俺とミスルンさんはよくメリニの海に行った。どちらも海の近くの出身ではなかったが、ここには海旅をしてきたこともあって、どういうわけか懐かしかったのだ。
俺は迷宮に秘められた何かを求め、ミスルンさんは悪魔を制圧するためにこの国にやってきた。そこでふしぎに交わって、俺たちは恋人同士になった。それも熱心な、信じられないくらい熱心な仲に。ミスルンさんはどうかは知らないが、俺はそれを奇跡と思っている。迷宮の中で見た奇跡よりずっと尊い奇跡と思っている。
でも、奇跡は、ときに残酷な現実をもたらしたりもする。俺が今日話すのは、そんな奇跡に翻弄されたある少女の話だ。海に行った俺たちが偶然関わることとなった、そんな少女の話だ。
その少女と出会ったのは、春先の海辺でだった。その出会いは強烈で、今も忘れられない。というのも、その少女は海水にびしょ濡れになって、波が寄せては返す海辺に倒れていたからだ。俺たちがその少女を見つけたのは、朝の早い時間帯だった。とはいっても、漁師たちが海から帰って来るような、そんなころだったのだが。
その日俺とミスルンさんは屋敷を早く出て、海辺を訪れていた。春先の潮風は夏よりもべとついておらず爽やかで、俺たちは気持ちいいですね、だとか、たまには朝の海もいいですね、だとか、たわいない言葉をかわした。くだらない話をした。たまに手を繋いで、人影から隠れてキスすらして、海辺を歩いた。そして浅瀬を照らす太陽から逃れて大きな岩の陰に行ったとき、そこに倒れている少女を見つけた。
最初のうち、俺たちは彼女を死体かと思った。それくらい少女の身体は蒼白で、海水で濡れた金髪は表情を隠していて人形のようで、手足はぴくりとも動かなかったからだ。でも、ミスルンさんは取り乱すこともなく、少女の胸と肺の動きを確認して、心臓を強く押した。するとその少女はじきに水を吐いて呼吸を再会した。ミスルンさんは慣れた様子で、その少女に声をかけた。おい、大丈夫かって、少しだけ高圧的に、でも本当は心の底から心配して。すると少女は咳き込みながら「あなたも人魚?」って言った。もちろん、ミスルンさんに向かって。よく見れば彼女はトールマンで、だからミスルンさんがとても美しく見えたんだと思う。もちろん、俺もそう思っているけれど。
「私はエルフだ。人魚じゃない」ミスルンさんが言う。
「そうなの? じゃあ、私を助けてくれた人魚はどこかに行っちゃったのね
……」
少女はそう言うと身体を起こし、そんなふうにひとりごちた。俺はそれに、魔物に助けられた少女か、とふしぎに思った。というのも、人魚はその歌声で人間を惑わし、取り殺す者だったからだ。俺が「君はどこの子だい? 送っていこう」と言うと、少女は笑って「いやだ、私こう見えても十七よ。一人で帰れるわ」と答えた。そして思い出したように「私、お礼も言ってなかったわね」とつぶやいた。彼女は俺たちに名を名乗り、向き合って小さく笑った。
「私、死んじゃおうと思ってたの。でもふしぎね、朝の光を浴びたらどうでも良くなっちゃった。一度死んだからかもしれないわね。ありがとう、エルフの方、それからお兄さんも」
少女はそう笑って砂浜に立った。酒場ででも働いているのだろうか? 服は派手で、でも砂だらけだった。俺は彼女を送っていかなくてはととっさに思ったのだけれど、そうもし出ても断られた。
「大丈夫、もう死にはしないわ。だって一度死んだんですもの。それに今なら、また歌える気がするし」
「歌?」
「そう、私歌手なの。喉をやってクビになっちゃったけど、今ならまた歌える気がする。お礼に一曲どう? 二人で踊ってもいいわよ」
そう言って、少女は歌い始めた。滑らかな声で、どこまでも透き通った声で。俺はそれを聞き、美しい歌だ、と思った。彼女は古語で人魚の歌を歌った。海辺で人間と恋をする人魚の歌を歌った。俺はしばらくそれに聞き入ったが、ミスルンさんはどうだったのかは分からない。大分表情がわかりやすくなったとはいえ、元々何を考えているのか分かりづらいところがあったし(それでも、俺は愛おしかったのだが)、そもそもエルフはトールマンほど歌を好まない。いや、俺が母が勤めていた料理屋によく行って、そこで歌手や酔っぱらいの歌を聞いていたからかもしれないが、なんだか少女が放つ歌声は懐かしかった。そう、かつてあった幸せを思い起こさせるようで。
「本当にまた歌えるようになってる! きっと私を助けてくれた人魚のおかげね! 二人ともありがとう。よかったら今度私の歌を聞きに来て。またこの街で勤め先を探すから。今なら何だってできそうよ。ありがとう、お兄さんたち!」
少女はそう元気に言うと、肌に張り付く砂だらけの服を揺らしながら、漁師たち、人夫たちが集う港に向かって去っていった。俺はそんな彼女を見送って、ミスルンさんを眺める。「びっくりしましたね」俺が言うと、ミスルンさんは真面目な顔で「そうだな。人魚が人を助けるとはな」と答えた。
でも正直なところ、俺は人魚なんて身投げした少女が見たまぼろしだと思った。人魚は人を助けたりなんてしない。それは彼も分かっているはずなのに、ミスルンさんは彼女の言い分を信じたようだった。どうしてかは分からない。俺より魔力の強い彼のことだから、なにか確信があったのかもしれない。それでも、俺はきっとまぼろしだと思ったけれど。
