役割を、甘んじて受け入れるべきだと言うのは容易い。だが、理不尽に晒されたときに抗いたいと叫ぶ少女を糾弾できるほど、ヤルマルは偉ぶることもできない。
 そして、その考えはノエもまた同じだった。
「あなたをそのような形で非難するつもりはありません。ただ――
「ええ、ええ、わかってますわよ。大衆の前に顔を晒し、生涯この町の住民に『あの時の憎たらしい小娘』として後ろ指を指され続けていれば、皆さんは満足なのでしょう。わたくしの自由、わたくしの友人、わたくしの楽しみ――何一つ思い通りにならないのなら、せめてわたくしの命と安全ぐらいは、わたくしの自由にさせてもらっても――
「お嬢様! ……それ以上は、私も言葉を挟まなくてはならなくなります」
 感情的に言葉を荒らげ続けるアガテルを諌めるため、執事もまたこれまで聞いたことのないほどの声量で場を圧する。広く空間をとられた玄関ホールに、彼の声はわんわんとよく響いた。
「ノエさん、そしてそこのお二人も。確かに、我々は契約にない振る舞いにより、あなた方の信を失った。その点については、報酬を倍にして補填いたしましょう。ですが、お嬢様があなた方に頭を下げることはできません。また、我々に非があると明言することもありません」
 改めてこちらを向き直った執事は、感情の見えない視線で一同と相対する。
 貴族としての上から目線の発言ではあるが、彼らにとっては必要な線引きだ。これで謝罪をさせてしまっては、ノエたちとしても面倒な遺恨が残ることになってしまう。貴族というのは、何よりも面子を重んじる存在であると、ノエも既に嫌と言うほど理解していた。
 一呼吸を置いて、ノエは顔を上げる。
 先ほどのアガテルの発言には応じるための言葉を、ノエは持ち合わせていない。貴族であることを止めた自分は、彼女の振る舞いを貴族の目線で処断できない。
 故に、彼は仲介人でもある執事に視線を合わせた。
「報酬については、増やしてもらう必要はありません。強いて言うなら、招かれざる客である僕らの宿泊費を、その分で補填しておいてください。ただの宿として利用するには、過分な応対をしていただいていることは、こちらも承知しておりますので」
 貰いすぎても、後々さらに厄介ごとを持ち込まれたときに断れなくなる。ならば、名目上は契約しているものの、実質はお荷物となっているノエたちの宿代と相殺するのは、最も無難な落とし所だ。
「それと、もう一つ。彼女がオデットの顔のままでいることは、僕には受け入れられないことです。過ぎた話を、今からとやかく言っても仕方ありません。ですが、これ以上は、流石に許しがたいと言わせてもらいます」
 たとえ、もうあと一日と少しの時間であっても。
 町を出る時まで、外出することがなかったとしても。
 オデットの顔を装い続けることは、オデット自身への冒涜だ。たとえ、オデット本人が口にせずとも、ノエは己の意見を覆すつもりはなかった。
「いいでしょう。この後、わたくしがお父様のいる屋敷に戻るまで、オデットの外見を借りることはないと約束しましょう。もとより、既に薬は無くなっていましたもの。やろうと思っても、もう奇跡はおしまいですわ」
 先ほどの激しい感情を一瞬で胸のうちに仕舞い、アガテルはノエが付け足したお願いを素直に聞き入れた。あまりにもあっさりとしていて、言ったノエ自信が拍子抜けしたほどだ。
「では、お話はこれでおしまいとしていただけるかしら。先ほども言いましたけれど、わたくしは相応に疲れておりますのよ」
「最後にもう一つだけ確認させてください。たとえば、今ここで、報酬は不要だから屋敷を辞去させてほしいと言った場合、それは許されるのですか」
 不愉快な真似をしてくれた相手の懐に、これ以上いたくないと思うのは自然なことだ。そのような要望が果たして通るのかと、ノエが尋ねると、
――残念ながら、あなた方には報酬を受け取るという選択肢以外、残されていません」
 答えたのは、執事だった。言葉とは対照的に、少しも残念ではなさそうに形だけの一礼をして、彼はノエへと向き合っている。アガテルの両脇を固めている兵士たちが、それとなく武器に手をやったのをノエは見逃さなかった。
(ここで僕たちが外に出て、万一オデットの顔を奪った件を吹聴して、町民が信じた場合、彼らにとっては嬉しくないことになる。だから、外に出すつもりはないということか。でも、それなら――
「あと、もう一つ。皆さんはリンクパールをお持ちのようですが、そちらも預からせていただきます。依頼が完了した暁には、傷一つつけず戻すことをお約束します」