「それじゃあ行きましょうか。そろそろ仕事が始まる時間です。どうか俺のことを待っていてください。夜になったら必ず屋敷に向かいますから」
「知ってるよ、カブルー」
彼を抱きしめてささやくと、ミスルンさんはちょっとわがままな雰囲気を漂わせて言った。俺たちはそのあとキスをして海辺で別れて、俺は黄金城に、ミスルンさんは自分の屋敷に向かって馬車を走らせた。このときは、あんなことが待っているなんて思わなかった。幸せな少女を見送ったと思っていた。でも違った。俺が話すのは、奇跡に翻弄された少女の話だから。
少女を助けてから一週間と少しが経ってから、港で奇妙な噂が流れた。ある酒場に行った男たちが、魔法にかけられたように深く酩酊して、やはり魔法にかけられたようにまっすぐに海に落ちて命をなくしたというのだ。そんなのよくある酔っ払いの与太話だったから、最初のうち俺は気にもとめなかった。でも、思い返してみれば、俺はそれを気にすべきだったのだろう。じゃなきゃいけなかったのだろう。もし噂を聞いてすぐに動いていれば、少女があんな選択をすることはなかっただろうから。そう、少女は再び海に身を投げたのだ。それも俺たちの目の前で、嵐の夜に。
嵐が来たその夜、王の命令で港の視察に行った俺とミスルンさんは(波が高く危険だったから、人々に注意をする必要があった)、埠頭で佇む少女を見つけた。少女は俺たちが助けたときに歌っていた人魚の歌を口ずさみ、ぼんやりと荒々しい海を見つめていた。嵐で活発になった魔物たちの声も聞こえた。それでも、少女の声は透き通っていて、何者にも負けなかった。
「君、どうしたんだ? 危ないからこっちに
……」
「いいの
……。もう終わってしまったんだし」
終わったって何が? 俺がそう尋ねると、少女はこちらを、というよりメリニの紋章が入ったランプを見て侮蔑するようにこう言った。
「お偉いさんなら知ってるでしょう。最近人が大勢死んでるの。私の歌を聞いたあとにみんな海に誘われて死んだの」
「そんなの、よくある話だろう? 酔っ払いが海に落ちるだなんて」
「私の好きな人も死んじゃったの。私の歌が原因で」
「
……君の歌が原因ってどうして思うんだ?」 俺は言葉に言葉を重ねる。
「分かるわ。人魚に助けられた日から、全部おかしくなったんだもの! 私の歌を聞いた人はみんな死ぬの! まるで人魚に魅入られたみたいになっちゃう! これは呪いだわ! きっとそうだわ! だから終わらせるしかないの!」
俺は取り乱す少女を見つめ、こちらに来るように言った。でも少女は嵐に濡れた派手な服を皮膚に張り付かせながら、ただ海を見つめた。俺はとっさにミスルンさんに転移術を使ってくれと叫ぶ。でもその瞬間、ふしぎな歌が聞こえ始めた。そう、少女が歌っていたのと同じものを、ぞっとするくらい美しい声が複数で輪唱し始めたのだ。ミスルンさんは「人魚だ」って言う。少女が海に向かって身を投げる。俺は「転移術を使ってください!」って叫ぶ。少女の身体が何もない空間に現れる。人魚たちはこちらを睨みつける。あと少しだったのにって、そんな顔をしながら。俺たちはそれを聞きつつ少女に駆け寄る。しかし少女は「どうして邪魔したの」と、涙を流す。もともと死ぬさだめだったのに、どうしてあなたたちは私を助けたの、余計に苦しんだだけじゃないって。
俺はそれに何も言えなかった。でも、少女を失うのはいやだった。自分たちが助けた命が、指の間をすり抜けていくのはいやだった。
嵐の夜はこうやって終わった。俺たちは少女を助けたが、でも少女の目に生気が戻ることはなかった。そしてその数日後、ある歌手が海に身を投げたことを俺たちは知ることとなる。噂話で、あれは人間を惑わせた人魚だったんじゃないか? って、そんな話を俺たちは聞くこととなる。
そんなことがあって、俺たちは今日もかつて少女を助けた海辺に、城を抜け出してやってきていた。ミスルンさんは何かの魔法を使って、たましいを慰めた。俺はその側で真上から頭を照らす太陽を眺め、少女が身を投げた海を眺め、ただ突っ立っていた。
「カブルー、そろそろ時間だ」って、呪文を唱え終えたミスルンさんが言う。俺はそれに、彼が助けた命が失われたことをさみしく思った。彼は傷ついていることだろう。だから俺はそれを癒やしたかった。でも、そんなのは無理な話なのだろう。はたして、少女が本当に人魚に助けられ、ふしぎな力で再び歌えるようになり、そして取り憑かれて人間を死へ導いたのかは分からない。でも、少女はもういない。真実かどうかは重要じゃない。大切なのは、命が一つ失われてしまったってことだ。
俺はなるべく優しい声を心がけて、彼に答える。ミスルンさんとともに歩き出し、黄金城に戻る。その途中、少女の歌が聞こえた気がしたけれど、それもまぼろしだたのかもしれない。それか、本物の人魚の歌だったか。どちらにせよ、俺の知るところではなかった。海辺はきらきらと輝いていた。美しく、太陽を反射させ、麦穂のような黄金色に。
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