 ノエの推測を先読みしたかのように、執事は通信手段の除去を希望した。
「それ、断るといったら?」
「私は、兵たちに皆さんを傷つけろと指示したくはありません」
……はは。これはまた、随分と慈悲深いことで」
 ヤルマルは引き攣った笑い声を溢す。はっきりとした皮肉に対しても、執事は顔色一つ変えなかった。
 ノエの持つ剣や盾は、依頼を受ける際に、依頼主であるルグロ家の者たちに預けてある。オデットの天球儀も、その中には含まれていた。暇つぶしのために手入れをするときですら、兵の監視下でなければ所持を許されなかったほどだ。
 持ち出せているのは殺傷性の低いヤルマルの弓だけであり、彼女の技を以てしても、今この場でオデットを守りながら外に飛び出すことは難しいだろう。それに、部屋に残している、依然として眠ったままのゲルダのこともある。
「兄さん。わたしは、アガテルさんがわたしの顔を使うのをやめてくれるなら、今回のことは一旦おしまいとしたいです」
 先ほどから続く一触即発の空気を感じ取り、オデットはノエの服の裾を引く。
「わたしの顔で町の人たちに何を言ったのか、町の人がわたしの顔をした女の子に何を思ったのか、わたしも不安には思います。でも、もう終わったことである以上、アガテルさんがこれ以上わたしの顔を勝手に使わないのなら、今はそれで終わりでいいです」
……オデット」
「わたしも怒ってますし、悲しいって感じています。でも、そのせいで、兄さんたちが怪我をするような結果になったら、わたしが町の人たちに嫌われることよりも、ずっと嫌ですから」
 シュガーグレイヴは、グリダニアのように長期的に滞在する予定がある町ではない元々、オデットの記憶の手がかりを持つ人を探すために、占星台に向かおうという話も出ていたぐらいだ。
 だったら、シュガーグレイヴの住民たちに石を投げられようが、疑いの目を向けられようが、そんなに大した問題ではないと捉え直すこともできる。
(それよりも、今ここで兄さんがアガテルさんの召使さんに敵視されて、怪我をさせられたり、酷い目に遭わされる方がずっと嫌です)
 相手が誰であろうと、無用な諍いは生みたくない。特に、そのせいでノエが矢面に立つというのなら。
……当の本人であるオデットがこう言っている以上、僕たちは昨日と同じように別室で待機しています。できれば、オデットも、僕たちのそばに置いておかせてもらいたいです」
「あら、そういうわけにはいきませんわ。そんなことをされましたら、わたくしの今日の愚痴を一体誰が聞いてくれますの」
 いけしゃあしゃあとオデットの同道を求めるアガテルに、ノエは自分がこれほどまでに他人に対して不愉快な気持ちを抱く日が来るとは、と内心で驚いてすらいた。必死に口を噤んでいなければ、目の前の令嬢に対して、自分はとんでもなく醜悪な罵りを口にしていたかもしれない。
「兄さん、わたしのことは気にしないでください」
「だが、オデット」
「ぜひ、私としてもオデットさんにはそうしていただきたいですね。これから、撤収の準備がありますゆえ、お嬢様の側にいられる人員が減ってしまいますから。それとも、仕事を放棄されますか? その場合は、相応の評判を周辺に流布させていただきますが」
 ノエたちへの依頼は、表向きはアガテルの護衛となっている。依頼の遂行を求められているのに、それを断ったとなれば、傭兵としての価値を自ら下げることになる。
 この先、イシュガルドで生活をしていくためには、評判というものは、いっときの安全よりもよほど価値の高い代物だ。
「アガテルさんも、わたしを虐めたくてやっているわけじゃないんです。だから……大丈夫です。あと一日だけ、お嬢様のわがままに付き合ってきます」
 大したことではないとノエを安心させるように微笑んでから、オデットは自分と瓜二つの少女の元へと向かう。
 内心、アガテルのことを不愉快に感じる気持ちもある。けれども、自分が言ったように、アガテルはオデット個人を傷つけようとして顔を偽ったわけではない。ただ、他に方法が無かったから、他人を傷つけてでも自分を守る道を選んだだけだ。
(それに、ゲルダのこともあります。わたしたちがアガテルさんの機嫌を損ねて、眠っているゲルダを傷つけられでもしたら……
 それこそ、オデットには耐えられない。故に、今は多くの感情を抑えて、オデットはアガテルへと頭を下げた。
「本日も、よろしくお願いしますね。アガテルさん」
――ええ。また、冒険の話を聞かせてくれるかしら。オデット」
 だが、耳に届いた令嬢の声は、昨日のものよりもずっと強張ったものになってしまっていた。